反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第三回分。反西洋思想」 I・ブルマ & A・マルガリート、新潮新書。非正統的で恣意的得手勝手な時間と場所を選ばない手法が描く挙げる奇怪、歪な書。テロとの戦いの応援歌。

<普通の生活>は国によって地域によって時代によって実にイロイロだった。
アメリカに渡る前の母国イギリスのピューリタン清教徒革命で国王を世界に先駆けてギロチンにかけた。
「伝統に則り、リベラルな普通に生きる運命を受け入れた。」のはアメリカの豊穣広大な処女地を原住民を押しのけて開拓して以降のことでじゃないのか。
しかもそういう処女地開拓者の豊穣な普通の生活の中で急進性、過激性が宣撫されていったとは想われず、むしろ唯我独尊的に増長され、事があれば一気に噴出する体制にあったし今もある、という側面は否定できない
 
>>17世紀のオランダ絵画やジェーン、オースティンの小説が描いたように、凡庸な日常生活にも威厳というものがあり、それは嘲笑するのではなく大切に育むべきだ、という考えも確立されていった。
コレは英雄の勇気や栄光を、個人の業績では無く、集合体のための代表行為として受け止める向きには納得できない発想だった。ファシズムはまさにその理由から凡人に魅力的だった。
なぜならば、スーパー国家に属しているというだけで、凡人でもつかの間の栄光を垣間見えることができるからだ。

 ここで一番批判しやすい対象として急遽ファシズムは俎上にあがる。
 
 ならば、ジェーン・オースティン(英:1775年12月16日 - 1817年7月18日)の描いた「凡庸な日常生活にも威厳というものがある」世界を調べてみよう。
 ウィディペギアのオースティン解説より。
「オースティンの長編6作品は、全て平凡な田舎の出来事を描いたものである。求めた題材の範囲は非常に狭く、6作とも登場人物は名家の娘と、牧師や軍人などの紳士で、この男女が紆余曲折を経てめでたく結婚して終わる。
しかしオースティン自身、田舎に3、4の家庭があれば小説にもってこいの材料だ、と述べているが、そこでの人間階級を徹底的に描き尽くしており、人間性の不変さを示し、心理写実主義の先駆ともされている。」
 「同時代や後年の作家にも高く評価されている。
モームは、『世界の十大小説』(岩波文庫)で『高慢と偏見』を選び、「大した事件が起こらないのに、ページを繰らずにはいられない」と評し、するどい感性とユーモアのあふれる文体は比類がない。
平凡な生活の中で、見出した真実味のある多彩な描写は非常に巧みであると、論じている。
夏目漱石は『文学論』(岩波文庫ほか)で、「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」と、絶賛している。
 
>>一方で、シャーロット・ブロンテは情感に欠けると非難し、マーク・トウェインは動物的な嫌悪を感じるとし、D・H・ローレンスも批判的であった。」
 
夏目漱石の高評価はわかる。大体似たような作風だ。
「動物的な嫌悪を感じるマーク・トウェイン」に賛成する。
 
>イギリス片田舎のジェントリー階層の結婚事情。オーシティン「高慢と偏見」ウィディペギアより引用
 「本作品が執筆された1800年前後は、ヨーロッパではナポレオン戦争が起こっており、イギリスも深く影響を受けていたはずであるが、本作品では政治的な言及はほとんどなく、10年1日の如き田舎のジェントリ社会が描かれている。
 当時のイギリスの上流階級は大きく貴族院議席を持ち爵位を持つ貴族とそれ以外の大地主階級(ジェントリ)に分けられるが、ジェントリ階級の中でも歴史的血統、親族の質、財産などにより格の上下が意識されていた。
通常の社交上の儀礼では同等とされていたが、結婚など現実問題においては、そのような格差が重要となってくる。
 本作品の登場人物はほとんどがジェントリ階級か、その出身であるが、爵位こそないが古くからの名家で伯爵家と姻戚関係があり年収1万ポンドの財産が有るダーシー家、
さほど名家ではないが富裕な親戚が多く年収5000ポンドの財産を持つビングリー家、普通のジェントリだが中流階級の親族を持ち年収2000ポンド程度のベネット家では総合的にかなりの格差が存在している。
 当時は財産の大部分は長子が継ぎ、それ以外の男子、女子にはごく一部が相続財産や持参金として分け与えられた。富裕で子供の少ない家においては、
その一部の財産でもかなりの額ではあるが、裕福でなく子沢山の家ではとても階級を維持できる額を与えることはできなかった。
ジェントリは生活のために労働をしないことを誇りとしており、職業を持つ中流階級は資産が多くても低く見られていた。
 
 このため、相続財産の少ない男子は軍人、牧師、役人などになったが、最もてっとり早いのは裕福な財産を相続した女性と結婚することであり、相続財産の少ない男子、女子はいずれも裕福な結婚相手を血眼になって探すことになる。
これでオースティン小説の10年一日の如き退屈な日々を面白く読ませる骨組みは想像できる。
財産のうち土地、屋敷などの不動産は分散を避けるために相続条件を指定した限嗣相続になっていることが多い。
ベネット家では不動産は男子限定の限嗣相続となっている上、それ以外の財産はほとんどないため、娘たちはわずかな持参金で結婚を目指さなければならなかった。」
 
 以上のような背景を踏まえると、オースティンの描く世界が「凡庸な日常生活にも威厳というものがあり、それは嘲笑するのではなく大切に育むべきだ。」と言い切るのは純粋に価値観の問題である
 嘲笑するのではなく<大切に育むべきだという考えも確立>するのも勝手であり、そんなもの!と切り捨てる考えもある。
 こんな世界を称揚し、ロシア文学トルストイドストエフスキーに反西洋思想の嫌疑をかける精神こそ歪でいる。 
 
>>西洋と称する立場に立つものたちの実力行使を著者らは前面肯定しているばかりか、この本の意図するところは、その正当化そのものである。
 この本の締めくくりにある当該箇所の引用。
「我々の問題は、いかにして西洋ーすなわち世界の自由民主主義国家ーという思想?をその敵から守るかである。ここで言う西洋とは、インドネシアやフィリピンのような未だ脆弱なアジアの民主主義国家も含んでいる。

確かに世界的な衝突が起こりつつある。?
しかし地殻変動線は国民、民族、宗教などの境界線と一致していない。現代の思想上の戦争?はいくつかの点で、数世代前に様々な形態のファシズム国家社会主義に対してなされた戦争と似通っている。
 危害妄想じゃないのか。現代の思想上の戦争?反ファシズムとの戦争と同じ次元で考えられる頭はどうかしている。アングロサクソン金融資本とユダヤシオニズムが合体すれば、こういう極端な情勢認識とそれに基づく行動が暴発し、世界中に新たな怨嗟と怒りを呼ぶのである。それがまた関連の連鎖を生み出す。
この著書の論理を見渡す限りその連鎖を断ち切る糸口は力による相手のねじ伏せ以外にみな足らない。
  
 とはいっても1940年代の戦争は国家間のみで戦われた。
今日の戦争は、互いにまったく異なる世界規模の組織的結束のゆるい、ほとんど地下にもぐっている革命運動??を相手に戦わなければならないのだ。

証明、論証は乏しく杜撰、恣意的、文学的、情緒な宣伝煽動の次元というしかない。
 また、グローバル資本制への具体的言及はまったく無く、市場経済の有効性や普遍性の確認に終わっている。市場経済の一般的有効性や普遍性と現下のグローバル資本のますます跳梁跋扈していく趨勢とはマッタク別物である。そのような言辞は現実を覆い隠すトリックである。
反グローバリズム運動や環境保護運動から沸き起こるアメリカ批判は完全無視されている。
云うまでもなく一回分の冒頭の挙げた1~5の問題点への言及はマッタク回避して、一方的な思想上や実力行使の戦争を繰り広げる意思は揺がない。
 コレはテロとの戦いの応援歌である。

 
>>回避すべきもうひとつの知的落とし穴は、<植民地主義の罪の意識から来る麻痺>だ。
現在の旧植民地で起こっている残酷な事態に無頓着であるべきだという結論に達してはならない。
逆である。
非西洋世界の独裁者や自爆テロリストの蛮行を、アメリカ帝国主義グローバル資本主義イスラエルの拡張主義などに責任転嫁するのは、的外れなだけでない
 
 政治的宗教的知的自由がすでに確立されている国では、その自由を敵から?守らなければならない。
 オクシデンタリズムが危険になるのは、政治権力と結びつけられている場合だけだ。さらに、政治権力の源泉が真理の只ひとつの源とされる場合、その権力は独裁となる。
そして、独裁政権イデオロギーが西洋憎悪である場合、思想は致命的に危険である。
>必要とあらば力を行使し何よりも信念を持つことだ。
 
 以上のようなブッシュ、ネオコン紛いの悪の枢軸との実力行使を謳いあげる一方で、その剥き出しを避けるために、必ず前後に粉飾の文脈が次のような挿入されている。
 この点において、米民主党系ジャパンハンドラーのジョセフ、ナイの尖閣国有化や中国分析のインタビューの同一の説得方法である。

 ちなみにソフトな説得法のジョセフナイと共和党系の強面アーミテイジとは裏表の関係であり、工作方向の中身では歩調を合わせている。

「宗教は政治的に利用されるべきでない。宗教的権威は特にアメリカで、すでに実際の政府に危険な影響直を行使している。
W。ブッシュ政権キリスト教原理主義団体の関係示唆。イスラエルシオニズムなんら言及ない。
我々が語ってきたのは二元対立の文明対文明の戦争ではない。その逆で、
>>思想の相互汚染と有害思想の普及の物語だ。
 著者らの戦って守らねばならぬ西洋と称する立場がすでに敵対思想との相互汚染の産物である。
 
 もしも、火で火を消そうとする誘惑に屈し、イスラム主義に対するのに我々自身の不寛容を持って立ち向かったとするならば、オクシデンタリズムは我々の身に降りかかってくる
我々に社会を閉ざしている人々に対する防御策として、我々が社会を閉ざしてしまうことは適当でない。
そうなれば我々までもがオクシデンタリストとなって、守るべきものなど何一つなくなってしまうのだから。」
 
 以上はあくまでも凝り固まった自説の説得方法に過ぎない。言い換えると、オクシデンタリズムは独裁、暴力、権威の丸出しであるとすれば、著者らのいう西洋の立場なるものも、独裁、暴力、権威の大きな核心を覆い隠した体制である。ハードパワーとソフトパワーの自分の都合による使い分けをしているだけである。
ジャパンハンドラーのナイとアーミテージの関係である。
 
 冷戦体制に時代。敵はソ連中国東欧諸国だった。
冷戦体制崩壊以降の敵は反西欧の危険思想とその実力行使だという。
 が、そういう敵と見方のパワーの政治、軍事の時代を超えたその悪影響は全地球規模に及んでいる。
それらはテロリストや独裁との戦いによって、免罪されない。
しかも、反テロや反西欧的独裁政権の脅威がグローバル資本制の悪影響を隠蔽する道具として利用される側面が出現してきた。