反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

坂口安吾「堕落論」より。あの偉大な破壊(東京空襲)の下で、猛火を潜って生き延びてきた人たちは、燃えかけている家の側に群がって寒さの暖をとっており、同じ火に必死に消化に努めている人々から1尺

 (30、3センチ)離れているだけで全然別の世界にいるのであった。
 
 道玄坂では、坂の途中にどうやら爆撃ののモノではなく、自動車に引き殺されたと想われる死体が倒れており、一枚のトタン板がかぶせてある。傍らに銃剣の兵士が立っていた。
行く者、帰る者、被災者たちの延々たる流れがまことに無心の流れの如く死体をすり抜けて行き交い、路上の鮮血に気付く者もおらず、たまさか気付くモノがあっても、捨てられた紙くずを見るほどの関心しか示さない。
 米人たちは終戦直後の日本人は虚脱して放心していると云ったが、爆撃直後の被災者たちの行進は虚脱や放心と種類の違った~~無心であり、素直な運命の子供であった。
 
 私は疎開を勧めまた進んで田舎の住宅を提供しようと申し出てくれた数人の親切を退けて東京に踏みとどまっていた。~~
やがて米軍が上陸し四辺に重砲弾の炸裂するそのさなかにその防空壕に息をひそめている自分を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持ちになったのである。
私は死ぬかもしれぬと想っていたが、より多く生きる事を確信していたに違いない。しかし、廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生きる事以外の何の目算もなかったのだ。
 予想しえぬ新世界への不思議な再生。
その好奇心は私の一生の尤も鮮烈なモノであり、その奇怪な鮮度に対する代償として東京に留まり続ける事にかける必要があるという奇妙な呪文に取りつかれていただけである。
 その癖に私は臆病で、昭和20年4月4日という日、私は初めて4周に2時間に渡る爆撃を体験したのだが、頭上の焼夷弾で昼間に様に明るくなった、そのちょうど上京していた次兄が、防空壕の中から焼夷弾かと聞いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は、一応腹に力を入れたうえでないと、声が全然出ないいう状態を知った。
 
 

向井孝の詩」

    出征

  しいんとあかるい夏空の下を、みんな汗をふきながらぞろぞ
ろつづいていった。
 横むいてしゃべったり、追いこして話しかけながら、小旗を
もった近所のおかみさんたちや子供ががやがやあとにつらなっ
た。
 赤だすきをかけた夫が子供を抱き、会社の人とはなしをかわ
しながら先頭をあるいていた。
 列の中ほどで誰かがひとり、とんきょうもない大声で軍歌を
うたい出してやめたあと、ほこりっぽいやけあとみちを、じり
じり朝日にてらされて、みんなしだいにだまりこんですすんだ。
 すれちがう出勤時のひとたちが大急ぎで追い越しては、ふり
むいて見送っていた。
 駅へつくと、しばらく夫をとりかこんで、だれかれとなく手
をにぎり、かたをたたいてあいさつをかわした。
 やがて、声をあわせてみんなで進軍歌をうたい、何度もくり
かえして、一せいに万才を叫んだ。
 いつまでも汽車がこず、てもちぶさたで柵にこしかけたりす
わりこんでしゃべっていた。
 再びよってきて、もう一度万才をさけび、そのままちりちり
ばらばら帰りだした。
 自分と子供だけがプラットホームにはいり、やっとはいって
きて発ってゆく汽車の姿を、見えなくなる迄みおくった。
 子供の手をひいて駅を出てくると、あたりに人影もなく、か
すかに明るい空のどこかで警報がなっているようだった。
 影ひとつない焼野原をよこぎり、かわききったやけあとみち
をひっそりわが家へもどってきた。
 戸をあけるとバラックのなかはうすぐらくしいんとしずまり
かえっていた。
 子供の服をきかえさせ、台所へおりてゴクゴク水をのみ、し
ばらく敷居に腰をおろしていた。
 昼じたくのコンロの火をおこしかけながら、気づくと、子供
はどこかへあそびにでかけて、もう自分ひとりぼっちになって
いた。
                    一九四七年十月