反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

キリスタン武将、高山右近(1552年~)の生涯。日本初の政治犯としてキリストに殉じ国外追放、マニラにて死す。1615年2月4日。下克上、戦国の乱世を近代的自我に目覚め駆け抜けた武将であった。

 <高山右近>ーキリスト教に殉じる。日本最初の政治犯として国外追放、マニラにて死すーといいたいところだが、謎めいた一面のある人物。
 以下ウィキの高山右近を引用。
 
   >生い立ち
 高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。
W。注1ー大阪府豊能郡豊能町高山についてー
父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった<三好長慶>(W。注2)に仕え、三好氏の重臣松永久秀>(W。注3)にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。
そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。
後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けている。
それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。
右近はキリストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。
         
        (摂津三守護)ーこの地域独特の小領主乱立の混迷と下克上の内紛による修羅場ー
 しかし、三好氏は当主・長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。
そうした中、永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変する。
義昭は土着の領主の一つである入江氏を滅ぼすと直臣である和田惟政高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津の守護に任命した(摂津三守護)。
 
1)高山父子は和田惟政に仕えることとなったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱する。
2)>まず元亀2年(1571年)、和田惟政池田氏の被官・荒木村重中川清秀の軍に敗れて討死(白井河原の戦い)、
3)まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとる。
   
   鎌倉幕府内部抗争から連綿と続く剥き出しの武力権力を巡る殺人行為の政治>
4)村重は信長に接近して摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。
5)こうして摂津は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となった。
6)惟政の死後、高槻城はその子・惟長が城主となったが、まだ17歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐していた。
  
  <17歳の疑心暗鬼>ーここからの権力の座を巡る陰謀、疑心暗鬼、<やらなければやられてしまう>=敵と味方の峻別しかできない、という剥き出しの政治暴力発動の内部抗争は鎌倉幕府の内部権力闘争のリアリズムと同じ質。狭い政治テリトリーを巡る覇権争奪では内向きの政治暴力に純化する。狭い利害関係が争闘の動機になる。政策や制度は如何は問われない。

 しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまう。
  
>これにより高山家が主だった相談役となったが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言した。
>高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いた。
>友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら<殺される前に殺すべきだ>。
自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えた。
   
  <室内の乱闘でろうそくの日は消えた。暗闇に白刃の合間見える息つく間もない、殺傷場面のリアリズム>
>元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出した。
>高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされたが、<14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになった>。
>夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、
>右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に太刀の致命傷を負わせた。
だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ(W。すでに部屋の明かりが消えて真っ暗闇。同士討ち。)
右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまう。
(W。?首半分切断されたら確実に死ぬ。この物語の進行に従えば、陰謀を仕掛けた側の詰めが甘かったのか、返り討ちにあっている。疑問点の多いストリーである。もっとも最初から若殿は状況判断能力乏しく、ありえるストーリー。)

>>およそ助かりそうにない傷だったが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになった。(W。しかも味方による致命的刀傷。奇跡と!)
一方、惟長は家族や家臣たちと逃げ、輿に乗せられて和田家の生国・甲賀へ行ったが、同地で死亡した。
 
 この事件の後、高山父子は村重の支配下に入った。
村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができた。
2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。
 友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。
この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は当然息子の右近に大きな影響を与えた。
    
       荒木村重の反乱
 天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻した。

村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが失敗した。
 右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めた。
神父は信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよとアドバイスした。
 
 高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫する。
 城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなった。
>懊悩した右近はここにいたって城主を辞し、家族も捨てて紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭した。
荒木村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となった。
(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増される異例の措置を受けた。
 
    キリシタン大名として
 天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は右近と清秀の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけた
まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転した。
賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保った。
その後も小牧・長久手の戦い四国征伐などにも参戦している。
 
 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。
たとえば牧村政治・蒲生氏郷黒田孝高などがそうである。細川忠興前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。
 だが右近はキリスト教徒にとっては名君ではあったが、神道氏子・仏教徒にとっては父・友照同様に暴君だったとする記録もある。
友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。
領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。
 反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、
 その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となったがために寺社が必然的に減り、廃寺も増えたので、これを打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。
宣教師側は右近をキリスト教を広めた功労者として賛美する傾向があり、寺社側は右近によって領内のキリスト教徒の数が絶大的になり収入が激減したという事情があり、多分に誹謗中傷などをしている経緯もあるので、立場によって意見は分かれるところである。
     
     >国外追放
 秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。
>秀吉の側近の黒田孝高が真っ先に棄教するなど(キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。
 その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。
金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。
また利家の嫡男・利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。
慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。
 
>慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。
 長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。

しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。享年64。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。
     <逸話>
羽目を外さない非常に真面目な人物だったらしく、秀吉を始めとする諸将がそのことを褒め称える証言や数々のエピソードが残されている。織田有楽斎の「喫茶余禄」による右近の茶道の評価は「作りも思い入れも良いが、どこか『清(きよし)の病い』がある」というものだった。 ルイス・フロイスの「日本史」によると、高槻城下である村人が亡くなった時、当時は賎民の仕事であった棺桶を担ぐ仕事を率先して引き受け、領民を感動させたという。 バテレン追放令が出たときのこと。秀吉は右近の才能を惜しみ、茶道の師匠である千利休を遣わせてキリスト教の棄教を促したが、主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士であると答え、利休に説得を諦めさせた。
 
 
 
注1大阪府豊能郡豊能町高山(東地区南東部)標高が高いことから隣接する能勢町(地図上では北側の突出した地域)とともに「大阪の軽井沢、あるいは寒冷であることを強調して「大阪の北海道」「大阪のシベリア」などと称される
大阪府中心部より概して3°C程度は気温が低い。また、北摂山系に含まれることから冬季はバスが運休するほどの降雪に見舞われることもあり、温度は氷点下になることもある。一方、西地区一帯では標高200〜300mであり、東地区に比べて降雪量が少ない。町域のほとんどが旧令制国摂津国であり旧能勢郡であるが、高山地区は旧三島郡清溪村から編入された地域であり、旧島下郡である。
山地域は隠れキリスタンの里」としても有名。高山右近の生誕地でもあり、東地区の隣接地域である茨木市千提寺地区には隠れキリシタンの資料館・茨木市立キリシタン遺物史料館がある。
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畿内で大きな勢力を振るった<三好長慶W。注2http://kamurai.itspy.com/nobunaga/miyosi.htm
引用。
「悪逆非道な事を平気で行う英雄を 「梟雄」(きょうゆう) と言います。
戦国時代、「乱世の三梟雄」 と呼ばれた、3人の人物がいました。
1人は、謀略によって成り上がり、主君を打ち倒して美濃の国を奪取した 「斉藤道三」。
1人は、同僚を謀殺し、奈良の大仏殿を焼き、裏切りを繰り返して将軍をも暗殺した 「松永久秀」。
そしてもう1人が・・・ 主君に反乱を起こし、「下克上(家臣が主君を討つ事)」によってその地位を奪い、将軍家を追放して近畿を制圧した 「三好長慶」 です
しかし実は・・・ 三好長慶 は前の2人と違い、決して自らの野望のためだけにその所業を行ったのではありませんでした。
むしろ彼は、謀略・策謀 の渦巻く戦乱に巻き込まれた、犠牲者と言ってもいいかも知れません・・・」
 
 
 W。生駒山系の南部、信貴山系の奈良盆地よりの小さな独立峰にセティングされた山城にいたる急斜面は今は参道になっており、頂上付近は神社となっている。頂上に佇んで眼下の急斜面眺めると、この山城が小独立峰の地形を巧みに利用した天然の要塞であることが納得できる。
しかも、
 生駒山系全体の地形の特徴は大阪平野側の急斜面と奈良盆地側の比較的なだらかな斜面。
山城の小さな独立峰の裾野には都会の喧騒とは別世界の牧歌的な田園風景が広がる。
 
 松永久秀が覇権を争っていた地域の奈良盆地に向けて緩やかな斜面に開けたところに山城はある。
久秀は覇権を争奪の地、奈良盆地の平野部の城と信貴山山城を兼用していたが、最期まで地元の国人層を制圧できなかった。敵対者との関係も一筋縄にいかなくて、相手は地元国人武士層、伝統的宗教勢力でありで、連合したり、複雑。
軍事的に突出した武装勢力は形勢不利になると山城に逃げ込んだり、地元にかくまわれたりの柔軟性に飛んだ戦術を駆使していた。
 
>結局、地域の敵を制圧するためには単独の巨大な軍事力と京都中枢を左右する政治力が必要だった。
それを察知して、ナントカしようにも絶対にできないジレンマが久秀に信長配下を選択させたが、その信長でさえ本願寺相手の石山合戦に10年を費やしており、比叡山焼き討ち、一向一揆民衆数万虐殺に見られる如く、久秀勢力に一方的に加担する余裕はなく、京都権力中枢の掌握というまっすぐ開けた権力の道を強引に歩んだ。
 
 信長天下布武路線に対して久秀には下克上の世で鍛えた彼のなりの政治的直感からする判断と危惧はそれなりに持っていただろうし、ジレンマを抱えつつの燃え盛る野心を抑えることができなかった。
信長はあくまでも信長であったし、久秀は久秀であり続けた。それゆえに共に乱世を駆け抜けてこられたし、自害の結末に至った。戦国下克上リアリズムには他の道は彼等に用意されていなかった。
 
>大阪側には大和朝廷百済を支援し新羅、唐連合軍と水上戦を演じた白村江の戦の敗北を受けて、逆襲に備えた要塞跡といわれる小さな伐採地がある。遺物はそれらしき石が散在しているだけである。高安城跡倉庫礎石群
 
 そこから、大阪側に尾根伝いの遊歩道を少し歩けば、信貴山ロープウェイの頂上に至る。
 
頂上駅の広場から、奈良側、南側山腹の信貴山真言宗朝護孫子寺行きの大型バスの定期便が短い間隔で発着している。
急傾斜地にある山寺としては驚くほどの巨大な規模を誇る名刹である。寺に伝わる国宝『信貴山縁起絵巻』は我々の時代の教科書に載せられており、宝物館で対面すると感慨深いものだった(レプリカ)。
「。『信貴山縁起絵巻』の詞書とほぼ同様の説話が『宇治拾遺物語』にあり、『今昔物語』にも信貴山寺の草創に関する説話が収録されている。」ウィキ。
 
 わたしの大発見は信貴山山頂駅から、生駒山系の横たわる方角の尾根伝いに10分ほど歩いた日当たりのいい開けた数ha一面に広がる在日の方々の仏教墓である。千基以上あるだろうか。墓石に刻まれた本籍地を確認すると、済州島、及び半島南端で一致している。独自に作った独立宗派である。
 
>信長に政治的軍事的展望も持たず反抗し敗死した荒木村重や500年後にまで、悪逆非道な事を平気で行う英雄を 「梟雄」(きょうゆう)として名を残す三好長慶松永久秀は権力中枢京都に臨み、複雑な伝統的権力構造を有する先進地域で揉まれ、謀略疑心暗鬼の血生臭い接近戦を演じてきた高山右近に自我のあり方を問うキリスト教が宿り、その道に沿って生きるとその人生は、国外追放ーフィリピン、マニラにて死す。
 
 あくまでも戦国武将として枠のなかで宗教的自我に目覚め、その道を進むと、封建領主としての自己否定から、政治犯となって、追放の道に至ったのである。
 
 この時代の歴史を上っ面だけだけど、紐解くと大きな仮定として、日本に鎖国がなければ、今頃どうなっていただろうかという想念が思わず浮かんでくる。
日本民族にあるいろいろな意味での本当の足腰の強さを信頼すれば、侵略されたままでは決してなく、今よりモットいい社会の土台を戦って獲得できたのではなかったか?
「日本解放戦線」によって、江小戸時代、明治維新はあのように展開しなかったのではないかな?という妄想にフト囚われる。