反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

1936年新暦9月27日~10月6日、甲 州 騒 動(郡 内 一 揆)考。-幕末公儀の正当性の喪失と民衆蜂起の秋(とき)。

  ネット上、書籍を含めて甲州騒動(郡内一揆)の全体像の解説は非常に少ない。
やはり、ウィキペディアの解説が一番、詳細に渡っているが、関連事項を漏れなく限られた文字数で満載している関係上、とっつきにくく、非常に読みづらい。記述の仕方も要領の得ないところがある。
ただし、この解説は一次資料に近い山梨県史の当該箇所を忠実にまとめたものであり、ハイパーリンクされている重要事項を飛んでいくと、詳しい全体像を攻勢できるように仕組まれています。
       天保騒動
 
 少ない文字数で背景説明などを省いて、一揆勢と鎮圧勢の行動記録風に手際よくまとめられているのは
       甲 州 騒 動(郡 内 一 揆)
この事実経過と甲州山梨県地図)全図と照らし合わせていくと一揆騒動勢の大まかな動き規模は納得できる。
 
 機会を改めてやりたい。
 
 ウィキの天保騒動の記述は甲州騒動(郡内一揆)の全体像に関して偏見を助長する側面がある。
天保騒動の背景と郡内百姓の蜂起の項目から区切りをつけた <騒動の変質と鎮圧>の項目は鎮圧側の記録をそのまま、使用している。しかも異様暴力的側面を強調して。
須田努の記述を参考にしているとあるが、矮小な日本限定の閉じられた歴史観を助長する観点です。 
 
 江戸時代の一揆、騒動の研究成果は郷土史の分野に発表されているというのが現状のようです。
大きな図書館の江戸時代の書棚の前に佇むと、正面から一揆騒動を扱った書籍は一冊しかありませんでした。
 
 須田努さん系の学者グループの『「悪党」の一九世紀 民衆運動の変質と“近代移行期”』青木書店2002年刊。
この中の須田さんの「若者、悪党という実践者」という論説の一部に甲州騒動の主導者のリアルな実態にピントを合わせた記述が載っています。
 
 この本全体の各論集を以前、読んで共感するところがありましたが、今では疑問に想っています。
 
>幕末世直し一揆の暴力闘争としての特異な現象を挙げて云々しても、
古今東西の世界史的見地からすれば、所詮そんな次元を超えた大衆実力闘争、
もっと進めば農民戦争の実例は数多あるわけです。
 
幕末世直し一揆の暴力的側面は江戸時代の兵農分離鎖国を大前提とした幕藩体制の暴力支配と幕末公儀の正当性喪失に即応して、民衆闘争の一部が既成の一揆、騒動作法を超えて対応していった、に過ぎません。
 
 例えば、宗教改革以前の英仏100年戦争を背景にフランスとイギリスには次のような農民戦争の事態が先行的に発生している。農民戦争に須田等の強調する暴力云々の異常性ファッション的な異様性を適応するとどうなるか。お門違いということになるのじゃないですか。 
 
  引用、世界史講義録
> 北フランスで起きたのがジャックリーの乱(1358)。
 当時、イギリスとフランスは百年戦争という戦争をしていた。北フランスは戦場になってさんざん略奪されていた。
ところが領主達は自分の荘園の農民を守りもしないで、重税をかけてくる。とうとうたまりかねた農民たちが大反乱を起こしたのです。
ジャックリーというのは貴族たちが農民を馬鹿にして言う呼び方で、人名ではありません。
反乱は鎮圧されますが、農民の力が領主をも脅かすようになっていることを証明しました

>>イギリスで起きたのがワットタイラーの乱。
 ワット=タイラーは指導者の名前です。これも百年戦争中のことで、農民たちは重税で怒り爆発。この農民反乱はロンドンを占領する。
大成功だね。国王は反乱の代表者と会って、農民の要求を聞いた。
>農民の要求がすごいです。農奴制の廃止!
 
 国王はいったんは減税を約束してこの要求を受け入れるふりをしましたが、後でワット=タイラーと会見した際に、だまし討ちで殺してしまった。
それ以後、反乱は鎮圧されていきました。
 
この反乱の指導者の一人にジョン=ボールという僧侶がいます。この人の残した言葉は非常に有名。
 
「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰が領主だったか?」
 
 身分制度そのものを強烈に批判していたのです
 
 
 W。暴力一揆騒動の数が幕末一揆全体からみて他称に関心が向かいます。
須田の挙げた「編年一揆」の中の事例を見ても、やはり、少な過ぎるから、日本限定の特殊性、を異様性として描き挙げることで、数の少ない特殊例を普遍性に十分、昇華し切れていない解説が気になります。
 
>理論的な意気込みにも拘らず、一揆現場の現象論に終始しているようで、一揆現場とその理論化という両者の繋がりが切断されています。
 
 次のような視点で混ぜ返すつもりはないですが、現時点での良い悪いの判断は別に歴史的実践を経た事実であります。 
 
    いわゆる「ゆきすぎ」の問題  毛沢東選集 第一巻
 革命は、客をごちそうに招くことでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうをしたりすることでもない。
そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかでおとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえめのものではない。
>革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうちたおす激烈な行動である
農村革命は、農民階級が封建地主階級の権力をうちたおす革命である。
農民が最大の力をそそがなければ、何千年ものあいだ深く根をはってきた地主の権力はけっしてくつがえせない。
>いわゆる「ゆきすぎ」の行動は、すべて農村で大きな革命の激流によってふるいたった農民の力がうみだしたものである。
こうした行動は、農民運動の第二の時期(革命の時期)には、大いに必要なことである。
>第二の時期には、農民の絶対的な権力がうちたてられなければならない。農会にたいする悪意をもった批判を、けっしてゆるしてはならない。

>あやまりをただすには、度をこさなければならず、度をこさなければ、あやまりはただせないのである
 
 以上を踏まえて、自己流の「甲州騒動(郡内一揆)」全般の解説文へのまず何よりの批判点は次の各項目になります。
1)新暦の1936年9月27日としたのもその一部です。
ウィキ解説の冒頭に新暦が使用されていますが、そのほかは全部旧暦で郡内一揆の開始を旧暦の8月14日としてみたり、8月20日にしています。
 
 新暦に直すと、現山梨県東部地域の郡内一揆勢が蜂起しだしたのは、秋の米の収穫時期に重なっていることが解り、異常気象で稲の生育具合が絶望的な状況が飢餓状態に陥っている元々が稲作地帯でなく買い米の多い百姓たちをさらに一掃切羽詰った状態にしていることがわかります。
 
2)次に、やはり幕末農村階層分化の進む底辺では飢餓による野垂れ死の状態があったと想います
座して死を待つくらいなら、立ち上がっていこうとするには人間として当たり前の精神状態です。
 こういう精神的物的実態はどの解説も余り取り上げていません
 
 なぜなら、それらがよりどころとする一次資料は警察検察裁判所が一体になった弁護士や報道のない中で、騒動を鎮圧し罪に問う側の作成した官製資料ですが
史記述の客観性を維持するためには、こういう一揆する側の情状酌量面の事情は想像力に基づくものだから、踏み込んで書かないわけです。
 
 しかし当時の現場にはそういう事情が厳然としあるから、率先して一揆を主導したものは命をかけたわけです
 
 また、村方、町方の共同体にはそうした戦いを共にして、正義とみなす気風が脈々と流れていたと想います。
 年貢のムラ請負を円滑に処理する責任性には百姓としての自負心が伴わなければならず、それを視されたり、一方的に踏みにじられた時には体を張ってでも、訴えるという独自の精神世界がありました。
百姓の労働が武士を養っているわけで、当時の百姓も解ってるものは解っていたと思います。
 
3)さらにまた、地域に米の蓄えがないのではなく、あるところに行けば米はあるのです。
 米の価値が上昇している傾向を見越して簡単に売らない傾向の発生や、当然、こうした時期は投機行為として買占めが行われ、いっそう市中に出回る米の現象に拍車をかけます。
 
4)以上は幕藩体制の論理からいえば、豪農や大手米穀商と庶民との私的な相対関係(吉宗の享保の改革で相対関係不介入の原則を打ち出している)で処理すべき問題となります。
 
 こういう支配層として手抜きした横着な論理から、打ちこわしは非合法でも、百姓は領主に年貢さえ納めていれば良いというアバウトな倫理観で、一揆作法の枠内の留まるものという暗黙の了解事項が成立するわけです。現在の資本制の法体系と次元はかなり違うアバウトでハードボイルドな世界です。 
 そのくらいのアバウトな支配の風習あっての、世界に類を見ない米年貢制260年の幕藩体制のそれなりの維持だった、と想います。
 
5)さらに、米年貢制を頑固に維持する支配層に経済的な構造問題が付きまといます。
 
       天明、江戸打ちこわしウィキより
「 もともと幕府は米価の異常な高騰によって多くの人々が苦しむ状態となっても、米の値段を強制的に下げることを目的とする公定価格を導入したり、備蓄している米を安価で放出するなどという米価高騰に対する直接的な対応策を取ることは少なかった。
 
 これは江戸幕府の基本制度の一つである石高制の根本的な矛盾が原因であった。
 
つまり江戸時代の幕府、諸藩を始めとする武士階級の主たる収入は年貢米であり、米価高騰は収入の増加に直結するため、いくら民衆が生活苦に追い込まれようが高米価を歓迎し、商人らの米の買い占めに対する取り締まりもおろそかになりがちであった。(W。越後屋、お主も悪よのう。何をおっしゃいます。お代官様こそ。の世界)
天明6年10月に江戸町奉行が行った米の小売価格設定も、安価な小売価格を設定するのみで元売り価格には手をつけようとしなかった」 
(W。年貢米の売買市場に直結するから手をつけない)」
 
 同様の問題を日本近世史の専門家佐々木潤之助は、次のような原理的解説をしている。
「>他の商品t路違い、年貢米の米は本来売るために作られたものではなく、農民たちが作ったものを領主が無償で取り上げたものであったから
その価格には生産にかかる経費などは含まれておらず、
>価格の変動は需要と供給の関係によって大きく変動した
米価が高くなることは幕府や藩にとっては都合のいいことだったが、都市民特に下層民たちにとっては困ったことであった。」
 
 市場の商品価格に生産コストが反映していないとなれば、価格基準はないに等しいから、国家権力のお墨付きの一種の泥棒市のようなもので市場形成には安心して投機的要素が常に混入し、価格は必要以上に乱高下する。
 
 清朝でさえ途中で金納年貢に変更している。ウィキ引用。
 
      地丁銀制
「 地銀(田畑の所有に対して課された税。地税とも言う)の中に丁銀(人丁、すなわち16歳~59歳の成年男子に課された人頭税。丁税とも言う)を繰り込み、一括して銀納させた。
すでに康煕帝時代に一部で行われていた丁銀の地銀への繰り込み、つまり事実上の丁銀の廃止を全国で実施した。
 
 清代には急激な人口の増加が見られたが、その一因は、地銀制の実施により、従来は丁銀を逃れるために隠されていた人口が表に出て正確な人口が把握できるようになったことにあるとされる。
この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。」
 
      農業の発展と人口爆発
順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、
康熙帝期の1685年には約1億1000万、
1700年に1億5000万、
乾隆帝期の1765年には2億、
1770年から1780年にかけて2億8000万、
1790年に3億、
19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した(数字は全て推定」
この時代の日中にできた人口比率10対1はそのまま今に移行しています
 
>この人口の爆発的増加の最大の理由新大陸原産の作物トウモロコシサツマイモ落花生などが導入された事にある
これらは水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢民族が進出できるようになった。」
>金納年貢に転換したから、新大陸原産の作物の大規模な導入も可能になった?
 
 
 ヨーロッパの事情も貨幣地代が経済発展に大きな役割を果たした。
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農民の前進と荘園制の解体   世界史講義録引用。
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 農村にも変化があらわれます。
イギリス、フランスでは、農奴身分から独立自営農民と呼ばれる自作農民に上昇するものがあらわれてきます。
 身分が上昇する原因は大きく二つある。
 
>一つは商業の発展と関連がある。商業が発展するにつれて、貨幣経済が農村にも浸透してくる。
貨幣経済に巻き込まれて贅沢を覚えてしまった領主はお金が欲しい。
そのために労働地代や現物地代に代わって貨幣地代を導入するようになります
領主の館や直営地で働くことが減ってくるわけだ。
 
 そうすると、領主の農奴に対する人格的な束縛がゆるくなってドライな地主・小作関係に近くなってくる。
それから、農業技術も発展して収穫が多くなってきていますから、農奴も一所懸命に働いて年貢を納めた残りを貯めることが可能になります。
お金を蓄えた農民はその地位を向上させていきます。自営農民として成長してくる。
それ以前の時代には、現物経済中心で農村にはお金そのものがなかったので、お金を貯めることすらできなかったのですから、ものすごい進歩です。」
 
 W。日本の農村は田畑耕作の年貢システムに縛られていたから、普通の百姓は肥やしを購入する程度に留まり、農間労働は婦女子労働に依存して、生産販売ルートを握る商人搾取もあって、余剰は生まれがたく、結局、半自給の状態を越えることはできなかった。
 従って、農村産品は都市市場相手の生産に限られ、農村の市場形成は進展しなかった。
全人口の85%を閉める農村でカネの蓄積、使用で経済をまわしていないのだから、経済発展には絶対的な限界がある。
 
 その調整は米年貢体制の経済規模枠内で扶養力内に人口調整をするしかない
その方法は農村の間引き江戸大阪京都などの全国都市の墓場化
 
      東京各所の墓地から出土した江戸時代の江戸の満15歳以上人
 平均死亡年齢 (小林和正, 1967年)
 
出土場所   満15歳以上人骨
       平均死亡年齢, 歳      個体数
        男子  女子     男子  女子 
東京各所   43.9  40.6     116   50
 
>江戸時代の満15歳以上の人骨の平均死亡年齢を男子45.5歳、女子40.6歳と推定している。
>江戸時代は一般的に都市部の方が農村に比べて死亡率が高くて出産率が低い傾向にあり、都市部への出稼ぎを担う農村からの余剰人口を減らすことで全体の人口を調整していたと考えられている(「都市アリ地獄説」)
 
 
 W。それ以上のことでもそれ以下のことでもなく、暴力闘争のリアルな実態の方向には踏み込んでいっても論じるに値するものは少ないと考えます。
 
 それは、須田さんのその後に出した本のタイトルから想像しても明らかです。
『暴力の地平を超えて 歴史学からの挑戦』(青木書店、2004年)
 世直し一揆の暴力的側面を強調してそこに何か政治思想的な意義のあるものを見出そうとすることの徒労がこの本のタイトルに示されているような気がします。
 
 その『暴力の地平を超え』ようとした結果は、次のようなタイトルに現れています。
 
『幕末の世直し 万人の戦争状態』(吉川弘文館、2010年)。
 世直し一揆の主導者個々人の既存の限界を超えた暴力の発揮現場をホッブスの危険な状況に晒された階層間の激烈な敵対関係に至る対象としうえで、
世直し一揆、列強の外圧の内憂外患から幕藩体制の動揺の先に危機管理国家としての古代君主制を動員した明治絶対政権の出現を位置づけようとしたものと想われます。
 
 世直し一揆の暴力的側面に拘泥すると結局はホッブスを持ち出して、内憂外患から明治維新政府出現に至る道を正当化するしかなくなるものと想われます。
 
 世界的にみると全くどうということもない、ありふれた日本限定の世直し一揆の特殊性からはじめて結局、何処にも開かれることなく日本に終わる閉じられた歴史素描です。
 最も著作を手にしないで想像で批判する不公平は承知しながらも、あのような取調べ調書だけにも続く一揆現場の異様性、異常性の極大化には拒否反応が出てしまいます。
 
 現下のグローバリズムの時代趨勢に合って、一揆、騒動評価にしても、そうした一国主義的見地から解釈するのではなく、世界から日本の一揆、騒動を、あるいは民衆運動や日本の現状を見渡していかなければならない時代に到達しています
 
 そういった、日本的特殊性に拘っていると日本限定、精々、東アジアと米国だけの視野狭窄の袋小路の歴史観に陥ってしまいます。
 
 
 
 以下、現状の政治環境に対する意見に横滑りしているが、現在と歴史的過去を切り離して、その世界に没頭する意味を見出せないので自分としては、当然の話題転換です。
 
>そしてトドのつまりは戦争するとかしないとか、ファシズムやってくるとか、都知事選が最期の自由な選挙になりそうな不安感に苛まれるとかの、政治的動揺、浮遊や平和保守、生活保守に全面依存した危機観に切り込んで政治意識の形成をしようとする企画になります。
 
 こうした不安感や危機意識を基底とする政治はグローバル資本制の現状とそれの日本への反映に単純即応する大方の国民意識(その大元は日々のマスコミ垂れ流し報道によって形成されてる現状と将来の支配層のイデオロギー)によっていい悪いは別に超えられつつあるのではないでしょうか。
 
 民主党政権交代以降の日本の政治過程は大震災原発事故、尖閣領土問題の支配層の利益を維持するための政治軍事戦略化など、イロイロな事態がありすぎて、ギュッと凝縮して、現実からかなり遊離して、足早に進展しています。
 
 であれば、有りのままの現実を冷静に提起して、判断を仰ぐのも一つの方法です
状況認識のオーバーラッピングを剥ぎ取って、足元の現実に注視してもらう
あの都知事選において、状況認識のオーバーラッピングに終始した複数の候補者がいた、と想います
 
>関連することですが、戦前に日本の列強の中で最低だった工業生産値~戦後の今に至るまでの世界に類のない経済成長の突出は趨勢として必ず、修正されていくという厳然とした日本に課せられた歴史的大課題を共有し、
限界を踏まえた冷静合理的選択、修正を繰り返していくか、という問題系を現状に照らし合わせて上手く提起していくことです。
 
 コレは非常に高度な政治理論の構築作業になりますが、できる人がやるしかない、と想います。
アンチテーゼだけではなくジンテーゼに相当します。
 
 細川元候補のいう質実日本、腹八分目とか小泉元首相の云う自然エネルギー開発に日本の将来を見出す、というのを一度だけ聞き、小泉さんの演説は印勝負深いものでしたが、直後に反芻しても、ハテ、彼は何を主張していたんだっけ、という具体的な中身のない、その場限りの絶妙なアジテーションの域を出ていなかったと想いました。
何だかそんな気分にさせられているだけのような気がしました。
 細川さんに場合はかなりピンボケしていると想いました。
 
 アベ等の方向性のクルイは日本の戦略的方向性の領域おいてハッキリしていると想います
確かに手法的には戦前日本を袋小路に追い込んだ軍事政治主導たちと精神状態が似ているところがあります。
しかし所詮、次のような政治観念の領域に留まっており、しかも内外情勢の制約によって好き勝手は許されないと想います。
  
 引用。
「政治の持つ悪魔的な性格は政治が前提とする人間の性悪から由来するもので、それは『取り扱い注意の赤札』をつけられた問題的な存在として人間を捉えることを意味する。
それゆえ政治を巡る思想と行動の課題は、抗した政治に煉獄をくぐる抜けねばならない。
帝国日本は抗した政治の煉獄化の敷居にさえ到達していなかった。
 
『権力政治にとしての自己認識があり、国家利害が国家利害の問題として自覚されている限り、そこには同時にそうした権力行使なり利害なりの限界の意識が伴っている。
 
>コレに反して権力行使はそのまま、道徳や倫理の実現であるかのように、道徳的言辞で語られれば語られるほど、そうした限界の自覚は薄れていく。道徳の行使にどうして限界があり、どうしてそれを抑制する必要があろうか。』
-以上『 』内は丸山真男、引用」    kim hang「帝国の閾(しきい)」
 
 アベ等の特徴はここにあり、戦後民主主義的甘えに培養された田母神まで症状が悪化したものが政治中枢近辺に位置するようになれば、限界点を越えることに無感覚な水域に達するが、こうした政治項目の増大を折込み済みで、今後の情勢の推移を見守っていく必要があります。
 
 当然、限界意識希薄で合理的判断を国家道徳倫理に摩り替えているわけですから、日本政府の政治選択肢をさらに縛り、狭めることに結果します。
 
 次に民主政と戦争の原則的関係を確定しておく必要が問われてきています。
古代民主政と現代の民主政の違いは間接民主制、男女普通選挙などにありますが、
ペルシア戦争後、アテネは、国内においては民主主義が完成し、国外においては帝国主義による支配を行なった。19世紀末から20世紀初めのヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国、日本などでも、国内においては民主主義の制度が整い、国外においては帝国主義の領土拡大が行なわれた。
>民主主義と帝国主義は、同じ時代、同じ社会で存在する場合もあるのだ。」  
                                      世界史の研究より引用。
 
 第二次大戦後の主要国の歴史を見てもそのことがピッタりと、当てはまると考えます
政党議会制民主主義の定着しているはずのイギリスは2000年に入ってアメリカと共同歩調とって、対外戦争をしています。
ただし調べていないのですが、検証作業も機能しているようです。
 
 日本と同じ敗戦国、ドイツの過去と現状が最も参考になります
EUのなかにスッポリト身を埋めているドイツと近隣から孤立している日本では政治経済軍事戦略的に大きな差異があります
 
 そうした大条件の中でのアベ等の「イデオロギー」の台頭です。
 
 結局、イロイロ云うけど、グローバル資本制に即応した支配層の利権の維持拡大、金儲けの大きな道具、仕掛けに過ぎない、と断定しています。
 
 内輪で進行している大多数の日本国民の利益に反する事態を覆い隠すために、外部に集団安保事態を常に熱どうしておく必要があると、彼等は明確に戦略化しています。
タモガミさんらはその絶好の道具であり、本人たちもそのことは自覚しているはずです。
 
 従って、彼等に即対応して同じ土俵に乗って、現実から遊離した政治過程で呼応しあうのかどうか、ということが問われています
 
 戦争と平和は本質的に二項対立の問題に留まらず、残念ながら戦争は政治の別の手段であり続けてきました。
言い換えると政治は戦争の限界を常に見極める中にあるものです。
 
 リアルに云えば中国、韓国の近隣諸国と敵対感情、条件のまま放置したり、その傾向を増徴させたりする政治は愚鈍政治そのものであり、先進諸国にそういった近隣関係を有する国が一体どれほどあるのか指折り数えてみると、はっきり己のおかれた状態が理解できるというもです。
この点の有りのままの現実をそれらしい倫理や道徳や感情、一方的な理屈で誤魔化しているのじゃないですか。
 
 他方、こうした状態に危機感を抱く気持ちもわかりますが、同じ土俵に乗っていては、腰の据わった対抗策にならないと考えます。
 
 立場と利害関係をハッキリさせて、折込み済で対処していくべきです。
 これからの経済後退の趨勢にある日本には軍事費にカネをたくさんつぎ込むことは、軍需産業を筆頭とした一部支配層のものと富ませるのみであって、大多数の国民にはそんな余裕はありません。
しかしながら、金融寡頭支配の進展する傾向にあっては、国内階層分解から消費低迷に陥り、その方向の後押しに強い圧力があたらきます。
 
 以上があの積雪の中で現状の政治固定層がむき出しになった都知事選挙の結果に反映したのだと考えます。
 
>大枠の政治課題の設定に現実との齟齬が生じてきているわけで、世界的日本的現実を直ぐに修正することはほぼ不可能なのですから、大枠の課題の設定の方を点検しなおし、考え直していくしかありません。
従来の危機意識や不安感の宣伝の現状延長線上には将来的に大きな限界があります。
政治獲得を想定する政治浮動層は煽られて、漠然とした将来に対する不安感を増徴させて、思考停止に陥った挙句、反転して、安定は安心ですなどという自公路線のところに追いやる可能性が高いです。
 
 ヨーロッパ先進国のグローバリズムに対する改良派の対処の仕方、政治思想を参考にしたほうがいいと想います。
ヨーロッパの広い意味での社会民主主義的?政治のアイデアを捉え返し、日本で有効に機能させる道を探したほうが手っ取り早い気がします。
2009年の民主党の公約集など総花的政策問題もあったが、足元の政治思想がほとんど空疎なものでした。