反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

1930年代に実相を考える。関東大震災から治安維持法=普通選挙制へ。1935年の日本、ー 数字から見る日本の石油需給構造ーそして野坂昭如「アドリブ自叙伝」で神戸の港と重工業の発展を追う。

 >「確率的殺人に加担したくない」福島の漁師・新妻竹彦さんの苦渋」
この方は偉大な人である。
 
1。1923年。関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒( 日本時間、以下同様)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。
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  <人的被害>
死者・行方不明 10万5千
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    <朝鮮人暴動に関する事件と流言>
「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」
 
 大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊。
「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」の見出しで
「、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と、警保局による打電内容を。
 
  3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電
「「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。
 
  戒厳司令部公表との通達。
>不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう。
と公表。
朝鮮人暴動」の事実を肯定するも流言が含まれる旨の結論が出された。8日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が一部流言内容を否定する見解を公表、併せて「(朝鮮人による)一部不平の徒があって幾多の犯罪を敢行したのは事実である」とし、中には婦人凌辱もあったと談話の中で語った
 
>>一部の流言については1944年昭和19年)に警視庁での講演において、正力松太郎も、当時の一部情報が「虚報」だったと発言している
W。ウィキのこの部分の記事は数年前には警視庁保安幹部、正力松太郎を名指しで流言飛語を流したと特定していたが、何時の間にやら真逆に訂正されている。
 
 正力松太郎は大震災のドサクサを利用して、日ごろ取締りの対象としていた大正デモクラシーの急進派である社会主義者アナーキストや下町の戦闘的労働運動とその活動家を抹殺を意図した。
葛飾のある労働運動活動家は震災発生直後の町内会の自警団活動に積極的に参加し帰宅したところを、地区警察署に任意連行され、そのまま殺されている。心配した家族や仲間が、警察署を問い詰め、虐殺の事実を知った記録文学が残されている。
 
大正デモクラシーの自由の空気は関東大震災後の事態にかき消されてた
ただその後、
A)1925年に普通選挙実施と抱き合わせに立法された治安維持法が先行して発布
B)~1927年普通選挙実施(男のみ選挙権は25歳?)
>1929年世界恐慌
 
C)~1932年満州国樹立~1933年国際連盟(米国は連盟不参加。基本的に独自路線でやっていけるし、孤立主義の伝統がある。まだ英国からの世界覇権の移行の自覚がなかった。)事実上の追放<賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリムッソリーニ政権も賛成している)
>なお、ウィキのこの項目はどういう提案が審議にかけられ、賛成42票で反対が日本だけだったのか、マッタク言及していないシロモノ。主語がマッタク欠落して、賛成票が突然出てくる。ふざけんじゃないよ!
満州国のトータルの解説も世界政治の全体的視野にかけた半端モノ。歴史の手前勝手な偽造である。
D)1936年 2、26事態
 
E)1937年 日中戦争本格化
 
F)1941年太平洋戦争
>以上、A)~~F)までの15年の歴史の推移は経済方面や庶民目線でみると、決して単純、一面的でない。
イ)世界恐慌に対して日本は高橋是清の財政膨張政策によって、いち早く不況から脱出した、とするのが現在の経済主義者の通説となっている。
こういう見方に対して、現時点の日本の経済政策との関連でキチンと反論しなくてはならないが、間違いなく、
この時期の満蒙侵略による軍需増大を財政膨張が支えることで、日本の産業構造の重化学工業化が急速に進展した。
>>{1935年の日本、日米戦争は論外であったー 数字から見る日本の石油需給構造ー 計量分析ユニット}
 
 長文で問題点も多い内容だが、コラムと銘打っているようにできるだけ読みやすいように書かれていて、非常に参考になる、自分としては1930代を経済的に総括した重要論文だと思っている。
有名や名和統一の3環貿易説と日本内外の石油需給構造をリンクさせ、結論的に日本が日中戦争に深入りすればするほど、米国、イギリス、オランダアジア植民地の資源に依存しなければならない、構造を活写している
この視点から見ると、海軍当局の戦争決断、速戦必勝論のリアリズムが理解できる。
陸軍では石原莞爾の戦略論か?(詳しくしらない)。その他、軍部は精神主義で論外。
 
 なお、上記の長文コラムに描かれた時代状況は野坂昭如「アドリブ自叙伝」(雑誌<現代>1973年1月号~12月号連載。1980年筑摩書房刊。日本図書センター1994年作家の自伝シリーズ19)の時代考証のモチーフになっている。
 
 この作品は自分の評価では野坂昭如の最高傑作だと思う。
直木賞受賞作「ほたるの墓」(スタジオ、ジブリのアニメでも有名)の前後の事情を客観的資料を駆使しながら、できるだけ有りのままに記したものであり、都市大空襲前後の庶民生活の実態を現在の我々がリアルに知る貴重な資料となっている。
作家が描いているだけに、そういった資料にありがちな、事実を大切にする余り、退屈な記述になることは一切ない。
肝心な1945年6月5日の神戸市灘区仲郷町3丁目において焼夷弾直撃によって養父母を亡くし、逃げ惑った前後の文には客観的資料を数本キチンと追加している誠実な作品である。
 
 この作品の舞台をグーグル航空写真で確認していくと、以前最も親しくしていた仲間がアルコールが入ったときに何度も話してくれた小学校、中学校時代を過ごした、まさにその近辺であった。かなり驚いた。
話を聞くたびに、上に裕福なものが住み下に行くと貧困という独特の秩序にいい気持ちはしなかった。
所詮、上にいる大方も成り上がりものだろう。
ま、ブラジルのリオデジャネイロとは真逆のパターンなのだが、合理性は向こうの方にあるのではないか。
いつも思うのだが、自転車を押して上がらなければならないところに居を構えてどうする。足腰が弱ってきたら坂道は堪えるはず。目先のことだけ見ているエンジン系の乗り物を前提にする生活。
もっとも人間の住居の歴史の推移から言えば、山すそから平野部~海岸地帯進出~終いには海にまでこぼれて埋立地
 
 ということで野坂昭如の「アドリブ自叙伝」から、神戸市の歴史を引用する。
 
 日本一二を争う港町であっても、横浜と違って神戸は重工業地帯の建設と当時進行している。
これと南洋航路港の繁栄などが関連しあって、神戸独特のハイカラ人種が住む郊外住宅地が発展した。
野坂昭如が1歳の頃養子に行った先の張満谷(はりまや)家は、そこの住人だった。
付近の国道の脇には灘の造り酒屋が蔵を並べていた。
小学校時代に勉強はマッタクしなかったというが算数など三教科の塾に通っていたというから、驚きで、今とそっくりの教育ママが普通にいた地域という。
灘高校はこの付近にあったらしい。
ま、階層的に教育熱心は当たりまえなのだけど、自分など生まれてこの方、塾などに行ったことはなかったわけで、この差は大きかった。今頃になって勉強しなければならない。
 
「昭和11年12月から19年までのこと、神戸市灘区仲郷町三丁目八番地にすんでいた時のアレコレを、勿論子供の目から見た印象だけでは足りないから、調べもして~写してみたいのだ
 
「仲郷町は当時神戸市の一番東のはずれにあたり、(W。といっても現在でいえば、三宮から10キロ程度しか離れていない)昭和のはじめ(1920年代)、住宅地として開かれたもの。
省線(W。現在のJR線)から山側は、これよりは早くが人が住み、(当地の地形は急傾斜の六甲山のふもとは次第になだらかになっていく)また、国道より下も、西国街道沿いに古い家並みがあった。」
 
  -以下、「調べもした」成果の時代背景の記述。1973年時点での野坂の客観的記述は厳密な資料に当たらなければできないものである。良くまとまっている、さすが。
 
>「昭和のはじめ、日本はいよいよ近代化、といえば聞こえもよろしいが、膨張政策剥き出しにし、列強伍して、世界の大国に相応しい軍備の教科に狂い始める」
 
「神戸と、港は切っても切り離せない関係にあるから、簡単にその歴史を紹介すると、
>慶応3年12月、兵庫港が開港し、翌年、兵庫県が置かれた初代県知事は伊藤博文。(W。戦略的要所だったというわけか)
この年の神戸の人口は2万4千人足らず。
 
>明治6年、神戸港と改称、
>明治19年、川崎正蔵は、官営の造船所の払い下げを受け「川崎造船所」を設立。W。川崎重工
>明治36年(1903年)、神戸沖で観艦式、W。軍艦製造
>明治38年、神戸三菱造船所創業。W。現在の三菱重工神戸造船所で、少し前に原発蒸気発生器製作工場として記事にした。
>明治41年(1907年)ブラジル移民第一船出航
W。もう、急速近代化による人口爆発で列島では人口扶養力に齟齬が。
この時代は典型的な産業資本の膨張する帝国主義の時代。今の金融主導経済とは経済政治環境は基本的に別物と考えた方がいい。1930年代論も現在との世界経済システムの違いを重視する。
 
日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年~1905年)を既に経過して朝鮮植民地作戦展開(野坂の言う膨張政策)。
 
大正元年(、川崎のガントリークレーン竣工、W。レールに敷設された大型クレーンだとおもう。
>大正11年神戸港第一期修築工事完成。
>大正13(1924年)年ヨーロッパへ向かう客のために、~意味が解らない~
 
>昭和5年(1930年)、海洋博覧会開催。
 
 この年、神戸港の輸出貿易額1位。W。大阪、阪神間の工業生産値は全国に突出していた。関西圏の経済飽和状態は歴史的なもの。橋下徹が何を画策しようが、歴史的な経済地盤沈下を逆回しできない。悪あがきは止めよ!地道歩め。日本国の長期スパン全体にいえること。支配層は解っている。
 
「つまり神戸港が港として世界有数の設備を整え、また京阪地帯と並ぶ(W。阪神間単独を取り上げており大阪は入っていない)重工業の拠点となった頃、東の外れに、借家(W。野坂の借家は現在の借家のイメージではない。36畳、前後に庭付き。他も似たようなもの。)を主とした住宅地が造成され、東京本社から派遣されてきた若い社員と、その家族が、ここに住んでいたのだ。(W,戦後の不動産価格の高騰は凄まじいイと解る)」
 
「仲郷町3丁目に、初めて借家が作られたのは、昭和8年頃と思われる(W。1933年。日本は恐慌から満蒙侵略の軍需増大から、経済成長開始、軍需景気へ)。」
 
「それ以前に土地を買って家を立てたものも、3丁目の山側にいたのだが、現在の建売ほど出ないにしても、一応家の軒が並んだのは昭和8(1933年)年以降のこと。」
 
「神戸はのっけから外人が多く住んだせいもあって、海近くに、昔からの町があるほかは、たいてい山側から、家が建てられていく。
馬鹿と煙は、高いところが好きというけれど、外人も、必ず住まいを高台にもうけるのだ。」
 
「僕の住んでいた8番地は、11年の春に(1936年)家並みが完成し、(W。たった9年後に暗転。この事態を方丈記風に表現すればどうなるか。想像を絶する。人間って何なんだ。)家賃は焼ける直前、35円だったが、のっけがいくらかわからぬ
 
「当時の向こう三軒両隣様を、探し当てて尋ねてみても、皆忘れていらっしゃる。
昔は今のように毎年家賃が上がるなんてこともなかったはず、
しかしサラリーマンの初任給が、大学で出40円~50円の11年当時にしては高過ぎる
7間で、畳数は34畳、前後狭いながら庭が付いていた。」
W。1935年ごろからインフレが進行した、とは経済史の常識。高橋是清は出口戦略を取ろうとして2、26事態で暗殺された。相手を甘く見すぎ。
家賃の最初がわからぬでは家賃の上昇度は解らない。この時期のインフレの基本は日中戦争とABCD包囲網によるカネは刷り放題の物不足。軍需景気と戦争による人不足で最初は賃金上昇はあったが、物価上昇に歯止めが利かなくなった。この意味でも対米戦争は最終出口戦略だった。
 
「養父が、省線六甲道駅直ぐ傍の住まいから、家移りする気持ちになったのは、学校区を考えたからだ。
(W。小学校区を一つ南東に移動しただけ)
そのまま留まれば、僕は六甲小学校へ通うことになり、養母がこれを嫌った。
六甲小学校は西灘と並ぶ、灘区で最も古い学校で、上級学校への進学率もいいのになぜ嫌ったのか、その理由は省く。
(W。六甲道のなだらかな坂を下がっていくと、被差別部落があった、上にいくに従って金持ちが住んでいいた、と校区の実情を良く仲間に聞かされた。
その上に住んでいる金持ち家庭の出身者も広い意味で仲間で知り合いだったから、その話はリアルだった。
 
 野坂昭如の養子先、張満谷家の近辺は少なくとも、昭和の時代でもそういうところだった。
戦災を挟んでも戦前とたいして変わらなかったのである。
 
 野坂の説明する張満谷家の家庭構成は異様である。
全員直接の血のつながりがない。
養祖母に子供なく、石油商支配人の養子にもらった養父と妻に子供なく、野坂昭如が養子となる。
 
 そこに、1年数ヶ月の養女がもらわれて来る。
戦災にあったこの養女の恵子さんを野坂少年は「ほたるの墓」で描かれているように栄養失調で餓死させてしまう。
実際に自分は「ほたるの墓」に描いたような少年でなかったとして、鎮魂、ざんげの意味あいをこめて、「アドリブ自叙伝」を記している。
敢えてアドリブとしたのは事態に正面から向き合うかれの流儀であろう。
 
 もう一つ、家族の特徴。
近親、親類中、東京ー大阪ー神戸の大都会の生活者しかおらず、土とマッタク縁が切れている。
かといって、労働者家庭も無い。分類すると都会の小市民層で雑多な職業についている。
張満谷家のゆとりある生活は梅田大同ビルにオフィスを構える石油商支配人の養父の高給ゆえであり、借家住まいで不動産は無い。
 
 従って、ここで描かれている世界は当時の日本では少数派の日常生活であり、現在の都会のサラリーマン家庭に通じるものである。
 
 屈折した人生において彼が作家として身を立てられたのは、子供時代の家庭環境によるところが大きいかったと見る。
彼は勉強はマッタクしなかったらしいが、本のふんだんにある環境に育った。
養父は帝大を望んだが養母に経済力が伴わず就職。
養母は女学校以上の教育を受けており、当時としては最高の部類だろう。
 
  -続くー