反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

<地の群れ>の一人として精一杯、生き抜く。仲間同士には踏み越えてはならない一線はある。

  IWJで宇都宮さんのインタビューを視聴させてもらった。
明晰、話に具体性がある。正直なところ、この日本にも凄い人がいる、と感動し少し、心休まる思いもする。
さらに諄々と説く語り口に、自分には至らないところが余りも多過ぎる、考え違いもあると反省させられた。
立候補の理由もよくわかって納得できた。
最初に言及した記事にも理解は示していたはずだ。ただ情報不足といい加減な観念肥大があって、地に足が着いていなかった、と反省している。
細川候補は最初から論じる対象外であった。
 
 同じような轍は踏まない。
民主党政権誕生以降の事態は大震災原発事故などイロイロな事がありすぎて、過半の日本国民と日本史にとって悲劇だったズット想ってきたが、今目の前に転換されている細川ー小泉ラインのザワメキは茶番劇、出来損ないのコメディーに過ぎない。
 
 宇都宮さんのインタビューを聴いていて、ふとイメージしたのは、わたしは今後<地の群れ>の一人として、どんなことがあっても、自分の責任の及ぶ範囲で、精一杯生きぬき、戦っていこうと決意した。
そのためには足元を整理整頓し、固めておく必要がある。
 
 2014年2月9日投票の都知事選について、今後一切言及しないとしたことは間違いだった。
ただ自分の予定では、公示中の言及は今回だけにする。そうしたものに費やす時間が勿体無い。
 
 ネット上で庶民の生活実態から遊離し観念を肥大化させ、勝手にワァ~ワァ~やるのは愚である。
猪瀬430万票は好きなところにいく権利がある、という評価は今も変わらない。
 
 ただし、宇都宮さんの戦いは納得できた
それを受けて、繰り返しになるが<地の群れ>の一人として精一杯、生き戦っていく。
 
 枡添、細川応援部隊は勝手にやればよかろう。
ただ、後者の一部の言動は一線を越えているものとして厳しく対処する
戦う相手を間違えてはいけないし、選挙結果が判明しても、他陣営の所為にしてはいけない
同じことを繰り返して来ての、彼等の今日である。
それができないと断定しているから、今回、細部に踏み込んで、徹底的に批判する。
 
 今後の日本と過半の日本国民の具体的な歩みが真価を証明してくれるだろう。
自分の情勢展開に対する過剰反応指数は低い。開き直っている。
 
 その代わり自分の意見をできるだけハッキリさせて、この記事の目的は足元を固める契機にする。
記事は他者の目を意識することで自分に規律と緊張を課し、コレを契機にパワーを凝縮させるために行うものであって、他者の説得啓蒙は一切考えていない。
100人ヒトが集まれば100通りの意見があってしかるべき。
ただし、踏み越えてはならない一線はある。
 
 ターゲットを個人に絞った攻撃はダメだ。
個人テロ攻撃のような領域での応酬になれば、やっている本人たちだけに熱狂があっても周囲に集まった多くのヒトは後ろ引いていく。やがてやっている本人たちは異常な世界に巻き込まれ、行為の連鎖に歯止めが利きにくくなる。
 
 具体的に云えば、あくまでも自分の知っている限り、今でも小沢一郎を熱烈に支持している人たちに、この作用の方向が働いている。
 
 書く以前から、立場は固まっており、折に触れて彼等には厳しい対応をすると決定している。
具体的次元の問題から、時代情勢の認識まで及んで書いていくつもりだ。
ここまで書かないと、宇都宮さんがインタビューで述べた内容を我が物とし普遍化できない。
 
 まず第一の確認。
選挙結果の予想は一切変えるつもりは無い。
過去の選挙結果、その時々の背景をもとに、順を追って確認し判断するとそういう結論しか生まれない
具体的な過去の選挙結果の資料も、記事に掲載した。
 
東京都知事の基本問題。2014年1月29日付記事
 
 東京都知事の基本問題というタイトルを敢え選んだのは、文中に石原慎太郎の政治思想にまつわる論評をコピーして挿入したからであった。
コレを調べて、石原慎太郎とは何か、今までボンヤリしていたことがわかった。
 
 話題が横道にそれるが、この記事はあくまでも自分用に足場を固めるために設定している。
書きながら、関連記事の総括確認作業をする。
 
 彼は作家でもある。単純な人間でない。できるだけ解ることが大切。その後に厳しく批判する。
世間の裕次郎を含めた石原家の湘南ブルジョア、イメージは刷り込まれたものであった。
それは戦後日本市民社会を形成する底流の庶民層の素朴な願望でもあり、石原ら自らも演出し、マスコミに演出されながら、それらを掬い取ってきた。石原慎太郎には上昇志向、市民的欲望を基礎に据えているが、新興宗教でそれを内に慰撫し、その結果の自分を外に出している。
ここが極端に表現されてしまったのが東日本大震災に対する欲望云々発言であろう。
 
 小田実と石原が裏表の関係にあるという指摘は一見逆説的だが的を射ている
 
 自分は対極位置するが、三島由紀夫の石原評も、土着の日本思想を視野に入れると根が深い問題を提起している。
わたしは欧米の歴史と思想と東アジアの歩みを退避しながら、足場固めを目指したが、能力不足から断念した経過がある。
世界史の研究
- Study of World History 作成者:松本 徹 
 この方は三島由紀夫記念館の館長の学者さんである。
世界史の底流にキチンとインド、イスラムなどを位置づけており、横文字文科系で中国文化にも拒絶反応が強く、無理をしてやっと納得させている自分には及ばない立場である
 
 ただ、彼は古代しか踏み込んでいない限界があり、この辺が三島イデオロギーの大きな限界であると想う
戦後日本の到達段階に嫌悪感を抱き、絶対ロマンの世界を構築しようとしたが、その継承者?は一部を除いて多くの具体的な動向は政治反動の役割に結果するしかない。
 
 田母神候補みたいに核兵器の日米共同管理、日本への使用責任の委譲。
コレは日本内外の現在招来のリアルな政治の動きの中では究極のところ、
日本軍事の米国世界戦略の下請け化に結果するしかない
 なお、この件に関して下請けという用語を、最初に使用し、端的で解りやすく、情勢分析に適応したのは自分だと自負している。
この用語は日本経済の現状を解くキーワードとして最初に適応し、その応用だった。
最初に使用したのは民主党官政権時代の経済乗数効果という経済概念に基づく自民党参議院議員の首相への質問に対する、リアル経済は乗数効果理論通りではありませんよ、という批判からであった。
 
 
 個別、石原家に関してどうこう云うつもりはない。懸命に時代を駆け抜けてきた。
がしかし、一家意識を強く持ち、現実にイメージ利益共同体を機能させている節は戦前戦後の日本新興上層市民階層の形成発展の問題に集約できる。
橋下はその急階段を急いで登っている最中であり、彼の言動は自分の出世という核心の範疇に収斂する。
 
 もっともコレは日本だけの現象ではなく欧米、特にかつては階層流動性が高かった米国に通じるものと解る
 ここから、石原の米国金融支配層への接近による憧憬、感情的の共有によるエスタブリッシュメント願望が必然化する
正確にその政治思想のよって来るルーツから来る本質を見極める。
 
 
 なお、1月29日付記事について付け加えておくと、その資料の中には、過去の都知事当選者の年齢を順をおって記した資料があった。
ただ、そこまで踏み込むことはフェアでないと抹消した。
ただし、一線を踏み越えた言動がネットを中心に目立っていることも合って、今回は踏み込んだ意見を述べることにした。
これら言動者の政治傾向の問題点は根深く放置しておけない。
端的に云って、政局の肝心なところに差し掛かると決まって、内部の違う政治傾向のものに敵を見出す政治手法、政治傾向、陣形がある。
これについては、なぜそういうことになるのか、詳しく言及する。
 
>年齢に関してもこの場で指摘する。
76才知事初挑戦誕生、あるいは、70歳の知事初挑戦誕生もなかった。10歳も年齢が下であった。
細川氏の出馬記者会見は頭の小回りが効いていない印象を受けた。
一人の記者の連続質問に自分で仕分けできていない。手元でサッサとメモっていたら、簡単にできるはず。
それさえしないのかできなのか。
はっきり云って、PC無縁発言もあって、相当現実感覚が喪失していると見る。
コレでは仕事に支障をきたして幹部役人の言いなりになるのではないか。
 
>次に10億円寸借返済問題が浮上している。
 まず、猪瀬辞任を受けて出馬する候補にこういった問題が過去にあったこと、をどう捉えるか?
熊本の自宅修理や都内マンション購入資金の手当てであったというが、ずいぶんお気楽な立場である、と感想を持つと同時に、提供資金のアカラサマな私的使用はただのごっちゃん体質丸出しである。
それで首長の座を7ヶ月で降りて、隠遁的生活をしていて、今回急遽出馬。
 
 そんなあなたに心配してもらわなくても大丈夫と指摘しておきたい。
出馬記者会見の席でこういった金銭問題を長々と説明しなければならないとは情けないことである
 
 記者の質問に政治的意図はあるが、そういった質問が出ないのも民主政として、おかしなことである。
 
 さらにまた、検察たれ込みがなければ、今頃、猪瀬氏が執務と担っていたはずである
2014年1,29記事の資料に明らかにした憶測からは、石原ー徳田寅雄の関係から、その方面にも流れていたとするのが妥当と想われる。
 
 なぜ猪瀬でなければならなかったか問い疑問が湧いてくる。
猪瀬ー徳田ラインはエスタブリッシュメントに闖入する新顔である。
手の内にいらない者はバッシングしておく、コレが検察の権力心理である。
猪瀬の過去の経歴をはみ出しとして、430万票を預けることにダメだししたのだ
時代状況からして、十分スペアーは確保できているのだから
 
 >出馬するならば、小泉純一郎元首相でよかった。陣営に主張の核心ー脱原発のためならば、他のことには目をつぶる。この思考が大問題であるーからしてそのほうが筋道が通っている。また大衆的インパクトもあった
なぜそうできなかったという、ところにいい加減さ怪しさを感じる
脱原発をワンイシューで問うならば、そのほうが効果的でなかった。
小泉出馬ならば、自公支持層は割れる。
が、それはタブーである。
このような問題を設定するのは、東京でも表層が大騒ぎしているほどに、反原発は庶民の緊急の課題にのぼっていないという自分の判断がある。
ここまでの選挙結果でも既に明らかでないか!
 
不正選挙云々は事実を正面から見ない現実逃避である。
それは時代錯誤、非合理的判断の猪瀬430万票と位相はまったく同じというか、直近ではもっと愚かな視点である。
一部に集票ミスが生じるのは、ありえることだ、現場事務は一般の地方公務員がやっている。
そんな次元の低いことを考える前に公示中の投票者が参院選の3年間で800万人も増えてる事実を民主政の空洞化と考える思考法を望む。
 
 確かに韓国ではそういった事態に争いは起きているが、ここは民主選挙移行後、20年も経っていないのではないか。その前は軍事独裁政権であった。
真面目に直近の各種選挙における有権者の政治意識の移り変わりから、現状を直視し行動する視点を確立して欲しい。
これさえあれば、立候補辞退を実質的に強要するような愚かな行為の過半は自分で閉じ込められるはずだ。
ただそれだけでは不十分である、と断定しているので問題点を執拗に追及する。
 
そうした争点の絞り上げは原発事故以降の各種選挙による意識状況の判断からして間違っている。
生活問題をないがしろにした政治も持ち込むかく乱である
 
>細川知事誕生で空気が変わるというのも眉唾物、というか当選の必要条件を満たしていないのだから勘違い、も甚だしい。
当選の必要十分条件までここで持ち出せば、小泉ー細川ラインは似非ボナパルチィズムとして機能しないシロモノであり、細川氏は候補者失格者でしかない。
原発事故を受けてリアクション発進層と安部自公政権らの政治方向に対して、架け橋をかけているように作用するしかない。
 
 
>統一候補選択を強制するような言動は、大間違いである
細川候補は当選する必要条件を満たしていない。
 
>公示7時間前に出馬記者会見を開いている
 こんな光景は直近にあった。
総選挙に向けて日本未来の党は記者会見中も選挙区候補者調整をやっており、それが動画のリアル映像に映し出されていた。
自分はこの党に関してどういう選択をするか、できる範囲で情報収集した結果、投票できないという結論に達した
小沢氏等一派に関しては国民の生活第一の結成当時から、コレではダメだと完全に見切っていた。
 
ただし、以下書くことは、自分は政治的人間でなく、根本的に議会圏の動向には、日ごろから関心が薄かった、という限界がある。
 
(以下、小沢氏と生活党ネット上の一部熱烈支持者を徹底的に批判する)
 
 
 小沢一郎氏の政治活動に関する評価は日本改造計画(本は手元にある)出版当初、書店でザット読み通し、こんなものまともに相手にできないとした。新自由主義丸出しであり、反民主主義でもある。
その時点ではアメリカの推進する世界戦略に沿うものであった
関連団体の役員を一貫して務めている。
 
自民党分裂時の小選挙区制導入を巡る改革騒動では小沢氏等の立場に同調するようなところは一切なかった。偽改革騒動だとおもっていた。
沢氏が主導したといわれる細川連立政権に反対の立場だった
新進党結成に至っては、一体何を画策しているのか、得体知れず、嫌悪すら感じた。
ここまで書くと、現時点の支持者との違いも明らかになっていることだろう。
これらの政治傾向は保守層に重複する点が多いと見て、わたしの関心外である
180度の見解の相違を埋め合わすのが現実の不可能である。ただ、意見は尊重する。自分の見解は巾を持たせているつもりである。文字で表現していないだけである。
90度の意見の違いで批判ー反省の対話は成立する。
ただし、自分にはその時間が残されていない。
よって、一応、分析対象から除外する。
 
ただ、人間は変わるものである。
いま、美濃部都知事誕生の時の資料を確認ていてビックリした。
わたしはこのときウヨク傾向だった。
それから短期間に変貌したのだ。
特に在特会の連中を想うとき、フト、自分の若い時と比較する瞬間がある。
自分も他人に自慢できることはやってこなかった。粗暴な人間だった。
エラソウなことをいえない。
 
 
  が、この際だから厳しく執拗にやる。
以前からこの意見は押さえてきたことでもある。
 
>状況の外に一端でて頭を冷やし、自分のやったこと、やっていることを、第三者の眼、大局的見地で見直さなければいけない人が、小沢支持者の中にいる。
 
>内部の問題に一線は守らなければいけない。
 自分から一線を越えて仕掛け無反省なままでいると、傷ついたほうに憎悪は溜まっていく
その政治過程の蓄積が仕掛けたほうの安易な気持ちを超えて、巨大な反撃を生む。
 
 コレが民主党内抗争のリアルな原理であった。
そして、本当の敵に利用された側面が強い。
公党に限らず、内ゲバに付き物の法則である。
 
 初期の段階で最初に仕掛けたほうが回れ右を選択しないとお互い傷つくし、権力者を喜ばす。
統一候補選定と称して、圧力をかけたものは、反省しもっと政治の勉強をしてほしい
 
 何をつま先だって慌てているのか。コレからどんな状況になっても這い蹲ってでも生きて戦っていかねばならないのだ
 
 喧嘩両成敗という考え方もあるが、元々、内ゲバを政治権限奪取の根幹に据えていたものの方が先に反省する必要がある。
 
 権力の政治弾圧と民主党内部抗争の事実関係を見れば、最初はみんな黙っていた。
このときに、小沢らが上手く対処していれば、党内事情は多少は変わったかもしれない。
本人の自主的離党だ自民党はそういうケジメを一応つけてきた。
田中角栄のばあいも離党したのでなかったか。ただ、当時の事情は多少知っているつもりだがあの時も今も田中角栄を評価しない。当時の実態からはなれて美化されている傾向が多い。そういう言説は後出しうジャンケンのようなところふがある。
 
 小沢氏一人がどうこうなろうと、日本の政治地図に関係はない
 
 その後、周りが反権力的な言辞を弄する割りに、政治弾圧に対して、身内をキチンと守ろうとする措置ができない。
最期の弁護士は国民救援会の方であったと想う。
 
 要するに長期政権党で官僚権力と一体になってきた自民党時代の対権力観と変わらない。
 
 こういう次元を問題にできない政治体質が彼と取り巻き連中にあることは日本未来の党の無残で反人民的な分裂事態に鮮やかに露呈している。
ベタベタ貼った新党選挙ポスター女性代表の顔が選挙直後の党分裂で消えるなんてありない。
一体内部にどんな政治空気があったのか。
 
 その後の事態を言う及ばず、今般の都知事選挙でも、代表が支持する候補を表立って応援したら選挙戦に悪影響を及ぼすとはとはどういうことだ?
そうであれば、代表にはずっと前から相応しくなかったということになる。
田中角栄の闇将軍の時代と今はまるっきり違う。
 
 小沢一郎とそのグループの政治行動のパターン、陣形はそもそも、内部抗争用にできている。
 
 自民党の派閥抗争史において、日本の経済力の成長を背景に、政治権力を握るために、ヒトとモノとカネが乱れ飛んだ時期に小沢は世間に一度も出ることなく若くして、真っ只中にいて、やがて、そういったものが本人の提唱した小選挙区制の導入による党中央の権限力の強化と共に収束していく前に、手勢をまとめて政権党を飛び出し、その際に米国利権も引き連れていたから、結果的に長期政権党の内部抗争の手段を選ばない勝者が、そのまま権力者の座に着くことを骨の隋までしみこませ、今日に至っている。
 
 綺麗に言えばそういうことになるが、実際にところは、内部抗争と選挙のときになったら急に活気付くのである。
先のことなど余り考えない。内外の目の前の当面の敵とは無遠慮に戦う。
 
 最近は党勢退潮で口ではとってつけたような反民主主義の原理原則からかけ離れた民主主義を的政策を唱えるが、内部事情や支持者は肝心なところで反民主主義、分散主義の規範なき、狭い私党的な行動で暴走する体質は何ら改まっていない。
節目節目の自己反省なく全部他人はマスコミを悪者に仕立て上げているだから当たり前である
 
究極は選挙に不正システムが導入されているという。
だったら、選挙どころではなく、そちらの追及に全力を挙げるべき、もしくは選挙要約に掲げるべきである。
 
ここまで妄想を逞しくできるモノたちにまともに対応して、時間と労力の無駄である。
そういうことで批判は差し控えていた。
 
 ところが今回の都知事選で、選挙中の他陣営の事務所の電話番号まで公にして抗議を呼びかけているという。
こういう政治手法は、ザイトクがデモに押し寄せてくる行為とかわらない。
さらにまた、
選挙公示中にも拘らず立候補辞退しろと呼びかけたり、他陣営の支持者を意図的にかく乱するような呼びかけを一貫して行っているのは、どういうことだ。
 
 何回も言うが、そういう数合わせの呼びかけは、自分の支持する候補にその受け皿は用意されている場合だけであり、しかもそれは選挙公示前に行うものであるというのが選挙戦の暗黙のルールではないか。
選挙中に相手陣営を特定して公然とこういった呼びかけをしているのは聴いたことがない
何処かの島の選挙騒動じゃあるまいし、愚かにもほどがある。
 
>>以前、生活党の熱烈支持者の一部は、一度きちんと正面から批判する必要があるとは感じていた。
 
>>日本未来の党の解体以降、イザコザを引き起こした主体的反省も全くしないで、あの日本改造計画の時代の新自由主義と反民主主義満開の政治綱領の総括と反省ナシに、それ以降の政治過程で、原点とは似ても似つかぬ、社民党共産党紛いの政策を掲げていることからそのうち、何かの切っ掛けで、民主主義戦線に混乱を持ち込むのではないかと漠然と直感していた。
 
 とにかく過去の政治軌跡を調べてみると、節目節目で同盟者共闘者との間に混乱と分裂を持ち込んで、当の本人等は離脱し、期待した一般支持者にアパシーを蔓延させている。
そしてみんなが忘れてほとぼりの冷めたころ、また同じように合体先での内部抗争と混乱、離脱を繰り返している。
 
 結果、小沢一郎等は日政党政治地図の上で行ける所は全部、ぐるっと一回りしている、残るは社民党共産党だけである
 こんな輩は何処の政治ムラにも必ず、いるものである
最後は誰からも相手にされないようになる。
 
 振り返って考えると、民主党と共闘するぐらいなら、何で党を飛び出したの?
 
 原発なら小泉とでも結べるのだから、飯田哲也と同じ党を作ったのに、なんで、たった数ヶ月で別れたの?
 
 やっていることが行き当たりばったりであり、支持者の枠は狭まって遂に無当選者状態に陥っている
 この政治過程は権力による政治弾圧やマスコミ報道の所為だけにできず、多くの部分は本人たちの身から出たさびである。
検察弾劾デモに最初からキチンと参加した上で云っている
 
 ただし、そこで小沢の政治活動を支持する傾向との大きな違いは明らかだった。
熱烈支持者の存在には感覚的に嫌悪感を抱いた。
彼等のような存在が正直言って理解しがたい。
自分はよほどの核心が確信がなければ、ああいう状態にはなれない。
遥かな過去の自分がやってきたことを、分別があってしかるべきものがやっている現実が解らない。
デモ中に小沢コールが沸き起こった時はぞ~として隊列から離れようと一瞬想った。
何かデモに参加している自分が情けなくなった。何でこんなデモに参加することになってしまったのか。
 
そこで、もう孤立し、やがて消滅する運命と、断定しそのままにしていたら、まさかこんな都知事選のハプニングまでは想定できるはずがなかった。
やはり政治過程はハプニングによって様相が変わってくる。
 
 都知事選が最後の戦いとは党勢が風前の灯の小沢らでこの機会に細川に肩入れして、何が何でも浮上しようと躍起になっている。
その私党的我欲、究極のセクト主義が以心伝心で末端熱烈支持者の暴走を生んでいる。
よってたつ政治の磁場が消滅しそうになっていることは常日頃ひしひしと感じている
 
 コレ等の人たちの基本的動態はネットウヨク大して変わらない勝手な思い込みによって政治世界を総括しているので、手に負えない。
要は、自分で勝手に作った観念の架空政治世界における敵と味方の仕分けで衝動的になる傾向にある。
 

 

結果、選挙総括も選挙戦半ばで決定済みである
 候補者統一に失敗したから、負けた、と統一対象と勝手に決め付けている候補者に敗北責任を負わせる。
ただし彼らが何としようと現実は動かせない。ネット上のざわめきに過ぎない。
 
 政治路線が違い過ぎる場合の統一は、キチンとした事前の政治担保が必要
子供じゃないのだからその程度はわかるだろう。
 両者の統一を言う場合は、安易な考えのヒトは大きな政治勢力同士の統一であることを知ろうとしない
この違いを無視して今回は無理をして手を組む場合でない。
2011年からの過去二回の都知事選の選挙結果から見て、反原発ワンイシューではとてもじゃないが、相手候補を凌駕するする条件もなかった。
分類としては同じ直接民主主義で行った脱原発住民署名活動(コレにも署名している)の集まり具合も参考になる。
細川候補に勝ち目は一切なかった
 
          
            原発ワンイシューとでは政治路線の違いは大き過ぎる
 核心は今と将来の問題系が浮上してくる、政治戦略の環をつかめているか、どうかにある。
言い換えると時代の問題系に通じる各々の扉を開けるマスターキーを手元に所持できているかどうかの問題である。
コレがあれば、この時代の趨勢への戦略的対処が可能になる。
 
 このまま推移すると、日本における諸問題の根源は貧困と格差拡大になるだろう
また、グローバル資本制の深化という絶対条件から、貧困と格差という根源的な問題は世界中の国地域を問わず、進行する。
 
 グローバル資本制全地球的市場一体化の趨勢と、同時に主要国、地域の不均衡発展の急激な進行に基づき、世界の多極化と全球一体化市場の再分割戦の様相をもたらす
 
 1950年代後半から続いた先進国の高度経済成長期のような、企業経営の量的拡大が、大衆の労働条件と生活の向上に繫がる時代は完全に終焉し企業の経営のグローバル利益の拡大は国内に貧困と格差の拡大を蓄積し、中国のような新興国の経済急成長も格差拡大と同時進行である。
 
 新興工業諸国では中期的には量的経済成長を追及せざるえない現状が続くが、先進国では経済過程の中身、体質が問われる段階に到達している。  
 
 今のところ、自分にできる範囲の資料を収集し、自主的に判断した結果、
まず、第一に、日本経済の世界経済に対する占有率は趨勢として低下していく。
コレは経済史に根ざす、水が高いところから低いところに流れる如き、法則の問題である。
 日本だけが例外的に戦前の列強の時代の工業生産指数最下位から、戦後の経済突出、経済大国化の特殊な動態を維持できるわけが無い。
日本が神の国にでもならない限り、100%あり得ない。
必ず他の先進諸国と同じように世界経済に対する自国経済の占有率を低下させていく
 
 したがって、リアルに日本内外で発生する政治経済問題の根幹は世界経済の成長と、そこにおける日本経済の後退の進捗具合に規定されるである。
適切な政治経済政策が問われる
 
 戦前日本は成長過程の行きついたところでの世界市場の再分割戦に敗北した。
現時点は世界市場の占有率の低下傾向の中での全地球一体化市場の再分割に遭遇している
そして一方で、かつての先進の欧米の広域経済政治地域結成の動向があり、
他方で巨大国家中国インド、また韓国のような多様な新興国家の動向の衝撃をまともに受けている。
 
 課題はこの趨勢をうけて、日本の内外に必然的に生じる不均衡を吸収し、相応な状態に持っていくかだ。
 
 第二は日本内外の経済環境の法則的推移に規定されて、日本の海外市場に向けての全般的企業経営は、未だに新興工業諸国との市場価格競争の段階から抜け出す付加価値増加の糸口を見つけておらず、資源エネルー価格の趨勢的上昇から、交易条件の悪化傾向への歯止めはかかっていない。
 
 アベ等の自民党政治も価値判断や問題点の余りの大きさは一端除外して、体系的な方向であることは間違いない。民主党政権時代のリフレ派を巡る論争当初から、経済政策は批判してきた。最も素人なので限界はあった。
 
そのパートナー公明党創価学会に自律する政治戦略があるとは思えない
 
 アベ等と自民党の方向は内外環境や政治軍事勢力との関係に基づく、トータルな政策パッケージであり、小泉氏の今回の選挙で大衆的に提起している将来の日本が原発数進で行くのか、脱原発でいくのか、などとい二者択一ムード的宣伝煽動は、今後の日本の推移を正面から見据えて、庶民の生活、生命、健康、労働を守り、できるだけ均衡的な政治過程を歩む道を適切に表現した政治路線の選択で全く無い
それは単なるムードの煽りでしかない。
 
 手元のメモには米独の原発設置現地事情で目に付くものを記録した資料がある。
南カリフォルニア、サンディエゴ100キロのサンオレノ原発三菱重工神戸製作の蒸気発生器事故を巡る記事及びテネシー州の汚染処理できない物質の利用システムの特殊装置付きの原発記事も書いてきた。
ドイツの廃炉現場の概略も調べ記事にしてきた。
 
 フランス原発事情に関してはワイン産地と原発立地を重ねあせた記事を作成しようと試みたが、フランスの原発政策の特殊性に対してあまりにも大きなしてで考えなければならないので、キュリー夫妻と子供の記事に留めた。ここで本質的に問われるのは、自国の自主的なドゴール的フランス共産党的防衛問題である。
自分はこの点についてはっきりをした意見を固めきっていないので踏み込んだ記事作成は無理だった。
 
 ただし、遠回りして、秀吉ー徳川の兵農分離から一揆を調べている
後一点だけ片付けたら完成する。
結論は宇都宮さんのインタビューにも触発されて、アウトラインは出ている。
 
<地の群れ>に一人として、這い蹲っても精一杯生きて戦っていこう!
足元を見つめ、年齢的に後退は現実なのだから仕方がないが、爪を立てても、前を目指そう。
みんなと結び合えるとことは結び合っていこうと、決めた。
既に今までのような観点からのブログ記事の制作作業も一段落するところまで来ている。
自分にはPCを前にして座り込んだり、読書に没頭したりするのは不向きである。もう本気になって読める分野の本も無い。
そもそも政治は数ある趣味の関心の向かう一つに過ぎない。
政治的人間として自分は全く不向きという結果は出ている。
 
 先の見通しについては上記のような基本視座にある自分にとって、枡添、細川両候補及び支持者は何も語らないために語っているとしか映らない。
絵空事に近い、雲の上からのささやきである。
確かにそうした方向が現実の体制的パワーでそれによって制度政策は決定されていくだろうが、コレに対して<地の群れ>に一人として戦っていくことが、自分固有の天寿を全うする道だ
 
 社会構造、時代情勢については書く尽くせないが、枡添氏はさておいて、細川候補のバックに小泉純一郎氏が後見人の如く張り付いていることにたいして反原発の一点で一致する人たちには政治を一体今までナント考えてきたの意だろうかという根本的な疑問を感じざる得ない。
 得体に知れないパワーゲームをやっている限り、現実の世の推移の中で痛みを覚える過半の人たちのかけ離れた個人的世界の住人であるという自己証明している過ぎない。
元々、最初から存在する違いを自分は再認識するだけだが。
ある投稿サイトで始めてであった民主党支持者たちとの違いに驚いた。
 
 直近でいえば、2011年3,11自他を受けての東京都都知事選挙
調査によれば民主支持層の90%以上はそのまんま東ワタミ社長=現自民参議院議員、そして石原にも三分解している。
自分は唖然とするが、政治傾向としてはこんなもので、今回、細川ー小泉ラインが反原発と称して出現すれば、笛に踊るのである。
しかし一昔の日本はそうではなかった。
確かに時代がうごいたでは済まされない責任問題もある。
しかしどうしてなのかとヤッパリ納得しきれるものがある。
意識が存在を規定するのではなく存在が意識を規定する。コレに尽きるのか。
がしかし、この論法の果てには、「何をなすべきか」で提起された大衆の経済主義の自然発生性と政治的意識分子の中核とその系列の問題が形は違っても、浮上する。
コレは時々考える。
日本では自然発生性さえ乏しいのだから問題は深い。
大衆と国民と名乗った、中身と持続性乏しいなんでもありが跋扈する。
 
それは少なくともともバブル崩壊以後の日本丸の大きな進路を修正する道でなかった。
その進路を前提とする文句、普遍不満、綺麗ごとを述べた立ててつつの処世術の集合でしかない。
 
それ以前の日本では修正するパワー=実体は地域で中央で、曲がりなりにも実存していた
結果的に自分もその一員であった。
 
 だからみんなは何処か心のそこに安心感があった。
それが全体の底力からとなって日本を下から押し上げてきた。
 
 はっきり云う。
 
 小泉氏を一緒に声を合わせているようでは、日本丸の進路を修正する道にならず、むしろ人々の間に縛とした得体の知れない不安を醸成することにしかならない。
 
これらの人々には地に足の付いていない余計な不安感が強すぎる
傍から言説を眺めていていつもそう感じる。
淡いピンクの幻想や先の見えない濃いグレーの不安感を掻き立てるよりも、現実を提起したほうが庶民は腹が固まって、落ち着く。
 
 ヨーロッパ、ドイツ、フランス、イタリアの中道政治とは社会民主主義の伝統的潮流の大きな流れの拡散したものであって、日本の今、都知事戦で行われているような事態は、無力な数合わせに過ぎない
 
 そこに今後、基幹となる政治潮流形成発展の動きは無い。
いうまでもなく小沢氏等の動きは論外であり、他党と結び合わされることは無い。
ここの党派は小沢氏がいる限り誰からも相手にされない。
そんなことばかりをやっているから、自公や枡添候補に人々は安らぎと安定を求めて吸い寄せれていく。