反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2012年師走、衆議院総選挙はすでに終了し結果判明。次の政治ステージへ。政治過程は団子状態になって、ユックリと坂道を転がり落ちている。早い段階で加速が付き、歯止めは効かない。

 とにかく、現状の政界の塩梅が悪すぎる。合成の誤謬どころの騒ぎでない。
現状の日本には日本なりの確固としたファンダメンタルズがある。
日本の現状の基礎的な社会経済は政治家どもが危機感を持って国民を煽る様な悪いモノではない。
 
 日本の政治家のズット歴史的に続いている悪い癖は、肝心な局面が訪れると、過剰に危機意識を国民に煽ることである。一番手っ取り早く、深い政治哲学など必要ない。一部、国民にも解り易い。
 
 明治維新の元勲と云われる政治家は封建制度の中の支配層の一翼を形成する軍人であって、それが即席革命家?に変身し、内戦ー暴力革命によって国家権力を掌握し、改めて世界の現状に直面し、決断を迫られる立場になった。危機感に突き動かされて過剰反応するのは当然だった。この辺の見極めが、常識的歴史観にはない。そして、ゼネラリストとしての政治家の基本的資質にかけている人物が絶対権力の形成を目指した。
 
 だから廃仏棄釈(日本の伝統的な宗教形態は神仏混淆多神教)をやったり、天皇、皇族を神棚に祭り上げ、国家的政治暴力の独占者の自らがそれにひれ伏す(やっている事は一神教の儀式と事実上同じ)事で、その威信(統合的政治幻想)によって、新生日本国民を誕生させようとした。
 
 こういう軍人的にズルくて、行き過ぎた危機感に基ずく急進的な半宗教的人工国家の形成と東アジアの特殊情勢における先行的軍事力の獲得とその行使が合体した時点で、強烈な不均衡を内外に潜在化させていた。その発展的結末、は当然の事として訪れた。
 
 当時の東アジア、世界情勢から見て、天皇、皇族など担ぎ出し権威化しなくても、日本人自身から沸き起こる力で東アジアで率先して近代国家は形成できた。列強との不平等条約、日清日露戦争は、回避できなかったが、その際には天皇制の権威の衣は日本人には必要なかった。
あくまでも当時の世界情勢の中での、政権担当者の君主の権威の駆使の仕方、程度(限界意識、節度)を問題にしている。
君主制が良いとか人民共和国が良いとかの統治形態を問題にしている訳ではない。
 
従って、やらなくてもいい事を度を越してやり過ぎたり、やらなくてはならない事を蔑にした。
 
 そういう明治維新の裏面(いいところも一杯ある)を直視しないで、憧憬を抱くばかりだから、連綿と続く同じ政治スタイルで肝心な時に、不安感焦燥感危機意識を国民に向けて煽りたてる政治がまかり通る。
一番中途半端で原始的な政治手法である。政治哲学はいらない。
敵を設定し、世の中の森羅万象について自信たっぷりに知ったかぶりをすれば、日本的政治家の速成だ。
 
 同族意識の先天的に強固で、政治的同質性の強く、治安のいい日本と日本国民と云う特殊好条件の上に胡坐をかいた政治スタイルだ。(小沢さんが日本改造計画の冒頭で述べている事と反対に立場で云っている。彼は日本的好条件を連綿と続いてきた悪習だから、彼に認識の範囲による対外事情に合わせるために清算せよ、と主張しているが私はこの好条件は守るべきだと考えている。)
 
 だから府知事任期満了も務めず、市長選に打って出て、さらにいくらも経たず、国政の重要な一翼を担う立場に立とうとしている橋下徹の様な人物が通用する。
一体どこでどう、選抜されたのか、検証をしっかりと受けたのか。
自分の後ろに政治的軌跡、キャリアの乏しい人物に国政を左右する資格が本当にあるのかどうか。
さらに、この人物の問題点は強引な政治組織運営、行政運営が一体化していることなどなど、国政担当政治家として問題点を挙げたらきりがなほどである。
政策も維新八策を見る限り、ハチャメチャ過ぎて論評の対象たりえないモノである。
アレでは余りに国民破壊過ぎて、みんなの党でさえくっ付けないのは当たり前である。
 
 石原慎太郎と太陽の党が維新に合流した。
 
 石原慎太郎は国政関与を国会議員を止めた時点で断念したのではなかったか。
党内政治に置いて、自分の周囲に同志を結集できないモノは政治家として欠陥者である。
政治能力に欠けているから周囲に同士が集まらなかった、とみる。
地方の首長を務めあげる事と、国の政治をつかさどることは次元が大きく違う。石原の様な政治能力に疑問のある人物でも都知事は務まる。
 
 以上、国政政治家として大きな負の側面や未検証甚だしいモノが、トップに立って、マスコミが付いているから声だけ大きく騒がしく挙げる。
当然、国政に暴走要因が強烈に追加される。
政治過程の日本のファンダメンタルズから遊離した暴走であり、国民は煽られる。
結果、政治が国民生活や経済を蝕む事になる。
 
 現状の選挙情勢は自民公明VS民主Vs維新となっているとネットニュースにあった。
日頃マスコミに全く接してないので、コレだけでは何のことやら、解らないが、要するにこの範疇が総選挙における主力プレイアーになるらしいとだけは解る。
 
 だとしたら結果はどう転んでも明らかではないか。合成の誤謬どころか、一々取り上げたら納得できるが、其々に大きな反国民的問題点を抱える者同士が互いに影響し合って、連鎖反応を政治過程に置いて起こす。
悪性化化学反応みたいなものだ。
徐々に加速をつけながら坂道を国民を道ずれに団子になって、転がっていく歯止めは必要。
悪性化化学反応を弱める触媒が必要。
 
 それは見当たらない。
だから簡単に政治過程は次のステージに到達する。
多数派国民にできる事はリアルな狭い範囲の対策である。
 
 国民一人一人を優しく包み込んで、合意形成をして自発的なエネルギーを引き出していく政治には本当の政治家の器量がいる。
大統領選挙に勝利したオバマが国民は家族、と団結を呼びかけたのは、国民の分裂下にある、アメリカでは真っ当な観点である。
この程度の当たり前のことさえ今の日本の政治家、政党は云えなくなってるのではないか。