反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

松岡正剛「千夜一冊」、ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の自己流解釈。世界金融経済はカオス支配だが、限界の明示なき政治によって、世界日本のカオスは深化。

誰だってケリをつけたくなるときがある 。 
  では、思想にケリをつけたり哲学にケリをつけるということも可能なのだろうか
実のところは、ヴィトゲンシュタインはそれまで自分が学んできた論理や哲学の煩(うるさ)い言い分や言い方に、ケリをつけたくなったのだった
あくまでも論理学哲学の領域内でラジカルな転倒をしようとしている無理がある。本質的に不可能。現実社会に下降し哲学論理化した結果、政治活動、経済分析に突き進んだのが19世紀半ば後半のマルクス
哲学の哲学としての単独の領域は本質的に消滅した。時代に遅れたウィトゲンシュタインも後に自らが哲学の哲学による転倒を否定した=「哲学探究」未完は彼の行き詰まりを示す
 
 ケリをどこで付けるかというその付け方に、ケリなりの順序と構造を考えた。ひょっとしたら「ケリだけの論理」(本質的にケリだけの論理は無い)というものがあるのではないか、と考えた。それが『論理哲学論考』なのである。
ここで、「カタルトシメス」(最初からカタルシメスと統合したカタカナを使用しているところは松岡正剛のセンス)という言葉を紹介しよう 語る」と「示す」をつなげて一つの続き言葉にしたものだ。だからカタルトシメス。(カタルシメスの結合は後に一旦分離され統合)

ヴィトゲンシュタインは、最初にこう書いた。
>>1)公式。「「成立している事態の全体が世界である」「対象の配列が事態を構成する」。(理解不能。この公式無視できる)
ヴィトゲンシュタインは「世界」については、その世界を構成しているモノ(コト)以外のモノ(コト)で世界を語れるわけはない、と考えたのである。
 A)ここで「モノ・コト」と言っているのは、言い換えが可能だ。ひとつは「言葉」(=カタル)と言い換えられる。世界は世界を構成するモノやコトを指し示す言葉によってしか語れない。
 (シメスという方法で世界を表現することもできる、と後にでてくる。ここですでにカタルシメスを分かり易く説明するために分離している。)
B)もうひとつは「目盛」とも言い換えてよい。世界を語るとは、それを構成するモノ・コトに接している目盛で語ることなのだ。科学というのはモノ・コト・セカイの目盛を探す学問だから
 (言葉(活字)で語るとき、数値を上げて論証できる。挙げる数値に公平を心がけ論証の道具にする必要がある。数値が持論を裏切れば持論は捨てよ!陰謀論、謀略論、勝手な政治論にはそれが無い。詐欺師手法だ)
>>2)公式。イ、「語りうることは明瞭に語られうるが、言いえないことについては沈黙せねばならない」。
        ロ、「示すことができるものは、語るわけにはいかない」と書いた
なんといってもカタル(語る)とシメス(示す)が出てきた。
カタルは言葉で語ることをいう。
(イ、は道徳倫理の問題。政治家は世界のの森羅万象にわたって知ったかぶりで語る<埴谷雄高>=カタル政治本質がある。いえない事について沈黙していない。)
ロ、テレビ映画動画は示して語っている。)
 (従って、巷の現実とは違う。しかし、イ、について、どうして沈黙せねばならなのか最後のほうで哲学的考証をしている。「カタルシメスには限界と自覚と方法化」の「世界は自分の淵でぼやけている」)
だから。(以下の理屈は本論への導入部)
 
 A)「語りうることは明瞭に語られうる」(確かに!)というのは、
ちょっとでもそのモノ・コト・セカイについてカタルができるのなら、とことんカタル言葉をふやせるという意味になる
ということは、
 >どんなカタルの断片にもそこには必ず同義性のような要素がいっぱい潜んでいて、いったんカタルを始めると、その潜在的な同義性が次々にあらわれてきて、カタルだけの関係を出尽くさせることができるだろうと
 >この“カタル型同義的関係”をちゃんと整理したものが、そう、「論理」というものだ。(徹底的にしゃべれる<喋れないことまでしゃべったら、論理の整理整頓はできない。物事の相関関係の仕分け作業が論理だ
 >この論理というのは、何を何によって語りうるかということをいろいろ集めて、その関係を徹底的に整理していったものだ
 >ということは、本当の論理をつきつめて作ろうとすると、それは広い意味でのトートロジー(同義領域的表現)になる。(政治党派の結合原理の同質性。国民的合意形成。)
日本ではよく同義反復って訳されているけれど、もっと大きな関係を含むものなんだね。それゆえヴィトゲンシュタインはときどき、論理学はトートロジーをあきらかにするための学問だと言っていた
 
 >>一方、B)「言いえないことについては沈黙せねばならない」というのは(本質論としてカタルシメスの限界。世界は自分の淵でぼやけている。いい得ないことを語り始めるとカオス))
 
 いま述べたことを別の視点でさらに強調したもので、カタルによって構成されていないモノ・コト・世界を、あたかも語りうるかのようにカタルのはやめなさいと言っている、と思えばよい。カタルに不純物を交ぜるなと言っているんだね
そういう限界の自覚が無ければ、論理学、もっといえば哲学は思考できない。グローバル金融経済の世界はカオス。本質的にいえない事まで解ったように語るのだから、政治も論理も無く哲学もないカオスの世界だ。よって全世界は混沌状態。法則の支配が貫徹する。)
 カタルトシメスの問題、つまりカタルとシメスの相違にまつわっていたわけだ。
フレーゲとかラッセル<かれらの書いていることや言っていることにそもそも論理を支えている何かの方法に問題があったと
それがカタルトシメスの問題、つまりカタルとシメスの相違にまつわっていたわけだ。(本質的にカタルシメス。区別はあるが、同一。一旦分離して思考し、後に統合。有名なヘーゲル思想)
A)「カタル方法」という方法を確立する カタルとシメスがごっちゃになっているところを切断しなければならない。(思考を進める上で一旦分離しているだけで本来カタルシメス。)
B)シメスにも「論理」や「言葉」ではあらわせないそれなりの独得の「シメス方法」とでもいうべきがあるのだろうと。(本質的に同じカタルシメス。)
このシメスをヴィトゲンシュタインはまとめて「像」とか「映像」とかとよんだ。つまり、イメージ
 人間の考え方や見方や感じ方には、カタル方法とシメス方法の二つがあることに気がついた。(カタルとシメス方法の違いは今日ではテレビ、ネット、映画など合体。)
 
 それらが論理学という厳密だと思われてきた学問のなかでごっちゃになっていることに、なんとかケリを付けたかったんだ。(世間の現実に向き合わない哲学論理学の枠内でけりをつけるのは無理。)
 
 >>、「示すことができるものは、語るわけにはいかない」というフレーズが出てきた。(???大疑問。テレビ映画ネット動画は映像で示して語っている。)
もともとA)+B)は分解できない本質。言語にもイメージが刻まれている。象形文字。音も共通。表音文字。)
>>>A)Aカタル方法をつきつめるとどうなるか。(思考上、分化しているだけだから、単独では突き詰められない。)
>>>B)Bシメス方法っていったい何だ われわれはイメージをどのように動かしているのかという問題だ。
 
~~~カタル(言葉、活字、編集作業、イメージ操作)=シメス、言葉(カタル)、映像音響効果、イメージ操作、編集台本テレビ、映画、ネット動画。~~~
 
<<<以下、本論突入>>>=ようやく、カタルシメスを統合して考えられるようになった
>>>>A)A+B)B=一挙にケリ カタル方法とシメス方法を分けないで、まとめて「カタルトシメス」という方法があるのではないかと。もともとカタル=シメスだ。分離して結合
 
 実はもともとカタルとシメスは一緒のもので(当たり前の事を哲学風にサモサモぶっているだけ
それが何かの理由か何かの原因で分断されて(その何かの原因とは何だ?)、カタルとシメスに分かれていったのではないか(??
 そうだとすると、カタルトシメスという原方法が自分で自分の何かの限界を知って、(意味不明)その限界に応じてカタルとシメスが必要に応じて別かれ分かれになったということなのではあるまいか
いや、そう考えたにちがいないと松岡正剛は見抜いたのだ)。(苦しい!これまでの説明と本論部分の繋がり不明瞭だが無視する)
>>>ウィトゲンの新発見==「限界」ということからモノ・コト・セカイに切りこむという方法があるということなのである
ふつうわれわれは、最初っから限界など気がつかないもので、いろいろ試したり表したりしていくうちに、モノ・コト・セカイのあらわしかたには限界があることがわかってくる。それで自分の努力をさておいて、いやー、もう限界ですなどと言う
けれども、これはおかしい。限界というのは、最初から対象としてのモノ・コト・セカイに潜んでいるのではないかそして、いったん限界がわかると、その限界そのものを方法にするということが可能になってくるのではないか
((この箇所は圧巻!!ウィトゲンの独創性!!))
具体的に説明すると)
 
 たとえば庭を作ろうとかレストランを作ろうとすると、いろいろやりたいけれど、面積とか水まわりとか、人の動線に限界があることがわかる。そこで、いろいろプランをいじくりまわすのだが、そのうち、それらの限界を生かした方法で庭やレストランを作ればいいんだということにハタと気がつく
(確かに!)
<<つまり限界というのは、実は、方法の母体だということだ>>>世界そのものに潜む限界の自覚とそれを方法として生かす。さらに進んで、世界の限界の自覚を方法、技術の基礎とする
いささか高級な表現になるけれど、「母体カタルトシメス」(なんだか怪物みたいだね)は、自らその限界を外側に持ち出した“方法の母”(ぴったりの表現!!!)ということになる。
 
>>>テーゼ導入。そしてさらに、こんなことに気がついた。「わたくしの言語の限界が、わたくしの世界の限界を意味する)
言語と思考の両方の臨界値を同時に探しださなくては、この限界はどうもあきらかにはなってはこない
 
 ヴィトゲンシュタインも、ここで躓いた
>>>テーゼ。「世界は私のところでぼけている」、あるいは「世界はそもそもぼけたヘリをもっている
 
 以上が「論理哲学論考」の松岡さん流の解説。
後期の未完の「哲学探究」はコミュニケーションという小学校教師体験に基づく日常世界のの理論化だが、哲学としての魅力が無い。