松本徹さん「世界史研究」中国編では論点解説は二つしかない。
その1、は「中国の統一帝国とその周辺」。
その内容をその周辺」の状況の確認と関連を省略し、中国の統一に絞れば、
(領域国家分立時代を経た国を統一する意味と秦帝国の必然性)となる。
>が、「その周辺」への世界史的視点に立った目配せは非常に重要。
907年唐帝国滅亡前後からの北方遊牧民族地域では先進、唐の制度文化を導入した国家形成が進展し、もとよりある騎馬民族の機動的軍事力の優位性と相まって、中国帝国を圧迫し、遂には分裂王朝から征服王朝を形成していく。
日本列島原住民である我々はどうしても、同一民族=同一国家という本能的歴史認識というか世界観の血が流れている。
この辺は論理では割り切れないものがあるが、要は情緒、感情に流される程度の問題である。
あんなに論理を突き詰める哲学が流行っていたドイツにおいても、情勢が煮詰まるとユダヤ人収容所大量抹殺が発生している。
尤も論理を突き詰めすぎたら非情になる、という見解も多い。
我々は気づいてない場合が多々あるが、世界の多くの国は、所謂、多民族国家である。
日本原住民の枠で中国史を解ったような気になる。
松本徹さんの世界史的視点によって、多少とも自分の凍結頭を解凍したい、のだが。
その2、はいわゆる、唐宋変革論である。
中国史理解をするためのキーポイントである。
唐末から100年程度の長期内紛状態において、それまでの古代中国の主要プレイヤーであった地方軍閥化した地方派遣長官勢力は弱体化し、貴族層と宮廷宦官は殺戮一掃された。
>>その場合、各時代の民衆の状態を知りたい自分は黄巣の乱に注目する。
なお、「独学ノート」さんに黄巣の乱に関する短い説明文を取り上げる。
この民衆反乱軍の主要攻撃目標が唐王朝貴族、官僚層の経済基盤に集中する必然はある。
この長期の内乱状態の実相は唐の繁栄の暗部は生み出した民衆暴動の全国的波及を実体的基盤として、その民衆エネルギーを集約する形での、黄巣たちの半組織的及び組織的軍団の戦闘行動があった。
民衆暴動だけならば、全国的に波及しても、唐の地方官的軍閥の軍隊に早期に鎮圧されるが、それを構成する中級、下級兵士が大量に反乱軍に参加すれば、実際の戦闘を通じて、反乱軍は軍事的に強化され、正規軍化される。
民衆次元の下克上と地方軍閥化した軍隊の動揺崩壊が呼応した、と見る。
唐代初期や全盛期は中央への忠誠心は高かったが体制が成熟するととも中央の宦官に代表される官僚の腐敗とともに地方派遣長官も裁量権を拡張し、利権としたのである。
節度使の軍事力が動揺していたから、反乱軍を10年も鎮圧できなかった。
その軍隊の構成要因の問題、中央との指令系統に混乱があった。
もっと云えば、皇帝直属の全国支配のための軍事中核の不在という大問題があった。
この強力な中央軍不足の統一的統治機構の中核の問題は、70年程度の混乱、国家分立の時代を経て
宋帝国の中央軍事集団、禁軍として実現を見た。
この点はもっと突っ込んで考えてみる必要がある。
結論的に云えば、唐代末~五代十国時代(907年~960年)において、いわゆる、日本的封建体制、ヨーロッパ的封建体制というものは成立する条件はなかった、ということである。
しかしその実現が70年程度の国家権力の分散を通じて完成したところにリアルな歴史の現実を見る。
その間に北方遊牧民族は着々と先進の唐を習って、国家形成、文化を獲得していった。
権力の分散傾向の動因が常に内在しているから支配層側に統一国家権力への希求が生まれる。
そして宋帝国として合理的に実現した時は既に遅かった。今でこそ言えることだが。
>中国領域がまりにも広大すぎて、地方分権を中央で長期間統括できないという地政上の事情もある。
漢民族とは何か。中国とは何か。
期の混交と拡張があった。
唐以降の中国帝国は分裂と混乱の時期に都市国家や封建体制のような分散の道を国家支配層の意思としては選択しなかったし、またできなかった。
>この辺の事情にはキリスト教という砂漠地帯の過酷な条件育まれた強烈な排他的普遍性を追求する1神教による、民の次元を救い上げた信仰世界による、都市国家や封建領主支配のバラバラを統一的に補助する力が大きく作用した、とみる。
ただのバラバラでなく、強力な中央権力が登場すれば、バラバラ状態を残したまま、国家として統一される。
これが封建領主支配から、絶対主義王政への転換の事情だろう。
インドから漢民族が輸入し、翻訳解釈した仏教を見ても、彼らが宗教を思想、世界観化しているのがよくわかる。
精神世界の基本的なあり方として、思想で大衆を長期間縛りに賭けるのは不可能である。
思想は難しすぎる。
解りやすくした思想は宗教化している。
この程度を人民統治に利用しても人民掌握力には限界がある。
中国の国家と社会の本質的分裂。個人ネットワーク型社会構造は既に唐代末から根付いていた。
中国経由の仏教ををそのまんま移入して、日本語に翻訳もしなかった日本仏教という事実から、我々先祖は宗教や思想とは本質的に別次元のところに実存があった、といわねばならない。
あるがままの自然、社会人間関係への感情移入の仕方に精緻を凝らしているのかもしれない。
おそらくこの方面では日本文化は世界に類を見ないものである。
国家意識が領域意識簡単に転化するのも、うなづける。
日本は東アジアの辺境、四方八方が海で狭い。
ヨーロッパは日本より広いが中国よりも狭く、この時点でバラバラ状態。だからカソリック中央の普遍性、統一性の力が行き届いた側面がある。
>それから、唐代において、生産力発展を基礎とした内外文物交流、経済発展が既に事実上の封建的統治体制の枠をはみ出してしまっている。その結果としての政治軍事混乱という側面も濃厚。
「独学ノート」さんによる黄巣の乱の説明は以下の通り。
「875~884年。中国の唐末期に起きた農民の反乱。王仙芝の起こした反乱に呼応して、山東の黄巣も蜂起・合流。四川以外の全土を巻き込んだ。王仙芝の死後、黄巣は880年長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就いたが、唐軍の反撃を受けて泰山付近で敗死。この乱は唐朝滅亡の契機となった。」
>次の視点も重要。
グーグルより。
唐末の黄巣もただの塩密売人の元締めや全国的農民反乱主導者でないのである。
それなりの主導者としての大衆説得力があるから、反乱に大衆を動員できた。
>塩密売に関して。
中期以降の唐は古代的軍事国家から、財政国家に活路を見出すようになった。
コレは統治機構としては合理的であり、時代に即応した進歩である。
命令強制説得の手間を省いてカネでヒトを確保する、動かす。合理的である。
その場合、中身が問題になる。
唐王朝はナント、専売制の塩に1000%の消費税をかけている。コレでは庶民にとって、計算上、10円の塩が1万円になる。貴族層官僚層、軍閥に膨らんだ支配機構を維持するためには、強権支配はできず、財政国家で回していく以外になく、流通過程への異常、過酷な課税になってしまう。に結果する。
そうすると、当局の監視を掻い潜って、大量に仕入れて、専売価格よりズット低価格で販売する商売が危険性を顧みず成立する。
当局、自ら塩を仕入れて売っているのではなく、権力支配を利用して塩の販売価格に1000%の税金をかけている。国家権力及び支配層としての立場の維持が棚から牡丹餅に頼っているのだから、民衆の怒りが爆発するのは理にかなっている。
この状態を利用し、掻い潜って商売を手広くやろうとすれば、当然、インフォーマルな広域ネットワーク網が要る。さらに自衛武装する必要がある。
つまり、塩密売段階で既に反唐王朝の政治と軍事を巧妙に実行せざる得なかった。
>それと蜂起の陣形に至る、間には大きな飛躍はある。
普通の悪人ややくざにはこの飛躍は絶対にない。
歴史のエピソードにして置くには惜しい人物である。
また、875~884年、中国のただの民は大蜂起を敢行し、歴史の舞台に登場した。
この点はもっと評価されてよい。