反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「江戸時代論」佐々木潤之助。ー明治維新の「王政復古」と兵農分離ー

       日本(武士)・朝鮮(両班ヤンパン)・中国(郷紳きょうしん)の近世の支配層
両班(朝鮮)
 在地両班層は、文字通り農村居住者であって、彼らが社会的に分厚く存在するようになったことが、朝鮮社会のあり方に決定的な影響を与えたと想われる。
こうした農村居住者としての在地両班層の存在は、イングランドのジェントリ層と格好の比較対象になりうるかもしれない。
 
>郷紳(中国)
 郷紳の城居は在村政の否定ではなく、官僚としての役割が終われば、村に戻ってくるのであり、村におけるそのような在地権力としてのあり方は衰弱の経緯があったにしても、持続されていた。
とすると郷紳はむしろ両班との近似性において捉えるべきだ。
 
 
          社会分解の特質
 一般に、封建制社会の内部からの解体は、資本制的生産関係の展開を基礎に進行する。
(W。資本の原始的蓄積期における一方における資本形成と、他方における、農地のような生産手段を喪失して、労働力を売って生活するしかない労働者層の形成)。
それは商品生産の展開に基礎を置いたあたらな社会関係(支配・被支配)の形勢は過程である。
W、注1。世界史において資本の原始的蓄積は例外なくリアルな固有の歴史的事実。奴隷貿易など歴史的事実から説明。
 
  その支配者としてのブルジョアジー形成には二つの道がある。
>商品生産の代表者としてブルジョア的主体が形成上昇していくのは下からの道(W。このケースはイギリス、フランス、オランダなどヨーロッパ一部、先進地に限る)=先発資本制国
それに対して、下からの道の動向に対応して、商人などがブルジョア主体に転化していくのが上からの道、ないしは対応コース。W。コレが大半を占める=後発資本制国。
W、注2。(2014年1月5日記事ー佐々木潤之助「江戸時代論」及びウォーラーステインの世界一体化図式について」補足。日本の経済成熟度段階、長期展望。現状の感想)
  
 この二つの道のいずれを中心にどのように社会変動が進行するかは、その所産としての社会や近代民衆のあり方を決めることになる。
~W。著者は日本の江戸時代の商品経済発展程度(二つのコースを問題にしている以上ヨーロッパとの比較)と社会分解の特質(中国(郷紳)朝鮮(両班)の在地性と城下町ー江戸、集住で在地性喪失の武士との比較)というヨーロッパとアジアー東アジアと日本の社会分解を比較しているが、前者には具体的に言及していない。
 後者に的を絞って、なぜ明治維新が武士や公家による古代君主の復古?なのか解き明かそうともがいている。
 薩英戦争、下関戦争の攘夷激発は列強に完敗して、だめなことが解ったのだから、もう目ぼしいイデオロギー的結集軸は宗教はあり得ないのだから、天皇しか日本になかった。
徳川近世鎖国260年がもたらした哲学の貧困である。
 仮定として、武士の在地があったとしても、鎌倉幕府蒙古襲来以来の武士政権下での神国イデオロギーの底流からして、結集軸は古代君主になっていただろう。
東アジア全体にいえるが特に、日本には確たるイデオロギー(この場合当然、宗教しかない))は一貫して存在してこなかった。
 
 がしかし、ここで著者が指摘している問題はもっと根深いところにある。
天皇を結集軸にするしないに関わらず、維新推進者側にどれほどの民衆間にある矛盾、問題を改革イデオロギーと政策制度に反映させることができたかどうかだ。
 近世軍人としての武士改革者は外圧に対する軍事的対応まずアリキで(矮小急進欧化主義近代化路線+古代君主イデオロギー捏造=東アジア外征)民衆次元の要求を制度政策に反映することができなかった。
 
 江戸260年の文化的閉塞状態では統治のイデオロギーとして朱子学は論外なのだから、国学(全く不案内だが)をイデオロギー的結集軸にするほかなかった。東アジアと右端の島国で260年も鎖国していれば、そういう結果にしか至らない。文化交流の事実上の遮断は、良くも悪くも文化の特殊純化をもたらすが、政治思想分野ではどうなのかということだろう。偏狭になるのではないか。
明治維新イデオロギーはその中身がお粗末だったから、問題だったのである。結果的にも。
 
  
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 >ここでも問題は18Cにはいると多くのアジアの国々や地域で近代化の波がおき始める。
生産力発展を基礎に置いた社会分解、資本制分解、を進行させた。
>その分解の中から近代化を磨き上げる資質が磨きだされた。
 
>>元々封建官僚の母体でである郷紳と両班は、在地性ゆえに社会分解の渦中にいた。
 
>中国では17C末、郷紳大族は徴税権を媒介に中小地主から佃戸までを私的領民化していたという。
>>もはや国家の支配力は郷紳大族までしか及ばなかくなった。郷紳の大土地所有は進展し、私党を小結成して領域支配が推進された。
W、注3。中国清朝最盛期の1億総人口→3億総人口の人口爆発グラフを掲載し、国家統治機構と民のネットワーク社会の分裂という現代に通じるテーマに言及。
 
 
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 ただし、注目しておくべきことは、郷紳にせよ両班にせよ、分解の多極に析出された零落層が、封建末期の変革思想の主体になったことである。
 こうして、中国朝鮮の本来の近代化過程においては、資本制的社会権力(日本の場合豪農豪商)は<下からの道>の所産としての小ブルジョアジーと、<上からの道>の結果としての一部郷紳両班とによって結成されていくのであった。
 
>そしてほとんど一人日本においては、封建支配層は社会分解から排除されていた。
それは兵農分離性によるものであった。
W。う~ん何だか詰めが甘いなぁ~。
 
    自立小家族からなる社会ー日本の村=地域共同体機能基本。中国朝鮮の村同族共同体基本ー
 近世アジア社会の基礎は自立的な生産と生活を行っている小家族にあり、近世国家はそれら小家族が行う小生業を経済的基礎としている。
 
>その<自立とは>、小生産は小家族を基礎としているが、そのまま小家族で生業が完結していることを意味せず、他の小家族との血縁的、地縁的な結びつきによって補完されて、小生業を行い小家族を維持していることを意味している。
>そのための小家族の結合の基本は第一次的には家であり、第二次的には共同体だった。
 
>この共同体には地域共同体と同族共同体の二つの側面がある。
わが国の同族団的結合の持つ社会的地位は弱く、わが国の共同体は主として地域共同体として機能した
W。共同体の範囲は村内にコンパクトにまとまり、公共機能をムラで負担する割合が大きい。
ムラ団体優先共同体。
>ただし、最大の問題は、このムラ共同体域能の結び目が資本制発展進化ーグローバル資本制社会において解けると、分解した個々が地上数メートルに漂う無数の風船状態になる。そこに風を吹かせると、ゆらゆらと一方向に漂っていく→自民党衆院議員、加藤紘一「テロルの真実」より。
ムラ的共同体及びその種の共通意識の崩壊的状況において、新たな地平の政治問題が生じている。
 
>逆に中国や朝鮮の共同体は、同族共同体を基本とし、東南アジアにおいても同様である
W。共同体の範囲はムラを超える場合があり、ネットワーク状に広がっている。そこが自助能力を発揮する。
従って、その範囲で補いきれない公共機能は領主が負担する。
個人、家族、同族優先。
 
>>そのためには、領主たちは土地をはじめとする生産や生活のための主要な手段を所有し、山の確保(W.日本では入会地でムラが確保)水(W.コレもムラ)市場(W。日本では無縁地として開かれた)環境(平和を含む生産生活の安定確保)支配の正統性(宗教権威、文化教育を通じてのイデオロギー支配)などの構築に勤めねばならなかった。
 
 W。ここも現代に通じる大切なポイント。中国の大帝国の崩壊パターンは最盛期に北からの脅威への防衛、大公共事業などで国家負担が膨張して、財政危機ー重税ー地方反乱。他民族支配もアリ。広大な領域、他民族の膨大な人口を統治するのは小手先の手練手管では長く持たず、ジッとしていても揺り動かされる。
そこでヤッパリつい大掛かりなことに走ってしまう。
日本の目線に固執したら、理解しきれぬところがある。
 
>この支配の機能は焼き畑農業や海賊業を含む快眠たちの移動が多民族国家において、特に要請された。
一部とは中世選択の自由があり、怠りのあった国王は廃絶されることもあった。
これらの国家は定着型の農業国家よりも遥かに自由であり民主的であったのではないか。
W。日本のムラの共同体機能が強力でいられるのは、中国朝鮮よりも移動性が低いということがも背景にある。
日本ムラの移動性が少ないのは、列島の風土的な影響が強い、長く平和でいられたと。
が、ムラ的結合の強さの悪い面もグローバル資本制下では出てきている。
 
>土地や流通交易権の独占や支配を可能にしている基礎は、支配階級の暴力装置に他ならない
 
    
  兵農分離性ーなぜ国家や領主が租税年貢を毎年取ることができたのか、という問題ー
              ー現実に機能する仕組みは何か?
参考資料1。江戸時代前期の石部(滋賀県、江戸時代の東海道沿いのムラの古文書による<ムラ請負の実態
>上記の貴重な資料を理解するためには江戸時代の単位を確認する。
>米の量、石。長さの単位、尺→約30cm、寸約3cm。面積の単位、町→10000㎡、反、1000㎡
1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされ、示準として換算されてきた(1000合/1日3合で333日分)。
資料2。農民の統制(村請制度・村方三役・五人組制度)などなどを現時点から批判的にまとめている
 
 中国朝鮮の郷紳両班は<近世国家成立以前>から在地権力であり、その富裕さと歴史性と習慣や宗教的権威などによって、地域の小農民支配を実現し、国家の社会的経済的基礎を固めてきた。
  
 この点では、わが国も<琉球(W。1509年、尚氏王統、在地豪族の<弓矢没収>首里集居へ本土より100年弱先行している。しかも武器没収)の武装解除と共に大きく違っていた。前近世の在地権力は、体制支配者として在地性を否定された(W。秀吉改革のころを指している)。
 
  従って、他と違った独自の仕組みが必要であった。
>ムラ請負制がそれである。
W。税金を徴収する側の人間が現地にいなくても、徴税される側の人間が自分たち共同体にまとめて掛けられた税金を責任を持って集めてくれて、おまけに様々な公共業務まで担ってくれる。必要に応じて賦役にも動員できる。
 基本階層である農民を主体とした百姓身分を中核に、人々を身分制に編成し、小農民の成長と共に形成されつつあった村をとらえ、そのムラを年貢搾取機構に編成していった。
 
 同時に百姓の中の有力民を村役人としてイ)年貢納入の責任とロ)村支配の任務とを持たせた。(W。当人は年貢減免特権があるとはいえ、多寡がしれた額)
 
 ここでムラはムラ共同体農民支配機構の二つの性格を持つことになり、
ムラ役人は共同体の長であると共にムラ支配の末端として二重の社会的役割を担うことになった
 
 ムラ役人を勤める多くが名田地主(W.中世の徴税大規模土地単位の地主、下人含む家父長制拡大家族。やがて下人自立。)でもあったが、その社会的地位はあくまでも百姓であった。
 
 それと共に政治支配者は武士としてムラから排除され、その多くは都市居住者になった。
W.そういう表現もできるが。
 
>>その武士層のムラからの排除は、国家行政能力と軍事能力の村からの排除をも意味した
W。この対談、中盤の宮台真司発言ー僕らの根っこの問題――「依存」の江戸時代論?は佐々木のような視点をまったく抜きにした俗論。また、ヨーロッパ歴史に関しても遅れたヨーロッパは間違いない事実だが、認めるべきところを認めていない。
 
 このような兵農分離性は、アジアにおいてもにおいてもわが国独特の体制だった。
>その基で強固な身分制が構築され、村請負をはじめっとする様々な機構が設定された。
 
>その兵農分離制がわが国の民衆から奪ったものは、決して武器だけではなかった。
W。いつも武器が身近の生活を送ってきたものにとって、武器を取り上げられたことは精神に大きく影響する。
じわじわと屈従精神が習慣化する。ホールドアップ状態が世代を超えて続けば、精神は医学的変化?
 
 ここで特に政治性に関わる資質の問題が重要だろう。
兵農分離性は、村請制、町請け制、を基礎とし、その限りで幕藩体制国家は、村方町方での行政能力を不可欠にした。
 
 しかし同時に国家的公的政治能力を村方町方から排除したために、その行政能力が国家的公的な展開をすることはできなかったし、そのような展開は強権的に排除された。
 
 
       イ)王政復古の意味
 このような形での変革主体を生み出した幕藩国家は、当然のことながら対極に特徴的な政治権力生み出す。王政復古を標榜した明治国家権力がそれであった。
 
>ここではなぜ復古なのかを問い直した。ここでの検討もそこに至る。
なぜ「神武創業の事始に基ずき」なのかを歴史への無視・否定の論理と捉え、なぜ無視否定なのかなぜそのようなことが可能なのか、それが持っている意味はなんなのかと問おうとした。
 
 明治維新の政治主体としての武士や公家たちが、社会の底辺からの歴史的変動から疎外されていたことが重視されるべきだということである。
 明治維新の政治主体は社会変動の結果をまとも地捉えて対応する歴史的資質を獲得できなかったし、しようともしなかったのである。
 
 とすれば、政治目標はまだ支配の歴史を歩んでいない、支配の歴史のはじめがもっとも適切なのである。
>そして、その政治目標が時代錯誤であり、現実性がなければそれだけ、政治主体はフリーハンドになることができる。
>現実の様々な問題をよそに、文明開化西洋化なども思い切った飛躍ができる。
<根無し草>になった<幕末の志士>たちの活躍が有効になる。
しかしその飛躍墓なら歴史の報復される。」   
 
 W。この本の中で一番、印象に残るフレーズだった。
何処かのラジオキャスターが感嘆したように、どうして明治維新の時、あんなに急激に西洋の文物を取り入れることができたのだろうと語っていた。
コレと同じフレーズで天皇制の万世一系の中に日本の伝統を閉じ込めて、後はそのときに必要と想うものを何でも取り入れることができる。
確かに風俗、宗教習慣、文化、江戸時代身含めて大切に育んだものの多くを修正し、なぎ倒し、抹消している。
日本の伝統文化は今とは違っていたと想う。プリミティブな輝き怪しさ、猥雑さひめたるものがあったはず。
 
       
        ロ)不幸な明治維新
「悲劇は民衆にある。~そのような民衆にとって、明治維新は不幸であった。
 
 兵農分離の下で、社会分解は民衆世界の問題であったのである。兵農分離制は社会分解を民衆世界のものにしたのであった。
(W。在地武士→城下町集住へ。惣村時代の在地武装を主導した広域土豪は検地、村切り、刀狩で基盤喪失→村役人農民化で年貢徴収、末端支配秩序組み込まれた。
圧倒的多数の一般農民は武装解除で政治無力化。 
 ~~時代経て、農村現地に抵抗のイデオロギー的運動的主導層がいなくなり、身分制を踏まえた百姓の日和見訴訟が定着する。
 
 社会分解とは商品経済の浸透によって農村に商品経済に吸着した豪農兼商人、都市に豪商が出現し貧富拡大で幕藩体制が行き詰り、武士層の仁政の当事者能力喪失ー天下の百姓の従来の関係が揺らいだ18C後半から、打ち壊しなど、自然発生的暴力抵抗闘争へ。
在地生産過程から分離し疎外された武士は、こうした民衆間の問題を我がものとできず、幕末外圧に対する民族的憤激=攘夷運動から、古代君主イデオロギーと合体し、遅れた絶対主義中央集権国家形成=近代化(上からの資本制改革へ。)
 
 この状況の中で、維新の政治主体は、そのような民衆世界で民衆が作り出し展開してきた歴史としての社会分解を無視して、国家・社会体制を権力的に構築し、民衆のそれへの服従を強制したのである。
 
>民衆がその中で少しづつ自らを変革し成長してきた歴史は継承されることなく権力的に断絶させられた。
(W.明治絶対中央集権政治で鎖国江戸時代260年間で日本独自に発展してきた文化伝統が切り捨てられ、このような民族独自性の希薄化は西洋崇拝、アジアへの排外を混在させた民族主義に置き換えられた。)
 
 こうして歴史の否定に立った政治主体は、重要な歴史課題を解決できないのである。
基本的重要問題はそのまま残され、それに上に近代化の共生に伴う新たな問題が、加重されてその史上稀な「近代」国家である天皇制国家を作り出す。
 しかも、「近代」と、残された再生産された歴史的課題との矛盾を解決できない結果は、寄生地主制や日本的家制度を生み出し、アジア侵略へと連動する。
 
  そして最後に大きな問題が残される。
イ)わが国の下からの道は、どのような政治的社会的の力を生み出したのかという問題である。
W。ここは切り捨てずに、丹念に見ていく必要がある
ロ)なぜ母子や公家であらねばならなかったのかという問題である。」
 
W。注1。
資本の原始的蓄積期は、各々固有の経済外的強制(南米植民地金流入奴隷貿易、農地囲い込み運動、海外侵略、意図的な急激デフレ政策)によって遂行されてきた。
商品経済の拡大延長線上に資本制は成立した歴史的事実は一例も無い。日本では一般的に維新後の松方デフレ政策による農地質入流失、農民大量都市流入が資本の原始的蓄積期とされているが、日本政府は日清戦争によって、国家予算の2~3年分の賠償金を得ていおり、コレを含めての資本の原始蓄積期であった、と考える。
 侵略戦争は儲かる。コレがシッカリ官民に根付いた。それが1905年日露戦争による賠償交渉に対する列強の介入に憤怒する大衆の日比谷公園松本楼焼き討ち、暴動事件を発生させたのである。)
 
W、注2
A,Bは国内資本蓄積集積が飽和し、格差拡大、国内市場低迷から海外市場への商品輸出競争、資本移転、輸出に展開し、帝国主義段階に至って、先行したAに対して後発の資本急進蓄積を背景にBが世界市場の再分割戦を挑んでいく。
 第一次大戦は典型的なこのパターンであり、第二次大戦もロシア革命を巻き込んだ、その継続パターンである。
 同時にこれらの世界戦争は植民地と半封建的国家の人民を解放した、といえる。
今日においても、この歴史段階的原則は否定できないが、グローバル資本制において、マネーの無政府性と国家の役割の限界という新たな要素が加わっている。

 外に集団自衛権行使激動情勢を演出しておいて多数日本国民を市場原理主義服従の檻に入れて収奪する。コレが基本構図である。

 それを突き動かす動因は、経済の不均等発展及び政情不安を抱えた東アジア各国の内外経済情勢だろう。
特に日本経済の今後の動向が鍵を握る。
   
        基本的な経済成熟パターン
1)中国(世界の工場)  1)~2)日本  2)~3)ドイツ  3)米国  4)英国(産業空洞化)
>第一。1)~2)移行中の日本は1の新興工業国との市場商品競争、原材料費高騰を価格転嫁できず、交易条件が悪化している。
第二。国内経済飽和状態の日本は産業付加価値主導段階に留まっているのだからはEUドイツのように広域市場の枠組みが必要な成熟段階だった。政治の自律性も脆弱、国際政治環境も整わず、広域経済圏構想は米国主導のTPPに刷り替わった。また日本政府の軍事動向も経済の重石となる。

>また戦前1930年ごろの列強の工業生産指数(2、4%程度で最低)と現段階の世界経済に占める日本のGDP費約8%の推移を先進各国の推移と比較すると、(米国約半分、ドイツの落ち込みも激しい)日本のダントツが目に付く。
経済長期波動から、日本の現状の占有率の後退する趨勢は先進国の中でも急激なものと想定できる。それはTPP的な世界市場の事情も含むものである。
この事実の見方を変えると、新興国の台頭である。

 以上の日本経済情勢の中期的推移に予測から、経済後退の政治面への反動効果で、政治が過敏硬直反応していく可能性は高く、東アジア集団自衛権行使演出情勢は予定調和をはみ出す可能性もあり、現状のリアルな国内政治の閉塞状況の傾向はさらに増していくだろう。
コレが同時に様々なパフォーマンスに悪影響に跳ね返ってくるだろう。
 東京オリンピック開催は、当面の浅知恵だった。
6年後の日本内外のの情勢は混沌としており、結果、足かせになろう。 
 
W、注3。
専制国家の支配構造は中央朝廷=官僚→地方派遣官地方庁→//郷紳大族(私党化)→中小地主→小作
 とすれば、幕藩国家末端支配秩序に村役人徴税請け負いが組み込まれている江戸時代よりも、清朝専制支配のほうが圧倒的多数の農民にとって支配管理が緩いとなる。この点がよく言われる中国の国家と民のネットワーク社会の分裂である。今の中国を見る基本ポイントである。

 ここで清朝時代の人口推移を挙げておく。
最盛期の17C後半~18C後半で総人口は1億人(日本約3000万人)→3億人(日本約3000万人=この時点で10倍。)の人口爆発。土地そのものの人口扶養力(潜在的耕地面積)の問題。
現時点の日本と中国の総人口はおおすぎる。特に日本は人口扶養力からそても減少していく必然がある。
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