丸山真男の本質はジャーナリステックな政治観察と日本人には稀有な論理的思考が融合している、所にある。
東大在学中の本人の希望は父と同じジャーナリストの道を歩むことだった。
「丸山は元々は、父と同じジャーナリスト志望で、東京帝国大学に残る気はなかった。
(W。国体主義の跋扈した時代背景を加味して考えて見る必要がある。
時代と積極的に関わっていこう、分析していこうとすれば、マルクス主義の観点を採用するしかなかった。
丸山にとってマルクス主義はそういう意味であった。
あとの二つは常民のイデオロギーではあるが、この時代では積極的な要素であり得ず、戦時体制の終焉を持って、社会の全面に浮上する性格のものである。
「そういう人間を助手として雇うだけの度量が東大法学部にあるのなら、研究室に残ってもいい、というのが22歳の生意気盛りの学生だった当時の丸山の気持ちであったであろう。
当時の丸山の指導教授だった南原繁が、丸山の論文のそういう性格を見抜いたうえで、さらには丸山が自分の逮捕歴などを告白したのを聞いたうえで、丸山を助手に採用したのは、南原の本心が、丸山とは“思想の同志”的な位置にいたからである。
(W。思想的同志関係だけでは採用しない。才能を見抜ぬいたということ。
敢えて言えば、丸山の資質から学者ではなく、ジャーナリストー政治評論家の道を歩んだ方が日本のために良かった、とおもう。)
W.次のエピソードは丸山の資質を端的に物語っている。リアリズムのヒト、現実を見据えたヒトである。
それと論理的思考が最適融合しているから、彼が過去を振り返るとき、現在が新鮮な別な視点で、蘇ってくる。
丸山は現在を常識とは違ったリアルで論理的な別の視点で観させてくれる。
現状へのオールタナティブを提供する丸山である。
そのことが日ごろの『知性』などというものの頼りなさを思い切り私に自覚させた」といい、「(W。1等兵)の軍隊経験にまさるとも劣らない深い人生についての経験」だったと述べた」
この意味で彼の最良の労作は、ジャーナリステックな側面を押し出したものであり、論理的思考を追求し、深入りした作品はイマイチなのではなかろうか?
小林秀雄批判も含んでいた大論文「古層ナントカ(タイトルは忘れた)は少し読み進んだだけで途中放棄。
どうして、そんな方面に深入りするのか、そっち方面に行けば、底なしの泥沼しか待ち受けていないのにと、おもった。本居宣長のようなことをやっても無駄。
政治理論の対象にすべき領域でない。
言語学、人類学などを動員しても学際としてやっても理論としては無理が生じる。
そういう理屈で納得できる性質にヒトを対象としてなら成立するが、丸山のような論理を大切にするリアリストには厳しい方向であった。
が、余りにも難し過ぎて、知識と教養不足で付いていけない面もあったが、kim hang「帝国の閾」の名著の当該論文の否定的評価を読んで、自分の見立ての正しさが証明されたような気がした。
さて、前置きが長くなったが、課題は丸山真男の「民主主義の原点」によって、今の時代状況への新鮮な常識とは違う視点を見出そうとしているものにとって、彼との対決ー発見作業であるのだから仕方がない。
丸山真男の鵜呑み垂れ流しは拙い。
まず、丸山真男インタビュー「民主主義の原点」の核心と想われるところ、から先にいく。
現状と深く関わっていると思われるの丁寧に記載する。ただし、時間の都合で修正する。また残りは次にする。
東大憲法委員会の30才ソコソコの少壮実務者として日本国憲法のリアルな成立過程にかかわり、新憲法草案を策定しようとしていた首相官邸の近衛文麿に田中耕太郎(その筋では超有名人で、後の最高裁長官、戦後司法の大ボス。)と一緒に呼ばれて会談したエピソードを交えながら、憲法の成立過程のリアルな事情を語った後で、次のように語る。
『敗戦期の憲法問題というのは』
(W。なお、日本国憲法の施行は1947年の2,1ゼネストGHQ指令による弾圧の後、「教育基本法や労働基準法などの各種民主化の法令も前後に作られていく」というフレッシュな改革の一環という点も抑えておく必要がある。
「それ以前の農地改革、財閥解体、思想警察及び法令の撤廃などの社会的政治的及び文化的な変革の一貫に過ぎない(W。新聞統制、特権付与、文化攻勢などをキチンと抑えている)」
自分は政府憲法改正委員会に誘われたが断ったとした上で~
W。ここから、当時の日本支配層のリアルな動向報告に突入する。あくまでもリアリズムに徹している。
「憲法が制定された時、お祝いの行事として戦後初めて花電車が出たんですが、あんな保守的な草案(いわゆる松本案~)
W。ちなみに安部著「美しい国へ」の当該箇所の描写は次のようになっている。
「GHQから憲法の草案が日本側に手渡されたのは、1046年2月13日。
それは2月8日に政府がGHQに提出した改正要綱に対する拒否と同時であった。
政府は『日本歴史始まって以来、天皇によって統治されていたW?ので、今更共和国にするとか大統領を厳守にするとか言う案は国民が許さない」
(日本歴史始まって以来天皇によって統治?もオカシナ歴史解釈だが、敗戦によって始めて国民主権になったことの画期的意義は蔑にされている。戦争に負けることでいいこともある。歴史の基本法則のパラドックスである。)
しかしGHQはそれを許さなかった。
あとは象徴天皇は英語用語からの翻訳と述べたてているが、
ここまで素直に読むと、アベ等の現状の心理状態は当時の松本案の肯定であることがわかる。
別の箇所では日本近代の歴史の根幹は天皇制であったなどの無頓着な使用例がある。)
本文に丸山インタビュー戻る。
「あんな保守的な松本草案を作っておいて、手のひらを返すように浮かれた政府主導のお祭り騒ぎに対しては、違和感の方が強かったですね
(W。安部ブレーンに言わせると日本民族の抜群の適応力。
私に言わせると、天皇制の動物的血統に歴史文化伝統を押し込めると後は、欧米に積極的無批判的に追従する。
彼等にとって、靖国なんて所詮、俗っぽい政治観念モチベーションに過ぎない。そのために死ねるか?ウソだろう!勿論そういう貴種も一部には存在する。)」
W.幕末から明治維新までのリアルな歴史過程で薩英戦争、下関戦争と手のひらを返したような、列強への対応→欧化主義に典型。
それを自己の中で飼い慣らす、コントロールする?アベ等的政治傾向が頂点にある限り、日本多数派国民にとって、現実は厳しい。
「その当時の権力を握っていた層が大体どんな考えを持っていたかは、最初の政府草案を見ても解るわけす。」
>「マッカーサー草案が出たとき僕らはビックリしたといいましたが、彼らにとってはその何倍もの、想像を絶する困惑なんですね。(アベ等はGHQとの攻防などと称しているが、リアル事態に激しい攻防などなく、自己葛藤、最大級の困惑の類。歴史の偽造はいけない。)」
「彼等の本音としては、大日本帝国憲法を手直しするぐらいのところだったのが、予想外にラディカルな変革になってしまった。
その無理をできるだけ本音に近づけようという動くが、やがて改憲のイシューになったのだと理解したほうがいいと想います。」
「それに対して僕らは~戦後の憲法、諸改革を守っていこうという運動の続くと手自然に護憲を訴え~W省略する。
W。やはり丸山では現実の戦いの構想に無理がある。後の戦後民主主義批判を含んだ運動に対する論理的な批判は傾聴に値するが。物凄く、民主主義論がキチンと整理されている。
その代わりに、イマの憲法をなし崩し的に、解釈の変化によってできるだけ自分たちの要求に合わせるように帰し事実を積み重ねていく方向になってしまった。」
憲法のなし崩し的変化の3段階
「第1期が、占領軍がいるからはなはだ不本意ではあるが<忍従>(W。激しい攻防はなかった。自己葛藤!)するという、忍従期。
第二に、改憲企画期。
第三が、既成事実容認期。
例えば第九条のように自衛権の解釈を変えていく。(W、注目すべきは、このインタビューは1989年。25年、ちょうど、四半世紀前。)
実際自民党政府は、コレまで現憲法の精神を浸透させることは全くしていない。逆に自民党の基本方針として現在でもやはり改憲を明記しています。(W。さすがこの辺に認識は今では常識的だが、当時としては余り指摘されない視点だったと思う)
「国民の環環も長期安定政権の下で経済成長ととげ、憲法がでた時の新鮮な感覚がなくなってしまっている。
が、安直な平和観、危機感不安感焦燥感を掻き立てる政治にも限界がある。
この大切な教訓が都知事選挙における細川陣営の獲得票第三位の現実。
基本的な政治思想が現実とマッチしていない!
政治感覚が鈍いのだから、自分から心がけて替えていかなければ改まらない。ファシズム、ナチズムは1920年代30年代の時代状況が作り出したもの、イマの時代に二重写しすれば、政治路線の根本的な誤りになる。手を組むべきでないものと手を組む。容認する。)
「その問題が一番良く現れているのが象徴天皇制を巡る論理です。
明治憲法はプロシアの絶対主義的憲法を真似て天皇の大権を大きくしたけれど、アレはむしろ例外であって、古代は別として摂関政治以後はズット、『君臨すれぞ統治せず』であった。だから象徴天皇制は昔に帰っただけという議論をする学者が結構います。
しかし昔から人民主権原則はありましたか。
人民の自由意志によって共和制に出来るのだ、という【思想的伝統】がありましたか。
おふざけでない、といいたい。
こういう議論自身、イマの憲法の初期のみずみずしい精神がいかに失われたかの証左です。」
>続く。
<追記>
現在の、丸山真男になれるのかなれないかの、瀬戸際にいる学者と見る。
彼の課題としては、リアルに沈潜した後、それをどう昇華するかということである。
そうする必要はないと割り切ったほうがいいのだが、低強度の自分でも割り切れないのだから、この時代、この状況において真理への探究をモチベーションに設定する安富歩には、そうもいかない、と想われる。
がしかし、彼は一時、流行った日本のポストモダン派よりも自ら設定する思想的課題が遥かに高い。
抱え込んでいる課題が大きい。
正面から現在の政治思想的課題を抱え込んでいる。
丸山の戦前の理不尽な検挙、一等兵としての戦争体験、出征先、広島での被爆体験とその戦後日本体験とー。比較して、安富の経済学部を卒業してのバブルの発生源、住友銀行勤務、→バブル暴走体験を踏まえて、大学復帰してからの、経済学の探求から転向してからの歩は、純粋な思想レベルでは、等価であると考える。
時代状況が違うだけで、精神のありようは変わらない。
激烈全般的な飢えや戦争は人類史に成果を生み出したが、
これからは、飢えや戦争の低強度の連続した世界が広がっていく。
この時代を総覧する政治思想とはあるのかないのか?
>果てしな【低強度の経験主義的世界が垂れ流されていく】というのが、とりあえずの、自分の結論である。
安富さんが、この講演の中で状況そのものに内在する限界を設定し弁えたウィゲンシュタインに言及したのは当然であり、その方向に道は開けないとしてないとして、東洋的世界に立ち入ったのは理解できる。
西洋論理では飢えや戦争の低強度戦争の制度的政策的、ましてや軍事的解決は全く不可能で永遠に続く。その論理を主導する人類が続く限り今後も永遠に続く。
彼等の論理に沿えば、戦争に対抗するのは、究極的に戦争である。
◆フクシマの嘘 其の弐(隠ぺい・詭弁・脅迫)