反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本の政治家、マスコミ、その筋の学者の朝鮮中国をカタル足元(日本)には大きなグレイゾーンが付きまとうが、自己欺瞞して偉そう立場の評論癖。

中国の人口の歴史--人口推定の方法、人口崩壊のサイクル、など
広島大学総合科学部助教授 加藤徹

こういうネット記載の著書の一部を引用した記事を以前からお気に入りに入れて、中国歴史理解のための参考資料に、と思っていた。
 
 が、どこか大きく腑に落ちないところがあった。
 
 自分のいつもの感覚では、東アジアの国々事情や欠陥をあれこれあげつらう際に日本の過去現在未来の立ち位置を正確に知っておいた方がいい、と云うもの。その上での評論である。
 
 いつの間にやら、日本とヨーロッパ諸国の民主主義状態が一緒であるかのごとき立場に立って、アレコレ云っていないだろうか。
 
 明らかに大きな違いがあるのである。
また、あって当然だと自分は理解している。
 
 が、肝心なことは、相違をはっきり認識した上で、東アジアを評論すべきある。
 
 加藤さんの現物を取っ掛かりに、日本のグレイゾーンを実証していく。
なお加藤さんの本論は割愛。
日本歴史に対する勝手な解釈が多々ある。このヒトの政治的立場は歴史修正主義者と見る。
 
 「日本で最初に全国的な戸籍が作成されたのは天智天皇9年(西暦670年)である(本当か??)。残念ながら当時の戸籍は現存していない(当たり前だ。戸籍制度が一応確立したのは大宝律令700年以降、なお、古代日本では中国型律令国家は実際に存在せず、古代の各国家文献の中だけにある。結果的に専制国家としての後追い性、未熟性が日本的封建制に発展した。」
 
 >こんな言い分の歴史上の証拠はどこにあるのか。
おそらく、一番近辺の年代記の日本書記、古事記だろうが、その一次歴史資料としての信憑性が大きく揺らいでおり、加藤さんの指摘するAC670年ごろの日本歴史においては特に、二次資料化して、今ではその時期は大きなグレイゾーン化している。
グーグルの大宝律令以前の律令に関する記述は全部末尾に<という>慎重に書かれている。
 
 >以下、グーグルなどからとったメモを記載する。
 
 「大化の改新。西暦646年)に発布された<<改新の詔>>(かいしんのみことのり)は、日本の飛鳥時代中期の大化の改新において、新たな施政方針を示すために発せられた詔。
 この詔は『日本書紀』に掲載されている。
 
 従来はこれにより、公地公民制、租庸調の税制、班田収授法などが確立したと考えられていた。しかし、藤原京から出土した木簡により『日本書紀』に見える詔の内容は編者によって潤色されたものであることが明白になっている。」
 
 >1967年12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され<<郡評論争>>に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『日本書紀』編纂に際し書き替えられたことが明白になり、後世の潤色があることが判明している。

 >藤原宮跡から出土した木簡が決定的な役割を果たした例として、「郡評論争」が有名である
 
 この論争は井上光貞(元東大文学部長、当時東大教養学部助教授)の「大化改新詔の信憑性」と題する報告を発端とするものであった。

 >>直接の対象は、7世紀のコオリが「郡」か「評」かという地方制度の問題であったが、次のような大きな問題を包含するものであった。

>第一に、大化改新詔の具体的内容はどうであったのか。(W.内容は’700年の日本書紀でしか証明されない)
>第二に、『日本書紀』の記述の信憑性をどう判断すべきか(W奈良遷都以前の飛鳥時代に大きなグレイゾーン
 
 昭和41(1966)年から始まった藤原宮の調査で出土した木簡を分析すると、ちょうど大宝律令成立の大宝元(701)年を境にして、「評」から「郡」への転換が行われたことが明らかになった。
井上説が正しいことが証明されたわけである。

 >(木簡出土によって論争に敗れた)坂本は、日本古代史について、現在の通説となっている考え方の枠組みを設定した学者である。
それは、律令国家(律令制)の形成過程を中心として理解すべきである、とするもので、「坂本パラダイム」と呼ばれている。
 
 坂本パラダイム」の立脚点は、
古代律令国家が編纂した6つの一連の正史。『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)であり、『日本書紀』については、前半の神話的な部分は別としても、
7世紀の推古朝以降は、おおよそ史実に基づいた記述であって、特に天武・持統朝に関しては信憑性は確かなものである、というところにある。
(W、今でも日本史の教科書はこの説によって構成されているのじゃないか。グーグル解説も坂本パラダイムの木簡出土で否定された部分を冒頭で明記しながら、平気で記紀の情報を記述している。)(グレイゾーンであっても、他に文献、考古学上の証明がなので、書き進まざる得ない。700年の古代日本は客観的歴史記述の大切さを解る司馬遷BC145年~BC85年の存在する余地はマッタクなかった。)
 
 だから、木簡の示す事実には理解を示しても、『日本書紀』の信憑性を揺るがすことになる「郡評論争」の帰結に、心から納得することができなかったのだろう
 
>>藤原宮出土の木簡は、『日本書紀』という超一級史料ですら、木簡という一次史料に比べれば二次史料に過ぎないことを改めて示したものといえよう。
>特に、信憑性が高いとされてきた天武・持統朝について、厳しい史料批判が必要であることが再認識されたわけで、古代史像形成の上でも、きわめて重要な論争であった
ということになる。
 
>>>WACWAC。以下天武天皇持統天皇の合葬陵に比定・治定(陵墓と決定されること)されている宮内庁が治世する奈良県明日香村に所在する古墳時代終末期の八角墳である野口王墓、問題に突入し天皇陵墓の実態に迫る。 なお同趣旨は以前記事した。
 
野口王墓の天武持統合葬陵であると治定されるまでには、紆余曲折。
 
古代。
 日本書紀』には~天武天皇の死後、687年(持統元)「始めて大内陵を築く」との記事がある。
702年(大宝2)に崩御した持統が703年(大宝3)12月癸酉に、飛鳥岡にて火葬され、同月壬午に、「大内山陵に合葬」された。
延喜式には持統天皇。檜隈大内陵に合葬す。
中世~近世初頭
 藤原定家の日記『明月記』の1235年(文暦2)4月2日・6月6日条に、同年3月20日と21日の両夜に賊が入り、野口王墓が盗掘を受けていることが記録。
 
室町時代~江戸初期>
 陵としての管理が廃れていたようで、1791年(寛政3)刊の『大和名所図絵』では、旅人達が墳丘の上に登ることはもちろんのこと、石室の内部にも自由に入って見学している様子が書かれている。
 
近世。
 両者のいずれかが、天武持統合葬陵であるかは、以降明治時代まで混乱が続く。
1862年文久2)からはじまる、<<文久の修陵>>においては、野口王墓は文武天皇陵として仮修補された。このときには、あくまでも「仮」の修補であったらしい。そのひとつの理由として、
考えられている野口王墓が文武陵であるという治定に、なお異説があったことが考えられている。
 
 文久の修陵は黒船来航による江戸幕府と人心の混乱を背景とした攘夷運動の台頭する中で、政治危機に陥った幕府側は自らの延命に率先して朝廷に擦り寄っていく政治過程において、挙行された天皇陵全国大修復施工である。
 
 体制危機にある徳川幕府側は公武合体に活路を見出さんと、策動することによって、自然発生的な攘夷運動と萌芽的尊王意識の結合を自ら引き寄せた。黒船来航からの幕府の公武合体策動までの政治過程は攘夷で覆い尽くされており、尊王運動は基本的脇に置かれていた
 
近代。
 野口王墓は、天武持統陵ではなくなった。
が、明治1880年文献資料などから
1881年、、野口王墓は天武・持統合葬陵として正式に治定され、現代に至るまでその治定は変更されていない。
なお、治定からはずされた見瀬丸山はその後、御陵墓伝説地から陵墓参考地へと変遷し、現代にいたる。
>>WACWAC。
>>「本古墳(野口古墳)は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。」グーグルより。

>じゃぁ~。その他の多数の天皇陵は埋葬者も学問的に確定できないということか
>いい加減。明治以降の宮内庁が立ち入り調査を拒んでいる、事も大きく影響している。

 室町、応仁の乱、戦国時代、江戸初頭にかけて<陵として管理が廃れていた>と記述されているが、「新古今和歌集」編纂者、歌人天皇側近の朝廷官僚であった藤原定家の有名な日記「明月記」
に記された大盗掘は陵として管理が廃れていた=数百年間の放置状態の間に日常茶飯事だった、と理解する。
 
その挙句、「江戸時代の1791年、刊行の「山と名所絵図」では旅人が墳丘の上に登ったり、石室内部に自由の出入りの状態って、今で言えば、宮内庁管理外の地方豪族の古墳の石室内に
に自由に出入りできる状態と何なら変わらないだろう
 
 しかも、その絵図に描かれている野口応募は「天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題ない」。グーグルより。
 
 古賀古墳信頼できる数少ない陵墓であると。
よって、天皇朝廷古代貴族のその他の陵墓の放置振りは尋常でない、といわざる得ない。
天皇一族が自らの先祖を祈念していた、とは、政治的権威的無力性の表明である。
 
 中世新興軍事特権階層の台頭がきわまって、権勢を完全喪失し、領地も失って、古代族長的祭政一致の儀式(それ自体に朝鮮王朝の影響が濃厚だろう。神秘性の確保の意味から絶対非公開だが)の頑固保守と軍事貴族層へのヒエラルキー授与に政治的活路を見出さざる得なかった。
 
 >>古代氏族の族長的祭政一致の儀式習俗に特徴のある古代貴族君主制の日本歴史を通じての残存は以下の日本が東アジアという世界的に見ても文明地域の東アジアの末端に位置していたという地政治的位置
に尽きる
 
 彼らは朝鮮半島、中国の古代中世に存在していたとしたら、簡単に一掃されていたであろう。
 
 言い換えると天皇制の中世、近世を経た残存は日本の政治軍事、騒乱、内戦の限定性を表している。
騎馬民族、砂漠的民族は自らの経済的限界から生産性の高い農耕民族への侵略による略奪と統治をシステム化せざる得ない。
 
 これに対抗するためには、自らの統治体制の強権的合理化が必要であり、古代的支配機構を私的に残存させカースト的権威を授けることに政治的活路を見出しているような天皇制による自らのヒエラルキー権威化などは眼中にから消えてしまう。
 
 支配のためのイデオロギー天皇朝廷貴族のごとき一国的曖昧な自然宗教儀式のような普遍性を持たないものは役に立たず、実際的な縦の人間関係、支配関係を合理的に言語で固定する儒教思想道徳となる。
それは官僚専制支配のイデオロギー的根拠になった。
 
 彼の地では天皇朝廷の古代的カースト曖昧自然宗教性など出る幕は一切無いのである。
 以下色川さん当該部分引用。
「A)コレらに民族は文化水準の高い、比較的温和な民族であって、気象の荒い騎馬民族でも砂漠的人間でもなかった。
 B) 日本はそうした恐怖の震源から隔たっていた。
 C)中国朝鮮が緩衝地帯になってくれたのだ。
 D)北方民族は中国朝鮮に侵入支配力を振った。偉大な中国民族は万里の長城を築いて、防戦したがしばしばその支配に屈した。
 E)日本人は異民族のせん滅戦に備える城塞を作らなかった。
 F) 国内の争乱は絶えなかったが、それは同文同種の内争であり、サムライ同士、領主団同士の殺し合いであっても、富の源泉たる住民の殺戮であるはずがなかった。
  北方民族は中国朝鮮に侵入支配力を振った。偉大な中国民族は万里の長城を築いて、防戦したがしばしばその支配に屈した。」
 
時間不足。終了。