反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

秘密保護法反対のTVジャーナリストたちは「遅きに失した」再論。及び、宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな。

 秘密保護法にTVジャーナリストたちが反対するのが「遅きに失した」とだけ断定し、突き放したまますること(頑なに一線を引いたままにする)は、閉店間際に詰め掛けてきたお客さん(TVジャーナリストではなく、大勢の市民)の目の前で「只今、閉店時刻になりました」とシャッターを閉める様なもの。
シャッターの向こうに置き去りにされたヒトたちは途方に暮れて、立ち尽くすが、やがて諦めて回れ右をして帰ることになる。
 コレが人間心理の自然な流れである。
こういう傾向を野放しにすると、最後はブーメランとなって自分のところに返ってくる。
ジリ貧ってコトですよ。
自転車操業で乗っている自転車はだんだん小さくなる。小沢一郎のところの分岐点での純化路線の選択とまでは言わないが。
 
 ま、個人で好き勝手やっている分には、不都合はないが~。
自分たちの側から限界と枠を作っているようでは先は厳しい。政治党派の機関紙じゃないんだから、目の前でシャッター閉める機会が多くなれば、お客さんは回れ右をして、帰っていく。意思や善意は所詮お客さんだから限度はある。
 
 徳島の村上稔さんじゃないが、仕事でくたくたに疲れて来たものに硬直、一面的話題を消化するのは無理筋。
「遅きに失した」の断定のまま放置であれば、秘密保護法成立の道筋をつけ、納得させているようなもの。
こんな諦めの早い予定調和では、シツコイ粘りがいる戦いは成立しようが無い。
新しいアパシーを生み出しているようなものだ。
 
 原発運動の首相官邸前行動に気軽に立ち寄った市民が一杯集まっていると手放しに喜んだ一方で、
TVジャーナリストたちの秘密保護法反対は今頃、遅過ぎるでは片手落ちもいいところだ。
アレラ市民もTVジャーナリストも立っている物的基盤はグローバル資本制市民社会で同じじゃないのか。
TV新聞の現場もがんじがらめにされている。この傾向は日本だけじゃない。
 
 マスコミとフリージャーナリズムに大きな違いがあるのは判る。
 
 ただフリーに国民規模に訴えるジャーナリズムとしての技があるかといえば、公平に見て疑問に感じる。
フリーにあの会見で壇上に上がった人たちほど国民規模に対して説得力をもって語りかけられるヒトがどの程度いるのだろうか?
 
 ネットを中心とするジャーナリズムは一部の傾向の情報の受け手に特化した報道をしている場合が多い。
支配傾向に反対する姿勢をもつフリージャーナリズムの経営は他と違って厳しい。
 
 IWJを視聴していると似たような傾向のヒトが入れ替わり立ち代り登場しているだけで、同工異曲の感がする。
 
 また報道に緊張させる内容は溢れているが緩和の間がない。
<緊張>と<緩和>のバランスがないと受けてはキツイ。
ユーモア、笑いは余裕の間を意識的に作らなければ生まれない。
ただ、コレを報道のなかで実現するのは非常に高度な領域で、強い知力が要る。
 
 例を挙げる、と
「2013/11/09 ピースボートが創設30周年記念イベントを開催 国内外から多数の参加者 平和と脱原発の実現訴える」 宮台真司
 
 なぜかトークで会場を沸かせているし、大学の授業のようなことを語っている割には、説得力を持って会場に受け止められているようだ。
講演の内容は時間不足で上手く展開できなかったようだが、言わんとすることは、2011年3、11以降の我々の生活政治さらには思想方面まで貫通する総括であったようにおもう。
 
 
 以上の意味を含めて、時と場合によっては自分の枠を越えなければならないことがある。
 
 ましてや、あの記者会見のような場合は、枠を広げるチャンスでもある。
 
 さらに言えば、あの壇上の人たちの中のかなりの部分とフリーで活躍しているヒトの間にはめしを食っている場という決定的な違いはあるが、政治思想的に大した違いがあるようには想われない。
秘密保護法の現場場面の実際的運用は青木理さんがリアルに述べている通り、内閣情報調査室公安警察主権の確立であるとおもう。
したがって、そういう見解を解りやすく整理して述べる力のあるヒトとの間の、線引きは本質的に無意味、有害でさえある。
多くの市民はまだ知らないことが多過ぎる。
 
 秘密保護法という日本版NSCとセットになった広範な市民社会生活にとっても決定的に重要な曲がり角のような法案に反対することの大きな環が必要。 
 
「遅きに失した」と規定してしまったままではダメで、大きな環を作る表現の仕方はいくらでもある。
 しかし考えてみれば、日本の民主政の獲得或いは確立を目指す大きな意味での戦いは、1980年代以降、ほぼ全て遅きに失してきた。
 
 
 
            宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」(1)
宮台*NTTが他社にインフラを利用させたがらなかったように、東電は新エネにインフラを利用させない。
全てが「デカイもの」にぶら下がってしか生きられないクソ図式。NTTも東電も本来は単なる<ドカンヤ>で......。
 
小林*本来なら何の?
 
宮台*<<土管屋>>。NTTの祖先電電公社にせよ電力会社の祖先日本発送電にせよ、税金を使って土管を作ってきた。ならば土管は誰が使ってもいいはず。
なのに、土管屋が、土管に流し込む部門も、土管から引き出す部門も、全部にぎる。その上で土管屋にメディアも握られてデマを流される。
ソフトバンクの電波が弱い理由は中継基地が少ないからだとかね。本当は800メガヘルツ帯を土管屋の元公社(電電と国際電電)が独占してるからじゃん。
 
               *日本の原発をとりまく現状
宮台*無限責任の損害賠償を繰り入れないリスク計算に嘘があり、電源三法交付金によって発電所建設を促進する法律)で注ぎ込まれる税金を繰り入れないコスト計算に嘘があり、
ウランの採掘・精製・濃縮・運搬・廃棄物処理の過程で出る炭素を繰り入れない低炭素の標榜に嘘があり、
経済的にもリスク的にも永久に回ることのない核燃料サイクル事業で放射線廃棄物を処理するという計画に嘘があり、すべて嘘だらけ。
 他方で、資源逼迫と政治情勢ゆえの化石燃料の将来的価格上昇や、住民の安全意識上昇や予想外の老朽化速度ゆえの原発の建設維持費用上昇や、
逆に物凄い速度で低下しつつある自然エネルギーの単位あたり費用についての話が、スポンサーシップを利用した情報遮断で、国民が知らされていない。
 
 だからチェルノブイリ原発事故以降の20余年で、どれだけ日本がずれてきたのかって、みんなわかってない。
そもそも、原発が止まれば計画停電が起こるのは仕方ないって思う人が大半なんだからね。
特定の電力会社からしか電気が買えないなんて先進国の中では日本だけなんだって言うと、学生たちもひっくり返りますからね。
 
 ただ、社会学者として言わせていただくと、脱原発・脱化石・自然エネルギーは、単なる電源種の話じゃなく、「エネルギーの共同体自治」の動きです。
それが広がった契機は、1986年のチェルノブイリ原発事故で、〈システム〉への過剰依存の恐怖が主題化されました。
 
 それに先だって、ヨーロッパでは、1980年代に入るとスローフードの動きがありました。
これもオーガニックやトレイサビリティの話じゃなく、「食の共同体自治」の話でした。
W。オーガニック=有機農産品。トレイサビリティ=物品の流通経路を生産段階から最終消費段階あるいは廃棄段階まで(追跡が可能)な状態をいう。この人の話には欧米直輸入のわかり難い論理が多発する。
 
 それが広がった契機は、福祉国家体制の破綻で、やはり〈システム〉への過剰依存の恐怖が主題化されたわけです。
 
小林*そうですね。
 
宮台*日本では原発はまだ「電源種」の話でしかありません。
 日本では「食の共同体自治」であるスローフードロハス(オーガニック&トレイサビリティ)になるように、「エネルギーの共同体自治」である自然エネルギーが電源種の話になる。
スローフードについて言えば、オーガニック&トレイサビリティは派生的な帰結で、
本質は「顔が見える相手に作って売るから、悪いことをする気になれない」「顔が見える相手から買うから、多少安いからといってスーパーで買う気になれない」。
難しくいうと「近接性による動機づけで自立的経済圏を回す」。
 
 W.その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動、または、その食品自体を指すことば。
日本の伝統的な和食や郷土料理への回帰とは限らない。また、「地産地消」と同義ではない。
  <経緯>ウィキ引用。
 1980年代半ば、ローマの名所の1つであるスペイン広場にマクドナルドが開店した
このことが、ファストフードにイタリアの食文化が食いつぶされる、という危機感を生み、「スローフード」運動に繋がったという。
1986年、イタリア北部ピエモンテ州のブラ(Bra、「ブラッ」と表記する場合もあり)の町で「スローフード」運動が始まった。
当時「ゴーラ」という食文化雑誌の編集者だったカルロ・ペトリーニが、イタリア余暇・文化協会(ARCI、アルチ)という団体の一部門として、
「アルチ・ゴーラ」という美食の会を作ったのがはじまりである。アルチ自体は、120万人以上の会員を擁する、草の根的なイタリアの文化復興運動組織である。
>土着の文化、つながりをベースにしており、スローフードの理念と密接なかかわりをもつ
 
  <理念>
 スローフードの理念はジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの著書が大きく影響した。
1989年のマニフェストに「人は喜ぶことには権利を持っている」というコンセプトを発表し、
また、同年パリで開かれた国際スローフード協会設立大会でのスローフード宣言を経て、国際運動となった。
1996年のスローフード法令には、具体的な活動における3つの指針が示されている。
 1.守る:消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、ワイン(酒)を守る。
 2.教える:子供たちを含め、消費者に味の教育を進める。
 3.支える:質のよい素材を提供する小生産者を守る
 
小林*そっかそっか。
 
宮台*「食の共同体自治」も「エネルギーの共同体自治」も日本では別物に変形して、「安全な食べ物」や「安全な電源種」の話になる。
自治と共和」ならざる「統制と依存」の話に縮小してしまうわけ
「安全な食べ物」も「安全な電源種」も「もっとちゃんと統制しろ」という馬鹿話にしかなりません。
>>そんなことはあり得ないのに「巨大システムが動いて当たり前」と思い込む。(W。コレはなかなか鋭い指摘)
だからこそ、実際に動かなくなると、パニックになってしまうんです。(W.一時文句たれるだけに終わって、時の過ぎ行くままに身をゆだねる)
 
>>実を言うと、「原発から自然エネルギーへ」といきなり電源種の話になるのがおかしいと思うんです。
>>そうじゃなく「野放図なエネルギー消費に依存しきった生活を疑え」という話がないとおかしいでしょう。W。同意する。
>政府や東電が流す「安全デマ」―「事態は収束しつつある」―も、そう言ってほしいと願う「絶対安全教信者」が日本に大勢いるからだよね。
絶対安全教信者の特徴は、安全と危険の相対的な連続性を許さないで、「安心できるのか、できないのか」という二項図式で噴き上がること。
「デマで不安にさせるのか!」って。
 
小林*そうですね(笑)。
 
             *ー僕らの根っこの問題――「依存」ー
小林*自明性か......。自分の中で流行りそうだ(笑)。
 じつは僕が今日いちばん聞きたいのは、僕らの根っこにある問題と、今回の問題に対する処方箋なんです。
僕も宮台さんも日本人でありつつ、海外の人間とのやり取りでだんだんわかってくるんだけど、日本は世界でもほんとに変わった国だと思うんです......。
それは、僕らがちゃんと市民レベルで自分たちのあり方を選んできていないということなんです。
僕がわかっていることで言えば、あまりに長く江戸時代が続いたっていうこと。
300年も徳川幕府の都合っていうものを飲み込んできた国が、明治維新が起こって開国した。
そこから富国強兵に向かって日露戦争とかを経て、エネルギー不足を理由にもっと強国になるっていう方向に行き、
結局リーダー不在で、天皇という象徴的なものがあるところにリーダー不在がマスキングされ、予想された敗戦につっこんでいって最後は新型兵器まで落とされた。
これがまた因果関係を生んでいくわけですが、その後いちばんこっぴどくやられた相手のアメリカにとっての優等生になりきり、
経済発展すると今度はアメリカに生意気だって言われながらも成長してきて、そこまでずーっと流されるようにやってきている感じがある。
>> だけど結局、アジアのまだ貧しい国々が経済成長をはじめて、資本主義もそこまで進むと貧しい国も豊かな国もある程度フラットになっていくってことがだんだん見え始めて、
安く作って高く売るっていうそもそもの構造は、そんなにいつまでも続かないだろうし、W。この観点に同意。
人としてそんな貧しさを踏み台にして豊かさをいつまでも享受しているってどうなのっていうのもある。
人口増加の問題もあるし、貧しさからくる教育とか出生率に関わるいろんな問題も続いてる状況だし、
結局いろんなことが自分に返ってくるってことがそれこそ自明の話としてなってるのに......。
W。宮台の江戸時代論はばかばかしいので省略。
     
             *昭和の歩みと原子力
宮台*45年から52年まで去勢体験のラッシュ。そんな中、多くの政治家や学者や市民は、去勢を埋め合わせるパワーシンボルとして核の平和利用を欲しました。
原爆による去勢体験を原発で埋め合わせたのは第一の皮肉で、日本を去勢したアメリカが日本に埋め合わせを与えたのが第二の皮肉。
こうした皮肉の結果、去勢の埋め合わせを欲してますますアメリカに依存して去勢されていく、今日まで続く展開になりました。
 こうした皮肉に敏感だったのが清水幾太郎西部邁などの「転向保守」です。「転向」が喧伝されるけど、ビフォア&アフターで一貫しているのは、反米ないし対米自立の観点です。
そして「転向」後にこの観点から日本の核武装を要求しました。
 
 アメリカから離脱するには、アメリカが「大人の事情」で日本に渡したあめ玉に食らいつき、自前のものとして鍛え上げ、最終的には核武装を手にするんだと。
やっぱりそこでも原発核兵器転用可能性という「力の象徴」でした。
 
 でも核兵器転用可能性は外交史に詳しい人なら誰もが知っているように単なる妄想です。
> 例えばIAEA国際原子力機関)の主要目的は「原発の安全管理」ではなく「日独の監視」です。
>ドイツがNATOに組み込まれたので今では「日本の監視」。

この機関で最大の影響力を持つのがアメリカで、アメリカは従来も今後も日本の核武装を絶対に望まない。
ナントカに刃物という言葉があるけど、日本人はナントカだというのがアメリカにとっての刷り込みです。 この刷り込みは永久に変わりません
 ならば、清水幾太郎西部邁小室直樹みたいに「日米開戦を辞さず」との覚悟がない限り、核武装は永久にありえない選択です。W.論理的必然としてそうなる。
日米同盟堅持を主張する日本の親米保守が、核兵器転用可能性を「力の象徴」とするのは、完全に矛盾だし、政治センスとして馬鹿げています。
W.親米保守強硬派の星条旗と日の丸が同時に翻った中での対東アジア、対世界?共同覇権は頭の中でのみ可能。そういう政治センスなんだからしょうがない。

宮台*原子力ムラの中でもそんなこと言ってる人は一人もいません。
でも、歴代自民党政府やそれを支える政治家たちの「原発推進は当たり前」だという空気の背後に、「核は力だ」というイメージの刷り込みがありました。
 1960年代末期の学園闘争の動きもあって、エコロジー運動も反核運動の爆発につながりそうな気配があった。
そこで、72年に総理になった田中角栄が、こうした気配を恐れて1974年に電源三法を作り、原発を誘致した場所に交付金のご褒美をジャブジャブ渡すことにした。これが決定的でした。
 というのは、原発立地に名乗りをあげるのは背に腹をかえられずにカネが欲しい過疎地で、危険性の吟味などする余裕はありません。
そこで、認知的整合性理論的に、背に腹をかえられずに立地した原発が絶対安全だと信じるしかなくなり、住民によって「絶対安全神話」が要求されるようになったわけです。
これ以降、原発の安全性と危険性についての合理的な議論は不可能になりました。
 
宮台*これは電力会社が補償しきれない残りは政府による肩代わりを規定したものです。
 当初は電力会社の補償上限は50億円でしたが、現在は上限がありません。
原子力損害賠償法では電力会社は原発一基について1200億円の保険をかける義務がありますが、それを超える補償についても義務を負います。
W。先に挙げた日経Webの賠償法の指摘と重なっている。
 
宮台*でも現実に払い切れない場合には、国が賠償義務を負います。
W。こういう法的に明確にされない曖昧論理が結果的にズルズルとなし崩し的に無駄なカネや労力を政府がつぎ込むことに繋がる。同時にその費用は国民全体が負担する。
さらには人的被害を拡大させる。
        
実は、そのことが、原発が過疎地に立地させられる理由なんです。
 小出(裕章)さんが1970年過ぎに最初に原発に疑問を持つ契機は、「絶対安全なはずの原発はなぜ過疎地に立地するのか」という女川で抱いた疑問だったと言います。
答えは「大事故が起きた場合の賠償総額を減らすため」です。
 この「過疎地立地スキーム」と電源三法の「交付金スキーム」との関連が問題です。
2つあります。一つは、過疎地だから交付金が必要で原発を誘致するということ
もう一つは、原発誘致で交付金をもらっても脱過疎化はあり得ないということ
 ジャーナリストの武田徹さんから伺ったんですが、福島第一原発には原発誘致に際して「福島を仙台にする」というスローガンがあったそうです。
電源三法交付金で福島は仙台になれるというものですが、残念なことに、福島が仙台になることはそもそも国が絶対に許さないんです。
 電源三法図式と損害賠償法図式の組み合わせが意味するのは、「金はつぎ込むけど、絶対に過疎地のポジションから離脱させない」っていうパッケージ
少し考えれば分かるように、それ以外にはあり得ないパッケージです。
だけど、ちゃんと情報が伝えられなかったことと、
背に腹をかえられなかったことで、「原発交付金で地域が豊かになるんじゃないか」って誘致場所の人たちが思わせられてしまった。
 つまり「原発で地域がどんどん豊かになっていずれは原発から離脱する」は嘘で、正しくは「少しだけ豊かになる代わりに原発依存体質から永久に離脱できない」が正解でした。
それは当初から分かっていた、というか政府が狙っていたことです。
 仮にそのときに、アドボカシー(価値の訴え)を展開する人が村に出てきて、「これは嘘だ、我々は永久に過疎地のまま、原発に依存させられるのだ」と言えば少しは変わったかもしれない

        *経済への埋没――自明性へ「依存」しないための「別世界」の構築
宮台*そうです。経済がうまく回ることで、僕たちは〈システム〉に埋没してしまったんです。「自明性への依存」は別名「〈システム〉への埋没」です。
 
 >こうした埋没は、しかし同じ戦後とはいっても、枢軸国(同盟軍)のドイツでも、連合国(連合軍)のアメリカでも生じていません。
なぜなのか。アメリカは冷戦の当事者としてソ連と対峙していたことが「自明性への依存」を不可能にしたし
ドイツは東西分裂で日本のような政府間賠償という手打ちができなかったので、企業や自治体や国家が個人から請求があれば補償に応じる「個人補償図式」に採用したことが「自明性への依存」を不可能にしました。
 
 >でも、こうした個別事情を超えた問題があります。
日本人の「〈システム〉への埋没=自明性依存」について、社会学者であれば宗教的条件と結びついた〈心の習慣〉を考えるのがオーソドクスです。
それを理解するには、まずユダヤ教キリスト教イスラム教を見るのが好都合です。
この三つの宗教は全て同じ神を信じています。呼び方が違っていても同じ「絶対の神」です。
違うのはメシア観です。
ユダヤ教徒は「メシア未だ現れず」。
キリスト教徒は「イエスがメシア」。
イスラム教徒は「イエスは有能な預言者で、マホメットがメシア」。
 
 戒律があったりなかったり(戒律がないのはキリスト教)、来世信仰であったりなかったり(来世信仰はイスラム教)と違いがあるけど、<共通性が大切>です。
「神の意志」を裏切る生活をすれば「絶対の神」が我々を滅ぼすということです
だから、たとえ主観的には幸せな生活でも、「神の意志」を裏切っていないかと自らを絶えず試練にかけるんです。
つまり、自分たちの生活形式に対して反省的だということです。
 
>でも「絶対の神」がいない僕らって、幸せになれば「幸せになった」で終わるんです。
 僕らのまわりに居るのは、「絶対の神」ではなく、よく言う「アニミズム的な存在」です。
例えば妖怪です。妖怪は絶対的な不動の存在じゃない。
その証拠に、生活形式が変わると新しい妖怪が出てきちゃうでしょ。学校ができればトイレの花子さんが出てきちゃう(笑)。
>>結局、我々には何か突きつけてくるという宗教的存在がないんですね。
>>つまり「自分たちはこの生活でいいのか」と突きつけてくる「疑いのエンジン」がないんです。宗教学では「超越の契機がない」と言う。
だがしかし(W)、
>社会の中で酷薄な関係性を生きる登場人物たちは、
〈世界〉からの訪れに身をゆだねることで、辛うじて〈社会〉をやり過ごすわけです。
酷薄な状況に置かれた人間たちの多くが経験していることでしょう。
>敗戦や震災ですべてチャラになる経験は、もちろん災難だけど、多くの人が解放の感覚を証言している事実があります。
16年前の阪神淡路大震災でもそうでした。
「自分はあれが無いと生きられないと思っていたけれど、実は無いと生きられないと思っていたモノが無くても生きられるなっていう、そういう感覚を与えてくれた」と証言するわけです。
「いろんなことがあってもお天道様はちゃんと昇ってる」みたいな感覚です
いじめられっ子の感じ方でもあります。学校の中でひどい目にあってる場合、「自分の世界は学校の中だけしかない」と思ったら生きていけない。
    終了