反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本未来の党の結成について。その1、元々<国民の生活>小沢代表ー東幹事長体制は断固不支持だった。その2、肝心なことは今、日本と日本国民が内外でぶち当たっている最先端の課題へのリアルな対処。

 国民の生活が第一のグループが民主党を脱退して、小沢代表ー東幹事長、その他の役員の人事、所属議員の顔ぶれを見て、コレでは絶対に支持できないなと、断定していた。
 
 小沢代表が細かい事まで陣頭指揮する様子が動画から伺える党結成記者会見は、自分が大昔に体験した世界と同じ次元の殺伐とした雰囲気を感じた。
孤立した政治にはそういう空気が漂うモノである。そのまま前に進んでも、待っているのは更なる政治孤立である。
やっているモノにも何となく孤立の実感はあるが、そういうときは結束を確認し合って、前に進むしかない。
それが政治力学の宿命でもある。
そういう雰囲気がさらに周囲からヒトを遠ざける。こうして、悪循環が始まる。
だから後から見ての大間違いが発生する。
 
率直なところ、どうして小沢代表ー東幹事長など純化路線丸出しの人事をするのか理解できなかった。
他にやり方がないならまだしも、やり方はある。
国会議員を務める程の政治的人間ならば、表向きの顔ぐらいは最初戸惑っていてもそれなりにこなせるはずである。
 
 マスコミ権力による人格破壊云々は傍に置けば、現時点の小沢さんは、抵抗感のないモノ、シンパシーを抱くモノ、勿論支持者を除けば、「国民的忌避政治家」に等しい存在になってしまっている。コレが私に率直な認識。
非常に誤解を招くキャラクターの人でも或る。
 
 東幹事長にも好感は持てなかった。このヒトは小沢さんをモット、思想的?にゴリゴリにしたような人物と見た。
政治家としての幅がない。
かくて、最悪の表コンビ。
そうすると、そのまま選挙戦に突入すれば、「生活が第一」の評価と云うよりも、小沢さんに対する好き嫌いが投票行動を左右する事になる。
 
 その他諸々の理由もあって、「国民の生活が第一」には記事にしない踏み込んだ厳しい意見も持っていたが、この時期には慎むことも必要と押さえてきた。
いくら訪問者が少ない好き勝手の書けるブログとはいえ、現場の政治に携わっている人たちの必死の思いは想像できるし、権力から政治弾圧を受けてきた小沢さんに後ろからばっさりのやり方も、やってはならないと押さえてきた。これこそが内ゲバの手法である。
 
そこそこ派手な結成パーティーでは、各種業界の支援が得られる様に見えるが、実情は強かな業界団体の軽い政治的保険程度のモノであり、政治基盤として期待できない。
全国党の体裁さえ整っていない小沢グループの丸裸、吹く風頼みは実情でなかったか。
明け透けに云えば、合流しなければ、悲惨な選挙結果になっていた。
 
 従って、この窮地の出口は他グループとの合流でしかなかった。問題はどことどうやってくっつくか、だった。
そうでなければ、支持者の熱い政治への想いも空転する。
 その意味で今回の「小異を大切に大道につく」と云う、喜田滋賀県知事、飯田氏の<未来>へのまず解党した後の合流は適切な政治判断だった、と理会できる。
 
 次に、重要政治課題について。
時間もない事だから、政治課題について踏み込んで書けない。次回に回す。
 
 生活の市民レベルの支持者の集会での植草氏の基調報告は内外情勢分析もそこそこに、民主党批判にすり替えた典型的な裏切り史観で在った。ああいうモノはインテリが良く陥り易い政治の罠であり、政治の幅を狭めるだけである。逆内ゲバ主義である。
 
 結党パーティーの小沢さんの挨拶も説得力に乏しく、後ろ向きとの印象をもった。
 
 脱原発、反原発、卒原発は政治家と政治的人間の想いであって、単純、生活専門家である有権者多数派の政治意識とかなりのズレがある、と考える。全国政治に置いては原発問題は閉じられた政治課題であり、身近な要求でない。
官邸前反原発行動に参加する田中康夫さんさえ、放射線量の問題は神学論争だと云っている。
問題があるのは間違いないが、過敏な方、ましては過剰反応の方を基準に選挙活動の指針を出すと、選挙結果が悪く、そのヒトたちさえ救えない事になる。
 
 残念ながらこれが全国的現実である。
 
 政治的先進分子と庶民の意識のずれを政策的に配慮しないで、自分たちの危機意識の枠内の政治煽動に終始するのが急進主義の悪い処で、惨憺たる選挙結果にその誤りはハッキリ出る。
 原発問題を前面に押し立てって、政治的分水嶺にすれば、多数の票は期待できないと想う。
原発問題専門家の飯田氏の山口県知事選の結果を自身がどうリアルに受け止めるかという事である。
 
 政策が正しくとも、理解が得られなければ、当面は正しくないと云う事になる。
 
 私に知っている限り、反原発の人たちは俗に云うリバタリアンが多い。ミィーイズムの人も多い。
こういう人は自分の生活や趣味趣向に立てこもりがちで、投票行動に積極的でない。少数派としての価値観人生観を徹底させている。彼らの日頃の行動力や意見は票としての広がりに反映しない。
 
 アメリカ大統領選のオバマ圧勝の結果を見ても、先進国不況、グローバル資本制の徹底化、ましてやバブル崩壊後の日本経済の長期停滞によって、日本庶民生活と労働の現実は、国家に御救い?を求める願望が潜在している現状、とみる。
なのに日本の政治家は未だに規制緩和や国家ー地方行政の権限の縮小を主張している。
 
 国家の力で経済を引っ張らなければならない時に、イデオロギーとしての新自由主義に被れさせられている。
コレはオバマアメリカの国家の主導性を発揮させるやり方と大きなずれがある。
日本経済が上手くいかないのは当たり前である。
 
 日本人には肝心な時に寄らば大樹の陰と云う習性が濃厚に出る。
 
2011年の東日本大震災福島第一原発事故直後の東京都知事選の石原圧勝は象徴的だった、とみる。
もし、都民だったら、ひねくれ者だから、生れてはじめて共産党に投票したが、そのほぼ真逆の心理が働く様である。本性が保守的にできているのである。日本の風土、歴史、地政学的環境で仕方がない面がある。
 
 脱原発、反原発、卒原発がどの程度、全国の有権者に浸透しているのか、というリアルな判断が必要。
 
消費税増税脱原発、反原発がどの程度、今回の衆院選の争点として有権者に認識されるているかどうか、疑問がある。
選挙は啓蒙活動ではない。
その時点の国民の政治意識が反映される。
大抵悪い方向に。
 
だから、選挙だけが政治でない。
 
それに、日本政治の力では、どうすることもできない構造問題もある。
政治で簡単に経済がどうこうできたら、マクロ経済学などは成り立たない。