一番古いのは英国歌。当然であろう。国民国家形成が先進国で屈指(オランダの方が早いかも?国家形成までの過程で民主主義制度のギリシャローマの市民参加民主制の普遍性を先進的に継承しているのはオランダ方だろう。)スペイン、オランダを退けて、世界の覇権を握るまでのイギリスは封建体制としては、大陸先進諸国よりも遅れた国であった。
王朝と議会の相関関係の大陸諸国に大きく先行する成立はイギリスの特殊事情(封建体制の「遅れ」、地政学的位置)が大きく作用した。イギリスは最初から、先進地域でなかった。
デンマークなどに源流とするノルマン人のフランス北部ノルマン領地からの襲来し、支配層としての占拠。
1066年のフランスからのノルマン征服王朝は支配層としては新参者、よそ者、新興である。
日本に強引に例えると、鎌倉後期の元寇によって日本列島の中枢京都、鎌倉が占拠されるようなもの。
以上がイギリス議会制の原点の原点である。
イギリス島が民族モザイク模様で統一的武力形成がなしえなかったから、ドーバー海峡を隔てたフランス北部地方を領土にしていたノルマン王朝に古代末期の中央国家権力の形成を許した。尤もイギリスの平坦な地形も反抗武力に不向き。
当然、渡来王朝貴族の言葉、フランス語とアングルサクソンの土着後=古英語の混交には時間を要する。ミックスは13世紀頃。
以上のイギリス理解のポイントはイギリスは蛮地だという基本認識である。勘違いが多すぎる。
>以上、確認したイギリスの歴史的地政学的の特殊性を条件に内外の社会経済、統治機構の視点にたって、イギリス封建制の進展と特徴に当てはめると、征服王朝側が議会という統治手段を早くから用いたのは理解できる。
勿論、アテネ、ローマの奴隷と戦争を基礎とした一時的共和制の経験もあるが、勢力圏拡張に伴う争闘の中で君主権力の強化=帝政に転換した事に注目する。
<征服王朝において当初から私的議会的機関が成立し、やがて公的に発展した背景。>
2)が、よそ者渡来、征服王朝ゆえ、支配層としての統治力にも限界がある。故に圧倒的多数派の土着民との利害対立が常に付きまとう。少数と圧倒的多数の習俗、言語の隔たりも大きい。
また、封建体制の発展は土着民に社会的経済的力を蓄えさせる。
かくして、新参モノで圧倒的少数派の強権的中央直接統治には無理が生じる。これらの根の張った本当の拠点はフランス北部にある。
総じて、イギリス封建体制における支配的領主の力は大陸諸国よりも小さいく、分裂気味である。
3)国王と朝廷勢力の中央封建君主として、全国大小封建貴族、庶民を統治するよりベターな手段として、経験の中から、議会という私的緩衝期間を選択したのである。
この辺のイメージになると、蒙古襲来による日本政権誕生だけでは間に合わなくなる。
>鎌倉幕府と京都の朝廷寺社旧勢力との二重権力的な不均衡のあれやこれやのイメージを追加する。
その後のイギリスの歴史で発生した大陸勢力を巻き込んだ血なまぐさい内乱内戦、封建君主層内の戦争流血を伴うごたごたをみると、中世に限って比較すれば、中国朝鮮日本の東アジアと比べて、とどちらが政治的に洗練されているか。再考する必要がある。
ヨーロッパが一貫して先進地域だった、というのは欧米史を中心視する偏見である。
アテネ、ローマと古代日本を比較するから幻惑される。中国古代と比較したほうがよい。
>宗教などの思想領域に隔たりが大きいことは確か。ヨーロッパの先行はキリスト教の一神教的絶対の希求の波及効果が多きいのでは?現代では世界混乱発生の根源にごときものに転化しているが。後にイギリス国歌の該当問題箇所を挙げる。
が、中世では、日本朝鮮中国のほうが統治機構として先進地域だったという論法も成立する。
近代の歴史視点で議会制度を取り出して、過去の各々の地域国の歴史は裁断できない。
又、本質的に、今日の代議制議会=立法、行政機構=執行機関、司法=法的措置権限は少数支配層の圧倒的多数への支配のシステムである。
少数者の多数者支配の道具。
このような政治的本質ゆえに、民主主義は永久に革命する必要がある。問題はその中身だが。
以上の観点に立てば、中世イギリスが先進していたとは思えない。
ただ一端成立した全社会的制度は内外の争闘の中で自律的に深化する歴史傾向がある。
中国で専制国家体制が独自発展し、深化し、その影響は文化も含めて朝鮮日本に及んだ。
大陸諸国で先行的に発生したカソリックに対する宗教改革もヘンリー8世,,( 1491年6月28日 - 1547年1月28日、テューダー朝のイングランド王)もイギリス的に条件で行われると以下のような変形を遂げる。
>「大陸における宗教改革が教会の堕落を正すという純粋な動機から始まったのに対して、カソリックへの絶縁宣言は、離婚という国王自身の国王自身の問題に単を発するものだった。いわば草の根レベルから自然発生的に起こった運動ではなく、不徹底なものであった。」
そういう君主個人の動機に発した低次元の、草の根レベルの徹底性を欠いた上から宗教改革であったが故に、大陸を巻き込んだ宗教対立が「国内のカソリックをどう押さえ込むかというのが、イギリスの積年の課題」になってしまう。
イギリス国歌にあるスコットランド殲滅という歌詞も、イギリス固有の歴史から生まれた。
1700年代半ばのイギリス本国ではまだ大陸勢力を巻き込んだ大量殺戮戦を繰り広げていた。
反平和的血に奮い立つ攻撃的で独りよがりの民族性が垣間見える。
時間不足で言及できないがフランス国歌、アメリカ国歌の歌詞に歌われている内容は、ともに流血の惨事における自己絶対化、大量殺人正当化、称揚である。
次に挙げるイギリス国家などはまだ穏健な方である。
6、
彼が反乱を鎮めんことを願わん
激流の如きスコットランドの反乱を打ち破らん
神よ我等が国王を救いたまえ
激流の如きスコットランドの反乱を打ち破らん
神よ我等が国王を救いたまえ
><打ち破らん>などという穏当な和訳はついているが、crushは粉砕する、殲滅する、などの印象が強い。
>当然、殲滅対象のスコットランドには別の国家がある。
4、
我が国のみならず
神の御慈悲は陸を渡り
主は世界中の国々に知らしめる
人類は一つの兄弟であり
家族であるべきことを
我が国のみならず
神の御慈悲は陸を渡り
主は世界中の国々に知らしめる
人類は一つの兄弟であり
家族であるべきことを
>一神教世界伝播。それは人類、家族兄弟という普遍的世界であるでもあると狂信している。
思考と行動のモチベーションは強烈だった。
東アジアの儒教統治思想は
そこでは、孝がここの吹き関係において機能するように、道徳はここの特殊な人間関係の上のみ成立し、個別の人間関係を超えた普遍的道徳が成立していない。
家族内においても父子、兄弟、夫婦などの個々の人倫関係のみ道徳が成立するということは、家が家族の結合体ではなく、多数の家族の生活するところに過ぎないことに照応している。
社会における一般的な道徳の不在の元では、国は国民の結合対ではなく、君主に統治される多数の民衆の生活するところを意味し~云々」
>後半の「家族は」以下の部分における引用者(専制国家史論)の意図では、日本のムラを基盤とする団体の上への重層に特長のある日本封建制の成熟に近代化、西洋化の近代国家建設の頂点に天皇制の絶対性が復活移植された日本では中国専制儒教世界とは違うといいたいらしい。
百姓一揆はお百姓意識と領主の仁政のセレモニー<あくまでも異議申し立て=お願い>側面が強かった。
>やはり、現状の人民側総体の反発力の不足も歴史をたどれば、源流をそういうところに見出せる。
こういう視点からも改憲反対である。
一端歯止めがはずされると、なし崩しで事態が進行するのが日本歴史の特徴。
ま、それでも構わないといえば云えるが。
以上「 」の引用は「専制国家論」、「イギリス事情」。