前半部分はナチス時代以前に遡ったドイツ一般国民を視野に入れたドイツ人の精神風土の原型の解説として興味深い。後半は専門分野の政治思想史に偏りすぎ。特にアドルノ、ハーパーマス、ハインリッヒ、ベル、ギュンターグラス、社会民主党を軸に置いた解説をしていて、一般国民の精神風土が視野に入っていない。経済社会政策に踏み込んで解説してほしかった。そうすれば、日本の経済社会政策との違いがわかる。
私はアドルノ、ハーパーマスにはまるで関心がわかない。
ただし、戦後日本史において、<その知的歴史>流れをたどっていけるものが、あったのかどうかと問われると、大いに疑問である。これこそが日本と日本国民の敗戦後の<原点や核心乏しい精神風土>である。
日本の戦後史との比較という意味で以下の記述は興味深い。
「二度の戦争で伝統的な社会習慣や暗黙の約束事がほとんど解体してしまったドイツ、いやもっと長期的にみれば、18世紀の啓蒙主義以来の市民社会の中で、伝統に由来するしきたりや共通の基盤が掘り崩されてきたドイツであるから、逆にこうした基本法が本当に基本法として働くことにもなったのだろう。
その代表的存在であるノーベル賞作家のハインリッヒ、ベルをして、この憲法は人類が今まで持った憲法の中では最高のもの言わせていることにも憲法支持率の高さがわかる。社会批判派は憲法を支持するがゆえに、その理想が実現しえていない部分に食いつくことになる。後にこうした人々は自らを憲法愛国者と呼ぶことになる。
「貴族階級は国際的なつながっていたから、(ロシアを含めたヨーロッパ規模の政略結婚、血のつながり)、それへの反抗として使われたのであって、日本語で忠君愛国をいうときのニュアンスはまったくない。」
>なんだかわかったようなわからないような話だが、政治思想としての愛国心を取り上げる場合の日本とのあり方の違いとしておこう。
>ドイツ人の変わり身の早さ。
「戦後傷を負いながらも生き残った教養階層我ドイツ理想主義の哲学やゲーテやシラーの高邁の文学を急に手本として吹聴しても、それは極めて非政治的な内容で、トーマスマンの表現を借りれば、<権力に裏打ちされた内面性>の復活に終始しかねなかった。」
「このあたりの変わり身の速さはドイツ人伝対にも共通していたようである。
昨日のナチがあっという間に今日の民主主義者になっていた。急に皆がナチスのことは元々嫌いだったといい始めたのだ。」
>戦後日本とこの辺の事情は変わらない。国民性として似ているところがあるのか、元々人間とはその程度の存在、あるいはシブトイあくまでも<生活専門家>であるのか。
>アメリカ占領地区では住民にナチ時代に何をしていたのかアンケート調査。
「党員であったのか、どういう職についていたのかについて申告させ、審査のうえで一定の基準以下であれば、<非ナチ化>されたとみなされ、一人前に市民として復帰できるという機械的形式的なもので、これによって、非常に多くの人々が、過去の心性とは無関係に今日から民主主義者になれた。一種の禊のようなものである。
しかも、一介の市民が熱に浮かされてナチ党に下っ端として活躍していたほうが、実際にナチの軍備拡張に協力した軍需産業のの重役より、損をするという矛盾があった。その意味では、ナチスを生んだ過去と決着をつけないで、戦後の再建に走りやすくした。」
>この辺の事情も日本と似ていなくはない。
>敗戦直後の<ゼロの時代><崩壊の時代>という表現。
「ゼロの時代。歴史の断絶を頼みに、自分自身の過去を現在とは無縁のものとする志向が働いている。
崩壊。凶悪な体制の滅亡というよりも、そもそも社会生活に秩序が崩壊したことへの恐怖感のほうが強く現れている。」
「ナチスの冷血そのものの組織暴力をどこかで是認してきた臆病かつ高慢な小市民的体質、あるいは見て見ぬ振りをして、自分の周囲さえ静かならよしとする秩序志向。
つまり他者と対等な次元で公共の場で議論しあうという精神が根付いていたというよりも、多数決によってうまく機能知る制度だから、民主主義者になっただけであり、過去のことには触れたがらない態度になってしまった」
「ドイツ人が時として、自己卑下したり、ちょっと調子がよくなれば、何らかの理想にあわせて高慢になるのとは同じたての両面であって、歴史的に小国に分裂していたことと関連している。絶えず卑小さに悩んでいたことのの過剰な代償を求めて、時としてとてつもなく威張りぶりをしめす。」
「そして自分たちがうまくいかないと、すべて他人のせいにすることになる。
こういう民族は他者への思いやりを育てる以外に手はない。自分の無能、哀悼能力の欠如を認める反省能力に治癒の可能性を見たい、と批判者たちは言う。」
「生き残ったユダヤ人には多額の賠償金を払った。すべて行政的に支払いを済ませてよしとする態度である。」
「このような行政的賠償の形式と、ある民族グループ全体に対する<行政的殺人!>との間には原則的な相違は存在しない。それらは自己愛の変形でしかないドイツ人のナルシズム的性格による。」
>東ドイツ、ポーランド方面のユンカー大土地所有の引揚者にも、西ドイツ国内に代替地を与えているのだから、行政的措置も日本と比較して徹底している。こういう民族性はナチスのようにいったん大きく道を踏み外すと、行政的大量殺人の実行に転化するのか。国民もついていくのである。
>西ドイツ政治を操っていたキリスト教民主同盟の政治的位相。
「CDUは資本主義とマルクス主義を克服する、という目標を立てて、大企業の解体、鉄鋼石炭の社会化、労働者の共同決定権などを要求していた。過去の過ちを是正しようとする石が広くいきわたっているさまがわかろうというものである。」
「エアハルトの社会的市場経済。
この理論は計画経済を否定する。又資本のために国が産業振興政策を行うことも否定する。
むしろ、企業家のイニシアチブと利潤意欲に訴えて、できるだけ国が介入しない経済を求める。外国貿易も早くから完全自由化が原則とされた。
競争の歪に対しては社会政策で修繕すればいい、とする。実際に世代間契約の考えに基づく年金制度その他の充実した社会政策が早くからなされた。」
「政府主導の産業政策を特に行わないところ、福祉充実などの社会政策を重点にしたところは、戦後日本の経済政策のあり方とはだいぶ異なっている。又基幹産業であった石炭鉄鋼関連の企業においては、1951年以降、労働者の経営参加が認められたところにも、基本思想において日本と大きく異なる。」
>1960年代の補助金劇場。
「ベルリンフィルとカラヤン等々。各地にできたコンサートホール、オペラハウス、劇場が、ようやくそうしたものに参加できるようになった市民の満足感を高めた。記録によれば、1964年時点で21の国立劇場、102の市立劇場が活動していた。すべて地方自治体の文化予算、補助金でまかなわれていた。
そうしたもののほとんどない日本から見れば、うらやましい限りだが、多くの場合、最早、アクチュアリティーのない一時代前の文化への帰属意識だけが高められた。ある評論家は、大入り満員、中身は空っぽと当時の演出を評している。19世紀以来の教養市民層というドイツ独特の市民のあり方がその一切の醜悪さとともにそのまま復活したかのようである。」
>この線でいえば、日本のドイツ的クラッシク趣味は、19世紀ドイツ教養市民層の伝統の醜悪さも模倣しているのだから、ナント評すればいいのか?
私ははっきり言って日本のクラッシクを嫌っている。カウボーイ、ハットを被ってカントリーミュージックを歌っているのよりは様にはなっているけど。
以上で、時間不足で終了。