反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

松尾芭蕉。夏草や兵どもが夢の跡(奥州平泉にて。「平家物語」の木曽義仲フリークから義経の最後を想う)。荒海や佐渡によこたふ天の河(パノラマ)。旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。(病の死の床で)。

 松尾芭蕉 奥の細道松岡正剛の千夜千冊」から抜粋引用。
芭蕉は天才ではない。名人である。芭蕉は才気の人ではない。編集文化の超名人なのである。
このことは芭蕉の推敲のプロセスにすべてあらわれている。芭蕉はつねに句を動かしていた。一語千転させていた。それも何日にも何カ月にもおよぶことがあった。そういう芭蕉の推敲の妙がある
芭蕉の成し遂げたことは
発句の自立といった様式的なことも、いわゆる「さび」「しをり」「ほそみ」「かろみ」の発見ということも、高悟帰俗や高低自在といった編集哲学も、みんな含まれる。
なぜ芭蕉がそれをできたのかといえば、あの、時代の裂け目を象(かたど)る江戸の俳諧群という団子レースから、芭蕉透体脱落したからである。さっと抜け出たからである。
芭蕉翁という「翁」の呼び名がふさわしいにもかかわらず、意外にも芭蕉は51歳の短い生涯だった。しかも本格的に俳諧にとりくんだのはやっと30歳をこえてからのこと、宗匠として立机(りっき)したときは、もう34歳になっていた。
 それなのに芭蕉は計画したことをほぼ成し遂げた。そして日本語に革命をもたらした。
 
芭蕉寛永21年に伊賀上野に生まれている。藤堂藩の無足人(土着郷士)の次男だった。そして29歳で江戸に出た。ここで貞門から談林を覗き、模索を始めた。
貞徳がこうした俗っぽい俳諧を奨励したのには、それなりの算段があった。そのころの武士や町人の識字率低かったからである。貞徳自身は高尚なボキャブラリーをもちながらも、それをひけらかすことをあえて避け、武士や町人がひとまず俳諧(連俳)をものすることができるように、ハードルを下げたのである。そのことによって多くの者がどうにか言葉を操れるようになった。
 
が、それはそうだとしても、貞門はあまりに言語遊戯に耽った。耽りすぎた。表意を研鑽するものがなくなっていった。そこで大坂の西山宗因がこれに反発した。天満天神社連歌所の宗匠である。
 
宗因の挙動は都に対するに大坂の反発を根にもっていた。竹本義太夫が大坂に出て、近松が京都から大坂に移った前史には、この宗因の先行的登場があったのである。宗因にはもうひとつ、生活や身の回りの俳諧を詠みたいという主張があった。これが談林で、ここからが寛文文化になる。
西鶴(618)が顔を出す。西鶴はもとは鶴永と号していたのだが、宗因門下に入って西山の西をもらって西鶴と改めたことでわかるように、談林を先導する役割をはたした
京の貞門、大坂の談林はこうして互いに詰(なじ)りあううちに、しだいに新鮮な勢いを衰退させていく
連歌俳諧もむろん面白くて連打されるものではあるけれどそこに文言を当て嵌めていじっているのが続きすぎると、「あき」がくる。スタイルやテイストは費い尽くしては失策なのである。
 
光琳もそうだったけれど、この時期前後、上方や京の文化が行き詰まっているときにさっさと江戸に出た者が時代を変えている。
江戸では日本橋の魚問屋の鯉屋杉風のもとに草鞋を脱いだ。この杉風は芭蕉の最初の弟子となり、その後も最後の最後まで芭蕉の面倒をみたパトロンにもなっている。のちにいたるまで、芭蕉にはこういうコネがうまくはたらいた。
初期の芭蕉のことで言っておかなければならないのは、最初は漢詩文の調子を取り戻すことが重要だと見ていたということである。さかのぼれば、漢詩文には日本の詩歌を刺激した鐘が鳴っている。源氏だって白楽天なのである。それを貞門や談林は忘れた
日本文化というものは、大きくはやっぱり「和」をどのように創発させていったかということが眼目になるのだが、それはときどき漢」との熾烈な交差を含んでいないと、ものにならなかったのである。芭蕉はそこが見えていた。
が、漢から和へのトランジットもままならない。そこをどうするか。それを早くも芭蕉は考えた
それは俳諧全史を眺めわたしても、まさに乾坤一擲の転機だったろう。
この転機は、結論からいえば、芭蕉西行を学んだことで発揮した。漢詩文の調子に西行の『山家集』を交ぜたのだ。「侘び」に気が付いたのだ。
ここに芭蕉俳諧は「滑稽」から「風雅」のほうに転出していくことに気づいた。
「いやしく」しない。つまり、卑俗を離れたいと、芭蕉は決断したのだった。
。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するもの一なり」と。
まったく同じ延宝8年のこと、西鶴は大坂生玉神社で昼夜独吟四千句を興行してみせた。なんと上方の西鶴と江戸の芭蕉とは対照的だったことか
こうして貞享元年(1684)8月、芭蕉は初めての旅に出る。「ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、能因・西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。
ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。
しかも、そこに「野ざらし」というマイナスのオブジェがはたらいた。マイナスがはたらいたということは、定家や西行の方法を俳諧にできそうになってきたということである。
けっして奢ることのない人ではあったけれど、おそらくこの「負の自信」ともいうべきは、芭蕉をいよいよ駆動させたはずである。
 
 
 
 
野ざらし紀行は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀上野に寄って、それから大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来て、また伊賀上野で越年し、そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。
 ここで芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。これらの句は、それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったということだ。これらの句は、それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったということだ。芭蕉はこの旅で推敲編集の佳境に一気に入っていったのだ
もっと劇的な例がある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。これを初案・後案・成案の順に見てもらいたい。
(初)何とはなしに なにやら床し すみれ草
(後)何となく 何やら床し すみれ草
(成)山路来てなにやらゆかしすみれ草<
芭蕉としては、道端の菫があまりに可憐でゆかしいことを、ただそれだけをなんとかしたかったのである
けれどもその場では言葉を探しきれなかった。それでともかくは書き留めておいたのだろう
そこでのちに訂正を入れた。それが「山路来て」という上五の導入である。これで「なにやらゆかし」が山路にふわっと溶けた。
(初)古池や 蛙飛ンだる 水の音
(後)山吹や 蛙飛込む 水の音
(成)古池や蛙飛こむ水のをと
 
推敲とは「推すか」「敲くか」ということであるが、芭蕉は実に、この「押して組まねば、引いて含んでみよ」を頻繁に試みたのだった。芭蕉は初案を率直に出す。卒然といったほうがいいかもしれないが、ともかく巧まない。『
 
では、いったい芭蕉はこのような推敲をしつづけることによって何に近づきたかったのか。
悟帰俗というものだ。「高く悟りて俗に帰るべし」。このことはまた、まさに芭蕉を読む日本人が総じて感得すべきことでもあろう
 
芭蕉は45歳になっていた。芭蕉奥の細道の旅に出る。
ぼくはこの紀行はまさに乞食行だと思っているのである
芭蕉が伊勢に参宮したおりに「増賀の信をかなしむ」と前書きして、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだことが、心に響いたのだ。
増賀とは、「かくて名聞こそ苦しかりけれ。乞食の身こそ頼もしけれ」と言い放ったと『発心集』が伝える聖のことをいう増賀は伊勢神宮に詣でたときに、「道心をおこさんと思はば、この身を身とな思ひそ」という託宣を聞いた。そこで「名利を捨てよとこそ」と、着ていた小袖や僧衣をその場にいた者に与え、赤裸のままに下向した。
 この故事を知った芭蕉は、そこで、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだのだ。
 
 
この紀行文はあとでいろいろ編集構成されたものであって、いくつも事実とは異なっていたということだ。
編集構成の手を加えない『おくのほそ道』など、芭蕉すら読む気がしなかったろうと言いたい
初)山寺や 石(いわ)にしみつく 蝉の聲
(後A)さびしさや 岩にしみ込む 蝉のこゑ
(後B)淋しさの 岩にしみ込む せみの聲
(成)閑さや岩にしみ入る蝉の聲
 
初)五月雨を 集て涼し 最上川
(成)五月雨をあつめて早し最上川
 
初)涼しさや 海に入れたる 最上川
(後)涼しさを 海に入れたり 最上川
(成)暑き日を海に入れたり最上川
 
 
われわれにとって多少とも手が出そうな芭蕉編集術の真骨頂は、おそらく、「涼しさや海に入れたる最上川」が、「暑き日を海に入れたり最上川」となった例だろう。
 なにしろ「涼しさ」が、一転して反対のイメージをもつ「夏の日」になったのだ。そして、そのほうが音が立ち、しかも涼しくなったのである。
これは「涼しさ」が涼しい音をもっているにもかかわらず、あえて「夏の日」という目による暑さが加わって、それが最上川にどっと涼しく落ちていくことにあらわれた。
芭蕉は伊勢からそのまま奈良・京都にまわり、伊賀上野に帰ったところで、長きにわたった旅に終止符を打ったのだ。それが元禄3年(1690)の正月である。47歳になっている。
このころから芭蕉の体には一挙に衰えが忍びよっていた。
 
松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉である。これは何度出会っても、すばらしい教えだとおもう。
芭蕉は「習へ」とは、物に入ることだと言ったのである。習いながら私から出ることだと言ったのだ。それが松には松を、竹には竹をということである。
「私意をはなれよといふ事なり。
習へといふは、物に入りて、その微に顕れて情感ずるや、句と成るところなり」という表明である。「微」にあらわれるところに「情」を感じて、そのまま「句」になっていけ、そう言ったのだ。
 
死去。以下グーグルより。
元禄7年5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かい、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った]
9月に奈良そして大坂へ赴いた]。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した。
遺骸は陸路で近江義仲寺に運ばれ、翌日には遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。
芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が大阪市中央区久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と測道の間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの真宗大谷派難波別院(南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。
 
 <追記>
松岡正剛の「千夜千冊」はこちらが知りたい著者でも、サラッと言及しただけの終わっていて、がっかりする場合が結構あるが、「芭蕉奥の細道」は突っ込んだ作品論になっている。特に芭蕉俳諧の推敲課程の実録は他にない珍しいものである。その意味で非常に参考になったので、あれこれ注釈を加えずに、必要箇所をコピーした。
芭蕉の遺骨が遺言で、近江の木曽義仲寺の義仲の墓の隣に葬られたのは、「平家物語」の近江、粟津における義仲の最後の名場面に感化を受けたものなのだろうか。ラジオで「平家物語」義仲の最後の朗読をきいて、臨場感あふれる名描写だと想った。落ち武者となっても、勇気と凛々しさを失わない若き侍大将義仲と従者の情。義仲の最後はその従者とも離れ離れになり、単騎で粟津の深田に足を取られ、名もない敵の郎党に首を討ち取られてしまう。
グーグルで、義仲を調べてみると、自分もなんとなく、義仲の陥った敗北必至の窮地に同情心が沸いてくる。
勇猛果敢な田舎侍の寄せ集めは軍団は戦争に勝って朝廷を巻き込んだ政治に負けたのである。
芭蕉の義仲への想いに共感する。
最期の旅は門人の不仲仲裁というところに、人間芭蕉がいるような気がする。