反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第二回。ホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』。<全ての書かれた歴史は支配層の歴史である>古代ギリシャ庶民は平らな生活形態のまま、粛々と生きて、死んでいった。暗黒時代という呼称は間違い。

 以下の文は松岡正剛「千夜千冊」<オデッセイア>その他を引用し、持論を述べたもの。紛らわしいので、渾然一体とした。
 
 紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされる人物を指す。西洋文学最初期の2つの作品、『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者と考えられている。
ホメーロス」という語は「人質」、もしくは「付き従うことを義務付けられた者」を意味する。
古代人はホメーロスを「詩人」というシンプルな異名で呼んでいた。
プラトン(799夜)は、「ギリシアを教育したのはホメーロスだった」と書いた。  
 
 <ホメーロス問題>
今日では、批評家の大部分は、ホメーロスの詩が口頭での創作と継承の文化から筆記の文化へと移行する過渡期において、それより前の要素を再利用して構成されたと考えている。
 ある1人(もしくは2人)の作者が介在したことはほとんど疑いがないが、先行する詩が存在し、それらの中にはホメーロスの作品に含められたものがあることもほとんど疑いがない。
 『イーリアス』が先に、紀元前8世紀前半頃に創作され、『オデュッセイア』が後に、紀元前7世紀末頃に創作された可能性もある。
    <はてなキーワード > <ホメーロス>より。
実在したかを巡って議論がある。また『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者は別人という説もある。
 
 「ホメーロスのテクストの伝播」
セルビアのノヴィ・パザル地方の吟遊詩人が文盲であるにもかかわらず、こうした種類のリズム形式を用いて完全な韻文による長詩を暗唱できる例も示している。
これらの叙事詩を記録してから数年後にロードが再び訪れた時も、吟遊詩人たちが詩にもたらした変更はごく僅かなものであった。
<詩法は口承文化においてテクストのよりよい伝承を確保する手段>でもある。

>>ここは結構、重要なポイント。
線文字Bのあったギリシャ本土ミケーネ文明の崩壊。
紀元前1200年のカタストロフィー(東地中海規模)+、ドーリア人(同じギリシャ人)の侵入による破壊だから、ギリシャ本土のミケーメ文明の崩壊は東地中海で、一番酷い。
 そうして、ギリシャ本土はミケーネ時代の様な文字も宮殿、宮廷(ミケーネ文明の支配層は壊滅した。
文字も宮殿、宮廷もイラナイ遊牧、牧畜生活の素朴な、人間らしい全うな生活に回帰した。
古代ギリシャ庶民はそのような平らな生活形態のまま、粛々と生きて、死んでいった。
 文字、煌びやかな文化、支配層の主導する宮殿、宮廷の変節を中心に人類の歴史を語るのは現代的奴隷思想の刷り込み、支配層的イデオロギーを刷り込まれた排他的競争上昇志向の埋め込みである。
 このような思考方法は、考古学のような遺物の発掘の検証を主体とする学術を否定しかねないことになるが、問題意識も考慮に入れる必要があるまいか。
 
  <全ての書かれた歴史は支配層の歴史である。>
コレは歴史の真実。全部ではないが。
日本史で言えば、網野喜彦さんの稲作中心の史観を正す視点には基本的に賛成する。ただ、考古学的資料に乏しい。
実証できなければ、歴史学に至らない。天皇制と被差別の関係を主体に日本史を総括するのは極論である。
 
 この点において現代は少し民衆視点の歴史も付け加えられているが、まだまだである。
特に日本史の教科書の古代の記述は生産力発展~階層分解~支配層の定着という当たり前(普遍、世界共通)の前提的歴史認識がキチンと抑えられているのかどうか疑問。
 天皇家の発生の根拠はこのルートから思考すれば、かなり整理がつくはずだ。
 韓国の高校通史歴史教科書では古代史の記述の冒頭に、この点をキチンと明記している。
その代わり、檀君神話(コレは蒙古来襲時代に自力で抵抗する高麗民衆神話らしい。高麗王朝は江華島に逃亡退避。)や自国の歴史をナントBC2000年ごろまで遡って検証できるかののごとき紛らわしい記述がある。
 
>日本人の国家意識は領域国家次元の認識のままのように思える。
 ここが日本国民の政治認識の最弱の環と化しているので、肝心な政治的ターニングポイントで、支配層の政治にこの環をつかまれ、揺すられると一方向に雪崩を打って、暴走してしまって、もうゆり戻しは効かない。
 今、目の前で起こっていることはこの事態と言い切ることができよう。
単純といえば単純なのだが、
日本歴史総体がその只中で生き生活し労働してきた日本人の下意識に連綿と刻印し続けてきたことだから、簡単に改まらない。
 漂流した果ての出たとこ勝負、行き先は他所に聞いてくれ。自分たちさえよければ、後は野となれ山となれ!
 
イロイロいうが、コレが本音。
まともに相手にするような輩の次元はもうとっくに超えている。
 
 >が、色川大吉の次のような指摘は今も頭の中を駆け巡り、
<<日本人として何としても超えたい。>>
「>西欧における
1)、<国家と市民社会(公的秩序と私的生活)の分離>とか、
2)、公共のモラルや個人主義の発達とか
3)、議会制民主主義の成立とかは
こうした都市を基盤とした
<<実際の民衆の生活経験そのものからの所産>>」色川大吉「若者が主役だった頃」岩波書店刊。ー1925年生まれの戦中派、民衆史観の歴史学者の自分史ー反俗日記 2012/10/14(日)より。
 彼の以上のような指摘の前には西欧の都市国家と民主主義の密接な関連、日本の都市は農村生活の延長という指摘があるが、
>>以上のような歴史哲学?の文脈ではヨーロッパ中心の歴史観しか生まれない、とみる。
常々、こういった歴史観を何としても越えたい、と志向している。
ただし、いいモノはいい、と認める。
 
 
 >と、云うことで話題は大きくずれているが、<暗黒時代という呼称は間違ってる>、というのが自分流の思考方法。ヨーロッパ中心史観から見て暗黒時代。中世も暗黒時代と呼ばれていた。東アジアに暗黒時代という呼称はない。なぜなのか?どうしたことか?
 
 >>以下ホメーロス本論に帰る。
 
 文字なし「暗黒時代時代」の古代ギリシャ人は自らの歴史を語り部による伝承によって、語り継いできた。
その場合、語り部による不正確な伝承が起こらないように使用語句を定型化する必要が自然と生まれた。
 私の関心はホメーロスの作品鑑賞ではなく、古代ギリシャ人のこの時代の世界史的には珍しい平等性、民主性への希求を、ホメーロス叙事詩を通じて通じて、<発見する>ことである。
 
 >そこは松岡正剛さんが具体例を挙げて説明してくれている。
 
 >>>ホメロス登場の背景、意義の説明。
(W。解りやすく云えば以下に尽きる)ーーわが国の例でいうのなら、いわば太安万侶が万葉仮名表記の苦心を、(ホメーロスは)あのときより約1000年さかのぼって書きこんだということなのだ。
話し言葉ホメロスの場合は語り部による伝承>の書き言葉への置き換え)
 
 ホメーロスも吟誦詩人ラプソードス(W。語り部)のルールをもっていた。
イーリアス』も『オデュッセイアー』も、詩の全体の3分の1が、2度以上用いられた詩行でできているのである。(ナント、そうだったのか。)
  
 これはあきらかに、「記憶と表現のための鋳型」というものだ。
この鋳型があれば、それをどのようにも組み合わせて、表現したい物語を作ることもできたし、再生することもできた。そして、そこには有効な繰り返しがあらわれた。
 
 ホメーロスも吟誦詩人ラプソードス(語り部)のルールをもっていた。
 たとえば「夜明け」はつねに「朝まだきに生まれる、薔薇色の指をした暁の女神が姿をあらわす」と形容されたのだし、
「海」は「葡萄摘みができないところ」という詩句を伴ってしかあらわれない。
女神アテナは「梟の目をした」であり、イタカの島(オデッセイウスの出身地、現アルバニアに近い辺境)は「海に囲まれた」と決まっていて、アキレウスは必ず「都市を攻めるアキレウス」なのである。

 これらは定型句(formula)であって、いわば枕詞や縁語のようなものでもあろうが、枕詞や縁語と決定的にちがうところは、
 たとえば「都市を攻めるアキレウス」は36もの異なるエピテトン(装飾的形容詞)があって、そのうちのどれを使うかが、行のなかの位置、そこで必要とされた統語法の形態で決まったということだ。
イーリアス』の冒頭の25行だけでも、20以上の定型表現の断片が駆使されている。
 
>吟誦詩人たちは、すべての詩句を丸暗記していて叙事詩を歌うのではない。その場で即興を交える。
ホメーロスには鋳型と定型句こそが斬新だった。(叙事詩の著作者としての才能があった。)
 それは英雄詩を歌うには、そしてそれを創発させるには、どうしても必要な編集装置だったのである。
 
>>繰り返しや定型句は、その場の聴衆にとっても必要なのである。
繰り返しや定型句をもたない語りなど、聴衆にはとうてい理解は不可能だったのだ。
>これはわかりやすくいうのなら、ヒットソングや歌舞伎や落語をおもしろがれる要素がそういうところでこそ支えられていることを思い合わせれば、いいだろう。
テレビで大当たりするお笑い芸がほとんど繰り返しによってヒットしていることでも、想像がつく。
 
>しかし古代ギリシア時代では、そしてその後の中世の遍歴詩人のころまでは(970夜)、
すべての吟誦は実はその一方で、すぐれて即興的であって、かつそこには、言葉の組み合わせと朗唱のルールの深化が積み重ねられていた。
>>>わが国の例でいうのなら、いわば太安万侶が万葉仮名表記の苦心を、あのときより約1000年さかのぼって書きこんだということなのだ。
 
そういう時代が紀元前9世紀には一種の絶頂を迎えていたこと、また、そのような記憶術や表現術のことを、叙事詩(W。語り部たちの言葉による伝承を文字表現の叙事詩にした著作)のなかに読み入れたホメーロスがいたということに、驚かざるをえない。
 
>>>W。重要。例えば、ある場面でオデュッセウスは、「そなたに歌を教えたのはゼウスの娘なるムーサ(詩の女神)か、それともアポロンか」と言って、
なぜ私がこんなことを訊くかというと、あまりにそなたがアカイア人の運命をみごとに歌うからだと言っている。
(W。今の歴史学でも、古代ギリシャ人の一派のアカイア人ドーリア人の南下によってギリシャ本土から駆逐されたとされている。それが語り部たちに伝承されてきた。

>そういう意味でオデュッセウスの「アカイア人の運命を見事に歌う」語り部を登場させているには伝承の正当性の確定である。)
 
>>ホメーロスがこのような表現の奇蹟をおこせた最大の理由は、そこにアルファベットが出現していたからである。
ミュケナイ文明時代、ギリシアとカナンを結ぶ1300キロの海は交易上でつながっていた。エジプト、クレタヒッタイトアッシリアは情報交換をしていた。
ついで「海の民」(W。1200年カタストロフィー説は採用されていない)があらわれると、この交易はいったん衰退し、代わってカナン人フェニキア人と名を変えてアルファベットの母型文字の一種を使い始めた。
(W。Α<大文字> α<小文字>アルパ。Β βベータ。「γガンマ。Δ δデルタ。Ε εエ・プシーロン~。
アルファベットとはアルファ、ベータからのネーミング。古代西アジア象形文字からフェニキア表音文字へ、アルファベットの転換によって、簡素、便利化した文字によって表現される時間、空間、場所の範囲か広がった。)
  それがギリシア人の口と目と手によってほぼ移植されおわったころに、ホメーロスがそのアルファベットを使って、それまで口承されてきた物語を文字に移し替えることを思いついたのである。
>(W。語り部たちの伝承を著作に)きっとホメーロスは「ホメーロス語り部集団」のようなものをもっていたにちがいない。
そして、その集団のなかで、ホメーロスが吟誦詩人から著作者に転出していったのである。
そう、想像したほうが、いいだろう。
 
こうしてホメーロスは、神話朗唱の職能性とアルファベットという書き文字能力をもった、世界最初の著作者となったのである。
>>次回に続く。