反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

小沢一郎とは?加藤紘一の生々しい小沢評。「テロルの真犯人」より。

小沢一郎 - Wikipediaを参照すると、つくづく小沢一郎と云う政治家の出入りの多さに呆れる。
小沢さんの派手な出入りは知らないも同然だった。
一々取り上げようと想ったが止めた。
 
 その出入りの余りにも多い政治軌跡から、一つだけ云えることがある。
あれだけ、出入りを派手にやったら、その都度、強烈な恨みや腹に大きな一物を抱えるモノを生み出しただろうな、と。
政界内部だけではなく、例えば、庶民の真面目な?政界ウオッチャーにして見れば、「日本改造計画」時代の小沢さんと今の脱原発国民の生活が第一代表の小沢一郎の繋がりはのどに刺さった刺の如く、気になると云う方も多かろう。
 
小沢さんは、政治家の自己責任の厳しく問い詰められない日本型民主主義(「日本改造計画」より)の議会政治の世界のヒトでよかった。
同じ日本でも運動圏で、小沢さんの様な派手な出入りを繰り返していると、途中で抹消?おそらく。なにしろ身体を張る必要があるのだから。最低、周りに人が誰もいなくなる。コレは実感。
日本以外の先進国の政界で小沢さんの様な出入りが成り立つのかどうか?ダメだと想う。
後進国では、多分抹消?。
 
 戦国武将の主従関係でもあそこまで派手な転戦を繰り返すと家来は、報償に恵まれないと、去っていくだろう。
その意味で、戦の節目節目で同志が次々に去っていくのは仕方がなかった。
 
 それでもここまでその都度、周囲の政治家を巻き込んで、党でやってきた、(それも5人や10人ではない議員数)のはやはり稀有な政治の才能である。
どう見ても、政治的天才と云う他ない。
 
 他人はイロイロ云うけれど、取りあえず、凡庸政治家個人の政治行動としてもあんな政治的馬力は珍しい。
おまけにその都度、党としていつも周囲に政治家集団を取りまとめての度々の出入りである。
今の日本の、いや戦後の政界に小沢さん的政治能力を持つ政治家は見当たらないのではないか。
 
もしかして、生まれる時代、生まれる場所(国、職業)が小沢さんの才能に向いていなかったのじゃなかろうか?
もしかして、小沢さんの才能を生かせない日本が馬鹿なのかも知れない。
もしかして、他所の先進国の政界であれば、才能は収まる処に収まって、結果、国民は得をしていたかもしれない。 
 
加藤紘一さんも「テロルの真犯人」の中の政治家人物評で吉田茂田中角栄大平正芳と共にかなり長い、小沢一朗評をしている。
安部政権時代発刊の著書だから、小沢さんは野党民主党代表に成りたての頃だが、「小沢氏と親しく付き合っていた時期が在った」事もあり、「立場上相いれない関係が続いているが」気になる政治家であった。
この時点までの加藤紘一さんはイロイロあり過ぎて、邪心なしの小沢評だろう。
 
「総理に成りたい人はなってくれ。俺は担ぐんだ。応援するよ。」
おそらくプライベートな会話でもこの種の発言を聞いたことが何度かあったに違いない。
「最後に総理をちょっとやってもいいけどね」と、確かそんなことも云っていた様な気がする。
その発言の真意は「総理総裁になるよりも、自分にはまとめ役がふさわしい」と云う事だが、
そもそも小沢一郎と云う人はその言葉自体が誤っていると、私は想う。
 
 彼は担ぎ人でない。本来を表に立って担がれる人である。
小沢一郎の本当の魅力は、安保や外交問題を巡る発言でも解る様に、複雑な論争の中から一番幹の部分だけ取り出して、そこをズバッと短い言葉で表現するところにある。
特にインタビュァーを相手に一対一の対談をやらせたら、<天才的な説得力のある人物>なのだ。
難しい政策論議を明解な言葉で表現する能力、コレは決して幹事長タイプの能力ではない。総理タイプの能力である。
 にもかかわらず、当人は金丸信を尊敬し、自分を経世会伝統の「担ぎ人」の嫡流と想いこんでしまった。
 
 彼はある意味、ズボラであり、細かい事をに頓着しない。ヒトが連絡したいと想う時にも表れない。コレは幹事長タイプではない。ヒトを担ぐよりも、方向性を示す国のリーダーとして魅力があるのが小沢氏なのではなかろうか
 
 もし彼が自分の自画像と云うモノを正確に描いていたら、日本の政治はもっと変わっていたかもしれない。
 
 
>>私が気になるのは、前回の記事で抜粋したカールシュミットの多元主義の政治リーダー批判の観点。
 
多元主義者は次の様に主張している。
イロイロナ忠誠義務の間で避けることのできない葛藤、例えば、一方の労働組合経営者団体に対する忠誠義務、他方の国家に対する忠誠義務、と云う両義間の葛藤に陥った場合は個々人は自分一人で解決するに違いないと。
ところがその葛藤は社会的なものなのである。すなわちそれは私的な枠組みに関係しないのであり、社会的な状況と云うモノは個人の嗜好によって変更できないものなのである
従って個人の自立について上の様に主張する多元主義の理論はその主要な関心事、つまり<社会的な集団>の有する具体的な権力を強調することができなくなってしまう
現実に置いて、国家が決断するのでもなく、ましてや個人が決断するのでもなく、集団が決断するのである。」
 
この抜粋の内容を自分なりこなして解り易く、小沢さんのケースにあてはめて上手く表現できないが、「日本改造計画」の文中で繰り返し述べられている、<決断する政治リーダシップ>を絶えず希求する小沢さんのハマり易い罠が指摘されているようにも思う。
 
>同じく決断の政治系の提唱者、丸山真男の次の指摘も参考になる。
 
決断としてのナショナリズムは脅威にさらされた状況における独立したすなわち<孤独な個人の決断>としての実存的自由である」
 
「原子論的思惟方法は非歴史的機械的とか云ってすこぶる評判が悪いが、あそこまで徹底的に人間を環境から切り離して考えてこそ、根強く絡みついた因習や歴史的慣行を断ち切る主体的エネルギー生まれてきたんだ
 
小沢さんの場合、日本の伝統的インテリ系の思考回路、精神構造も引きずっている様でだから、厄介なことになってきたのだと想う。
小沢一朗は複雑な人格の御人でもある様だ。
それだけに個人として魅力ある人なのかもしれない。
私も小沢一郎には謎が多く、魅かれる。