反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

佐々木潤之助著「江戸時代論」。1)戦国乱世を逞しく生き抜く、愛媛県南部の小盆地の小領主と住民のリアルな生き様。2)著書解読。3)尖閣地図に潜んでい限界。4)イングランド民主政と議会。

                         2統一の体制、と文化  
          統一への歩み
    信長
宗教権力打倒
「信長はもっとも、成熟した戦国大名だった」。
佐々木注解
信長は朝廷の権威を利用して、石山本願寺を降伏させた。しかし、信長は朝廷からの官位を拒否するようになり、家臣たちに絶対服従を強制するなど、自からを神とあがめられることを目指すに至ったといわれる
 
W。長く続いた戦国乱世は絶対政治への先行的目覚めを呼び起こした。そういう意味での「信長はもっとも、成熟した戦国大名だった」という評価だと想う。
 
W。応仁の乱1467年~1477年→乱世、戦国時代→1573年織田信長足利将軍義昭追放→1590年(摂政)関白太政大臣、豊<臣>秀吉こと元百姓藤吉郎、小田原北条氏滅ぼし全国平定。
 
 123年間も耕地面積の狭い日本列島で戦乱が続いていた、というか、続けられていた。
権力機構の中枢、京都や先進地、畿内の実情(中央権力巡る覇権争いや、在地住民の生産力、武力は強力)はともかく、そこから遠く離れた地方の戦乱の実態は、各<領主ー領民>同士の土地と作物を巡る紛争、争奪戦の様相を呈していた。この紛争の実態はヨーロッパ中世の各<領主ー領民>同士の混沌常態とほぼ同じ。
 
    具体例 
 愛媛県宇和島市の内陸部、三間川小盆地(四万十川の上流流域)の小領主と百姓は秋の収穫時期を狙って、豊後水道を渡って押し寄せてくる大友宗麟の大軍の刈り取り(乱捕り)に毎年悩まされていた。
    <豊後水道側に宇和島藩領地。対岸に大友宗麟(キリスタン大名では?)領地>
イメージ 1
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 コレに対する対策では領主と家臣が「多少収穫量は落ちても、押し寄せてくる前に稲刈りを済ませてしまおう」などと領主が提案したりする、リアルな古文書が残されている。(藤木久志系の研究者たちの論集を参照した。後代のもので脚色もあるが、戦国時代のリアル実態が描かれているとしている)
 大友宗麟勢の段取りのよさもあきれてしまう。刈り取った稲を帰りの船中で脱穀できるように機材を用意していた。
 三間川領主勢も船団を用意できない代わりに陸続きの高知側の一条(この系譜は天皇家系が土着して戦国大名になった稀少例として有名。)領内に乱捕りに押し寄せている。
 
 ところが、三間川小領主は大軍に押し寄せられ、城が維持できなると、どういう事情か摩訶不思議なのだが、一条領主を頼って亡命している。
どうも、こういう乱捕り合戦は領主の直接の指令の下というよりは、下部や住民が一体になって、武装群盗化している可能性がある。
 
 そしてほとぼりの冷めた数年後、小領主が帰還すると、有力領民たちに大歓迎され、酒味噌米などなどの大量の献上品を受け取っている。
 領主がいなくなっても、シッカリ者の住民は地道に生業をこなし領主が帰還した際には、大量の献上品を貢ぐほどの蓄えをしていた、古文書は教訓話として褒め称えている。
 小領主の立場と事情を了解し、たくましく自立している、といえなくもない。
戦乱世に嘆き悲しむ暇は生活者庶民になく、何があっても生きていくと割り切った、たくましい生き様が垣間見える。
 
 古文書に描かれている小領主も住民を蔑ろにしているかといえば、そうではなくて、住民が飢餓に苦しんでいるときは城内の兵糧米の放出を速攻決断している。
古文書に描かれた小領主の発言を読めば、目端の行き届いたそれなりの知恵者のようだが、生まれた家は小さな領域しかない宿命を抱えており、結果、独立独歩は無理で、藩主権限を放棄して、有力藩の家臣になるしかないようだ。
戦国時代は統治者も厳しい試練を乗り越えなければならなかった。
 
 この古文書で理解に苦しむのは、グーグル航空地図を見ると、豊後水道を渡って、三間川盆地めがけて刈り取りに押し寄せる大友宗麟軍勢は宇和島藩の海岸線に上陸し、領地を通り抜けて、小盆地に到達するルートしかない訳で、その場合、宇和島藩領内はフリーパスだったのか?
その辺の詳しい事情を想像すると、日本の戦国時代のリアルな実体がわかるような気がする。
英仏100年戦争もそうだが、常にやったり、やられたり、取ったり取られたりでは、戦乱はこうも長く続かず、住民同士、軍同士に、それなりのお互いの暗黙のルールはあったから、だらだらと続いていた。
 
 中国史にも大王朝が滅ぶと、必ず長い戦乱期が訪れる。 
古代ギリシアはズット内部抗争をしてきた。
 USAアメリカ史は日本で言う独立戦争アメリカ現地ではイギリス王党派に対する戦いであったから革命戦争=市民革命)によっていきなり近代から始まるようなものだが、南北戦争アメリカ市民戦争が正しい呼称。市民同士が戦ったと、はっきりと認めている。日本のように戊辰戦争などという実態のわからない呼称はしない。)までは西や南は武器で秩序がようやく保たれる状態だった。
個人を含め町の自治は自衛武装の原則が貫かれていた。
合衆国憲法修正条項に明記されれているのは、そういう歴史を踏まえて、国家の基礎に市民武装民兵を位置づけている。
 日本人がUSAの銃規制についてよく言う自分の身は自分で守るなんていう解釈は狭い非歴史的解釈である。
 
 
>結局、領主に政治力、軍事力の無い弱いところが標的にされた、と想像するが、それでも小領主や住民側もそれなりにたくましく生きており、やられっぱなしということはないようだ。
 亭主が若死にした、ある有力百姓家では女主人が一切を取り仕切って、田畑を広げ、金貸しまでやっている。
この女主人は畿内方面から当地に流れてきて居ついたという。
 
>結論付けると、戦乱を長く続ける、続けられるところでは、それなりの事情と住民レベルから、パワーが沸き起こっているとしなければならない。未開的戦争レベルの武器で遣り合っているわけでないのだから、そういう結論に達しても良い。
 
>がしかし、そういうパワーを上手く合理的、民生的な方向に引き出すのが政治の要ではなかろうか。
穿った見方かもしれないが、ドンパチする方向を政治目的に政治が主導しようとすれば、国民国家は簡単になびく。その場合、国内の民主政と戦争は必ずしも矛盾しなかった、というのがリアルな世界史だった。
ナチスみたいな輩、戦前の日本軍国主義、そして戦争指向に感情的親近感を抱く人間は、歴史上、必ず一定数存在してきた、また武器を持てば、その中身に関わらず使いたくなる傾向も必ずあり、実際に使って威力示さなければ(実験も含めて)武器は武器でない。
 
>そう云う前提条件に立つと、そういう輩や状態に影響され、追従する人間の側に問題があり、課題は科せられている。
 
例えば、尖閣岩礁地域の航空地図をグーグルで開くとする。
ジッと見つめると、そこに大きな限界が潜んでいるとわかる。
己を知り敵を知れば百戦危うからず、なんていう古代中国の兵法の、戦争を前提とする意味での限界でない。
ウィトゲンシュタインのいう対象そのものに潜む限界であり、パワーバランスを勘案することとは次元が異なる。
与えられた自分の外部に存在する材料はそれ自身に限定を持っており、それを使って設計し、工作するしかない。
彼我の状態以前、そこから切断された対象に潜む限界である。
縮尺地図を調整し、大陸棚のあり方と、先島、南西諸島、日本列島を俯瞰しつつ、物差しで、縮尺計算すれば、自ずから、対象に潜む限界という意味が解ってくるはずである。
   
     統一の完成
太閤検地>ー兵農分離ののための基本的手段として検地が行われた
  中身
イ、石高制
 全国に渡って、統一した機銃による土地の広さや収穫高の調査を行い、耕地や屋敷地などを米の生産量で表示して評価しこめ年貢製の基礎を作った。W。すでにその時点で商品経済ありき、それは捕捉できない。
石高換算は無理が生じるのは当たり前で幕藩に年貢高を捕捉仕切れない町人商人が得をする仕組み(石高制)
 
ロ、広範囲の惣村単位の分割であり、村切りは惣村を拠点とし、武装住民を動員できる土豪武装住民の経済基盤の根切りでもあった。
 各地に派遣された検地奉行(17C中盤のこと)が集落とそこに住む農民の耕す土地の地域名まとまりを村として、その境にくいを立てて境目を確定し<村切り>その村ごとに検地を進めた。
ハ、一地一作人
 検地は実際の工作者を確かめて(一地一作人)それに基づいて耕作する権利と年貢を収める義務を決めた。)(W.土地革命じゃあるまいし!教科書歴史では仕方がないが、(一地一作人)が実現するまで、50年以上かかっているし、名田の地主ー下人関係は基本的に徳作地主ー小作関係に転化している。) 
この結果、小農民の多くが、その名を検地帳に載せられ、直接、領主に支配され、年貢を収める義務を決めた。
この結果、村単位に年貢をなどを取り立てられるようになり(村請負)、コレまでの荘園制度の仕組みがなくなった。
W。旧地主は村役人に転化し年貢の村単位の徴収に責任を持ち、同時に藩権力機構の末端を事実上担うことになる。勿論、役職手当ては一定の年貢減免。
 
 しかし、各地で武士化の途中になった土豪たちは、その土地が検地帳に記載されて、農民として村の中に残された。その農民が地主になって、地主ー小作関係が生まれた。
W。著書の中で下人の小作人化から、訴訟を経て自立に至る二世代を記録した古文書を挙げている。
ものすごく勤勉に働き、自覚を持った結果である。
 秀吉は検地と並行して
<刀狩を行い>、
第一農民から刀ややり鉄砲などを取り上げ、武力による反抗を防ごうとした。
第二。身分制。土民収奪経済にも拘らず、城下町(都市)と農村の分離。必然的に足下の都市の優遇
さらに、農民が勝手に武士や商人になることを禁じ、武士や商人職人を村から城下町に移住させ、こうして武士と農民と承認、職人の身分がわかれた。
   港都市直接支配下
   鉱山国有化。
    朝鮮侵略
 全国平定に成功した秀吉は、国家建設の証として?、
1、段階失敗。インド、フィリピン、台湾などに貢物を要求するなど強硬な政策を取った。
2、段階。朱印制度1段階失敗で窓口一本化の貿易関税?に移行。豪商や大名に朱印状を与えて、その保障の下に海外の貿易を行う制度を作った。
  
                 3江戸幕府の成立と鎖国
       <江戸幕府
 支配の基本は、秀吉時代から受け継いだ国家君主としての権力で、将軍以下の武士階級が小家族(小農民)を基礎(W.あくまでも主観的理念、原理的構図と受け止めてよい!在地の実際は過去の名田支配による地主ー下人関係が根強くあった。50年を経過して自立小農生産状況は固まった。)
とする社会を掌握、支配するために、幕府(将軍)と藩(大名)を機軸とした機構組織である。 
この機構組織を基本とした国家を<幕藩制国家>という。
      
      <将軍と大名>
  主従関係 大名(1万石以上)ー旗本ー御家人
知行地給付=ご恩ー将軍への奉仕=奉公
奉公の基本=軍役(ぐんやく)であって石高に応じて定められていた
 ー軍役制度の実際~慶安軍役規定ーここでの問題点は規定の正規軍の編成が制度化し250年支配の中で軍事改革がなされなかったこと。戊辰戦争では弓部隊、槍部隊は用を成さなかった
数で勝る幕府軍が、数で劣る全軍西洋鉄砲隊武装と指揮系統の明確な中央軍編成の長州軍を征伐できなかった原因である
      
     ー軍事労務者ー
軍事人数割り>と表題されているように、基本は兵器=武器ではなく、軍事力を構成する人数である
W.戦国時代に威力を発揮した数は力なりの足軽戦争史観の残存だが、幕府への軍事奉公であり、自己負担=年貢の分配消費ルートである。
   
   200石の知行取り
合計5人
侍1。甲冑持ち1古代ギリシアの奴隷の盾その他の武具持ちと基本は同じ)、ヤリもち1馬口取り1小荷駄(こだに)=食料、その他雑貨1。
そうすると、幕府軍役の規定では、騎馬侍1は、4名の従者を従える合計5名の最小戦闘単位とわかる
このまま、慶安軍役規定解除まで不経済、非合理的な侍、個人優先の戦闘単位は続いた
軍役改革を先行させた長州薩摩軍の威力の前に軍改革の遅れた幕府軍が対抗できなかったのは当たり前である。
遣り部隊や弓部隊は戊辰戦争では不要、と維新軍総指揮者は指令している。近代軍隊脱皮に向かっての徹底性の問題であるが、勝利の要だった
   
   900石
合計19人ー侍5人、甲冑持ち2名、弓持ち1名。鉄砲1名。遣りもち2名。草履取り1名?!。馬口取り2名、靴箱持ち?1名。小荷物1名。
   
  1万石(規定では大名)
馬上10騎。鉄砲20。弓10張。槍30本旗3本?蒙古襲来絵詞(この蒔絵は肥後地頭竹崎李長<よりなが>を主人公にした物語に描かれて旗持ち必須の鎌倉武士と変わっていない。
 
>軍役には、こういった軍事労務者の雇用を以外に
イ、参勤交代に伴う大名行列。W。幕末の京浜、生麦事件では、薩摩藩の参勤交代道中に遭遇したイギリス人数名が下馬、土下座しなかったとして突然切り殺している。
徳川鎖国250年で支配層の人間性の軸はあらぬ方向にまい進したとしか言いようがない。
こういう輩が維新の世で自ら変わり得るだろうか?列強に歯向かった結果は完全敗北と出た
が、その代わり獰猛なモチベーションの対象は近隣に向けれれた
こういった心底の阿呆を崇拝する歴史が日本人民の歴史であるはずがない!
ロ、江戸住まい。人質作戦。イ、と同じく出費も重なる
 
ハ、様々な課役があり、それらも多くの人数を要した。
Aパターン 軍事労務者→武家奉公人(江戸や城下町の都市住民のなかから必要に応じて雇用
Bパターン 労働徴発を村請負制で。宗門改張によって徴発。
  -大名の 領地を移されたり(転封)。削減されたり(減封)。領地を取り上げ(取り潰し、改易)-
将軍と大名と領地や領民の関係は、仮のものであるとする考え方があった。W。大名は土地と人民を将軍から預かっている
W。北西ヨーロッパの封建制は封建領主にとって領土、農奴は私有。国王はその中で比較優位者。騎士は領主に仕える最底辺の封建軍事貴族
 ゲルマン人的封建意識ではそれらの相互関係はなぜか?ドライな契約関係だったが、
ヨーロッパ中世の戦乱混沌の中から主従関係が緊密になっていった。
そして十字軍や戦乱の時代を経て、ローマ協会と各領主の力が弱まって、相対的優位者だった国王に都市貿易の繁栄による税収増などがあって、力が集中していった。
こうして絶対王政の中央主権政治が成立した。
   
                世界史講義録    
              第62回  絶対主義
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絶対主義  絶対主義の政治を絶対王政。絶対主義の王様を絶対君主
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 スペインのフェリペ2世やイギリスのエリザベス1世の時代は、それぞれの国で国王による中央集権化が完成する最後の段階でした。
諸侯や貴族たちはすでにかつてのような力がなく、国王が比較的自由に国政をリードすることができました。
この時代のことを、「絶対主義」といいます。国王が、貴族・封建諸侯の権力を制限し絶対的な権力を握ったことから、こういう呼び方をしています。
 フェリペ2世や、エリザベス1世以外にも、このような王様が何人かいます。エリザベス1世のあとを継いだジェームズ1世や、フランスのルイ14世が有名です
 最後に絶対主義の一般的な特徴を三つ述べておきます。
一、「官僚制」と「常備軍
 絶対君主が権力をふるうためには、王権を支える組織が必要です。それが、常備軍と官僚制です。
 官僚は、従来の貴族や封建領主に代わって国王の手足となって働く。
 常備軍は、いつもある軍隊です。それまでは、戦争の時にだけ傭兵を雇うのですが、平時にも常に軍隊を養っておいて、これで国内、国外ににらみを利かせる。
二、「重商主義
 官僚も常備軍も常に雇っておかなければならない。王は彼らに給料を払わなければならないわけだ。これは、金がかかります。
金を稼ぐために、絶対君主は積極的に海外貿易を推進します。各国が東インド会社を作るのはそのためです。海外貿易を行うことによって、国が豊かになるというのが当時の経済理論で、これを「重商主義」という。
三、「王権神授説」
 王は、俺が一番偉いのだ、と威張る。これに反発する者も当然います。かつては王と同格くらいに力を持っていた封建諸侯、そして、新しく力を伸ばしつつある新興市民階級です
 国民の反発に対して、王が絶対に偉いのだ、ということを理論化したのが、王権神授説。簡単に言えば、王の権力は神から授けられたものである。
 王の言葉は神の言葉に等しい。王に逆らうことは、神に逆らうことと同じである。だから、国民は文句を言わずに王に従いなさい、ということになるわけです。
 
  ただ、国民もそうそう王権神授説をありがたがるわけではない。
最初に国民が王の権力に対して異議を申し立てたのがエリザベス1世以後のイギリスでした
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1、11C、対岸のフランス、ノルマン人公国の王の、アングル族、サクソン族の支配地であるイングランド征服をまず押さえる。大陸型封建制度を持ち込んだ王は100年程度、フランス語しかしゃべれない異邦人であり続けた。現在の英語にも食い物名前など根幹用語にその痕跡が残っている。
 
2、異民族統治をスムーズに進めるために、実務を担う家臣団と現地人との調整機関が必要になる。
この構造がイギリス議会の発生を必然化する。
 
3、議会軽視ー弾圧の国王の首をはねたクロムウェル清教徒革命で活躍した平民地方地主層のジェントリは
アングル族、サクソン族系としたほうがイギリス史が解りやすい。
 
4.名誉革命。結局、清教徒革命は10年で挫折し、大陸放浪中の元王の子供が、議会からイングランド王として向かえれれた。この時点で議会と王権のバランスか完全に逆転し、王に様々な議会と国民の権利をのませた。
王はもう大人しくしていたほうが身のためだとわかった。
その後、議会は都合によって、オランダやドイツ人を王として招請している。
合理主義。それに基づく政治。これは古代ギリシアアテナイ民主政の出発点、市民(デモス)創出の合理主義的政治改革から引き継ぐ伝統である。紛争の火種であり続けた地縁を基盤とする氏族制を市内を区割りして抽選で当アテナイ市民の戸籍と決めている。個人として析出されたアテナイ市民(デモス)としての、喧々諤々の民衆議会の支配(クラシー)であった。
裏返すと一種の革命的国家主義になる。
現代フランスの新しい人権宣言も男女、人種、職種など様々な区別、相違から抽象的な人権あるここの責任の範囲において自律する個人フランス市民を析出し、フランス国家の下に纏め上げている。
コレもアテナイ政治改革のパターンであり、革命的国家主義に分類で霧と想う。
日本?
団体さんにイラシャイ社会だから~今更、個々人がどうのこうのというよりも、自分たちに似合った別の民主政のルートを考えたほうがいい。お互いのグループ?の存在を認め合うという視点を絶対原則にしたらいかがか?
 
>この一連の歴史過程から、最初の出発点の1のボタンの掛けはじめが、大切だと解る。
なお、ブリテン島の民族の入れ替わりは1)並存(2)→1)を脇に押しやり3)→4、フランスに領土をもつノルマン人征服王朝のめまぐるしい順番。こういった複雑な事情もイングランドにおける議会先行の理由だと想う。
大陸から海を隔てているという地政学的事情の大きい。
>制度政策住民運動と、やれることは、流血を辞さず、何処よりも早めに済ませている。コレによって、最初は遅れをとっても、産業革命を起こし覇権を握った原因。知恵と知識もあり、単なる海賊国家ではなかった。
3)ゲルマン人一派のアングル、サクソン族以前の先住民族1)ケルト人やローマ帝国支配期の2)ローマ人(帝国崩壊で慌てて本国に帰還した)の存在は大切なイギリス史だが省略した。