反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

審議中の特定秘密保護法について気になる論点。

     秘密保護法は国民を市場原理主義服従の檻に閉じ込め収奪することが本質。
    戦争事態はその結果発生するもの。
ーキャスターらが反対集会 秘密保護法「取材全て不当にー2013年11月21日01時45分 朝日新聞デジタル
共同通信編集主幹の原寿雄さんは、陸上自衛隊イラク派遣の反対運動の参加者を監視していた事例を挙げ、「法案が通ればこのような違法行為が合法化されると指摘。
 
 W。ここで漠然と「イラク派遣の反対運動の参加者を監視していた事例」とされているが、具体的に例えると、
イラク派兵に偶々、危機感を覚えて何気なく参加した一般市民をそれを契機にその人物を特定し、個人を含む周辺の情報を調べ上げ、監視対象としてファイルする。
 
 次に情勢の変化があるときに、そのファイルされた監視対象の個人と周辺の動きをチェックする。
 
 偶々反対運動に参加した個人が、そこで危機感を募らせて、その後、何度も関連する集会、デモに参加すれば、有力者としてランクアップしてリストアップされ、厳重監視対象になる。
 
 それだけでなく、日本の場合は社会から隠然と排除することもシステム化している。
秘密保護法はそういったコレまで隠然としてあったインフォーマルな行為の合法化であり、積極的な運用に結果する。
法案を読めばその筋道から容易に想定できる。突然降って沸いたようなものでもないく、日本に今まであった権力政治の合法化であり、攻勢的運用である。
煎じ詰めると既存の中央ー地方の行政機構のなし崩し的中央集権的強制力の強化である。
日本の場合、そういう方向にしか政治力学が作用しない。硬直したまま修正が効かない。
 
特定秘密保護法は法を法として摘み出してあーだこーだと議論する前に、この日本の内外の情勢や戦前から継承された日本国と日本国民の特性と一体的に考える必要がある。
 
 先進国でこうだから日本もという議論の方法そのものは半分以上間違っている。
官僚と企業主導で市民社会そのものの各種体力の乏しい日本(そういう体質への歯止めとしてしか日本国憲法の現在的価値は考えられないと想う)でこんな法律ができたら市民生活は大きく制限される。
 
 只でさえ政治家にお任せの潜在意識のぬぐえない我々はもうこの先、普段に物申す気力が萎えてくること必至と見る。
アパシーが日本社会全体を覆いつくし、結果として<市場原理主義服従の檻>に過半の国民は閉じ込められる。
 
 この法律は国民内部への都合の良い統制に向けられたものであって、「戦争のできる国への一歩」が国民向けの政治本質ではない。
申し訳ないけど、問題の所在を憲法擁護、戦後民主主義の空気の方面にずらしているように想われてならない。
 
 こんな規定を本質としておいて、実際に何時までも、小規模軍事衝突はあっても、戦争らしい戦争が起こらなかったら、いったい何処が秘密保護法の政治本質なのか。国民を欺いていることになる。狼がやってくる少年である。今とこれからの世界情勢において大規模な戦争が発生するとはとても思えない。その条件も必要も<乏しい>。
 
 また、実際に自衛隊を海外派兵しないで、巨額のカネをカンパすれば戦争していないことになるのか?
イラク派兵部隊が直接銃火を交えず、後方兵站活動をしていたら戦争していないことになるのか?
自分の基本的な考えから、それらも立派な戦争行為である。
こんな区別をするのは戦争における形式論である。
 
 もっと極端に言えば、日本国が国民を統制し権力集中をして戦争発動の手間を省いたところで、
その種のシステムは戦勝国の何処でも程度の差はあっても、実現されているものと考えるが、
同時にそれらの国々では、法と社会システム、市民社会のパワーとして、そうした戦争政治に対する対抗要因というか修正力を培っているのではないか。
それが有りのままの現実で、日本もそういった現実をこれから目指すべきでないのか。
 
 日本の場合はそれらが乏しく日本国憲法などの法的たがは目が唯一といっていいほどの歯止めになっている現実があるから、
普段の政治が戦争の政治に踏み込むリアルな現実を直視できないのだ。
端的にいえば、中国本土から東に200キロしか離れていない尖閣において、挑発行為を繰り返せば、条件さえ揃えば、中国国家、共産党の政治軍隊人民解放軍の性格から大胆に軍事行動を起す。
その場合、経済面も含めて中国は元々そういう歴史を繰り返してきた国であり現体制なのだから、一番被害を受けるのは日本となろう。戦前の情勢が特殊例外なのである。
米国がどうするかは状況判断次第であろう。コレまでの動向から天秤にかける余地は確保している、とみる。
 戦前を東アジア政治経済構造を振り返ってみても、日本は一定の枠を超えて、この方面に展開した場合、対米依存が深まるシビアーな連鎖があり、現在も形は大きく違っていても替わらないと考える。
また米世界戦略にしたがって、インド洋や中東方面まで展開するというが、やってみるが良い。ここでもまた大きな深手を負うのは日本である。軍人でもない素人が勇ましく勝手な絵を描くルートがこの度の先に待ち受ける失陥の実相だったとは、あきれ果てる次第である。
 
 乱暴に言えば、今後ともこのような愚か者どもが主導権を握っていく推移から、今後は政府が勝手に戦争政治を発動しても、多くの国民が気持ちを萎えさせずに抵抗できるような政治環境作り現時点から目指す必要がある。そこまで現在と先を読んでシビアーにかつシブトク、柔軟にやっていく必要がある。
アントニオ猪木参議院議員が勝手に北朝鮮渡航したからといって、30日もの登院停止の懲罰が下った、とは驚きである。実際の情勢を有利に展開することにクソの役にも立たず、勝手に身を硬くしているだけであり、一種の戦前から続く矮小偏狭なる日本政治の病である。鬼畜米英と位相は同じである。
秘密保護法の現実化の先取りであり、実に手回しが良いが、日本政治固有の風土病が既に進行している。
 
 が、余計な危機感を醸成させることは不必要である。
情勢は個々人が生きている間に継続するのに、勝手に区切りをつけて、余計、過剰なな圧迫感を抱き過ぎると、情勢への主体的かかわりを諦めてしまう道につながる。
 
 実際の情勢の推移は過去の1930年代も一面的単線的でなかったし、現在ではもっと複雑であり、識者の中でも誰も本当の確証を持っているものはないと考える。ただ情勢の推移に過剰に備えている振りをしているだけである。そのほうが市場原理主義服従の檻の運営に役立つことを知っている。彼等の本心は金儲け、この一点に尽きる。そのために民族や国家の共同政治幻想を自らの政治意思の元に国民統合を果たすために利用しているだけだ。
 
 
      秘密保護法は市民の普段の政治参加を圧迫する
 >>共同通信元主幹の指摘は日本国憲法下の自衛隊が国民へのスパイ諜報活動が偶々あぶりだされたから、異様な事態と受け止められているわけだが、現状の自衛隊には、この種の活動をする専門機関が内部に確固として存在すると思われる。
 
 以前、どういう切っ掛けかハッキリしないが、三島由紀夫の市谷自衛隊事件をネットで調べた時、一つの記事が目に付いた。
 
 安保学園騒動を前に危機感を募らせ盾の会を結成した三島は自衛隊に近づき、軍事、諜報活動訓練を自衛隊の担当箇所で受けるまでなった。
 その際、盾の会と三島の自衛隊外の実践活動は当時盛んだった左翼系の大衆行動に偽装して侵入し、主導的な人物を特定すること、騒動の発生しやすい地域に潜入すること、など、全て騒乱を想定した自衛隊の治安維持を任務とする当該機関の活動に民間部隊として連動を想定するものであった。
 
 自衛隊側の三島の活動と関係した当該機関の担当者は三島の想いと活動が過激になり一定の枠をはみ出すことを恐れて、次第に距離を置くようになって遂に関係を切った。
 
 その延長線上での三島側の自己過激化のような暴発が市谷の事件の真相であった、と言うのが記事の主旨だった。
 
 上記の事態は今から40年以上も前のことである。
 
>三島と盾の会はああいう事態で活動の方向にピリオドを打ったが、一方、三島にスパイ活動の具体的な手法を訓練した自衛隊側の担当機関は、その後どのように推移したのであろうか?
 間違いなく、予算規模と人員、機関の内外での拡大を経て今日に至っているはずである。
 
 先の共同通信元編集主幹の方は、おそらくの現在の当該機関の実情のアウトライン程度は掴んでいて、「イラク派遣の反対運動の参加者を監視していた事例を挙げ、「法案通ればこのような違法行為が合法化される」と指摘しているのだと想う。
 
  
 >このような諜報、謀略活動と連動する米国を主とする機関に目を向けると、米軍の最上級の将校を頂点とする米国国家安全保障局が注目される。
 
 この部局の諜報活動にたどり着いたのは今年の夏の8月15日記念を控えてリアルな戦記に沿ったブログ記事を作成途上に暗号解読の情報戦に置ける米軍の圧倒的優位性が戦局を左右した事実に目を見張り、
フト、その後のこの部局の発展を予測して、それまでたいして気にも留めなかったスノーデン事件を調べたところ、その関連から芋づる式に事実が次々に知らされて、全容が実にリアルにわかった。
 
  この時点でまだ秘密保護法のことは取りざたされておらず、浮上してきたのは9月からだった、と想う。
そこで、日本の秘密保護法と米国国家安全保障局は自分の中ではリアルに合体した。
 
 具体的事実から出発し、事実を積み重ねた結果、たどり着いたのだから、上から曖昧模糊とした当該機関や法律を想定したり解釈するのとは違って、臨場感がある。
偶然に歴史的推移をキチンと辿ったわけだ。
 
 元共同通信主幹の方は自衛隊のことだけを取り上げているようだが、こういった諜報、謀略活動を市民の政治活動のまじかで行うのは警察公安の全国的な指揮系統である。
 
 市民担当の警察公安と一緒になって秘密保護法を運用する日本版国家安全保障局の実働部隊は内閣情報調査室のようである。
内閣情報調査室は公安情報に詳しいジャーナリストの青木理さんの反対声明の席での指摘によれば、公安警察の別働隊とのことである。
そう云えば、秘密保護法の趣旨説明を反対する議員の勉強会で主に説明していたのは、内閣情報調査室の官僚で、発言内容その他から得た感触は、法案を作成した当事者の如き風情だった。
 
 そして結局、日本版国家安全保障局とセットの秘密保護法は市民にとって何なんだ?
どういう影響を及ぼすに焦点が絞られる。
 
 1)マスコミ各社のジャーナリストだけでなくフリーも含めて、ジャーナリストはリアル、生な事実に興味を示し、その情報を得て大衆に知らせることを生業にしている。
目の前の事実に対する好奇心が旺盛な人でなければ、ジャーナリストは勤まらないと想う
 
 個別の事実に拘って時間をかけて深く掘り下げたり、全体の状況を俯瞰したり、事実と事実を繋ぎ合わせ練り合わせて、体系的なものを捻出するのは研究者、学者の主な仕事であり、ジャーナリストに、そういったものは基本的に期待できない。
我々はそういったジャーナリズムの限界を弁えた上で、できるだけリアルでホットな情報を多様に目の前に提示してもらえばそれで言い訳で、それらを取捨選択し判断を下すのは我々の側である。
 
2)ところが、秘密保護法と日本版国家安全保障局ジャーナリストの上記のような根幹の生命線とでも言うべき活動に拡大解釈される国家安全保障のレッテルを貼って、次々と大きな制限を加えるのである。
 
 勿論、同時に国家秘密情報に指定された情報に直接間接に接する官民の漏洩と当局が判断する行為には一律に重刑が科せられる。
 
 そうすると、情報源という仕入れ材料に限界と欠損がもたらされている事実があるわけだから、ジャーナリストのリアルでホットな情報を国民に広く伝達する、という生業はある程度の知識欲を有する国民からは常に疑い、疑問の念を持って受け止められるようになる。
コレまでネットジャーナリズムの普及や彼等の事実報道を根拠に散々、マスコミ不信がいわれてきたが、その傾向はますます強まっていくであろう。
 
3)ただし、こうした今までのマスコミ不信を再考してみると、過剰になると、問題が出てくる場合がある
残念ながら、フリージャーナリズムは物的人的制度的制約の下、一次情報を集約できないという特性を持つ。
 
何だかんだイってもこれまで日本のマスコミが報じてきたのはリアルでホットな一次情報だった。
それが細切れにされたり、政治的意図を持って編集されている、と見ているから問題だったのだが、それらは一次情報に基づくものが多いのも事実で、その中から取捨選択して事実を取り上げることも可能である。
 
 ところが、具体的にいえば、自分のようなマスコミほとんどといって接しない者がネットや読書、生活、過去の体験などを寄せつめて、時局をアレコレ論じる場合、決定的な自己の欠損部分を自分が普段から何処まで意識しているかの問題が生じる。
 
 時局に対する一次情報に幅広く接していると、自然と世の中、世界はイロイロな事情で成り立っていると実感するようになるが(バランス感覚)、それが欠損して時局を論じる場合、自己肥大化の独りよがり、現実から遊離した観念化傾向、最悪のパターンは勝手な妄想を組み立てて、自己過激化の罠に落ちいる危険性が付きまとう。
 
 自分の場合、そういった傾向への歯止めとして、できるだけ事実を挙げて(コレは非常に不足している)しつこいほど論証過程を大事にしている。事実と論証において破綻したと想われる記事は破棄するかやり直すようにしている。
長文で散漫な記事のかなりの部分はその所為である。
対象の思惑や憶測を体系化して論じないようにしている。
手短に対象を断定したり断罪したりはできるだけしないようにしている。
 
 にもかかわらず、自分の情報源の偏りという欠陥は常に意識しているつもりである。
そもそも自分が正しいとは想っていない。こんな意見もある、と自負心を持っているだけである。
 
 ネット言論や情報活動の最大に欠陥は読者視聴者層が極限られたもの限れていているということで、それが相互にリンクしているとしてもた多寡が知れており、似たような傾向の見解の持ち主が情報蛸壺に集住しているようなものである。
そこでの正しさ正確さ果ては正義は国民規模の検証を受けていないし、受けなくてもやり過ごすことができるのである。
一方、マスコミはこの面では、大きく違っている。勿論、公然としている大きな限界もはらんでいる。
 
>一次情報の大切さはそれが目の前の時局に直接関わるから、取捨選択の按配がわからず、混迷に陥るのだが、それを歴史における一次資料の大切さの問題に移し変えるとよく解る。(かなり飛躍は承知しているが)
二次三次資料などいくら収集しても歴史の妥当な線になかなかたどり着けない。
 
 一次資料でも複数を刷り合わせてやっと、歴史の真実が明らかになる。
勿論、そのような方法的自覚も無い立場を憶測というのである。
歴史が憶測推断だらけで記述されるどうなるか?教え込まれたものが、集団で間違った判断を下すのだ。
 
 <現実に選挙以外の市民の政治参加する人数は日本の場合、先進国で極端に少ないし、活発に活動する市民団体の数も少なく、制約も多過ぎる>
 
 上記の3点は全部環になって、選挙前だけの政治となって、選ばれたものは、市民参加の政治の日常的監視制約から解き放たれて、後はマスコミの反応対策だけしておれば良い、と好き勝手な独裁権力を行使できる。
 
 もう極端に言えば、マスコミ方面さえ平定しておけば、市民の動向など全然気にしなくてもよいというわけだ。
この構造が本質だから、現時点の国会の多数決原理の暴走が可能になる。
 
 マスコミで政治はてな?おじさんを演じている池上彰さんは選挙で選ぶことははっきりと政治家と政治党派に独裁政治権力を委譲することだと本に書いている。
分の知っている限り、ここまであからさまに民主主義の本質を描いた識者は米国にも見当たらない。
サミュエルソンは決定権を付与すると書いているが、独裁権などを匂わせる表現はしていない。
実際の米国の制度と政治はそういうシステムで回っていないからだと想う。
池上彰が独裁権力を付与するとまで断言できるのは、日本の実際の制度と政治システム、風潮の現実に基づくからだ。
 
 そういう日本の政治の現実にあって、秘密保護法はどういう機能を果たすのか。
 マスコミは推定や憶測だらけの記事しか書けなくなる。
リアルホットな一次情報という死活に関わる材料が手にはいらなくなるからだ。
多くのものは更なる不信を抱く機会が多くなるが、一般的には沈黙が支配する。沈黙とは政治的受容の事である。
マスコミはさらに無気力になって、権力の流す限定情報追従になる。
ここでも期限を区切った諦めムードが支配する。
 
 市民の政治参加は権力によって事実上、包囲されたような状況になるだろう。突出したものはしたものは排除される。
 
 ネットメディアは既に指摘したように存立基盤が分断された構造を本質としている。
自分はそれらに載った見解を情報として批判的に摂取しているだけである。同調することなどめったに無い。
 
似たもの同士の仲良し同好会のようなもので、閉じられて情報空間であり、見解の相違を許容する度量はない 
そもそもが行動にリンクされる突破力に乏しい個別、小集団の認識行為に閉じ込められている。
人間は社会知識をいくら積み重ねても、行為が伴わなければ、新しい境地が獲得できない仕組みになっている。
ロボット、コンピューターでなく、人間は動物の一種に過ぎないからだ。
人間の社会意識は類的行動が伴わなければ、本当の学習能力は極端に落ちる。