反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第1回。大正デモクラシーの時代に遡り、現在にまで至る日本支配層の国民統治思想の系譜。

<全体の構図>
1) 大正デモクラシーの時代風潮の下の国法学上の論争。
リベラリスト美濃部達吉その他(国体、民族主義は日本を日本たらしめる普遍的基礎だが、法や政治や国家の政体に国体論を持ちこむ非論理、不合理を指摘)VS欧州の帝国主義争闘をみて、先行的に国家生存の不安にかられる日本固有(常に不安で苛立ち、先走り、危機感いっぱいで国民煽動」)天皇君主絶対の「極端な一元論」BYシュミット=「国体=国家=国民=天皇」。
美濃部等の勝利(統治論として見る限り遥かにまともでバランスが取れているが決め手には欠けている)。一元論者、学会の孤児。
 
>政治的上部構造である大正デモクラシーの風潮の下部の経済構造における富国強兵路線(民需蔑、軍需特化、農業農民問題=自然人口増加の過剰労働力人口の圧迫)
 
2)第一次大戦後の世界不況期における、日本資本制の明治以降の日本固有の矛盾の激化を基底にした軍部の政治関与強化。
A、金本位制離脱、円増刷の金融政策による低賃金労働を梃子とする飢餓輸出による世界市場の競争激化。
B、軍需予算膨張と満州国樹立と国際連盟追放。
高橋是清路線ナンセンス。極端な量的金融緩和政策は国民生活破たんに繋がる。
 
3)日中戦争から太平洋戦争へ戦線拡大=第二次帝国主義戦争。
1)の大正デモクラシー下の論争の敗者復活。国体=国家=国民=天皇の極端な一元論が全社会化。
大正リベラリストや日本のリベラル派は極端な一元的国家論とは距離を置いていたが、日本民族主義と国体、天皇を日本国の基礎に置くことでは共通しているので、追随せざる得ない思想構造。
 
4)第二次帝国主義戦争の敗北。
GHQ占領下の日本国憲法状況における大正リベラリストの復活。
 
 「1945年の敗戦直後、復古のための精神的な基礎を言説や行政の場を通じて確固たるものにしようとした人々は他ならぬこの時代の申し子たちであった」(帝国日本より)。
「幾多のオールドリベラリストたちが復興精神の基礎付けを試みた。その際、彼らが復興精神の中枢として打ち出したのが<天皇皇室>と<人格陶治>?だった事は云うまでもない。尊王心と普遍的人格はいかなる齟齬もきたすことなく、復興精神の要として説かれた」
 
5、世界冷戦体制、東アジア、中国新政権樹立、朝鮮半島の内戦と所謂、逆コース=GHQ占領政策の燃え盛る東アジア東西対立の強固な兵站、出撃陣地に見合った日本の軍事経済社会への転換。
>この時期にサンフランシスコ講和条約による西側陣営だけ承認の日本独立。
サ条約と抱き合わせの日米安保条約締結。
 
6、朝鮮戦争特需を梃子とした日本資本制の戦前生産力水準復帰。
その後、1950年代中期から後期までの経済成長の動因は戦前日本資本制に付きまとっていた半封建的、軍事抑圧的階層格差的側面が敗戦によって取っ払われた事によるところが大きい。
>この時代ほど、日本の戦前から引きずっていた古いものと戦後的な新しい事物、精神が明確なコントラスト
として併存する時代はなかった。邦画の名作の数々は1950年代に生み出された。そこでは古いものと新しいモノの併存のコントラストが底流のテーマとなっている。戦後日本の原風景とはまさにこの時代であると想う。
 
 1960年代に突入すると経済成長が余りにも急速(1960年後期で、名目経済成長率21、3%、実質成長率15,6%の凄まじさ。色川大吉「我が60年代」より)すぎて、心情風景としては殺伐とし過ぎている。
 
7)、1960年安保改定。
それまでの自民党は一枚岩どころか主流派2、中間派3、反主流派4と云う色分けで、60年5、19の強行採決には反主流派は反対し、中間派は疎外されていた(条約のリアルな締結交渉過程と政治の実行過程からの疎外、と云う意味だろう)。」色川より。
>戦後の政権担当政党内に当時の時代風潮、国民の政治意識が反映されている。中選挙区制であり、自民党の中にもイロイロナ政治色の政治家の存在する余地があった。
 
巣鴨拘置所から釈放されて、10年で首相になった岸信介は戦前の戦争を政治軍事両方面から推進した東条英機の盟友であり、その政治信条は、先に示した国家=国民=国体=天皇の極端な一元的国家主義者として、「大東亜戦争」の精神を全面肯定する政治的立場を変えていなかった。
 
従って、60年安保の岸信介の主導は冷戦体制の激化と米国支配層の力(具体的にはそのものズバリ、在日アメリカ軍の内外プレゼンス)を背景にした、戦前から連綿と継続している一元的国家主義者の支配層の中での復活、勢力拡張であり、同時に戦後復興を支配層としてリードしてきた、大正デモクラシーの後継者のリベラリストの支配層内の「後退」である。
 
が、そもそも、元を辿れば、支配層内リベラリストは一元的国家主義者と天皇民族主義に置いては同じ位相の価値観を共有する位相にいる。
だから、前者が前に進む時代要請があれば、後者は簡単に道を譲るのである。コレは云わば法則の様なものだ
 
8)、59年から60年代にかけての高度経済成長に時代には支配層内の両者の元々の相互関係、そして新たな関係変化は経済成長による全体のパイの拡大の中で覆い隠されていたとみる。
 
9)70年代の高度経済成長の蓄積過程の国内過剰生産、過剰資本は東南アジアを中心とする集中豪雨的商品輸出ー安価な原油を前提としたーでは充分なはけ口にならなず、過剰化し悪性インフレを引き起こした。
そこに対イスラエル戦争敗北を受けたOPEC原油輸出制限が重なって、高度経済成長は完全に終焉した。
すでに60年代後半に政府は国債の大量発行によって高度成長経済の生み出した過剰生産過剰資本を吸収しようとしている。
 
田中角栄の逮捕は支配層内の「一元的国家主義者」(もうこの頃になると「 」付き一元的国家主義者と表現する方が正しく、単純な戦前回帰ではない)の勢力を強める結節点となった。
又、田中自身は20年余り続いた高度成長経済時代の申し子の、パイ分配の調整型の経済主義的政治家であり、「体系的」な政治思想の痕跡はどこを探しても見当たらない。高度成長の最盛期に首相を務めた佐藤栄作の後継派閥、田中派の面々は概ねリトル角栄型政治家と云ってよい。
佐藤政権のキャッチフレーズは「寛容と忍耐」だった。
この派閥がその後主流を形成した根底には高度成長路線が躓いてもなお、それ乗り越える活力と工夫が高度経済成長を継続する国内経済体制の中から生み出されていた、と云う事実があった。
 
 
 >次回に続く。