反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2012年衆院総選挙の感想。日本人の国家意識、民族意識は暴走すると歯止めなく、赤札付き取扱要注意。暴走させた責任はマスコミ政治家、総体にある。

 <2012年衆院総選挙結果>
 大震災、原発事故、領土問題焦点化などの政治過程の醒めた観察から国民政治意識の暴走。
早い段階から、「イロイロ余計な心配をしなくても、国民政治意識の暴走の実態は来る衆院選の結果に置いて明らかになる」と何度も指摘してきた。
皮肉交じりだが、誰が、どの党が良い悪いじゃなく、突き離して、総体として政治過程を観察していた。
政局と云う局面ではなく、政局が政局を呼ぶ政治過程の独り歩きが濃厚になってきた、と。
コレと、現状の日本のファンダメンタルズとはかなりかい離している。
現在、どの先進国、地域もパフォーマンスは似たり寄ったり、矛盾多発深刻は日本だけじゃない。
だから、円が世界の過剰流動資金の避難場所になっているのじゃないのか!
 
コレからの時代はよく冷静に考え、足元を踏み固め、匍匐前進する時代だ。
時代基調の認識が曖昧、偏向しているから、危機感、不安感の一国主義的大合唱の現状がる、と考える。
 
 悪い意味での政治の主導制発揮だ。
決断、決める、政治指導力が強調されるが、その中身がファンダメンタルズから遊離した余計、不必要な危機感を煽ったり、ツマ先立ちの勧めになっている。より悪い決定、選択の連続が始まっているいるとしか言いようがない。
 
 元々、明治維新の急速な近代化以降、日本支配層の政治には、こういう体質が刻印されている。その潜在意識が、日本の内外に異変が継続すると全面開花する。上手くいった例は明治維新だけだったと想う。しかしあの時は、他の東アジア諸国の近代化は遅れていた。今は事情が全く違っている。余計な危機感、不安感は冷静、冷徹な判断力を阻害し、邪魔になるだけだ。
 
 国家意識、民族意識をこの方面に煽ったら、国民総体が足元を慎重に確認することなく、一方向に流れ易いのは、日本の地政学的風土的な特殊な歴史に根差した、自然的同質性ある国民性ゆえ、だ。
こういう国民性はプラス面とマイナス面がある。
 
ーーなお、この点を煎じつめて取りまとめた基本視点は2012年10月14日付記事の色川大吉の日本、東アジア、ヨーロッパの地政学的歴史の比較対象による民主主義と国民性の総括文。数回引用が今回も再確認する。
 
 >>「日本にとって隣国が朝鮮中国だったことが幸いした」。は非常に参考になる指摘だ。
 以上の(日本、東アジア)、ヨーロッパの比較歴史観が正しいとは思わないが、この抽象的歴史観を超えるのは難しい。
越えようとする方向に進むと、行き止まりの泥沼が待っている。
 
 以前書いたように、批判点は二つの方向(A、そもそもが色川さんの様な歴史の抽象化の方法論的誤り。各国、各民族の個別歴史の確認ー歴史を抽象化する場合の落ちこぼれる部分の強大さ。
B、本当にヨーロッパが世界史の中心であり続けてきたのか、アジア、イスラムの正当な評価)しかない
 
 長期の歴史スパンでは、欧米日の優位性は事実によって、薄れていかざる得ない。今、我々の目の前にあるのは大きく云えば、進行中のこの事実。
 
世界資本のグローバリゼーションがそうさせている。
金儲けするためには(世界化した資本蓄積過程)、グローバリゼーションを前提とするしかなく、グローバリゼーションは先進地域、国の国民の力を相対的に弱める。
 
 日本国民の矮小偏狭を本質とする国家意識、民族意識には取扱注意でキチンと大きな赤札を張っておく必要がある。
 
 誰が赤札を張る?
 
国民自身でそれができたら、取扱注意の赤札は必要ない。
マスコミと政治家どもだ。
 
>処が、彼等のやってきた事は、日本国民に或る潜在的国家意識民族意識の強さが同時に弱点に転化する、と云う「絶対的」な真理を肝に銘じていない。
戦後民主主義の在り方がそうさせている、と云う事もある。だから、戦前戦後の歴史の継承性から、現在の事態があるとも云える。
 
>こういう状態が日常化すれば、国民政治意識は暴走局面に達する。
 結果として日本の良いファンダメンタルズから遊離した危機意識の醸成だ。
 
責任の所在はマスコミ、政治家どもに或る。マスコミ使用の各種電波芸人は論外。
 
 >>(国民の生活が第一)党から(日本未来の党結成の公示直前の衣替え)を肯定できる基準は小沢一郎氏の衆院選不出馬宣言であった。
>結果を見て云うのではなく当初からそう想っていた。
 
 元々、国民の生活結成を支持していなかった。
 
 煎じつめると、民主党と政策的違いは大してあるとは想えなかかった。
 
 中村てつじ氏の民主党政調会内部の消費税増税論争を集約したテキストを読めば、集団離党する根拠薄弱と想った。
その1。冒頭いきなり、消費税増税は全民主党議員はその必要を認めている自分のそのうちの一人としてしている。
 
その2。歳入と歳出の大きなかい離を承認し、増税の必要を認めているのだから、自身の主張の矛先は、幅広い財源論議を踏まえるたモノであって然るべき。例として所得税の累進制の強化など。
ところが様々な税収増の手段をテキストに書き込んでいない。どうした事か。あくまでも彼の政治本質は政策マン。その意味での欠陥はある。
 
その3、民主党政府側の消費税増税への目安を名目成長率3%、実質成長率2%として批判の根拠にしているが、自分の認識では、その数値のクリアーは困難。欧米でも名目2%程度でインフレ率は日本よりも数%高い。
主要原因は輸入原材料輸入品価格の上昇(日本は円高だからインフレは抑制されている)
専門家によれば、欧米ではこの状態が今後、かなり長期に渡って常態化すると云っている。
日本は世界の工場、となりの中国から、円高で易い商品の大量輸入され、低インフレとデフレ均衡状態の持続。
 
そんな日本に置いて3%、2%の基準達成は日銀の紙幣バラマキによる一時的バブル経済の創出しか考えられないが、この場合、その反動は多くの国民に付け回される。中村氏はこの辺をどう考えているの示していない。
 
そもそも欧米がインフレ抑制に困っている時に、日銀がインフレ目標値を決めて、円のばらまきをするとはどういう事か。支配層の常とう手段のインフレ税を庶民に押しつけているとしか考えられない。
中村氏は政治家なのだから、ここまで書きこむ必要がある。ホームページにはクルーグマン政策でやっていくと書いているが、オカシイ。
 
 執行部派が消費税赤字埋め合わせ分を、増税した場合、公共事業など別枠に流用する含みを持たせているとの指摘は正しい。
また増税分を社会保障の強化ではなく、現状の維持だけの使用を意図している、従って高齢化の進行では社会保障の後退になるとの指摘は全く正しい。
 
 が、総じて、中村てつじ氏は消費税増税に限った論議終始しており、狭い技術論の違いに過ぎず、集団離党するまでには至らないとみていた。
従って、中村氏が国民の生活に結集して離党したと知った時は、少し違和感を感じた。
 
>>さらに、幾ら自分が議会圏の事情に疎いと云っても、民主離党時の小沢氏の評価には、自民党離党以降の過去の政治軌跡に注目せざる得ない。
 
 やはり、「日本改造計画」の市場原理主義や反民主主義も小沢氏の原点原則として生きていると確認せざる得ない。
その後、キチンと文章的に修正されたのは、民主政権獲得後の岩波書店「世界」誌上の小沢論文だけだったと理会する。
、そこに「日本改造計画」への体系的修正があるとはとても想えなかった
その後の小沢氏からの発信では、「改造計画」の修正版を執筆中で、8~9割、完成していると云う事だったが、遂に日の目を見ない様である。
<共生>云々は彼流の地方分権と云ったに提出されているモノであって、グローバル資本制下の日本では、それは日本のばら売り、逆に中央権力強化、となるしかなく、単なる気休め、空文句、誤魔化しである。
 
>その後の政治綱領的分野の発言を追っていくと、体系的修正版は彼には無理と判断していた。
 
「改造計画」はその後の小泉、今の橋下などの市場原理主義政策、政治姿勢の先鞭をつけたモノである。
が、「改造計画」と現時点の小沢氏を結び付けて、批判するには時期尚早と想い留まってきた。
この文中の使用の赤札云々の視点方云えば、「改造計画」の政治主導の中身は取扱注意も赤札無視そのものである。
 
都合、政党遍歴6回目、2回の政権担当が在った。
先ごろは組織実態とは離れた派手な新党結成の披露パーティーまでしたばかりなのに、選挙公示直前の新党結成。
しかも、その目玉のなる人たちを自分なりに分類すると、民主党政権政治や橋下、維新との分岐も不鮮明と判断した。
 
そもそも、橋下の様な凶暴な市場原理主義との分岐が政治思想的に不鮮明だからこそ、何時までも秋波を送ってしまい動きが遅れたのである
 
何時まで経っても多数派工作第一主義の癖(数合わせ第一主義の癖)が抜けきれない。
 
今の日本政治情勢ではもう政権に近づくことはないと云う自身の立場の認識も含めた、政治判断ができていない。
まだ旧態依然たる政治判断に身を委ねている。
 
>小沢氏個人が変わった変わらない、の次元の事は、主要な問題点でない。
彼一人の力でどうなるこうなるは現実は強大化した日本政治システムの世界ではありえない。
 
>まして、或る時点からは彼の在り方の次元より、情勢の方がズット前を進んでいる。
彼は状況に遅れている。
 
又、強烈な政治的人間は自分の周囲の変転する情勢に体は付いていく
だから、重大な政治過程で主帳はコロッと変えられる。
、往々にして、頭の方が付いていかないモノである
 
小沢氏発生してきたのはこの次元の事と想像する。
 
従って、結論的に云えば、
冒頭に示したように、小沢氏の不出馬宣言があって、始めて、急激な未来の党結成は広がりを持った、とする。
 
選挙対策など、彼でなくともできる。
政権を争う未来の党ではなく、あくまでも反対派としての党の大衆的選択を問う事に過ぎないのだから。開かれた党が党勢拡大の前提条件でないのか。尤も無関係の自分の云う事ではないが。
 
なお、元国民の生活が第一幹事長、東氏はジャパンハンドラー、アーミテージとは数百回、会っていると党本部の記者会見で自慢げに述べているのは、どういう意味なのか?
社民党比例区票を食っていることも事実だろう
 
小沢熱烈支持者の場合は有名芸能人とファンクラブの関係の次元。
コレからの日本国民は日本国家との距離を相対視できるかどうかがカギ。
熱烈支持者以外の人達にも同じ事が云える。小沢氏との距離感を意識することである。そうでない限り、限界点がいつまでも付きまとう。
 
 <追記>
 小沢一朗支持者と国民との感覚、認識のずれは大きい。
己の民主主義的原理原則に忠実たらんとすれば、彼の様な垢にまみれた曖昧模糊とした存在でない方がスッキリとすると想うが。もはや、彼は政治権力から、遠い存在であり、その意味で真価は減滅している。彼のここまでの政治軌跡、政治思想の質が問われおり、彼がこういう立場に立ったのは初めてであろう。評価基準が従来とは違ってきているとの認識にかけているのが支持者である。
鈴木邦夫さんの今週のブログ記事で、昔、岩国哲人さんから聴いて感心した話として、一人5票持ち票制を民主選挙の手段として「真面目に」取り上げている。コレをやれば、大政党やどぶ板選挙の効力が薄れ、民意の反映しやすい選挙になるんだとか。
>私は今回の選挙前の記事でふてくされ気味だったけど、一人多数持ち票制を何気なく提案した競馬とかギャンブルをやる人はすぐピンとくる、本線勝負、押さえの当たり前の発想なんだけど、世の中、改めてイロイロな角度からモノを見る人がいると痛感した次第。
議会選挙にシャカリキになるのはどうかのと想う。何処かで中和作用が仕組まれていなくちゃ、日本ではワイマールのドイツの様に政治過程が独り歩きしそうだ
そういう気持ちもあって、植草一秀氏の全員投票せよ、棄権ダメ論を批判をした次第。