反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

小沢一郎と生活党を批判する。小沢政治では政権獲得が具体的に視野に入らなくなり政権批判勢力の形成が求めらていく第三期には不適応。

 まず第一。
手元に「日本改造計画」なる著書がある。1993年講談社刊。
本書の政治内容でどうして自民党を離党しなければならなかったのか?と不思議に思う。
そこに党を飛び出すほどの政治的分岐を見出せない。
この程度のものであれば、党内にいて政策の実現ができたはずだ。
勿論、現実政治において、政治理念の100%の実現はありえないという常識論を踏まえての意見である。
また小沢氏個人がトップに立って政策を実現する可能性を必ずしも含むものでない。
 
 この疑問は自民党離党後の小沢一郎の政治軌跡を次の三つの時期に区分して、検証した結果、その根底にある一貫した思考行動パターンを見極める立場から発しているつもりだ。
 
 第一期の時代。
 小沢一郎等の自民党離党後の政権の周辺、枠内での度重なる出入りの多いの時代。
日本改造計画」にその見解はまとめられているが、この時代の小沢氏はマスコミの寵児であったが、
その政治行動による反動から、徐々に自民党時代から引き継いだ政治的権益や求心力を喪失していき、保守陣営から孤立にいく過程だった。
 
 第二期。
 2000年代初頭、小泉構造改革新自由主義、グローバル資本制の利益追求第一主義の政治路線に自民党全体(日本支配層の総意がここに確定したが、それによって小沢氏らが支配層の枠内で果たしてきた役割に終止符が打たれた)大きく舵を切り、自公政権路線が定着し、
従来から小沢の主張してきた日本的新自由主義政策が立ち位置を狭くしたことから、社民政策への接近による政治活路を見出した。
 
 同時に分裂し政治力量に大きな限界が生じて自由党解体=民主党合流を果たした時期。
 ただしこの時期に掲げた<国民の生活が第一>はまだ、第一期の日本的新自由主義の中身に現代西欧流社民政策の衣を着せたものであり、小沢氏は後者について十分認知していなかった。
 そのことは民主党内で名目、面子にこだわり、終始一貫党内政局の一方の旗頭に堕した原因である。
政治弾圧や国民忌避的個性などの諸々の要因を省略した純政治思想的に云えば、そういうことになる。
そうした視点からすれば、現民主党執行部と小沢氏の間に大きな政治的差異はない。
 
 第三期。
 政権交代前後の一連の政治弾圧と民主党離党を通じた政権獲得が具体的に視野に入らなくなり、政権批判勢力の立場の形成が求めらていく時代。
この時期は第一期や第二期の小沢政治の収斂する政治目標、
数合わせや選挙第一主義の民主政が本質的な転換を迫られていく時期と解釈できるが、高齢になって頭の固くなった本人はもとより周辺の政治家も新しい事態に体の芯から対応できず、口先だけの即応に追われている状態。

 昨年末の衆院選公示直前の日本未来の党結成やその後の分裂騒動は、政治は結果責任を負うという最重要用件をも放棄した日本未来の党の総政治家失格を満天下にさらした事態といわねばならない。
 原因は明らかである。小沢政治は第三期突入に政治内容が付いていけない構造を持っているということだ。
 突き詰めて云えば、小沢氏の政界残留がある限り、橋下維新、みん党、民主党でもなく、また社民党共産党でもない、かなり多くの国民の政治意識は大きな受け皿を失ったままになる。
 
 
 
 >さて、小沢氏の政治軌跡に対する一貫した問いかけはに同じである。
本当に分かれるまで政治的分岐があったのか?
 
 日本未来の党の分解過程では、小沢一郎の党役員の処遇の是非、一点のみに絞って、新参者で党にバラエティーをもたらす部分と小沢シンパの間で空中分解が生じている。
 惨敗と出た選挙結果の影響も互いに素地を見せ合い、先を急がせた原因であろう。
350万票獲得した云うが当然のことながら、その想いは同質でない。
強固な塊ともいえない。
しかし、キチンと踏まえるべき出発点として大切にすべき、思いが込められていたという政治家としての初歩的な想像力の完全欠如は目覆うばかりである。
 
 要は第三期突入に対応できる政治内容を小沢政治が有していない端的な証である。
 政治目的を達成するために迂回路や凸凹道を忘れている。
心理状態を察するに植草一秀の云う<第二維新>=西南の役佐賀の乱の玉砕心理と似通っているのだろうか。
 
 また、それを許す政治家小沢一郎の素顔が透けて見えた。
結局毎度の重大政局で、この種の大局的政治判断なき熱狂に包まれて政治判断を下してきた推察できる。
 
 小沢政治について回るのは、一揆を組んでも、途中までしか政治責任を共有しないということである。
決まって分裂行動に走るのだから、政治結果としては最高級の責任放棄になる。
 
 そういうことが度重なると、周囲や政界を良く知るものどもの間に算術的に敵を積み重ねていくのは当たり前である。
 
 政治体質の原点の問題である。
 
 本人のありようも大いにい影響している。
 
自分でもその辺のことはわかっているようで、トップに立ちたがらなかった。正解である。

そういう慢性的政治体質の政治家に重大な国政を任せられないというものが降り積もっていったとしてもなんら不思議でない。
  
 「日本改造計画」時代の小沢の外交政策の主張はジョセフナイと変わらない。内政は新自由主義である。
 
 この著書を書いた時点の小沢は日米枢軸の政治要員だった、と著書の内容から、推察できる。
そのような視点からの具体的な事実を指摘した批判書も図書館にあるが、読む必要は認めなかった。
 
 なお、「生活党」前幹事長、東洋三元議員は記者会見で共和党系ジャパンハンドラーのアーミテージと数百回会談していると自慢げに述べていた。
 
 小沢が当時流行らせた、<普通の国日本>とはジョセフナイが今でも使っている政治用語であり、敗戦帝国主義日本の天皇制存続と引き換えにした、
政治的軍事的制約である日本国憲法の枠組みをグローバル資本制の世界状況の中で、相対化する米世界覇権の肩代わりを日本政治の内外体制が選択する、という意味である。
上記は私流の表現だが、「改造計画」の言わんとする核心は、そういうことであり、現在進行形の事態でもある。

 ジョセフナイは日米中の三角形の相互関係をその等辺関係に立ち入らず、今でも主張しているが、この点も小沢と同じである。
小沢の等辺三角形は後からの付け足しであり、具体的政策のない政治ムードだけである。
買い被ってはいけない。
 
 普天間基地移設問題で政権中枢が動揺していた鳩山政権時代の小沢幹事長は何も具体的アクションを起こさなかった。
こういう領域の問題について、見解があれば、無駄と解っていても行動を起こすのが指導的国政政治家の義務。
何もしないということは、何の見解もないということだ。
何のための政治主導か。
 
 その他の政治手法は明治維新以来の日本支配層に特長的な対外用件への過剰反応から来る爪先立った政治姿勢である。一貫する先を急ぐ政治姿勢ゆえに改革派に錯覚されることがある。
 

 第二。政党遍歴の余りの多さはどうしたことか。
 
 戦前1920年代日本の政党政治という、天皇制側近政治=元老院コントロールからの自立。憲政の常道の基本的観点からしても、大いなる逸脱である。
 
 止むに止まれず、政党遍歴を繰り返してきたというよりも、小沢政治に内在する根本的欠陥ゆえに、政治焦点毎の合従連衡や新たな政党結成が度重なって今日に至っているといわざる得ない。

小沢は同郷、原敬を尊敬するというが、原敬暗殺後の激動する内外情勢の中での政党政治のリアルなあり方を教訓とすべきである。

 なぜ当時、普通選挙実施があっても立憲政治の基本である憲政の常道政党政治がなし崩しで崩壊していったのか、現在の政治家として、厳しい問い詰めが足りないから、
日本国憲法的平和に寄りかかって、安易な政党遍歴が生じるのである。
 
 民主政の先進国といわれる国々で小沢氏のような激しい出入りの政治遍歴の政治家は通用しない。
一人でもいたら教えてほしいものである。

 <小沢一郎政党遍歴>の再現
 <自由党時代>
>1998年自由党結成。
 
 W。バブル崩壊以降の戦後日本政治経済の構造転換という日米支配層の基本路線の尖兵を務めた小沢流新自由主義政治は小泉の登場により、政治的立ち位置を狭くした。
 政治思想としての小沢のパフォーマンスはこの時点で一応の終止符を打った。
 
 小沢が橋下政治登場の時点でよく使っていた言葉。「民主党はお株を奪われた。」という政治感覚の源流は、この時点の小沢の「日本改造計画」の原点喪失感である。
 
 コレ以降の小沢政治は新展開を迎える。
 
 労働組合の最終的再編=連合結成ー社会党解体ー社民党分解=多数民主党合流という時代状況の中で、従属高度金融資本制内における社会民主主義的改革の根源的政治要求は、それを担う政党の衰退と同程度には決して減退している訳ではない。
むしろ周回遅れに遅すぎたとはいえ、現代的条件に沿って実現の要望がある。
 
 問題は日本において、それをどの政党を主軸にして実現して行くかということであり、適当な政党が存在しないために、国民の潜在的要求と国会の議席数の間にはかなりの差異がある。
 
 自民離脱以降の永田町漂流一回りした果てに、小沢政治が拠り所としたのはここである。
自民政治のグローバル資本制への完全な舵きりによって、「お株を奪われたもの」の新たな政治的投機の先は社会民主主義的国民的要求と議席数不足のハザマだった。
 
 20年近くも0金利状態を続けてきて金利政策が使えなかったのは先進国では日本だけだ。
しかもその間に定率減税を繰り返している一方で、膨大な財政赤字が膨らんだ。
もはや、伝統的な金融財政政策をとる余地はマッタクナイ。
産業空洞化、人口問題もある。
 
 バブル崩壊後のアメリカは相変わらず、基軸通貨を良いことにドルを刷りまくっており、欧州金融危機はまだ余震が続いているため、過剰流動資金は円にシフトし、
世界不況の後遺症から大震災原発事故を経た日本の経済の現状から乖離した円高になって、輸出企業を中心に不安が広がっていった。
 
 この様な背景で、もう最期の手立てとして日銀の国債大量購入が始まった。
それをアベノミクスとはやし立てるもの魂胆は解っている。

一部のものが濡れ手に粟で大もうけすることを承知、他にやり様ななく、悪影響承知でやっている。
さらにその先には諸々の庶民にとって被害大の事態が待ち受けていることをなんら描いていない。

現状や将来の絵図を一言で描けば、パイの大きさ一定、支配層と庶民がその取り分を争っている。
パイを大きくしようとするのは資本制の原理原則、個々の企業体の原理原則。
この点に関して難しい理屈は必要ない。

 ただ、歴史的に見ると、1929年恐慌以降から30年代の日本が綿紡績主軸から満蒙軍事侵略に主導された重化学の転換が図られたように、現在の日本は社会経済構造の大転換期の真っ最中とは言える。
現時点の日本の国際収支の約半分は資本サービス収支であり、後の半分は貿易収支だが、資本収支が拡大していくだろう。

24年度の通商白書によれば、為替の高低に関わらず、国内企業は激しい市場競争に晒され、安売り競争に巻き込まれて、製品差別化ができず、交易条件の悪化は変わらないとしている。

製品差別化のできて為替の動向の影響力の低いドイツ、低付加価値の市場シェア競争を演じる韓国と日本の現状を比較して、中間的な立ち位置と日本を当局は見ている。

が、この辺の事情は歴史的政治的背景を含んだ問題で短期中期にどうこうできるものでない。
 
おそらく長期的に見ても変更不可能で、このまま推移すれば、日本経済は否応なしに徐々に金融資本優位の経済構造に転換するだろう。

 1930年代のような戦争需要の牽引は想定できないのだから、生産性向上、貧困率アップによる国内の一般的利潤率の向上や無理やりの税収増によって支配層の取り分や統治システムの安定を図り、グローバル金融資本の国内収奪構造を定着させ、総需要の停滞、や金融投資付加は海外市場にはけ口を求めるしか手立てはナイ。

乱暴に言えば、日本支配層は多数国民に戦争を仕掛けている。