反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

佐々木潤之助「江戸時代論」を参照して日本型封建制と大航海時代について。ー先進イスラムとの内戦を通じた絶対主義王政の中央集権国家形成がポルトガルを先行させたー

 今、集中している課題は佐々木潤之助著「江戸時代論」を読み解く作業である。
この著書の構成は冒頭に、教科書執筆者として、コレまでの教科書検定の限界内における江戸時代通史の内容に持論を加味して、江戸時代の歴史論を読む前に常識として抑えておいてもらいたい事項としている。
 
 次に歴史学者として、それまで研究してきた各々の専門領域の課題に立ち入って論じている。
その中で
三。在来技術と社会ー技術史上の江戸時代ー
四。それぞれの「氏系図」の時代ー家族史上の江戸時代ー
合計120ページは未知の分野であるし、とっつき難い。
 
 こういうリアル方面は数回前の藤木久志系の資料に基づき民衆世界を紡ぎ挙げていくものに興味が集中していて、佐々木潤之助のような、ハードな論文形式は、苦手であった。
 
 自己流の思考パターンの基本は体制におけるアウトサイダーの立場を打ち固めるためのものであり、支配秩序に具体的に立ち入った分析は余り必要でなかった。
>が、支配秩序のあり方が長く左右した時代を左右した江戸時代はそれを正面から課題としなければ、歴史像は見えてこない。
長期鎖国状態で支配層が固定しイロイロ画策すると社会と民衆はどういうことにあるか、およそ想像できるから、避けてきたわけだ。正直言って、歴史としてワクワクしない。
が、近現代史を理解する課題もそこに存在することも知っていたが、本来歴史は得意でないから、放置しておいて好きな中世史の世界に浸っていた。
遅まきながら、別分野を知ることにした。もう中世史は打ち止めにする。
内藤湖南は日本歴史の理解は応仁の乱以降で事足りるとしたらしい。
さすが唐、宋変革論という中国史理解の今でも通用するキーポンとを提出したヒトだけある。
歴史センスがある。自分にはマッタクないが。
確かに大きな図書館の古代史の書棚の膨大な本の前に佇むと、ナニゆえ?といつも素朴な疑問を持っていた。
 
 問題意識を盛り込んだ江戸時代教科書通史の部分は非常に参考になったし、今までの江戸時代に対するイメージとして自分の間違いも痛感した。
具体的に言えば、以前の宮台真司とミュージシャンの対談記事で彼の江戸時代、特に開闢三代将軍への好評価部分を嫌って、全部省略してしまったこと。
何も知らない、勝手な思い込みだった。元々江戸時代の本は読んだことがなかった。
 
 以下の部分は参考になる。
 <キーワード>
1)将軍と大名の中央集権的日本的封建主従関係(転封。減封。取り潰し、改易。大名と領地領民の関係は将軍から預かった仮のもの)
 
2)兵農分離=小農民自立(自立とするのは異論がある)、小農の、農具改良、肥料投入伴う労働集約的農業生産発展。
 
3)村請負=小農民の生産と生活に適した再編。
 
4)各産業部門の親方ー子方の関係、(生産の用具、場、技術、資金を持つ親方の支配する労働組織)
 
5)島原の一揆1638年の日本史上再考最大の民衆の徹底抵抗闘争への発展と対処
   乱については考えるべき点が多いが、自分の含めて避けている。
6)鎖国の完成。
 ああいう摂理に反する不必然なことを長期継続すれば、必ず大きな反動を後代にもたらす。明治維新のような強引なことをやらなければならないようになる。
 調べたところ、高山右近高槻城を解体して石垣、木材を東海道線建設資材にしている。1875年明治7年年から1877年明治10年の京都ー神戸間の工事期間中である。
勿論、レールや機関車は製造できるはずもなく輸入であり、枕木や敷石にしたのだろう。
19世紀も後代に入っているに、自らの歴史文化を蔑ろに目先のことに執着するだけのオオバカ野蛮感覚である。コレなどほんの一例である。
7)寛永飢饉と農政の展開(全国検地の徹底化による小農耕作権の認定=本百姓化と年貢納入義務付け)
都市の発達、商品経済の発展と年貢米の市場売買制度による財政の矛盾
 
 引用。「江戸時代論」。二、士農工商の社会。1村の社会、年貢と飢饉(1640年~43年、寛永大飢饉)
「17世紀の半ば頃までの年貢は、二公一民(W。3分の2を持っていかれる)、五公五民などといわれていた。(W。半分年貢ーそれで平和な社会がもたらされているのだから、従順に従え、だけ。現在の国民負担率も決して低いわけないが、国民へのキックバックはある。日本の戦前、1920年代半ばから既に税収における軍需費は40%を軽く超えていた。コレでは戦争による取り分を増やすことを国民も願望する。)
    
     寛永大飢饉と農政の転換>
 この重い年貢を治めたと、農民の手元には、かつかつの生活に必要なもの以上のものは残らなかった。
そのような中でも、農民たちの生活と生産のための努力が続けられてきたが、鎖国が完成した直後に、全国的な激しい凶作が農村を襲った。
特に小農民たちが打撃を受け、農村は荒れ果てた。
年貢を確保できなくなることを恐れた幕府は田畑を売買することを禁じ(永大売買禁止令)それまでの政策を修正して、衣食住に渡って農民の生活を細かく定め、農業生産を高めるための手立てをし、援助をした
 また大名や旗本に、それぞれの領地の農民の支配と管理を入念にするように命じた。
幕府や大名たちは灌漑用水や神殿の開発をするなど、農業の振興に力を注いだ。
 >大名や旗本たちにとって、その領地を安定的に治めることが、将軍に対する忠義ともなった。
 
 ようやく危機から立ち直った小農民たちの、その後の成長は著しかった。
寛文延宝期(1660~1670年代)になるとほとんど全ての家が小家族の家となった(W。それまでの拡大家族ではなく、単婚、子供、祖父母という現代家族の原型はこの時期に形成された)」
  
    <年貢村請負の村共同体秩序形成>
村も小農民の生産と生活に相応しいように作り変えられた。小農民たちは、村寄り合いを開いて、~共同作業について相談した。
村の申し合わせや掟を定め、それにそむくと村八分といってのけものにされることもあった。
農民たちは同族団の、<結い>などで田植えや取り入れのときは互いに助け合った。
 
 村には、本百姓の中から決められた庄屋(名主)、組頭、百姓代などの<村役人>がいた。
彼等は武士の役人の元で村を治めた。また五人組が作られ、年貢や犯罪などについて村民たちは共同の責任を持つようになった。
 
 村は年中行事や祭りなどの場でもあった。正月や盆、村祭りなどは村民たちの楽しみとなっていった
 
 同時に小家族の家がほぼ出来上がった。
家が永続的に繁栄することが人々にとって、最も重要な生きがいの一つであるという観念が生まれ、家の先祖を祭ることも、このころから始まった。
(現在に繫がる民衆の家の個人を祭る墓のうちで、もっとも古いのは、大凡寛文宝永の年号を持っている。
また、養子相続のような、血の繋がりよりも、家の連続が重要であるというわが国の家族の特徴も、民衆の家ではこのころ生まれた。」
 
 (時間不足もあって、今回は「江戸時代論」の理論編の記述をそのまま引用する)
が、しかし。 
 
 「<アジアでもわが国独特の兵農分離制は民衆から奪ったものは武器だけではなかった→
村請、町請けのための)村方町方の行政能力を不可欠としたが、政治性に関わる重要な資質=国家的公的能力を村方、町方から排除したために、その国家的公的展開をすることができなかったし、そのような展開は強権的に拒否されたのであった。」
 
 W。兵農分離によって、在地武士の城下町への集住、残留部分の帰農化。
 結果的に国家的公的側面を担う人材供給源の排除であり、村方町方が末端行政機能を処理しつつ、同時に国家的公的世界観を養っていけないようにした。それは人別長戸籍の強固な身分制度とセットになって固定化された。
 そうすると、3000万日本総人口の約7%の身分的上層210万人の武士階級が残りの85%(一応、僧侶、神主、公家ら除く)という日本社会の実質的な再生産を担っている圧倒的多数派に存在する社会経済矛盾などから、疎外された次元で、重大政治問題に際して臨み、対処する様になる。
 ここに、1860年代という世界が近代帝国主義に向かってひた走っている時代の、古代的王政復古を掲げた日本近代化という異様な絶対主義専制政治の出現の一つの根源がある。 
 
 (教科書的に肯定的に描く、江戸時代の村社会の裏側は必ずある、ということだ!
 
 (勿論、矮小な村八分の問題性もある。さらにまた、ここで坂口安吾の敗戦著釘に出版された「堕落論」における天皇国家主義が最期によりどころにした農村世界への小説家らしいリアルで痛烈な批判を掲載したいが時間が無い。)
 
 以上は佐々木潤之助が「江戸時代論」で描く、(中身の実証部分は全部カット)
日本(封建武士階層)朝鮮(在地両班層)中国(官僚引退後、帰郷する郷紳層)と比較した日本の在地性を喪失した武士階級支配層と末端統治機能を担う村方町方の、織り成す、明治維新、近代国家成立への道である。
 
 しかし、著者のこの問題系を辿っていくと、そのまま突っ込みきれないまま、数回前に記事にした<不幸な明治維新>の内容になってしまって、<近世アジアと江小戸時代>の章に拡散してしまう。
この問題系は丸山真男とやっているらしいが、日本歴史を中心とした視野では壁ぶつかって解き明かせない。
 
 日本やアジアの歴史コースを辿っても、既に世界史は絶対主義王政による強力な中央主権国家をバックにした所謂、大航海の植民地争奪戦時代に突入しているわけで、それとアジアとの関係や、ルネッサンス重商主義の発展=商品経済の発展(前期資本主義期)などの具体的な問題系が鎖国を前提とした国内経済システムとしても、浮上して行く趨勢にあるのだから、日本やアジアの歴史コースを辿っても、どう考えても方法論に無理がある。解明する順序はヨーロッパ(イスラム)-アジアであって、アジアーヨーロッパでは逆じゃないのか?
 
 確かにヨーロッパ中心史観には問題があるが、世界の先進から見たほうがすっきりする
乱暴なたとえだが、ポルトガルやスペインが当時一時代を築けたのは、先進のイスラムとの内戦=レコンキスタを戦う中で、先進部分を受け入れて、いち早く絶対主義中央集権国家を樹立させていったからだと考える
 
 絶対主義王政の中央集権国家をバックにしなければ、大航海時代の植民地争奪戦に臨めなかった。
ポルトガルの先行はいち早くレコンキスタ期を脱し、絶対主義王政の元、国家統一を成し遂げ、そこにおける「臣民」の下から湧き上がるエネルギーと宗教心が合致して、海外冒険に発露を見出した。
 
 そうすると、次のような視点には疑問大きな疑問を感じる。現代日本人の得意な翻訳替えによる核心のすり替えで、自己満足に浸っているような気がしてならない。
個人的な浅い見識のままだが、日本人はまだ自らの手でヨーロッパ中心史観を克服できていない、とみる。
言葉のすり替えのような姑息な作業よりも、歴史的事実は事実として直視すべきである。
大東亜共栄圏構想の残滓は残っていまいか?
 
 大航海時代=1963年日本語意訳→「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)>→W。歴史的事実を直視できない包装紙を替える得意技ー
 W。呼称変更によって、当時の世界史上の主要な構成要素であるイスラム圏の文明的先進要素と内乱で戦ったスペインポルトガルへの波及=イギリス、オランダに先行した海外領土獲得の原因が明らかにされていない。
 以下の記述は歴史を見る視点の多様化を主張しいるはずなのに、事実上のヨーロッパ中心史観になっており、何処が克服されたのか?
 
 ウィキ引用。
大航海時代」の名称は岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた1963年、これまでの「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。
 増田によれば、大航海時代の始まりは、1415年におけるポルトガルのセウタ攻略。終わりの年は、三十年戦争終結し、ロシア人の探検家セミョン・デジニョフがチュクチ半島のデジニョフ岬に到達した1648年である
15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された」
 
 >「新しい視点として」、イロイロ調べた結果、こういうものが載っていた。具体的展開を説明する時間は無い。
批判するところも多いが、とりあえず入り口だけでも。
 
ウォーラーステインは、フランクやアミンら「従属理論」の影響を強く受けながらも、それが「中心」と「周辺」の関係が固定的にとらえがちな傾向にあったことを考慮して、
下表に示すように、両者の垂直的分業関係のあいだに中間(混合経済)領域として「半周辺」(「半周縁」)を設け、世界システム構造の複雑を指摘すると同時に、
内部における上昇や衰退の可能性(流動性)をより的確に把握できるようにした。

 1)重商主義による西ヨーロッパ諸国の争いのなかオランダが覇権を掌握。16世紀以来の世界の一体化が進展。
 17世紀後半以降、イギリスが環大西洋地域に市場を拡大、ラテンアメリカと西アフリカを従属化。 

 2)フランスとの植民地抗争に勝利したイギリスが覇権を確立、世界の一体化がほぼ完成。
 蒸気船の普及により、工業製品の大量輸送や地球規模での移民が可能となる。19世紀にはドイツとアメリカ合衆国が「中核」に加わった。
 
3)2つの世界大戦を経てアメリカ合衆国がドイツとの覇権争いに勝利し覇権を確立、世界システムが地球全体を覆った。
  ロシア革命以降の社会主義国家群が「反システムの運動」を展開。ベトナム戦争によりアメリカ覇権が衰退し、多極化の時代となった。