反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2014年2月9日東京都知事選結果についての感想。

                                               NHK NEWSweb
2014年東京都知事選 立候補者数16  得票率46、14% 有権者総数約1080万人 開票終了
 
>wacwac深読み。
 ネットでは大騒ぎの盛り上がりように一見するが、<おなじみのネット政治層>の間だけで、騒いでいただけ、とみる。
 コレが現実ではなかろうか?
 
 自分たちとは別の次元で世界は蠢いている。コレが有りのままの現実。
 
 日は東から昇り、西に沈む、そして~日はまた昇る。確かに朝の来ない夜はなかった。
がしかし、浜の真砂の一粒にとって、いつかはそれさえ止めるが現実。
しかも、ぐるぐる駒のように回る地球が勝手に太陽の周りを大周回している、という現実。
このままいくと、何を書いているのか自分でも解らなくなるので、この辺で中止。
 
 積雪の影響から出足が鈍った、といわれているが、それもよ~く考えると、何だかおかしな話で、コレによって投票困難事態を引き起こすのは、都内の端っこの方々や、外部環境に行動が依存する方々だけで、
有権者の80%程度は投票箱までたどり着くのに大した労力はイラナイとおもう。
日曜日に働く方々には近頃、流行の公示中の期日前投票がある。
コレが一定程度を超えると、公示中の選挙運動のセレモニー化が進行する。
 
有権者の80%投票可能状態を想定すると、投票率46、14%は55、37%に修正する必要がある。
過半数の方々は投票行動を起している。
 
期日前投票という面倒な投票行動が流行っており、今回もコレが多大な威力を発揮していると想われる。
前回の参院選期日前投票約8%を3年前より、800万人も増加している事実を民主政の空洞化として厳しく批判した。
今回も期日前投票数の数値を知りたい。
ココに、一つヒントが隠されている。
 
コレを不正選挙に問題をすり返るものは、アパシー層の真裏に張り付いた政治位相を同じくする、一部の間違った政治傾向の人たちである。
  
さらにまた、
>どうしても、今回の都知事選は納得行かない、投票行動を拒否するというラジカルな方たちにも、それなりの候補者がスタンバイしていた、と想われるから、
>近年連続している投票率の底流には、何か、確かなものがある、と見た。
イロイロな事情を最大限考慮に入れても、都民有権者の約45%が投票行動を起さなかった。
 
>この実態を先の参院選終了直後、過去の低投票率の年に遡って、その近辺の政治経済環境、政局まで調べて、記事にしたことがあった。
 
 結論は二つあった。
 
その1。
 現状、多数の日本国民は<政治的>アパシー状態にある
それで、アパシーなる特殊用語も調べて、そのまま掲載した。
再び、引用すると<低投票率の底流にある確かなもの>がなんとなく解るような気がする
 
>以下のアパシーの説明をグローバル資本制の世界的実態とリンクさせて、政治的に読み込んだのが、過去の記事の内容だった。
グローバル資本の世界的動態は国境や規制を超えるアナーキー状態を本質として、当該の政府さえ、この政治本質に従属させる。
 こうしたグローバル資本制によって、個々人は様々なレベルの共同体から実質上、引き剥がされ、地上から数メートルに浮遊した膨大な風船状態のように漂い、そこにおける空気感において<今のところ><政治的共同幻想は疎ましい>ものなのである。
ハッキリ云えば邪魔、見たくもナイ、巻き込まれたくもナイのである
 
シカト、スルーするのもグローバル資本制のアナーキー性に即応する生きるための方便であって、それなりの立場からの一つの確かな選択なのである。
 グローバル資本制的世界のアナーキー的超合理性によって、結果的に、各種レベルの共同体から浮遊風船状態になった、諸個人の生き様のリアルな有様<今だけ、自分だけ、カネだけ>の自分の限定使用による対応である。
 超巨大、物的、イデオロギーグローバリズムアナーキー性の制度化歴史いつもパラドックスに満ちている)に対して、バラバラにされた個人が即応する究極の方法論は自己限定の砦に閉じこもって防戦することが基本的な動向であり、砦の外の遊撃戦はあくまでもグローバル資本制から個々人の身を守る、ホンの一時の術なのである。
 
 であれば、その基本動態を共同政治幻想の提示では捕捉しえない
そんな政治無関心が酷い社会を生むのだ、と説得しようとしても、そうする側も究極のところ、海図なき航海が本音で、確かな先の見通しはないのだから、まともに相手にされない。
 
 この先どうなるかということは、グローバル資本制のコレからの基本動態が何処にあるか、掴み取るしかない
 
 有力候補と云われた候補者たちの相違点及び一致点は今現在の日本の大きな政治潮流の分岐を指し示していると理解している。
 
 田母神等とアベ等の違いよりも、細川ー小泉ラインよ宇都宮健児との違いの方が大きい。
 
 その理由は元に戻るが、「この先どうなるかということは、グローバル資本制のコレからの基本動態が何処にあるか、掴み取るしかない」。此処に尽きる。
 
 双方は意識的に溝を埋め合わせるのが政治の基本原則の一つと考えるが、まず何より、細川を支持した一部の人たちにその努力を願う。もう少し視点を替えると別な世界が見えてくるはずだ
今回どう考えても、事実問題を直視して、順序だてたリアルな思考法を蔑にして、思い込み優先しすぎた。
 
 エライヒトが選挙運動をやっていたり、支持しているから、自分も、というのは否定はしないが、自分としては、こういった層は一応対象外としている。
 
 第二に以前、低投票率に関して、過去の遡って調べて、記事にしたとき、ハッキリしたのは、コレには決まって、一揆しているのに、都合が悪くなると内輪に揉め事を起し、離反を繰り返してきた政治グループの動向が大きく絡んでいること解ったこと。
 
 この時点で、批判的であり、支持はしていなかったが、決定的な一線を引くまで至っていなかった。
もっとも自分にはズット長く議会圏の政治の動向には疎かった責任がある。
政局については何も知らない状態だった。
 
 最近、この政治グループが装いも新たにしているのを観察していると、また内輪で揉め事が起こるのではないかと直感して、それを匂わす文言を書いた際に、敢えて踏み込まなかったが、今回の都知事選に関する言動を見ているとヤッパリナ、やっておくべきだった、残念に想った。
基本的に予想行為を記事の基本精神にしているので、
ただし、今回も此処までとするが、あのうちに敵を見つけ出す政治手法は修正できない。
この結論は今も変わらない。
 
 koto bank引用。このアパシーの解説を政治的に読む込むと、なんとなく低投票率の底流に流れる確かのものが解る。
大衆の気分の有り方であり、それだけを取り出すと、ボンヤリとしか理解できない。
グローバリズムの実態及び世界の多極化の競合がもたらす偏狭な国家主義民族主義の台頭の実態とリンクさせたら、事態の推移と対処の方向性がつかめる。
 
「イ)アパシーとは、青年期に多くみられる無気力無関心状態のこと。ギリシア語で「感情欠如」を意味する言葉apatheia語源
ロ)アパシーになった人は仕事勉強など本来すべきことにはやる気が出ないが、
交遊関係趣味に関しては意欲発揮するという点で、生活全般に対する無気力・無関心を示すうつ病とは異なる。
ハ)また、うつ病はしばしば睡眠障害を伴うのに対し、アパシー場合昼夜逆転生活になっても睡眠はとることができる。
ニ) 特に大学生にみられる慢性化した無気力状態をスチューデント・アパシーという。この状態の学生授業に出なくなって留年を繰り返したり、中途退学に至ることもある。 」
 
 
 
>2014年東京都知事選選挙結果について
 
積雪などによる悪環境はかえって、政治的浮動層を除外した固定的政治層を割り出すのに都合がいい
 
 得票率46、14%だった自己流修正値は55、37%だった。この方実態がよく見える。
積雪悪条件にも拘らず、それなりに投票所に足を運んでいるとみる
 
 言い換えると、政治傾向のアイマイな純粋浮動層は意外に多くない。
 
 したがって、まず第一に、それをあてにして、選挙戦術は純粋政治浮動層は意外に多くないので、今後有効性を待たないと考える。
 
 細川陣営の思惑が空回りしたことは、候補者の人選、出馬遅れなど、その他の原因を考慮しても、ムード優先選挙に頼って、上記の意外な少数派層である純粋政治浮遊層に迎合戦術を取ってし、現下に進行する社会経済の堅実を見据えられなかったことにある。
 
 勿論、先に述べた、グローバル資本制の実態に根ざしそれへの即時的対処として、投票行動を回避する層の存在も忘れてはならない。コレは固定層とみなして間違いはない。
固定政治層の集計結果→基準2009年民主党政権交代総選挙、自公得票率38%(岩盤支持層と以前評した)
           ↓
 
 投票者総数→約498万人(修正値から割り出していない)
 
A)舛添要一2112979+田母神610、865=2、723、844
 
B)宇都宮健児982、594+細川956063W?小泉効果も考慮して-20Pにするべきだが一応そのまま
1、938、647
 
そうすると、BはAの約30%ということになる。
>コレが固定的な政治支持層の割合とみる
 
 以前から社会の空気に流されない層を約20~上限25%とみていた。
厳しい局面では15%~1上限18%弱。
 
東京都の岩盤組織戦の有効な地方選挙ということを考慮すれば、社会の空気としても盛り返している。
2009年の民主党政権交代時から、社会に漂う政治的空気の逆転現象は続いているがB)は組織的基盤が乏しい割にはよくがんばった、とみる。
 
 普通に着実にやっていけば、内外政治経済情勢の展開、推移から、今回の30%支持基盤はもっと拡大していく趨勢にあると見る。
 
 それを阻むのは、内輪揉めの政治体質とみる。
激化する政治経済情勢の中で政治的知識人の陥る最も手軽な政治観である
イロイロと支配層の政治を口を極めて、批判した政治的結語が内輪に対する攻撃に向かい、そのことによる内輪の多数派獲得優先という政治方向は政治的な悪性癌として蝕んでいく。
 
 多分、議会圏に置ける政党による政治的受け皿を云々しだす人がいるだろうが、庶民レベルは慌てることはない
そういうことは政治至上主義の連中に任せておけばいいと思う。

舛添 要一
無 新 65歳
2,112,979
得票率 43.4%


 
 
鈴木 達夫
無 新 73歳
12,684
得票率 0.3%


 
 
 
 
 
        追記
 ホントのところは、こんなことを書いている場合じゃなかったが、都知事選の選挙結果が知りたくて、探していたところ結果が判明して、記事にした次第。
あくまでも投票の権利のあるものが選ぶ首長選。
 
 舛添新都知事はかねてから念願の都知事に就任した。昔、中央政界に進出前にその動きがあったことは既にウィキペディアを引用した記事の中にあった。
彼の戦略としては手堅く都知事の実績をもって、中央政界に箔をつけて自民党に乗り込み飛び石出世するつもりだったのかもしれない。
その思惑を越える機会があって、アッと間の厚生大臣への出世。
その後の政権交代を契機として、何時のまにか改革の会とかいう政界迷子状態に。世事に長けてはいても彼には現実政治の先の読みはない。
 
  その後の出処進退が分かれ目だった。
政治など所詮他人のふんどしでやるもの、むしろ売名行為の一貫と、割り切っている彼には自腹を切っての選挙戦など想定外だから、選挙資金に都合が付かないという理由で、参議院選挙出馬断念。
 
 当分は似非研究会サークル活動を拠点にマスコミ活動でお茶を濁して雌伏のときを過ごそうとしていたところ、猪瀬の5000万円垂れ込み事件が生じて、自民は直下型候補探しを断念して、自分のお鉢が回ってきた。
 
 悪運の強い男である。
 
 そのキャラクターの本質は植木等の無責任男シリーズの主人公が現実世界に降った湧いたようなものだと、割り切っても見たほうがいい。
 
 アレは映画の中だけでは痛快無比な爽快感を与えるものだが、ああいった実存に近いものが現実に立ち回っているとすれば、公私にわたって傍迷惑もいいところである。
 
 植木等の無責任シリーズの初期の段階では主人公は出世街道を三段跳び四段とびで駆け上るために徹底したゴマすりと、異常能力を発揮したモーレツ有能な社員であり、一連のシリーズは全部主人公は頂点出世におわるハッピイエンドだった。
 
 ただ唯一の例外は「日本一の色男」であった。
最後はどんでん返しの結末に終わる。
 
 団塊世代の最終便の舛添は植木等の無責任痛快シリーズの現世復刻版であった。
本来ああいうトンでも傍迷惑男は、映画の世界の中だけに閉じ込めておかななくてはならなかった。
 
 架空の植木等のキャラクターを唄でコントで創造し大衆化したのは、事実上、放送作家青島幸男だった。
その青島は都知事になって、やれることもやらない、無残な結果に終わった。
作家は都知事になっても所詮、実像のままだった。
 
 ところが、想像の世界のある種のピカレスク的スーパー主人公が現実世界に実存し、反省する暇もなく、東京都都知事に降臨したとすれば、どうなるか?
 
 新たな石原慎太郎の登場である。
 
 中央集権黒字首都、東京都知事という特殊、お山の大将的環境がもたらす愛国排外から、今度は極め付き
新自由主義のチャンピオン登場。
 
 東京都知事舛添は、都知事に納まらず、新自由主義のトンデモ宣伝マンになる。
 
>>細川候補の記者会見を視聴した。
超極端に掻い摘むと。明晰な政治用語としては次の三点しか語っていない。
1)反原発OR脱原発は将来の日本のビジョン
2)民主主義の危機ーファシズムがやってくる可能性
3)小泉純一郎、尊崇
 
>やはり、小泉純一郎、本人が立候補すべきであった、細川会見を聞いていて、改めて想う。
アレはマスコミが大勢詰め掛けているから、それらしく聴こえるが、話の内容は具体的な裏づけに欠けた、ムード的言辞に終始していたと受け取る。
公示7時間前の出馬記者会見を視聴して、コレはダメだという直感は当たっていた。
 
*あの記者会見から、政治主導者としての無能者のアカラサマナ姿を導き出せないものは、政治感性がゆがんでいるとしかいいようがない。
アレが通用したのは二昔以上も前の1990年代こと。今の野党候補ではアレでは通用しない。
 
もはや時代遅れの政治的遺物でしかない。政治家云々ばかりでなく、本源的に、そこに個人としての人間的退廃すら伺える。
こういった状態を小泉とのラインで担ぎまわった一部の人たちの民主政とは、所詮、数集めに過ぎないこともわかった今回の都知事選であった。
 
それは民主党政権崩壊の総括の問題でもある。
自分は怨念と打撃を与えるためにのみ支持した。マニフェストは論外だった。
間違っていた想った。その程度のものが世間に通用するわけがない!
自分のルサンチマンを全く別世界に住む政治家の託すほどとんでもない誤りはない。
がしかし、もともとが教養と知識に乏しい粗暴な人間。知らなかったことも大きかった。
過程に詰めがなく、問題が多過ぎた。
 
また、政権を支持しているものが政権を行動で、自らの身を切ることで支える(自分の原理原則を一時捨てる)ことができなくて、口舌の徒に終始してはダメだ。見切りが早過ぎる。
民主党政権支持層にはこの手の人が実に多い、と怒りを抱いていた。
であるから再度ねじを巻いて、支持しなおしたが、相手が悪過ぎた。
 
某政治グループの誤りもその後の事実経過、今現在そしておそらく将来にわたって明らかになった、とおもう。
それはいうまでもなく、根深い我等の政治問題である。厳しく一線を引く。アレは野党政治活動と運動破壊者としてしか機能しない。
 
民主政は我等にとってちからの源泉であった。最初からかくあるべきものではなくて、作り上げていくものであるが、彼等の民主政は間違っていると断言できる。理屈でもそうだが、直感と経験がそういわせる。
また、宇都宮選対事務所の総括会合で女優の木の内みどりさんが語っていた内容も幅広く、みんなにとって意味があって重要な視点である。個人に起きた問題ではないと想う。
今後のことも考え、共に向き合うべきである。