The Platters - Only You - HD (1955)
The Platters - The Great Pretender - HD (1955)
The Platters Unchained Melody
Righteous Brothers - Unchained Melody (High Quality)
かなり落ちるな。ハートフル度が落ちるってコト。白人聖歌隊方面に流れている。呼吸感、実存感に乏しい。
こういうのが好きなヒトが一杯いる。
ナニ、きどてってんだという感じ。
The Ronettes - Be My Baby - Stereo
キャロルキング作曲じゃなかったっけ?違うだろうな。違う!と後から確認。
途中、ストレングスを入れたりしてアザトイめんが気になる。
正真正銘のCarol King's song
The Shirelles - Will You Love Me Tomorrow (Live, 1964)
キャロル、キングの歌声が聞こえてきそうだ。
だが、コレは聴かない方が夢が膨らむ。
carole king will you still love me tomorrow lyrics
The Drifters - Stand By Me
>やはりベース音を底流にしたメロディーライン、と結論。そうすると、この曲を生み出す過程での独創性の鍵を握ったベース音主体の自らのコレ。
Stand By Me, Ben E King, 1961
このオリジナル、バージョンの最大の難点は曲の山場をストリングスの楽隊さんの盛り上げにしたことでジャージーな当初のベースの音の印象的効果がかき消されていること。
ただ、最初の調子のままだと通の好みに終わる可能性があった。この辺が難しい。
The Marvelettes - Please Mr. Postman (1961)
ビートルズよりいい。こころがある。
Whitney Houston - I Will Always Love You 1999 Live Video
Dolly Parton - I Will Always Love You - Bingolotto 2002
作詞作曲者。
Dolly Parton-In My Tennessee Mountain Home
Dolly Parton - Me & Bobby McGee (Live)
クリスクリストファーソンの名曲。
ジュリーロンドンは安心して聴ける。バックグランドミュージックに最適。
Julie London - You'd Be So Nice To Come Home To
You'd Be So Nice to Come Home To - Anita O'Day
Fly me to the moon - Julie London
Anita O'Day - Fly me to the Moon
From Anita O'Day Live in Tokyo 1963
- アニタ・オデイ Anita Oday ーW。日本版ウィキでていない。チョッとなぁ~。ジャズは不案内だけど、彼女の名前ぐらい知っていた。余りにも有名なヒトだから。ジャズ史に残るヒトだよ。
ま、タミーウィネットの日本語版ウィキがアップされていないと嘆いている記事を読んだことがあるが、同感!
自他共に認めるザ、ファーストレディ、オブ、カントリーミュージックなのに。「スタンド、バイ、ユア、マン」は日本でもソコソコはやった映画のワンシーンで使われたヒット曲もある。
ヒラリークリントンは「スタンド、バイ、ユア、マン」の歌詞を引き合いに出している。
<白人女性ジャズ・ヴォーカルの最高峰>
白人女性ジャズ・ヴォーカルの最高峰といえば、多くの人がアニタ・オデイをあげるでしょう。それは彼女こそ、モダン・ジャズ以降のジャズ・ヴォーカルにおける定番ともいえるスタイルを確立したアーティストだからです。では、そのスタイルとはどんなものか?
その原点には、彼女がもっとも影響を受けたジャズ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリデイの存在がありました。
白人女性ジャズ・ヴォーカルの最高峰といえば、多くの人がアニタ・オデイをあげるでしょう。それは彼女こそ、モダン・ジャズ以降のジャズ・ヴォーカルにおける定番ともいえるスタイルを確立したアーティストだからです。では、そのスタイルとはどんなものか?
その原点には、彼女がもっとも影響を受けたジャズ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリデイの存在がありました。
W。ビリー、ホリディそのもの。
ビリーホリデイには近づかないようにしている。生きる力が吸い取られてしまうような気がする。
Anita O'Day- The Man I Love
>聴かないことにしているが、ビリーホリデイを。ビリーの手にかかると乗りのいい曲がこんな風になる。
彼女の特徴は独特の声質、発声法だけでなく、節回しにあることがわかる。
Billie Holiday - All of me
けっしてシャウトすることなく「クール」かつ「器楽的な発声」を用いるビリーの歌唱スタイル(WACWAC。引用させてもらってケチをつけていることになるが、適切なたとえではない。ビリーの歌唱法の特徴は日本で言えば演歌歌手がこぶしを利かせるのと同次元。カントリー歌手も普通にやるが、中でもアーネストタブの独特の淡々とした歌唱法は、ビリーの世界に最も近い。歌の世界でも模倣と継承が基本であり、ビリー以前にビリー風の唄い方をしたシンガーがいたはずである。音の記憶を辿ると、ビリーじゃないビリーのような歌声が木霊する。)白人であり、なおかつ誰からの指導も受けなかったアニタにとっては唯一の教師でした。ソウルやR&Bを歌うには明らかに不足している声量や音程の不安定さ、彼女はそれを逆手にとります。即興性を生かし、けっしてパワフルに歌わない「軽さ」の重視、それに彼女独特のハスキー・ヴォイスが加わることで、現在では当たり前となっている都会的でお洒落なジャズ・ヴォーカルが生まれたのでした。W.現在の日本の女性ジャズボーカリストはこの線。
ジャズ界の歌姫へ>
アニタ・オデイ Anita O'Dayは、1919年12月18日イリノイ州のシカゴで生まれています。彼女は、黒人ジャズ・ヴォーカルの最高峰ビリー・ホリディと白人女性ジャズ・ヴォーカルにおける最初のスター、ミルドレッド・ベイリーのレコードを聴きながら、それを独学で身につけ、10代で歌手として活動を始めました。プロとしてのデビューは20歳の時、マックス・ミラーのコンボとの共演でした。その後彼女は、美人なだけでなくジャズ・ヴォーカリストとして天賦の才能を持っていたことから、すぐに人気者となります。1941年にはジーン・クルーパの楽団に引き抜かれ、さらなる注目を浴びます。この時期の彼女はビリー・ホリディの影響が強かったようですが、1944年にスタン・ケントン率いるビッグバンドに所属してからは、彼女ならではのハスキーな声と乗りの良さを前面に出すようになり独自のスタイルが生み出されることになります。
1945年、再びジーン・クルーパ楽団に所属してからは、「ブギ・ブルース」のヒットなどでいよいよ知名度も上がり、ジャズ雑誌の人気投票でバンド・シンガーの女性部門で第一位になるなど人気者の仲間入りをします。同年、ソロ歌手となった彼女は歌手活動と平行してクラブの経営にも乗り出します。しかし、クラブの経営には失敗し、そのストレスもありアルコール中毒となった彼女は歌手としての活動も行き詰まってしまいました。
<救世主ノーマン・グランツ>
経済的にも肉体的にも危機的状況にあった彼女を救ったのは、当時ジャズ界の大物プロデューサーとしてその名を知られていた人物、ノーマン・グランツでした。
ノーマン・グランツ Norman Grantzは、1918年8月6日生まれのウクライナ系ユダヤ人です。
アニタ・オデイ Anita O'Dayは、1919年12月18日イリノイ州のシカゴで生まれています。彼女は、黒人ジャズ・ヴォーカルの最高峰ビリー・ホリディと白人女性ジャズ・ヴォーカルにおける最初のスター、ミルドレッド・ベイリーのレコードを聴きながら、それを独学で身につけ、10代で歌手として活動を始めました。プロとしてのデビューは20歳の時、マックス・ミラーのコンボとの共演でした。その後彼女は、美人なだけでなくジャズ・ヴォーカリストとして天賦の才能を持っていたことから、すぐに人気者となります。1941年にはジーン・クルーパの楽団に引き抜かれ、さらなる注目を浴びます。この時期の彼女はビリー・ホリディの影響が強かったようですが、1944年にスタン・ケントン率いるビッグバンドに所属してからは、彼女ならではのハスキーな声と乗りの良さを前面に出すようになり独自のスタイルが生み出されることになります。
1945年、再びジーン・クルーパ楽団に所属してからは、「ブギ・ブルース」のヒットなどでいよいよ知名度も上がり、ジャズ雑誌の人気投票でバンド・シンガーの女性部門で第一位になるなど人気者の仲間入りをします。同年、ソロ歌手となった彼女は歌手活動と平行してクラブの経営にも乗り出します。しかし、クラブの経営には失敗し、そのストレスもありアルコール中毒となった彼女は歌手としての活動も行き詰まってしまいました。
<救世主ノーマン・グランツ>
経済的にも肉体的にも危機的状況にあった彼女を救ったのは、当時ジャズ界の大物プロデューサーとしてその名を知られていた人物、ノーマン・グランツでした。
ノーマン・グランツ Norman Grantzは、1918年8月6日生まれのウクライナ系ユダヤ人です。
彼はジャズ界の名プロデューサーとして有名でしたが、才能あるアーティストを発掘する達人としても知られていました。ある時、カナダへ出張した彼はタクシーのラジオから聞こえてきたピアノの音が気に入り、さっそくすぐにその演奏者をスカウトし、アメリカに連れて行き録音を行わせます。それがジャズ・ピアノの巨人オスカー・ピーターソンでした。
そんな彼はアニタの才能もいち早く認め、彼女を自らのレーベル「クレフ」に呼び寄せ自らプロデュースを担当、復活への手助けをします。ちなみに、この「クレフ」は、その後ジャズ界における名門レーベル「ヴァーヴ」へと発展、そこから数え切れないほどのジャズ・ミュージシャンがアルバムを発表することになります。(エラ・フィッツジェラルド、オスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンス、デューク・エリントン、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、ニーナ・シモン、ルイ・アームストロング、レスター・ヤング、最近ではティル・ブレナー、ジェイミー・カラムなど、その他にはジャズ・ミュージシャンだけでなくヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどロック系のアーティストもいました)こうして、1950年代から60年代にかけてジャズ界の中心人物として活躍したグランツの助けにより、彼女は1950年代絶頂期を迎えることになります。
<映画「真夏の夜のジャズ」>
絶頂期を迎えた彼女のパフォーマンスを世界中に広めたのは、音楽映画の歴史にその名を知られる名作「真夏の夜のジャズ」です。
1958年7月に行われたニューポート・ジャズ・フェスティバルのライブ映像に彼女はメイン・アクトではなく、昼間の部で登場しています。しかし、彼女らしいお洒落なファッションと観客のリラックスした映像の組み合わせは、その映画における最高の見せ場となりました。もちろん、彼女が歌う「スウィート・ジョージア・ブラウン」や「二人でお茶を」は、フェスティバルの雰囲気にもぴったり合っていて、50年代ジャズ黄金時代の輝きを象徴する映像になっています。この映画には、その他にダイナ・ワシントン、セロニアス・モンク、ジェリー・マリガン、チャック・ベリー、マヘリア・ジャクソン、ルイ・アームストロング、エリック・ドルフィーなど、ジャズ界だけでなく当時の音楽界を代表するアーティストたちが数多く出演していました。そんな大スターたちの中でも、彼女のパフォーマンスは負けない輝きを発していたのです。
<下り坂へ>
彼女の輝きは1960年代まで続きます。しかし、1964年にノーマン・グランツの元を離れると再びスランプに陥るようになります。それどころか、彼女は麻薬にも手を出してしまいます。そのまま彼女はジャズ界から消えても不思議はありませんでした。しかし、ここでも再び彼女は踏みとどまり、麻薬から抜け出すための矯正施設に入ると、1969年現役に復帰します。
1973年以降、彼女は活動拠点をそれまでのニューヨークから西海岸へと移します。しかし、環境を変えてもなお、麻薬やアルコールの乱用によって失われた彼女の歌声を完全に取り戻すことは困難で、彼女は二度と黄金時代の輝きを取り戻すことはできませんでした。
<代表作>
「Anita Sings The Most」 1956年(ヴァーヴ)
オスカー・ピーターソンをピアノとするカルテットをバックにした彼女の代表作。「テンダリー」「ラブ・ミー・オア・リーヴ・ミー」「星影のステラ」などを収録。これまた彼女の最高傑作と言われるアルバムです。
そんな彼はアニタの才能もいち早く認め、彼女を自らのレーベル「クレフ」に呼び寄せ自らプロデュースを担当、復活への手助けをします。ちなみに、この「クレフ」は、その後ジャズ界における名門レーベル「ヴァーヴ」へと発展、そこから数え切れないほどのジャズ・ミュージシャンがアルバムを発表することになります。(エラ・フィッツジェラルド、オスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンス、デューク・エリントン、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、ニーナ・シモン、ルイ・アームストロング、レスター・ヤング、最近ではティル・ブレナー、ジェイミー・カラムなど、その他にはジャズ・ミュージシャンだけでなくヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどロック系のアーティストもいました)こうして、1950年代から60年代にかけてジャズ界の中心人物として活躍したグランツの助けにより、彼女は1950年代絶頂期を迎えることになります。
<映画「真夏の夜のジャズ」>
絶頂期を迎えた彼女のパフォーマンスを世界中に広めたのは、音楽映画の歴史にその名を知られる名作「真夏の夜のジャズ」です。
1958年7月に行われたニューポート・ジャズ・フェスティバルのライブ映像に彼女はメイン・アクトではなく、昼間の部で登場しています。しかし、彼女らしいお洒落なファッションと観客のリラックスした映像の組み合わせは、その映画における最高の見せ場となりました。もちろん、彼女が歌う「スウィート・ジョージア・ブラウン」や「二人でお茶を」は、フェスティバルの雰囲気にもぴったり合っていて、50年代ジャズ黄金時代の輝きを象徴する映像になっています。この映画には、その他にダイナ・ワシントン、セロニアス・モンク、ジェリー・マリガン、チャック・ベリー、マヘリア・ジャクソン、ルイ・アームストロング、エリック・ドルフィーなど、ジャズ界だけでなく当時の音楽界を代表するアーティストたちが数多く出演していました。そんな大スターたちの中でも、彼女のパフォーマンスは負けない輝きを発していたのです。
<下り坂へ>
彼女の輝きは1960年代まで続きます。しかし、1964年にノーマン・グランツの元を離れると再びスランプに陥るようになります。それどころか、彼女は麻薬にも手を出してしまいます。そのまま彼女はジャズ界から消えても不思議はありませんでした。しかし、ここでも再び彼女は踏みとどまり、麻薬から抜け出すための矯正施設に入ると、1969年現役に復帰します。
1973年以降、彼女は活動拠点をそれまでのニューヨークから西海岸へと移します。しかし、環境を変えてもなお、麻薬やアルコールの乱用によって失われた彼女の歌声を完全に取り戻すことは困難で、彼女は二度と黄金時代の輝きを取り戻すことはできませんでした。
<代表作>
「Anita Sings The Most」 1956年(ヴァーヴ)
オスカー・ピーターソンをピアノとするカルテットをバックにした彼女の代表作。「テンダリー」「ラブ・ミー・オア・リーヴ・ミー」「星影のステラ」などを収録。これまた彼女の最高傑作と言われるアルバムです。
Tenderly- Anita O'Day-Oscar Peterson Trio
Anita O'Day- Vocals
Oscar Peterson-Piano
Herb Ellis-Guitar
Ray Brown-Double Bass
Recorded
January 31, 1957
Oscar Peterson-Piano
Herb Ellis-Guitar
Ray Brown-Double Bass
Recorded
January 31, 1957
>オスカーピーターソンはこんな感じ。
Oscar Peterson plays All of me
>ビル、エバンスと聞き比べるとオスカー、ピーターソンの持ち味がよく解る。
Bill Evans Trio - Some Day My Prince Will Come
聴いていて神経が休まらない。
Julie London - I'm Coing Back To You
This is a real "gem" of Julie's...one of her "best" performanc
W。同感
The End of the World -Julie London-
コレだったら、元祖のナッシュビル製ポピュプスのこちらの方に親しみを感じる。
当時の日本でもスキーターデイビス盤で流行った。
Skeeter Davis -- The End Of The World
後の同型ではコレ。
Lynn Anderson -- Rose Garden
>独創的イントロのはいりは南沙織の「17歳」のパクリがパクっていることで有名。その他、そっくりそのままのパクリは数知れず、いい加減にしろ!
The Tennessee Waltz - singer Patti Page 1950
パツィー、クラインが歌うとテネシーワルツはこうなる。
Patsy Cline ~ Tennessee Waltz
ジェシカ、ラングがパツィークラインを演じた映画があるらしいが、同じ演技派でもシシー、スペイセクのロレッタ、リンよりははるかにマシだろう。完全なミスキャストだった。あり得ない。
同映画のシーンで親友、パツィークラインの突然の飛行機事故とsweet dreamsをステージで歌う姿が実録で挿入されている。
コレがジェシカラングのパツィークライン。
patsy cline sweet dreams
パツィークラインの物まねヒットメドレー
Aways Patsy Cline - Sweet Dreams
~ LOVE LETTERS ~
この唄は日本の自動車メイカーのCMで流れていたらしい。大人のジャズタイムのイントロにも使われているが、ジュリーロンドンの中ではメジャーな唄でないらしい。エルビスプレスリーが取り上げて有名になったのか。
エンゲルベルト・フンパーディンク 「太陽のあたる場所」
昔、沖縄のショーパブで聞いたとき、初めて知った。エンゲルベルト盤よりメリハリが効いていた。
ギター兼ボーカル、ベースギター、ドラムのトリオだったように思う。
中西部の田舎出の上昇志向の強いモンゴメリークリフトが縁戚の上流社会の娘(テイラー)と恋仲になって、それまで付き合って身ごもった同僚の工員を真夜中の湖のボート遊ぶに誘い出し、荒天の湖の真ん中でボートから転覆した娘を見殺しにする話である。
裁判になって<未必の故意>殺人の判決が下った。
アリス・トリップ役:シェリー・ウィンタースの役になりきった押さえた演技が光る。
Country Sisters - Let's Twist Again (2006)
Chubby Checker - Let's Twist Again (lyrics)
カントリー・シスターズ (Country Sisters) は、ロック / カントリー音楽を演奏するチェコ共和国ヤブロネツ・ナド・ニソウを拠点とする6人編成のガール・グループ(ガールズバンド)。このグループ名による活動は1989年から続いているが、グループの歴史はさらに10年以上遡り、前身のグループは1972年に結成され、チェコ語で Jizerská Protěž(「ジゼラ山のエーデルワイス」の意)と名乗っていた。
カントリー・シスターズは、中央ヨーロッパ諸国を中心に欧州各地をツアーしており、チェコ国内よりも国外での公演の方が多い[2]。特にフランス、スイス、ドイツや、スカンディナヴィア諸国で広く知られ、人気がある。さらに、オーストラリアやカナダでもコンサートを行なっている。1998年に最初のオーストラリア・ツアーを行なったほか、2006年にはカナダをツアー。
彼女たちのレパートリーは、おもにロックンロールやカントリー音楽のスタンダード曲のカバーで、その数は百曲以上に及ぶが、かつてのフランス領ルイジアナやフランス領カナダ(アカディア)以来の伝統的な音楽であるケイジャンの曲も含まれている。演奏には、カントリー音楽に用いられる標準的な楽器が用いられ、ドラムス、エレクトリック・ベース、エレクトリック・ギターからなる典型的なリズム・セクションに、ピアノとキーボード、フィドル、アコーディオンが加わる。
このグループに参加したメンバーは、結成当初からのべ35人におよび、その中には歌手9人、フィドル4人、ベース4人、ピアノ5人、ギター5人が含まれている。彼女たちの作である「Allelujah」は、過去と現在の在籍メンバー全員によって演奏された。
2010年現在、グループの謳い文句は「ヨーロッパのハートからのカントリー・ミュージック (Country music from the heart of Europe)」であり、メンバーは以下の通りである。
- ソニア (Sonia) - バンドマスター、バンジョー、エレクトリック・ギター、スティール・ギター担当:リベレツ出身で、グループ創設時からのメンバー
- アンドレア (Andrea) - ボーカル、キーボード:チェスケー・ブジェヨヴィツェ出身で、2009年からグループに参加
- リンダ (Linda) - フィドル(エレクトリック・ヴァイオリン):2004年からグループに参加
- ルッカ (Lucka) / 通称ルーシー (Lucy) - エレクトリック・ギター、 ボーカル:2003年からグループに参加
- クララ (Klara) - リズムギター、 ボーカル:チェスケー・ブジェヨヴィツェ出身で、同地の音楽院で学び、2006年からグループに参加
- アレナ (Alena) - キーボード、ギター:2006年からグループに参加
>カントリーミュージックファンなのでYUE TUBEで知っていたけど、演奏を最期まで視聴したことは一回もなかった。てっきりアメリカ南部の際物バンドと思っていた。その割りに演奏は上手いなとー。まさかチェコのバンドでアメリカで演奏したことがないとは。
>世界は広い!
Country Sisters - Orange Blossom Special (2006)
このフィドルのスタンダードナンバーは苦しい。
フィドルはどう考えても調子をかなり外しっぱなしで脱線したまま、元に戻っていない。
譜面なんか余り関係なく雰囲気重視の、即興演奏だな。
結局よ~く聞いてみると動きっぱなしで、演奏から注意を分散している感がする。
コレではカナダ、オーストラリアどまりでアメリカ本場ではキツイな。物凄く上手い女性たちが頂点に君臨している。
かわい子ちゃん系もいないことはないが、それなりにうまい。
上手いだけでは勤まらない。動画には凝った弾き方も載っているがカントリーフィレーバーがでなくては。
ドン、リッチはギターの名手でもある。交通事故で若死にしてしまった。このナンバーのインストルメンタルだったら、もっと上手い人がいるが上手過ぎてついていけない。ドンリッチ程度が丁度いい。今の女性ではアニソン、クラウスのフィドル。
>バーバラ、マンドレルのOrange Blossom Special 。The Mandrell Sisters-Medley Instrumental
真ん中のバンジョーがバーバラ、マンドレル。
本場ではこういう状態だから、近づかないほうが懸命だった。
カントリーミュージックは日本では演歌に例えられがちだけど、カントリー歌手は最低でも一つの楽器をカネを取って人前で演奏できる程度でなければ、本物と認めてもらえない。唄だけの人(昔はほとんどいなかった)は独創的な歌唱力がいる。
Barbra Mandrell - Steel Guitar Rag
このヒトの歌唱力は中の上。ヒットしたもち歌がないのが限界。
シンガーソングライターはあたりまえにいる。
大都会と違って時間がゆっくり流れている地域だから、一般人も楽器に接する機会のあるヒトが多い?。
地域コミニュティー、元々雑多な住民が集まれば、日本みたいに阿吽の呼吸は通用せず、唄って踊って連帯を共有するしかない。教会もそこに行けば神様と近づきになれるというよりも、神様の形式を使ってしか共同性が担保されない特殊事情がある。
日本ではそういう手間は必要ない。コレは民主主義の前提である同質性が元より備わっている日本の利点である。従って日本では無理に上から押さえつけなくても、共同性は容易に確保できる。むしろ、無理をしてやった場合は、一塊になり過ぎて集団暴走の危険性が高まる。秘密保護法、セットとしての日本版国家安全保障局は本質的に日本ではイラナイ。むしろ有害極まりない、と考えるが全ては結果において証明される。
東京オリンピック頃にどうなっているか?現在を見れば自ずから明らかであろう。
>音楽環境も日本の演歌とは違っている。
日本の演歌のステージは、一種の様式美。
何処まで音楽でエンターテイメントできているかといえば疑問符が付く。
だから、歌手の舞台にはコンサート兼芝居の必要が出てくる。ミュージカルの動きもできない。
手と感性が芸人に相応しく働かなければ、後は肉体を駆使する他ない、という段階。悪く言えば。
この状態を昔の芸者に例えると、芸がなければ、枕芸で勝負するしかない。
果たして穿った見方だろうか?
この曲はブルーグラスのインストルメンタルのスタンダードナンバーなのだけど、唄っている内容を聞くと、オールドカントリー、ブルーグラスで定番の列車を主題にしたもののようだ。フィドルで列車の疾走を表現していた。
知らなかった。この曲はオレンジの花の咲き乱れている様子を主題にしているものとばかり思い込んでいた。
定番の主題。初期は神様、片思い、失恋、嫉妬、酒、自然、労苦など、日常生活で心揺さぶられる素朴な
オールドカントリーソングは南部白人のブルースの意味合いがあり、悲しい現実を唄によって、昇華する側面が強いが、平原を疾走する機関車の唄は別格で、力強いものへの憧れを表現している。(ロイエイカフ「ワバッシュキャノンボール」)。
ハリウッド映画でも列車のシーンはよく使われた。
邦画の屈指の名作「東京物語」は静の画面の構成美で名高いが最期の尾道シーンでは高台にたたずむ老妻を亡くした笠智集が海岸沿いに走る原節子の乗っている帰京列車を目で追う。それから、ぽつねんと「今日も暑ぅなる」と呟いたんじゃなかったっけ?
ハンクウィリアムスの「アイム、ソーロンサム、アイ、クッド、クライ」に唄われている車は、真夜中の荒野の遠くの方から聞こえる緩やかなカーブの線路をスピードを落として走る列車の音で、広大な荒野の寂寥感を主題としたもの。(この唄のエルビス、プレスリーは評価する)
>>Orange Blossom Specialとは<オレンジの花>特急という機関車の名前だったのだ。
ま、大したもの。アメリカの田舎には東欧からの移民がたくさんいる。
チェコ人はそれなりに様になっている。
同じアフリカから出て来た200人(出アフリカは167人という具体的数字も出ている)にも満たない現人類は西に行った者と東に行った者はその後、基本的に混ざり合うことがなかったわけで、動物的に云えば、機能は同じでもかなり隔たりがあるわけで、6~7万年間の隔たりは、強制混血でもしない限り簡単に埋められないし、埋める必要もない。言語的にもまるっきり別物。
愚かしい振る舞いはやめたほうがいい。エテコウのようなことをやっている。勘違いが過ぎる。まず何より、アジアは仲良くすべきだ。
こうしてみるとポピュラーは余り知らない、な。クラッシックは受け付けないし、音楽趣味は相当、偏っている。
次は日本の好きな歌謡曲を選曲してみる。ここも懐古趣味に偏っている。
富士の高嶺に降る雪も
京都先斗町に降る雪も
雪に変わりはないけれど
解けて流れりゃ皆同じ!
>なかなか日本の唄もいいなぁ~。意味深で。
そういえば三波春雄さんの「東京五輪音頭」という突き抜けた唄もあったっけ。あの時代の日本人の気分が良く出ている。