反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

実録から読み解く、昭和の戦争と人間、支配層、庶民。堀田善衛「方丈記私記」より、東京大空襲の焦土、視察の天皇に涙ながらに土下座し、命を奉げたにもかかわらず、不始末をしでかして焼いてしまいましたの住民。

 堀田善衛の長編評論である「方丈記私記」のごく一部を取り出して論じるのはもとより、不公平、適切でない。
方丈記私記」は1971年毎日文化賞受賞作品である。
従来の「方丈記」批評の無常観にテーマを絞った吉田兼好像とは違った出家遁世に徹しきれぬ、好奇心旺盛、行動の人、粋人、ジャーナリステックでさえあるリアルな吉田兼好像を同時代の大歌人、高級官僚、藤原定家の「明月記」などの豊富な資料を駆使して見事に浮かび上がらせた名作である。
 
 その後の吉田兼好論はだいたい堀田善衛が「方丈記私記」で示した方向で論じられているようである。
その意味で時代を超えた普遍性を「方丈記私記」は提出した名作といえる。
 
 知の退潮著しい、といおうか、知が生き難い現在の評論界にこういう重厚かつパッションあふれる長編をモノにできる人はいないと想う。
 
 また堀田善衛は大衆的評価よりも専門家筋の評価が上回る作家でもある。
ウィデペキアにある受賞暦を一目見れば解る。
1952年 - 『広場の孤独』で第26回芥川龍之介賞 1971年 - 『方丈記私記』で毎日出版文化賞 1977年 - 『ゴヤ』で大佛次郎賞ロータス賞 1994年 - 『ミシェル城館の人』(全3巻)で和辻哲郎文化賞 1995年 - 1994年度朝日賞 1998年 - 日本芸術院賞(第二部(文芸)/評論・翻訳)
 
>しかし日本文学全集に載っている小説を数点読もうとしたが、退屈で読みきれなかった。
この人がさえ渡るのは評論である。
 
 博学のヒトで守備範囲は広い。
 
 
 先日の記事で次のような画像をあげた。
イメージ 1
>不鮮明な画像であるが今上天皇と大空襲体験者の写真と新聞記事とはまさに堀田が、遭遇した現場の70年後の今である。
 
 この人らは昭和天皇に土下座した人たちではないだろう。
彼らはもうこの世にいない。
当時子供であり、合流火災という<かまど中のような猛火>を潜り抜けた生き残った人たちであろう。
 
 合流火災は隅田川を飛び越え燃え広がった。
猛火を逃れて川に入った人は全滅したという。今と違って当時の隅田川はコンクリート堤防でなかったのだから、猛火に逃げ惑う人たちの本能は川に向かう。川に入水したまま窒息し焼き殺されたのだ。現世の地獄である。
 
>堀田は偶々目撃した、もうこの世にいない土下座する人々を「人民の側において、かくまで惨禍を受け、なおかつかくまで優情があるとすれば~」とか「人々のこの優しさが体制に基礎となっているとしたら~云々」として、
「なぜ、どうして、というのが25年前の焼け跡を歩いての、私の身体一杯になっていた疑問であった。
その疑問は<考えてみた上での>疑問であり、
もしその疑問を<トータルに提出しないとすれば>(W。とりあえず面倒な社会科学的考察を止めにして、目の前の事態の即物的感想、という意味に受け取る)」という限定付だが次のような実感に至る。
 
「しかし一切は実にきわめて明瞭であって、理解も理解不能もへったくれも実は無いのである。
>>天皇陛下と臣民であって、掌をさすが如く明快であり、その明快さの上に居直っているとするなら、なんら疑問の余地もありはしない。」
 
>が、コレは堀田がこの作品を発表した1972年の戦後民主主義の思想的到達点からすれば、支配する側に対するこれらの人々の<優情とか優しさが体制の基礎>とする指摘だけでは完全に片手落ちである。
 
>これらの人々の支配者に対する政治責任を徹底的に問わない、優情が体制の基礎という裏側は、1923年の関東大震災時の数千人に及ぶ朝鮮人大虐殺である。
ちょうど、事態が発生した中心点は東京下町だった。
 
>それは治安機構のトップから政治的思惑をもって流付された流言飛語に煽られた住民暴動の渦中の衝動的な大量殺戮というよりも、
警察治安機構の統制する末端の町内会の官許の武装による系統的な武力行使による大量殺戮行為であり、加害者はマッタクといって良いほど処罰されていない。
 
1923年日本の首都でこういう住民組織による半組織的大量殺戮が公然と行われた事態は当時の列強には見られないものである。
そもそも、首都は治安機構が発達しているので、そういう半組織的大量殺戮は発生しない。
 
>>1923年関東大震災時の事態は上からの組織的、煽動に対して、住民側が積極的に官許の半組織的暴力で呼応したものである。
ロシアでもユダヤ人に対する暴動殺戮が発生したが地方都市である。
 
 そういう意味で住民による単なる粗野な衝動的な大量殺戮行為の表面の下に日本固有の根深いものを含んでいる。
 
 >だから、支配する側への庶民の優しさ、と裏側の組織化されやすい排外というメダルの表裏は近代国家、国民国家形成以降の日本国民に潜在してきたとみなした方がいい。
形を変えて表面化すれば、いいことはマッタク無い。
 
 
 
>長距離巨大爆撃機B29は防空体制の崩壊した東京上空を夜間低空飛行のレーダー照準によって、親爆弾から無数の焼夷弾の子爆弾が降り注ぐ今で云えばクラスター爆弾である。そのため焼死だけでなく、人体直撃弾を受けてなくなる人も多かったという。
 
 東京大空襲といった場合、1944年11月14日以降の合計106回にも及ぶ空襲の中でも、計5回の大規模爆撃の中でも、特に大規模な1945年3月10日の下町方面じゅうたん爆撃を指す。死者数は10万人はほぼ全員、下町の住民だった。
 
 米軍の当初の空爆作戦では超上空からの軍事拠点や生産拠点に対する爆撃であり、投下された爆弾は高空の気流に流され確度低いかったことから、一気に無差別、夜間低空じゅうたん爆撃に切り替えたものである。
 
 45年3月10日の最初の大規模夜間低空、無差別爆撃で炎上しやすい民家の密集する下町が選定されたことは、作戦変更の趣旨に沿った純軍事的観点からであった。大殺戮は想定内である。
依然良く挙げてきたハンセンの古代ギリシアに端を発する西欧の決戦という軍事思想と技術の行きついた果ての敵戦闘総力低下を狙った民間人への無差別大量殺戮である。
もうすでに、無差別大空襲の時点の延長線上には広島長崎への原爆投下は軍事思想として確定していたのである。
 
 日本軍の首都防空体制が0に近く、住民は空爆には丸裸で放置されたも同然だった。
住民にとって、個々の決断で真っ先に疎開することが、尤有効な対策だったが、現実はそうはいかなたった。
 
 106回に及ぶ空襲下の住民の疎開は当初は個々の判断において行われ、その後に行政が疎開先への運賃と数日の生活費を支給したが、その時点で学童疎開は強制的に行われた。
 
 大都市の空襲はある日突然やってくるというよりも、地域爆撃が次第に接近してくる。
それだけでも予測は十分に可能なのであったが、決断は個々にするしかなかったか、決断はあっても実行できないうちに諸々の事情を含む空襲下の日常生活に流されていった人も多かった。
 
 堀田善衛のこの長編評論のモチーフは間違いなく、東京大空襲による焦土において、既に臨時召集令状を受け取っていた堀田が遭遇した天皇と住民の場面にリアルな衝撃をうけて、方丈記の前面に漂う無常観に自己を納得させる道を見出したところにあり、その前後の事情を作家的想念で蘇らせて記したところにある。
 
>>ぴゅあ☆ぴゅあ1949サンのブログ記事の堀田の略歴紹介とウィディメギアのものは、まったく違っている、といっていい。
 
>「方丈記私記」の当該場面と前後の文を丹念に読んでいるうちに、コレはどう考えても、埋め合わせなければならない事情がこの時期の堀田側にあると気づき、えらく遠回りしてヤット行きついたものが、この記事である。
 
 >まずウィディペギアの当該関連の略歴解説。
「父は富山県会議長の堀田勝文、母は大正年間に富山県で初めて保育所を創設した堀田くに。経済学者で前・慶應義塾大学商学部教授の堀田一善は甥にあたる。生家は伏木港廻船問屋であり、当時の日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた。旧制金沢二中から1936年に慶應義塾大学政治科予科に進学し、1940年に文学部仏文科に移り卒業。大学時代は詩を書き、雑誌『批評』で活躍、その方面で知られるようになる。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで敗戦を迎え、国民党に徴用される。」
 
堀田善衛 上海日記』(集英社)より、興味深いところを紹介
 
堀田善衛の略年譜
 
1936(S11) 18歳 
    慶應義塾・法学部政治学科へ入学
 1940(S15) 22歳 
    同・仏蘭西文学部へ転科
 1942(S17) 24歳 
    8月、徴兵検査第三種乙種合格。9月、慶応を繰り上げ卒業し、
    国際文化振興会へ就職。同会の伊集院清三(※河上徹太郎の親戚)の
    紹介で吉田健一を知り、その関係で河上徹太郎小林秀雄中村光夫
    西村孝次(※小林秀雄の従兄弟)、芳賀壇、山本建吉らを知る。
 1943(S18) 25歳 
    河上徹太郎、山本建吉、吉田健一らと中国語を学ぶ。
    10月、軍令部臨時欧州戦争軍事情報調査部に徴用される。
 1944(S19) 26歳 
    1月、松橋秀と結婚(S27離婚)。 2月、陸軍東部第48連隊に召集
    されるも同5月、肋骨骨折により召集解除となる。
 1945(S20) 27歳 
    3月24日、国際文化振興会上海資料室へ赴任(松岡洋右の息子が仲介)。
    渡航先で中日文化協会に努めていた石田玄一郎、武田泰淳を知り、
    また中山れいを知る。5月、武田とともに南京で草野心平を知る。
    8月終戦を上海で迎える。
    12月、中国国民党・中央宣伝部・対日文化工作委員会に徴用され、
    日本向け雑誌・ラジオなどに関わる。
 1946(S21) 28歳 
    10月、国民党特務の家宅捜査を受け、所持品・原稿を失う
 
◎同書より、「対談 上海時代 堀田善衛開高健
 
開高:堀田さんの身分は当時(※昭和18年)学生ですか。
 
堀田:いや、学生を多分17年の秋に終わって、当時は国際文化振興会に
 吉田健一、西村孝次、山本建吉などがぞろぞろ入ってきたわけだね。
 
開高:その振興会って、具体的には何していたんですか。
 
堀田:何してたって、おれにはちょっと言えんね。
 
開高:財源は何ですか。
 
堀田:財源は外務省。
 
開高:外務省の外郭団体という形?
  
 ◆疑おうと思えばいくらでも疑える経歴ですねえ。
 
 ・徴兵逃れはかなり露骨。
  ・怪我で除隊、というのも真実か。
  ・陸軍では一兵卒だが、外務省・海軍がらみでは結構な位置に居る。
  ・武田泰淳と国内では面識がなく、上海で初めて会ったというのは事実か。
  ・松岡の息子はなぜ都合よく上海行きの切符(それも船でなく航空便)を
    持っていたのか。
  ・水交社は基本的に海軍将校の親睦団体だが、「ぼくは海軍関係者でもあった」
    とはどういう意味で、水交社に世話になったとは何を意味するのか。
 
 なお、武田泰淳も上海では相当怪しい存在だった様ですが、その話は次回以降。
 
>以上のよな事情がどの程度真実か判断しかねるが、当該の場面の前後の文を熟読すると少なくともウィディペギア程度では却って、疑問が膨らむ。
 
>>「方丈記私記」の当該場面は、しかしそういった事情を考慮に入れながら、現在を生きる我々が情景を膨らませて考える課題は<多すぎる。>
パターン化された単純思考ではその養分を吸い取れない。
 
 堀田は冒頭記したように日本の古典から東西の幅広く豊富な知識を文学の武器に守備範囲の広い話題を深める教養人である。
方丈記私記」のあの場面の考察も決して告発に済ますことなく、自己に突き刺さり、普遍を問う姿勢を明確している。
よく読めば、あの時期前後の実体験を踏まえた箇所もある。
 
>コレは想像だが、富岡八幡宮の生き残った住民を2012年に至って敢えて訪れた今上天皇は、多分、堀田善衛の「方丈記私記」のあの場面から様々な考察が渦巻く記述を読んでいたと想われる。
 
次回は堀田「方丈記私記」の当該箇所を余計な注釈を配して抜粋したい。