前回の記事で、桑原武夫の俳句第二芸術論を取り上げた。敗戦直後発表されたときは、その方面にそれなりの衝撃を与えた。正岡子規によって確立された近代俳句の歌壇が、長期にわたる戦時体制の一端で戦時キャッチコピーの如き役割を果たし、不相応な既成の権威となっていた事への、起こるべきして起こった当然の批判である。
仏文学者、桑原武夫はその後の、<京都学派>の中心人物として、幅広い自由闊達、行動的な学際レベルの活動を戦後展開していく。
彼自身の戦後活動の軌跡をたどれば、歌壇への痛烈な批判は、批判のための批判ではなく、創造的活動に転化された。
「早くから西田幾多郎、内藤湖南ら戦前の京都学派の碩学の謦咳に直接接することが多く、戦後、同年代の吉川幸次郎、貝塚茂樹などの戦後の京都学派の中心的存在として、戦後のさまざまな文化的ムーブメントに主導的な役割を担った。」
「フランス文学にとどまらず、多方面に亘る深い学識と行動力は各方面に及び~日本の人文科学分野の研究において、数々の業績を残した。これらの共同研究を通じて、梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、鶴見俊輔、多田道太郎ら多くの文化人の育ての親となった。」(グーグル)
権威とヒエラルキーに距離を置き、独自の地平を切り開いた京都学派から、当然の声が発せられたことに今日的意味を見出しす。
こういう批判が発生しない方が駄目なのであって、批判によって、真相が明らかになり、俳句の本当の、日本的な価値や意味が明らかになる。
尤も、以上は綺麗ごとの一般的確認。
いまどき俳句などをこねくり回して、何ほどかの「高尚」な気分に浸り、悦に入っているのは、言葉は悪いが、精神のドン百姓である。魂の囚人である。
川柳や滑稽、洒脱に徹するならば解る。
小林一茶には吐き気を覚える。
貧欲!は終いには強欲排外に達する宿命にある。自己執着は独善通じる。
俳句そのもの構造に原因がある。次のネット記事にすべて言い尽くされている。
俳句 第二芸術(桑原武夫)論批判
むじな庵
*言葉は歴史とロケーションによって強い影響を受ける。俳句は、最も激しくその影響を受ける文学である。
*あらゆる芸術ジャンルの中で、俳句はもっとも金にならない芸術である。それ故もっとも純粋な芸術といえる。
*多くの芸術は訓練により上達するが、俳句の良し悪しはほぼ感性とセンスで決まり、知識がそれを補完する芸術である。
よって俳句の場合の訓練は、人間としての感性を磨くことである。
大いなる勘違いと自己撞着がある。
<言葉は>以下の主語は<俳句は>である。
俳句は歴史とロケーションに表現主体が激しく依存、浸食される定型詩である。
松岡正剛には表現主体の対象との関係において能動性があるが、この論者は対象に対して受動、一辺倒。
理屈のレベルが低すぎる。哲学がない。単なる機械機能論のレベル。末尾も文句はむなしい。
人間としての感性を磨く?いったい何を意味するのか?恐ろしくてそんなことはいえない。
が、俳句の現状に正直である。
この論者のまとめを参考にすると、
社会の成熟、人間関係の複雑化(一茶の貧欲自己撞着は近世というよりも近代人のモノ)、生活向上、風景の加工があればあるほど、芭蕉のロケーションは失われていく。
それを俳句という5、7、5の日本的定型詩の枠内で表現して、どれほどの芸術性を得られるかという根本問題がある。
また、江戸初期の芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と詠めば、リアリティーを持つが、幕末近い一茶にはそれができず、既に日本近海に出没してきた列強の外国船に対する庶民レベルの国粋への萌芽を詠まざる得ず、そこに日本的定型詩が対応できるかどうかの問題が生じる。
これは明治初期の正岡子規にも通じる問題領域。
ましてや現代おや。真面目くさってよめば、滑稽に浮く。
桑原武夫の俳句第二芸術論の底に流れる現代俳句認識もココにある。
だから、銀供出の先頭に立ったものが歌壇の権威のままでいいのか、と問う。それで権威の句と庶民の句を匿名で並べて、当時の知識人に鑑定させて、裸の王様にしたい衝動が働いた。
彼の場合、後の文化的営為からすれば、創造的破壊だった。イノベーションだ。
この論者はそういう問題意識を蔑ろにせざる得ない立場に立って、桑原批判、近代俳句擁護をしている。
そこから、新たに生まれ出ものがありや無きや。
そもそもが、芭蕉の同時代の俳人、西鶴が1昼夜何万句を競った果てに、「好色一代男」の散文に新境地を開いたところに、5、7、5の芭蕉の凝縮と西鶴の散文との分裂が、社会状況を含めたロケーションに恵まれた江戸前期に、既に原点的に内包されていた。
俳句という狭い世界ではなく芸術総合の観点から見ると、そういう事実がある。
こういう逆説と総合は世界一般の法則でさえある。
コレが明治維新直後の最先端の知識に表出されたのが正岡子規である。当時の野球に対する熱中(ポジションはキャッチャー。野球を知っていたし上手かった、という事だ)、のハイカラ志向と、日清戦争の心躍る従軍、「柿くへば、鐘が鳴るなり法隆寺」などという素朴な意匠と小林一茶的日本庶民の貧欲のあり方の重層が日本を作った。
では、村上春樹の場合、はどのように分類できるのか?
大正デモクラシーの今日的世界的展開。
なお、大正デモクラシーの思想政治次元の有り様については、日本人よりも韓国人若手気鋭学者のkim hangの方がよく知っているという、これまた法則性である。
現状日本全般の理解では軍国体制前の「 」付自由な時代程度。
美濃部自身の思想構造は欧米的立憲君主制の理解でなく、
ましてや抵抗するような思想構造は一切ない。
だからそのデモクラシーに戦いの要素はなく、時代風潮によって付与されたものである。
その時代風潮は内外の強収奪による資本の原始蓄積によってもたらされたものである。
帝国主義となって列強の仲間入りをやっとこさ、果たしたことによって得られた自由である。
内外の不自由と圧迫収奪を前提とした自由である。
かくして、世界激動時代の国体主義の前面化によって大正デモクラシーはひとまず後景に退きた。
後発日本の統治形態は硬直化せざる得なかった。
そして敗戦によって、大正デモクラシーは統治形態として浮上した。
その後の政治過程のキーポイントは
1)朝鮮戦争と経済政治の戦後日米支配層的定着化。
2)高度経済成長開始と日本「独立」60年安保。
60年安保改定の中身にたいした意味はなく、冷戦世界情勢において当たり前の変更がなされただけ。日本一国主義的視野でなく、世界的視野ではそういうことになる。
岸の過大評価はクルッテイル。
3)高度経済成長期。
朝鮮戦争以来、日本の基底で流れていた潮流が経済成長という厚い表皮によって覆い隠させた。
底流と上皮の二重構造になった。
村上春樹さんの生息域は上皮部分。
世界は新帝国主義段階に到達。多極化の始まり。
村上春樹さん。出、日本、新鮮な空気求め海外雄飛?
村上春樹さんは何もか承知の上で春樹ワールドを構築している。
それは世代の生み出した最良の結晶である。
賞を受けてイスラエルにいって、講演したのも壁と卵の関係の講演をしたのも、思えば次のようの事実を視野に入れたものであろう。
内容(「BOOK」データベースより)
戦前日独庶民のあり方も同じだ。欧化主義の捏造は止めたい。