反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「平治物語絵巻」の平治の乱(1160年)から権門体制が一掃されるまで、400年を経過する日本歴史のなし崩し性。

平治物語絵巻>鎌倉時代13世紀後半。
鎌倉幕府成立、1185年。蒙古襲来1274年(文永の役)1281年(弘安の役)。
 
 >参考資料。  <荘園公領制
日本中世における、荘園公領を土台とした、重層的土地支配構造のことである。
荘園・公領とは、それぞれ荘園公領制の土台となった寄進地系荘園国衙領を指す。
荘園公領制>の重層的農民収奪体制の構造。
土地/職 権門 受領 大名田堵
荘園本家領家荘官
公領知行国国司惣司・郷司・保司
>荘園=私的土地所有系。
地方現地開発領主によって墾田開発された私的土地所有を安堵するための地代上納=寄進。 (権門=本家=上級貴族、大寺社。 受領=現地天下りの下級貴族。 荘官=開発領主。)
 
>公領=朝廷貴族の中央官僚支配体制の基礎。
701年、大宝律令に基づく、古代王権中央集権国家土地所有系の残存。
 
 朝廷権門体制は荘園を権力権威で名目認定(荘園寄進)することによって、地代の上納を受けると同時に、引き続き古代的国家土地所有制をも政治的経済的基盤としていたのである。
 
 従って荘園と公領の並立する体制こそが朝廷貴族寺社支配層の政治的経済的基盤だった。
 
 >この絵巻の物語る平治の乱1160年は荘園公領制の重層的土地支配構造の問題点が噴出する政治過程において発生した事案である。
 
 この乱は朝廷貴族層内の名門軍事中級貴族、平氏と源氏の間での争いである。
他方、古代の国家的土地所有に対する私的土地所有の侵食という趨勢において、重層的土地支配構造の矛盾から紛争が頻発するため、地方現場の武装した末端支配層は中央軍事貴族の系列化に入っていく
 
 中央を舞台とした軍事貴族の間の騒乱に敗れた源氏の短期間の総反抗完遂、軍事政権樹立の主因は古代的国家土地所有支配構造に対する地方の武装勢力の、封建的な時代変革的なパワーに依拠していたためであった。
 
 「荘園公領制11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立し、院政期を通じて発展し、鎌倉時代前後に最盛期を迎えた。その一方で、倉時代には地頭による侵食を受け、室町時代には守護守護大名)によって蚕食されるなど、武士の進出に伴って次第に解体への道を進み戦国時代頃までにほぼ形骸化した。」
荘園公領制崩壊まで300年弱経過している。朝廷貴族寺社勢力の経済基盤の武家領主による解体にこんなにも時代を要した。大海原の天然の要塞に恵まれ、同時に中国朝鮮という儒教統治に基づく、対外侵略性のない国家、温和な民族に囲まれた日本列島の地政的位置が、こういうなし崩しで、悠長な社会変革を可能にした。
常に強力な外敵の脅威に晒されていたら、内部の合従連衡のスピードは上がっただろうし、一元的統治機構が必要となっただろう。二重権力状態では対処できない。
 
 >参考年譜<
 日本歴史のなし崩し性を理解する鍵は鎌倉武家政権成立以降の中性にあり。
従って日本中世を引き継いだ近世封建制も、ヨーロッパのような諸侯分立状態ではなく、日本では100数十年に及ぶ長期の内乱内戦を通じての最終勝者の強力な封建領主の絶対支配が実現した。
 
 中国史では皇帝、官僚専制支配が強化され貴族層は支配体制から放逐される。
朝鮮では1400年ごろ李王朝が成立している。
表面的には日本封建支配体制はヨーロッパと東アジア君主専制官僚支配体制の中間項である。
 
 それは明治資本制変革を容易にすると同時にアジア的専制支配の形態を刻印した。
 
鎌倉時代 1185年~1333年  
この時代は朝廷貴族寺社、京都勢力と鎌倉軍事貴族勢力の二重権力状況とみなす。
 
建武の新政 1333年~1336年 
約150年と時を経て、天皇直接政治の復活を見ても鎌倉時代の二重権力性がわかる。
 
南北朝時代  1336年~1392年 
まだ二重権力状態を解消できなかった。武家政権樹立から200年も経過した。
 
室町時代 1336年~1573年  
旧勢力(名門武家公家)の没落と新興勢力の台頭の時代と総括できるが中身はなし崩し変革。
 
応仁の乱 1467年~1477年  
全国の武士を二分した争いに朝廷寺社勢力は一切影響力を及ぼすことがなかった。
従って、朝廷貴族、大寺社の荘園私的所有がほぼ一掃されたのは15世紀初頭とみなす。
武家政権樹立から実に2百数十年経過。
 
>戦国時代 1492年~1592年
1550年ごろ摂関家九条家でさえ、領地を新興勢力によって切り取られている。