反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

今昔物語集。本朝世俗部巻二十三ノ十五。陸奥前司 橘則光、人を切り殺すこと。

 今は昔、陸奥前司(陸奥国の前長官)橘則光という人がおった。武人の家の出身ではないが、極めて豪胆で思慮深く、腕力などが非常に強かった。容姿も立派で、世間の評判も良かったので、人々から一目置かれていた。
 
 ところでこの人の若い頃のこと、一条天皇の御世(在位986年~1011年)に衛府の蔵人として仕えてていたが
六衛府の武官を兼ねた蔵人ーW。蔵人はウィキ解説では天皇の秘書的役割を果たした、とか、平安中期には天皇の家政機関の一切を取り持つようになった、としているが、中国唐代律令体制で云えば、宦官に相する。
 
 皇帝と貴族の中央集権制(唐)から人民蜂起ー内乱期を通じて君主と側近官僚の一元的中央集権ー地方支配体制(宋)<軍隊は皇帝の直接掌握する禁軍の創建>に推移する中国歴史と、模倣律令制の初期の段階から地方豪族支配体制を中央ー地方集権体制に組み込んだ日本の歴史発展コースとの違いは日中歴史の違いを理解する決定的なキーポイント。
 
 中国の君主への権力集中、一元支配はイ)北方遊牧騎馬民族「国家」の脅威、ロ)広大な支配領域(人民蜂起と支配体制の転換は連動する可能性は常にある)、ハ)諸民族同居、などを絶対条件としている。
中世日本のように軍事貴族の台頭ー軍事政権樹立と残存する古代的君主権力の並存(二重権力体制ー荘園公領制)は先の絶対前提条件とする中国ではあり得ない。
 
 軍事貴族の政権は古代勢力を実体的にも壊滅させて初めて一元的全国支配の安定政権になる。
あからさまに言えば、中国の与えられた歴史条件に日本型古代君主体制を当てはめると、鎌倉軍事政権の成立した段階で一掃されていただろう。
 
 中国では皇帝独裁一元支配と税収を存立基盤とし専制国家になった。
専制独裁支配と民主政独裁支配は支配層の権力の人民支配の普遍的原則である。
 
>1925年治安維持法実施と抱き合わせに1927年普通選挙制は遅れて実施された。
>戦後GHQ主導の民主政(日本国憲法)から、その後の日本の民主政は戦前の治安維持法と抱き合わせの戦前普通選挙実施時期の民主政の継承と再構成される必要があり、現時点の民主政獲得への戦いは、こうした戦前戦後を貫いた日本支配層の人民統合支配への戦いの陣形の課題に還元される。
 
 支配層の権力独裁は国家成立の普遍的基本原則である。
民主主義制度は少数支配層の権力独裁に支配に本質があり、世の中の支配的イデオロギーは支配層のイデオロギーである。支配層の独裁にはソフトとハードの独裁の可動的な違いがあるだけだ。
 
 そういう観点から、<遅きに失した>の観点は宮台真司流に言えば、今や架空となった感がある戦後民主制(実体、空気、制度)の希薄になったシステムを敢えて自明性とする埋没保守論理である。
それは何ら実質的な危機感ではなく、戦後民主独裁の特殊時期のシステムにいまだ埋没した、表層的な危機意識の表明と煽動である。
従って、最後的にアパシーを生み出す。
 
 戦後民主主義の空気感に寄りかかることは、我々の思想的後退であり、屈従論理である。
裏(戦後特殊異常に経済発展した日本)であっても表(英米仏)であっても帝国は守るものではなく、溶解し、滅ぼさなければならないのである。
同時に、中国支配体制はメルトダウンすべきだし、するであろう。これに連動する政治軍事過程を想定し、日本と東アジアの支配機構の解体に連動させる。
そういう観点から東アジア情勢を見る。
余計な危機意識は必要ない。害悪でさえある。
 
 なお、二重権力体制から日本型封建制??の成立に推移するが、この封建制はヨーロッパ中央の封建制とは別物である。
戦前の歴史観は東アジア史の置ける日本の優位性を際立たせるために西洋封建制と同一視したがった。
 
 現在、主流の歴史観はそういった大枠の抽象論よりも実証主義に徹している。
個別埋没の限界はあるが歴史学は進歩している。
再び抽象的歴史観を持ち出そうとすると、ろくなことが無い。彼らは本質的に論理的にできない。
 
 室町時代半ば以降の中央連合政権の分権封建体制から長期内乱を経て成立したパックス、トクガワーナは中央集権封建体制である。
 藩主は中央政権から領地支配を認定されている監視管理された存在に過ぎず、不適正が問われると配置転換や領地縮小、取り潰しの危機と背中合わせである。
 江戸時代の多発した百姓一揆もこの観点から考える必要がある。限界権力の領主と百姓の実力交渉セレモニーでもあった。
 内乱を通じた明治政権の性格も以上の推移から導き出せる。
 
 今昔物語集の説話の時代背景は歴史教科的には平安末期の院政期、中央貴族有力寺社を頂点とする私有地荘園と古代的中央集権土地支配が並存するようになって、後者の直接的な個別人格的人民支配による人頭税的税収体制が瓦解し、中央派遣貴族の地方長官の責任による耕作地を対象する税収体制に移行した時代である。
 
 この時代の厳密な歴史規定は古代律令制の崩壊から中世の荘園公領制への移行期=王朝時代とされている。
 地方の旧来の国有地と拡張する私有地の並存する複雑な時代状況において中央朝廷権力が耕作地を課税対象に税収を確保しようとすれば、当然、警察的軍事的統制力が不可欠になり、ここにおいて軍事貴族の勢力が強化されていく。荘園制の根幹には公地公民制放課後の貧困、債務者、流民、を支配する奴隷制荘園がある。
小説と映画の山椒大夫は勧善懲悪されたが、説話の山椒大夫安寿と厨子王地獄があっても、繁栄したとある。奴隷制荘園体制は当地には余禄と中央には大きな税収をもたらしたのである。
 
平安末期の王朝体制の土地税制を根幹とする古代貴族位階制を前提とする軍事貴族武装勢力の形勢は、過渡期として、あくまでも中央軍事貴族の主導権、系列下に形勢さてていくが、
地方富裕層(富裕百姓、豪族、現地在留貴族など)の独自武装化は東日本で先行し、鎌倉軍事政権樹立の実行力となった。
 
 兵庫福原遷都に失敗した平氏は田舎武士集団、木曽義仲にまず、都を追われ、続いて源義経は平安朝廷の位階制と和合の嫌疑で武力排除された。
 
 しかし、鎌倉軍事政権は荘園公領制を経済基盤とするしかないのだから、朝廷貴族有力寺社体制と妥協しその官位を利用し徐々に切り取っていく戦略を取った。元々そこまでの実行力しかない。
日本の古代支配体制は軍事貴族支配にとって軍事的政治的に無力化して、その権威を適正に己の支配に利用すべきものであって、一掃される必要は本質的なかった。
>コレはローマ帝国崩壊後のゲルマン人国家のローマ帝国バチカンの権威の利用の仕方とそっくりである。
違いは丸い地球の大きさだけである。
  
 11月16日記事の「今昔物語集讃岐国の源大夫、法を聞き、出家すること」
その時代背景を調べたが、細かく記すことはやめた。
 
 現代に通じる古典としての迫力、魅力は理屈抜きにじかに味わったほうがいい判断した。
イロイロ理屈をこねると色あせ、手垢にまみれてしまう。
 
 ただ、讃岐国に源大夫と言う実在の人物がいたかどうか、物凄く疑っている。
 
 この人物は名前はわからないとされているが、姓は<源>。
位は大夫=五位(清少納言紫式部と出自は同じ、下級貴族の実務官僚層。軍事貴族としては地方では最上位で勿論、姓が表す様に中央軍事貴族源氏に連なるもの)。
 
 そういう視点で考えると、発心の動機は文中に記されているような行き当たりばったりの突発事態ではないと解る。(あくまでも、仮にそういう人物が実在したとして)
 
 地方の治安警察の責任者としての矛盾も抱えていたであろう。
 
殺傷行為の日常化は軍事貴族である武士の裏面の普通の属性でもある。
 
 そこで次のような解説が目に留まる。
「庶民の姿を描く本作品とはいえ、説話を語る視点は決して庶民の目線などではなく、都貴族の常識に立つものであり、編者はあくまで社会全体からみれば、上奏、知識層に属する存在だった」。
 
 従って、確かに下級貴族の武家のなかで発心出家したものは実在したが、敢えて冒頭に源氏の武士の殺傷を挙げて、それを庶民も恐れているとして、発作的な仏希求の超過激行動に走らせて昇天させたのは、編者の都貴族の常識による台頭する武士への潜在的恐怖に基づく、極めて政治的意図を含んだ、けん制であった、と言えなくもない。旧体制護持の秩序派意識は高級知識人となると、手が込んでくる。
 歯向かう武士に出家気分が蔓延したほうが殺傷の対象から逃れられる。法衣と古代位階制の権威の鎧を着たわけである。
 
 ただ、あのような突発的な仏希求に目覚めた過激行動は当時の武士の生態からして、不自然ではないのである。時代風潮でもあった。
 かなり後世になるが全国踊念仏行脚の過激行動で人生を終えた一遍上人武家の出身である。
 
>この陸奥国前長官の物語のハイライトは1対3の月の薄明かりの下での武力衝突の鮮烈な場面であり、
先に挙げた女盗賊の幻想的で不気味な物語で、盗賊たちがやっていることは現在で云えば、集団押し込み強盗
であり、押し入った先も武装しているのだから、小さな戦争行為。
幻想的な物語なのに全体の描写に納得できるリアル感がある。
 
>両物語に共通するのは、中世初期の京の都のモノクロ映画の名作を想わせる闇と光である。
黒澤明の「羅生門」の影像美の世界である。
 
そういう現実のなかで生きている人間を物語にすると、現代にはない迫力が余計なテクニックを使わなくても自然と醸しだされる。
またそこに描き出された人間像は普遍的なリアル性を帯びる。
>様々な意匠を施されていない裸の人間像である。
 
水上勉の「雁の寺」をザット読んでみたが、アレは手の込んだ通俗エロ小説に思えた。
今昔物語集の最上の一編の方がはるかに文学としての価値が高いと自分は思う。
古いから価値があると言うだけで、1000年後も読まれているのではない。
文芸的価値が高いのだ。
 
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宮中の宿直所から人に隠れて女のところに出かけた。
夜も次第ににふけてゆく頃で、大刀一振りを手にし、小舎人童(蔵人所に仕える童)を一人だけ連れてご門を出て、歩いて東大宮路を南に下っていくと、、大垣(大内裏の四周にめぐらされた築地塀)のあたりに、人が何人も立っている様子。
これをみた則光はひどく恐ろしく思いながら通り過ぎようとした。
丁度八月九日の月が西の山の端近くになっていたので、、西側の大きな垣のあたりは暗がりになり、そこに立っている人影ははっきり見えないが、その垣の方から声だけがして、W。すごい影像美である。
「おい、そこを通る男、とどまれ。貴公子のおなりだぞ(盗賊が人を呼び止める常套句)。絶対通ってはならぬ」という。
W。ここから先の実際の戦闘場面の描写はリアリズムの極地である!
太刀で命を懸けて、やりあう本物の戦闘シーンのリアル描写である
足腰のスピード、瞬発力、一瞬の機略、が生死を分ける。
 
 則光は「さておいでなさったな」とおもったが、さすが引き返すこともできず、足早に通り過ぎようとすると、
「そのまま通る気か。そうはさせぬぞ」といって、走りかかってくるものがいる。
 
 則光はとっさに身を伏せて、そのほうを伺うと、弓の影は見えず、大刀がきらりと光って見えたので、「弓でやるんじゃない」と安心身を低くして逃げたが、直ぐ後を追って走ってくる
W。ここからお互い全力疾走している中での太刀の戦闘場面。3人対一人は1対1の順番の殺し合いになっている。則光が走らず、ぐずぐずしておれば、3人に包囲されて勝ち目はなかった。
 
<一番目の相手> 「やれ頭を打ち割られる」と思った瞬間、にわかに飛びのいたので、追ってきた男は勢いづいて走る過ぎ、留まりもできず、目の前に飛び出した。
それをやり過ごすや、抜き打ちに太刀を振り下ろすと、頭を真っ二つに打ち割り、相手はうつ伏せに倒れた。
「上手くやった」と思うまもなく、
 
<二番目の相手>また、「いったいどうしたのだ」と云いながら走りかかってくる者がいる。
そこで太刀を納める隙もなく、小脇に挟んだまま逃げていくと、「こいつ、なかなか腕も立つやつだな」
といって走りかかってきたが、はじめの男よりも足が速そうに見えたので、「こいつはよもや前のように行くまい」と思い、
とっさに思案でパッと体を突き出しようにかがみこんだので、勢い込んで走ってきたやつが則光にけつまずき倒れこむところを、体を交わして立ち上がり、起きる間も与えず、その頭を打ち割った。
W。命がけの全力疾走だから、こういう肩透かしが起こる。
 
<三番目の相手>「もうこれでおしまいか」と思っていると、もう一人いる。
それが「ちょこざいなやつめ。このまま逃がしはせぬぞ」といいながらしつこく走りかかってきたので、「今度こそやられるだろう。神仏、助け給え」と祈りながら、太刀を槍や長刀の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもつ。武器として死滅した鉾に例えるのは古代から中世への過渡期らしい表現)の様に持ち替えて、勢い込んで走ってくる男に真正面からやにわに腹にぶつけ合うように突っ込んでいった。
W。鞘に太刀を納める隙がなく抜き身で持って疾走していたのだから、当然、短い槍風に前に突き出している。
 
 相手も太刀を持ってきりつけようとしたが、余りにも接近していたので、着物さえも切れない
太刀のこちらは鉾のように持っている太刀なので、相手の体にズブリといって背中まで突き通ったのをつかを引き戻したので、相手は仰向けにのけぞって倒れた。
 
 こうして、その場を去り、「まだ他に人いはしないか」と耳を澄ましたが、その気配もしないので、一目散に走って、中御門に駆け込み、柱の影に身を潜めて、「童はどうしたのだろう」とまっていると、童は、なきながら歩いてくる。呼ぶと走ってきた。
それを宿直所にやり、「着替えをもってこい」と言いつけた。
今まで着ていた上衣や指貫(すそを紐で結んで括る袴)には血が付いていたが、童に命じて、それを絶対に見つからぬところに隠させて、かたく口止めし、太刀のつかについた血などはよく洗い落として、上衣、などを着替え
そ知らぬ顔で宿直所に帰って寝てしまった。
 
 一晩中、「もしかしてしてこれはおれがしたことだと知れるかもしれない」とびくびくしているうちに夜が明けた。
すると、やがてがやがや云い騒ぐ声がする。
東大宮大路の御門のあたりで、大男が三人、それほど場所を隔てずに切り倒されているぞ。おっそろしくみごとた太刀さばきだぜ。互いにきりあって死んだのかと思ってよく見ると、刀の使い方はみな同じだ。敵がやったことだろうか。だが、盗賊がやったことに見せかけたのだ」と大声で言い合っている。
殿上人たちも、「どうだ、行って見ないか」と誘って連れ出そうとするので、行くまいと思ったが、行かないのも怪しまれるような気がしたので、しぶしぶ付いていった。
 
 車からこぼれるほど大勢乗って、傍まで行ってみると、本当にまだ手をつけないでそのままおいてある。
その脇に三十ぐらいのひげむジャらな男が、無地の袴の洗いだらしの袷、その上に山吹色の衣の袖は日に焼けたものを着、太刀をおび、鹿皮にくつを履いて立ちはだかり、腕を組み死体を指差して、だれかれとなく回りもののに向かって喋り散らしている。
「何者だろうと」思っていると、車の共をしてきた雑色ぞもが、「三人はあの男の敵で、アレに切り殺されたのだと申しているのです」といったので、則光は心中、「これはありがたい」と思っていると、車に乗った殿上人たちが
「あの男を連れてこい。訳を聞こう」といって呼びよせる。そこで男を召し連れてきた。
 
 見れば頬骨が張り、しゃっくり顎で、鷲鼻の赤毛の男だ。目は手でこすった所為か真っ赤で、片ひざを付き、刀のつかに手をかけて前に控えた。
 
 「何ごとがあったのじゃ」と聞くと「実は夜半ごろ、去るところへ行くためにここを通りかかりましたところ、男が三人
<お前はここを通ろうとするのか>と申して、走りかかてきたので、これはてっきり盗賊だと思いましたので、心して打ち伏せたのでございますが、今朝改めてみてみますと、こいつらは、長年このわたくしを、よい折があったら、と付けねらっていたものどもでしたので、<上手い具合に敵として打ちとめたことになったワイ>と思いまして
死体を指差しながら上を向いたり下を向いたりしながら喋りまくる。
殿上人たちは「それはそれは」と感嘆していりいろ問い尋ねると、男はますます正気をなくしたようにしゃべる。
 
 これを見て則光は内心おかしくて仕方がなかったが、「こいつがこう名乗り出たからは、人殺しに罪はこいつに譲れてありがたい」と思い、ほっとして顔を上げることができた。
それ以前は、「こういう状況からもし自分のしたことだと発覚しはしまいか」と人知れず心配していたのに、
自分の仕業だと名乗るものが現れたので、それのせいにしてしまった、とずっと年老いてから自分の子供たちに向かって語ったのを語り伝えたものである。
 
>前半の血生臭い殺人場面は後段の人間臭い話によって何か救われたような気がする。
後段を読んでいると、芥川龍之介の「鼠小僧次郎吉」の次郎吉本人の枕荒らしをして柱に縛り付けられて、本人を目の前にして、おれ様こそは大江戸を騒がせた鼠小僧だ、と粋がって啖呵を切った、こそ泥の場面を思い出した。
芥川は今昔物語のこの場面を知らないはずはない。
 
>同じく芥川の小説、黒澤の映画化した「羅生門」の原作が今昔物語集の減殺約に収録されている。
本朝世俗部、巻二十九ノ二十三。「妻とやんば濃く似いく男が大江山で縛られること」
今昔物語集の説話は芥川黒澤の設定した3人の場面と大枠は同じであるが、中身は警戒心なくボンヤリと夫が自分のありふれた太刀と名弓らしきものを交換し矢まで与えたがために、ホールドアップをくらい、縛られて目の前で妻を強姦される場面の前後を淡々と描いたものである。
 
 結びを読めば物語の全体の雰囲気がわかる。
「その後で、女は夫の傍に近寄り縄を解いてやると、夫は呆然とした顔つきでいる。
女が、「お前さんはなんと言うだらしが無い人でしょう。これから割きもこんなことでは到底頼みになりはしない」
といったが、夫は一言もなく、そこから女を連れて丹波の国に向かった。
 
>若い男は関心である。
良くぞ女の着物を奪い取らなかったことだ。
はじめのお琴は実に情けない。
山中で見も知らぬ男に弓矢を渡すとはなんとも愚かなことだ。
 
W。以上のような今は昔の物語の最期の落ちは当時の常識と今の常識というか夫婦関係のあり方の違いをはっきりと物語っている。高級貴族は一夫多妻制。通い男。庶民も性には大らか。
この事件が現代であれば、絶対にこのような穏当な結論には達しないが、人間の根源から考えると果たして今の日本が自由になったのか、という根底的な疑問が生じる。
江戸時代の庶民に現代よりも離婚は多かった。この事実も示唆に富む。
 
また、芥川=黒澤のような今昔物語の複雑な改変は果たして根源的な現代的視点なのだろうか、とも合わせて思う。
古代と中世過渡期の異常ではあるが、淡々とした男と女(夫婦)の物語が単婚制厳守の妻の貞操問題(西欧観念)と裁判問題にすり返られている。それも、確か、<未必の故意>と言う高度な法概念の争いだったように記憶している。
 
小説映画の「羅生門」は前記の物語と巻二十九ノ十八、「羅城門の上層に上りて死人を見る盗人のこと」のおどろおどろしい物語を繋げたものであろう。
 
>巻三十ノ九はの「信濃国にておばを山に捨てること」
有名な姥捨て伝説の源とも言うべき物語である。
今昔物語では嫁、姥、夫の感情の軋轢を主体に描いているが、(編集者は人減らしに関係の無い支配層だから、切迫感が無い)根底にあるのは困窮する庶民の人減らし行為の常態化であると理解する。
 
そこで最期の落ちは一端、深山に捨てた姥をおもって
「わが心慰めかねて更科や姥捨て山に照る月を見て」
などという和歌を詠んで、
「そこで、またその山の峰に登って行き、姥を家に連れて帰った。そして下のように面倒をみることになった。」
ふざけんじゃないよ!姥は猿か犬のような動物なのか。
捨ててきてくれと夫に頼むまで姥を嫌っていた嫁は納得したのか。
もとより騙され、深山に一端捨てられたものの心は?
が、こういう人間感情の綾を超えたハードボイルドな生活環境があったとも創造出来る。
人間はヤット生きていけた時代であり、死とリアルに隣り合わせの生活を送っていたのだ。