反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

自民党憲法改正草案の前文にある<和を尊び>の<和>の用語を辿れば、古代朝鮮半島を統一した新羅の<和白>の<和>に至る。

自民党憲法改定草案の注目箇所。
<前文>
「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」
 
>ここで云う<和>の元々の意味を遡ると<和白>に辿りつく。その内容は以下の様になっている。
朝鮮新羅有力貴族によって組織された会議。国家の大事決定したといわれている。《新唐書新羅伝は,〈事を行うのに必ず会議を開いた。これを和白と呼び,一人でも異議を唱えれば決定されなかった〉と,そのようすを伝えている。おそらく統一新羅時代のことと思われる。」世界大百科事典 第2版の解説より引用。
 
 >小沢一朗さんの間違った政治的原点を現した著書「日本改造計画」1993年懇談社刊の<まえがき>は日本社会に超歴史的に連綿と続く特性を次の様に指摘する。
日本社会は多数決でなく全会一致を尊ぶ社会である。全員が賛成して事がきまる。逆に云えば、一人でも反対があれば、事がきまらない」
 
 >また、「和白(わじろ)」は日本の地名でもある。
和白(わじろ)は、福岡県福岡市東区の北部に位置し、およそ志賀島へとのびた海の中道の基部に当たる地域である。和白の丘陵には 6 世紀末から 7 世紀の円墳群である「下和白塚原古墳群」があり[1]、また高美台の造成時には 6 世紀末の「宮前古墳群」など4群の古墳群が見つかるなどこの地域では古墳時代末期には大きな農漁業集団が活躍していたと思われる。 この地域では古墳時代末期には大きな農漁業集団が活躍していたと思われる。 10世紀の百科事典『和名抄』には糟屋郡に阿曇(あずみ)という郷名が見え、一説には和白および
新宮にあたり阿曇連の発祥地であるという[3] 阿曇連は志賀島などを本拠として朝鮮半島との往来も含む海洋で活躍し、天皇に仕えた『記紀』などに見える古代の神話的有力氏族である。
 
 今日の記事を作成するにあって、明治天皇の御箇条の御誓文や教育勅語にあってみたが、自民党改憲草案が謳う<和>なる用語はどこにも見当たらなかった。それに類いする超上から目線の文言はあるが、一字で<和>の意味するモノは全く見当たらなかった。
 
従って、<和>の語源は古代朝鮮半島を始めて統一した新羅の合議体制=和白に発する、と考えてもよい。
ちなみに、新羅の貴族制度は骨品制度と云って、上から所属階級を身の回りや、身につける色であらわし区別した。最高位の色は紫であり、日本の皇室の伝統カラーでもある。
 
 自民党は日本憲法改正草案に<和>の一語を書きこんでいる。
知っていて敢えてそうしたのか、全く由来を知らず、庶民の間の良き風習としてなんとなく書きこんでいるのか。
 
 私も先ごろ韓国高校検定歴史教科書を読むまで、<和>と云う用語はいい意味での日本的集団性を一言で表す純日本的用語だと想っていた。
 
 >自民党改憲草案の全文を作品として、読んだ率直な感想は、ナァ~ンダこの程度かと云うものであった。
 
 全体の流れとして、現憲法がなし崩しで現状によって、改変されている実情の追認をしているだけのツギハギと、無自覚な<和>の用語使用に見られる如く、思慮浅いとってつけたような、国家主義の理念で国民を引っ張っていこうと云う意図が丸出しになっている。
 
 こんな憲法は見っとも無い。
ドイツ憲法の理念性、アメリカ合衆国憲法の実務性に見られるような、作品としての成熟度が全く足りない。
やっぱり、カネこそすべての日本の現状透けて見える。時代をキッチリ映し出す鏡だ。
尤も、憲法で不必要な政治的意図を仮託して、大騒ぎしている国はたいてい民主主義に乏しい国である。
いいか悪いか解らないが政党制民主主義で長らくやってきたイギリスなどは成文憲法がない。
 
>>憲法改正草案は出戻りの安部総裁を<戴く>自民党に相応しいものだと云わねばならぬ。
(支配者性善説が根底に流れており、支配者が誤った道を歩こうとしていても、それへの対抗、修正、歯止めの要因が見当たらない。ここが最大の欠点。)
 
>安部氏は体の具合が悪かったにせよ、結果責任として、最高政治責任者の任に耐えきれず戦線逃亡した過去がある。
そうした政治家として致命的政治軌跡のある主体が、政治経過から(自民党は野党時代に何の勉強もやらず、政権復帰の政治工作のみだった。それも検察、マスコミにまかせっきり。極右政治体質だけが内部で純化した。)この内外情勢の大切な岐路に再び首相の任に就く。コレが一切の虚飾を引っぺがした日本政治のてっぺんで行われている事実でないのか。
 
 この異常事態を不思議とも思わない日本的精神風土、と云おうか政治風土は考えて見る必要がある。
 
最高政治責任者の職務が遂行できる状態に己の体調を整えておくことは、の土台である。
 病名は胃潰瘍だと云う。
「良い薬ができましたから」などと永田町の政治家仲間に触れ回っているらしいが、事実であったにしても、精神年齢を疑う。
 
再び首相になってはいけないと、自重しなければならない立場を全く解っていない。
自ら首相にならなくとも、その想いを適任者に委託して政治はできる。
 
 口達者で勇ましい事は云うが、本当の処が何も解っていない御人でないかと疑う。
 
 話題がグッと別次元に飛ぶが、連合赤軍の山岳ベースキャンプ?のあの憎むべき事案を指導者として主導した故森恒夫氏はそれ以前の党内の厳しい紛争に、耐えきれず戦線逃亡した過去が在った。
巷で働いていたところを、幹部に引き上げられ、再び戦列に加わって、警察権力の弾圧や戦線逃亡者の相次ぐ中で、組織が先細り、人材が底を突き、何時の間にやら、最高指導者を務める地位に就いた。
 
 結果、ああ云う事態を引き起こしたと云うか、自ら主導した。
 
 こんな森氏に対して、後によく云われているのは、戦線逃亡した過去が、指導者として己は強くあらねば、という強迫観念に陥らせた、と云う解った様な解説である。
 
 指導者としての己が強くあらねば、と云う戦線逃亡者としての絶えざる自省が緊迫した状況下に置いて、フレキシブルで大きな視野を失わせ、戦闘員にとんでもない拷問を課すことになる。体育会運動部のシゴキの極北を行く死の強制である。
解りやすく無責任な解説であるが、一面の真実はある。
国政選挙で落選経験のあるモノは首相の座につかせてはダメだ、と云う不文律が昔の自民党にはあったそうだ。
 
 チェ、ゲバラの「戦闘日記」を読むまでもなく、ゲリラであろうが、戦闘団であろうが軍隊の類には規律の問題が必ず、付きまとう事は真実。
 
 カストロも「負けを認めるもの」対してまで、死刑を宣言を語っているが、実際に頻発した戦線離脱者には、敵に通じるモノでない限りにおいて、容認した。黙って姿を消すものは沢山いた。
 
また、中途半端な気持ちで部隊に加わっていたら、危ない目にあうと強く云い聞かせ、厳しい規律の必要を説いている。
さらに、ゲリラ隊は政治工作に十分配慮した。現地住民は云うに及ばず、キューバ全土、アメリカ本土の情勢を自分たちに有利なものに変えるため、軍事行動の一方で、配慮していた。
ただ闇雲に命を賭けた訳でない。
 
 >民主党鳩山政権時代の環境長官を務めた小沢鋭仁さんは、民主党に離党届を出し維新の会に参加する際に自分はチェゲバラになったつもりで身を捨てて戦う、と云ったそうだが、多分、南米ボリビアのゲリラとして最後を迎えてたゲバラの無私の自己犠牲の精神をロマンチックに想い描いているだけだと想像する。
 
 私の実感ではカストロの様な政治力に乏しいチェゲバラでは革命はできなかった。カストロあってのゲバラである。
1967~68年のボリビアのゲリラ戦闘の記録を読むと、現地農民をキューバ時代の様に味方に引き入れることができず、英雄的戦いであったが、ただ逃げ回っているだけの日々だった。
農村ゲリラ活動にとって、現地住民の具体的支持は食糧、寝床確保、隊員補充の命綱に等しい。
ゲバラカストロの様な政治戦略や政治は乏しかった。
 
 維新の会で選挙に打って出ている小沢鋭仁さんは、チェゲバラと戦闘の実際の処が何処まで解っているのか、疑問。
 
 自民党安部総裁。
 
 あの御方は森恒夫氏、以下ではないかと訝る。
心と体に脆弱性を抱えていても、それへの自省も乏しいのではないか。普通の神経だったら自重してしかるべき。
妙な<鈍感力だけはある>ようだ。
許す周りもオカシイ。ここも鈍感である。
こんな事態は内々だけにしか通じない。
言葉だけ形振りだけの厳しさ。
強気を助け、弱きを挫く、力の誇示。
 
 最高政治責任者として、あってはならない異常な辞め方をしたモノが再び元の座に返り咲く。
日本支配層は甘えの構造でもたれ合っているとしか言いようがない。
自分たちには甘く、他には厳しい。
政治先進国にこういう事態は過去にあったのかどうか?
 
アベチャンは<日本固有の因果で日本の首相になる>ことを織り込み済みで、すでに官僚どもの差配で訪米が決定済みと云う。
民主政権交代以降の折に触れてのアメリカの毅然たる対日政治介入に対して、十分に礼を云ったらよかろう。何しろ参勤交代の如き、身である。
 
 が、返り咲きアベチャンの様な脆い身で首相に返り咲ける日本とはなんと、民の監視と強制力の緩い国であろうかと云う、根底的疑問はアベチャンの心の片隅にはない。
自分への客観評価に乏しいアベチャンであった。
 
 安部普三の首相返り咲き、とは日本の政治過程のファンダメンタルズに遊離した民主政権交代以降の天災、原発事故を含む事態が加速した日本の政治過程の独走、観念肥大の象徴である。
この意味でも日本人に本当の意味で不幸の始まりが将来している。
戦後史に置いてこういった、重大な不幸の重なりの事態はなかった。
日本国民多数は我を見失いがちで自覚乏しいい政治意識を醸成されられていると、みるがどうであろうか?
日本と日本国民の自らへの毀損の政治過程の進行と想う。
 
 アベチャン的な見せかけの強がりはどうでもいいのであり、問題はみんなの生活、労働、健康の実際の在り方だ。
 
 尖閣竹島問題もこのまま、こう着状態に陥ると、いずれ国民意識も刷れてくる。
総選挙による政権交代は一つの結節点である。煽ったマスコミ、自民は政権当事者になる。
どうするのか見モノである。
先に進めば、切りがない、合理的に処置できる方途も双方にない。
TPP事態を勘案すれば、見モノである。
 アベチャンの脆弱性からして、口とは裏腹に日和見になるだろう。
こう着状態が継続することに最も喜ぶのはTPPアメリカである。
自らの金儲けだけの腐心する日本支配層も同じく、であろう。
 
そうい云う事態を前提に、アベチャン的政治馬鹿をトップに頂く?日本国民は、もっと酷い事態を想定しなければならぬ。
 
 世界の歴史的な成りあがりモノには帳尻が会うようにできている。
この戦前戦後の厳然たる数値を踏まえる歴史的法則はどうしてもぬぐい去れないのである。古今東西の世界史の例外はこの点で一切ない。問題は日本国民にとって、どれだけの時間の隙間が許されているか、であろう。
歴史的過程は全く異なるが、オランダを見習うべきと云う主張はこういう意味からだ。合理的戦略、政策形成の場の保障を求める次第である。
 
街道沿いに間口を広げた商家は合理的効率的な店舗のの時期に来ている。
もう店舗の二階に主人、使用人ともども、寝起きして、目先の商売に右往左往する時代ではないのだが、主人は使用人を置き去りにして、優雅な別荘住まいを企画している。