反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

白井聡【「物質」の蜂起をめざして】よりー【不均等発展の理論】及び議会主義→コミュニュケーションへの信。

             Ⅱ不均等発展の理論
   A-不均等発展の概念
資本主義経済の発展は基本的にある一つの経済社会像への収斂に向かっていくとされた。
このような基本的視点に対してレーニンが強調したのは、次のことだ。
 
 すなわち、このような発展はあらゆる国、地域において等速度でなされるのではないということ、さらにこのような不均等発展することによって形成された経済圏は、発展度合いによって様々な歴史段階にあるにも拘らず、それらの経済圏は自足した閉鎖系に無い以上、交易等により同時に一つの世界を共有している、ということである。
 
 言い換えれば、【不均等発展】がもたらすのは、異なった歴史の諸点に存在するものが、同時に共通の時間において存在するという事態である。
 
  さらに付け加えれば、発展の不均等性は経済共同体の間だけではなく、同一の経済共同体の部門間においてみい見出せる。
その結果、諸国及び部門の資本主義健在の発展は、単一の経済社会の発展像をなぞるのではなく、事態は遥かに複雑になる。
すなわち後発資本主義国の発展の形態は先行する資本主義国とは異なる。
 
 
          B-【不均等発展】と帝国主義
 このようにしてカルテル、トラスト等による独占に基づく資本主義において、商品の輸出に変わって、【資本の輸出が典型となった】{強調原文}。
 
 なぜならこの【過剰資本】が、後進的な農業発展や住民大衆の生活水準の引き上げなどには用いられず、その代わり生産コストが比較的安価であるーすなわち資本の生み出す利潤のより大きい後進国への輸出へと振り向けられるところから生じる。
 
W。この過剰資本→資本輸出~は現在でも通用する原理的視点。
ただし資本輸出国内の資本の集中集積~市場飽和=生産と消費(需要)の乖離から説明しないで、いきなりカルテル、トラストの独占から説明している。       
 
W。次の文節は古い認識だが、どの部分を拾い上げるか、適当な判断材料が無い
 
その結果として、列強は資本輸出するために後進世界の植民地分割をすることを強いられることとなり、その利害対立が帝国主義戦争の勃発を将来する一方で、被植民地、地域の世界秩序における従属的地位が固定化かされる。
W。産業資本主義段開催後期の帝国主義を指摘しているのか?不明!出鱈目なレーニン帝国主義論の根幹部分の抽出!
 
      やっと、世界市場の再分割がでてきた
 資本の自己増殖を求める運動は基本的に一切限界を持たず、利潤の高いところ、生産様式、資本形態を徹底的に追求する。『世界の全ての部分が帝国主義列強によって既に分割されつくされもはや新たなフロンティアを見出せなくなる時点で、世界の領土的再分割の闘争をまねかざるえない。   
 
 
W。レーニン帝国主義の本質は、帝国主義本国に内在する経済社会問題の発露として捉えている。
 アメリカが帝国主義であるとするならば、アメリカの対外政策は発露であって、問題の本質は国内問題にある。
W。そのつもりで1%99%、獄産体制も究極の例として、取り上げている。軍産複合体のことは全く触れていないが。最もアメリカは多面的でそればっかりではない。
最近のアメリカの対外的動きが活発になってきているが、その問題の本質は国内にある。
 
 
      W。以下は含蓄ある1節   
             ↓
>『さらに重要なことは、独占、金融資本の支配、植民地政策といった帝国主義段階に特有の発展段階は、社会矛盾を激化させるにも拘らず、それでもなお、資本主義を発展させるということだ。
 そのときには【この発展は一般的にますます不均衡に】なり、【不均等発展】の【不均等性】は極大化する。
それは、この発展の形が【偶然な歴史的生成】の色彩を帯びる。』
             ↓
    C-不均等発展の含意
 不均等発展の理論は、資本主義的発展におけのる分野諸国の発展段階における位置づけを極めて複雑なものとし、また同時に収斂的な発展ビジョンが放棄された以上
発展段階における国家部門の位置は、絶対的な座標を構成する単線的な軸の上にはもはや位置づけられず全ては相対的な視野からその発展段階における位置を決定される。
           ↑
   W。白井聡の解釈する不均等発展極意。収斂的な発展ビジョンが放棄された以上、全ては相対的な視野からその発展段階における位置を決定!
コレは多分、アメリカに代表されるグローバル金融経済による、世界市場の平準化の一面を、アントニオ、ネグリ、マイケルハートのアメリカ的「帝国」システムの世界化、あるいはフランシスフクヤマのア民主主義世界制覇論のような収斂的な発展ビジョンとしてとらえる世界認識を念頭に置いてた白井の不均等発展理解による強烈なNOの突き付けである。
Wはグローバル金融経済のシステムは世界平準化と多極化、分裂化の一体的進展として、認識する、などとしていたが、突き詰めて考えられなかった。
 
W。直近の記事の中でも又しても収斂的な発展ビジョンを登場させてしまった。そのほうが考える必要と手間が省けて楽である。国家や民族に寄りかかってワァーワァー騒ぐ傾向の対極にあるもう一つの安易!!である。
 
W。ここから先の白井の展開は、レーニンの世界資本主義の不均等発展の解説というよりも、サミールアミンなどの従属資本主義論とローザルクセンブルクの資本蓄積論をミックスしたような独自解説になっている 。確かに現実的にそういう現象は目につく。
しかし、どこかおかしい。そういう基本動向をする資本主義国内に問題の発生源がある。探索していく。
       
      ↓
 【世界資本主義体制の拡大が単に民族相互依存関係の中で古い伝統的制度を破砕し近代化を進めるだけでなく、同時に遅れた国の先進国に対する従属関係を作り出す】
>すなわち発展の不均等性が、資本主義の存続にとって死活問題であるということだ、 
まさにこのように差異は存在することによって豊富な利潤が創出され資本の蓄積が可能になる。
>具体的にいえば、低発展の段階にある後進諸国では【資本が少なく、地価は比較的低く、労賃は低く、原料は安価】である。要する財の価値が総じて低い。
相対としての価値体系の水準が低い場所で生産されたものを、より高い価値体系の水準を有する場所で売るならば、そこで得られる利潤は高い。
そして、資本主義を駆動させるためには、このような複数の価値体系の間における差異が絶対必要不可欠である。
 
W.何だか重商主義のようなA地点の商品をB地点に移動させる差額で経済が回っていく理屈で、レーニンにはなかったように記憶している。
自分も以前、このような理屈を中国経済問題で盛んに吹聴していた。いっている本人は、そんな単純なものじゃないよと、半信半疑だったが、一見して分かりやすい理屈なので、他人に納得してもらえる。
常識論だが実際にそういう経済現象が働いているのも事実。がしかし、問題はその中身。コレを探索しなければ、<行動する力>は生まれない。
 
   ユニクロ急成長を典型として取り上げるのが適切だろう。
 
縫製という労働集約を基本にする業界において、ユニクロは、「相対としての価値体系の水準が低い場所中国)で生産されたものを、より高い価値体系の水準を有する場所(日本)で売る」徹底した企業戦略によって、まず同じ業態の市場シェアを奪い取り、廃業に追い込んだ。この時点で、超過利潤~創業者利得~が発生し、
 さらに市場シェアを拡大することで、超過利潤状態を継続したが、この時点で初期の創業者利得は消滅していると見る。したがって超過利潤は初期の段階ほどではない。
 次の段階は、最大限の利潤を得ることを目的とする資本拡大、販売網の全国化の徹底、世界化は資金調達面でのユニクロの金融資本化を促進する。
 
*創業利得が終わって後に市場競争が機能して、超過利潤は平準化される。
次のような経済原理が働く。
全てがこの法則で理解できるわけではないが、経済原理をはっきりさせておくことは大切。白井流の不均等発展の理解は、帝国主義の時代、という発展段階に区分できるが、現状はその時代とは違っているので、上記のような不均等発展の解釈になったのだろう。→資本主義を駆動させるためには、このような複数の価値体系の間における差異が絶対必要不可欠である。
 
引用。  日記。2015/2/17(火) 午後 3:59
利潤率の傾向的低下の法則
第3部 資本主義的生産の総過程 
第2篇 利潤の平均利潤への転化 W、ここも抑える必要がある
        ↓    ↓
>第3篇 利潤率の傾向的低下の法則
 
【重要なことは、このような地域ー発展度合いが低く、<財の構成する価値体系の水準が低い地域>ーが資本蓄積が継続するためには、世界のどこかで必ず存在し続けなければならない。
言い換えれば、共時的において通時的に異なった複数の世界が存在しなければならないし、
もしそれが存在しないならば、なんとしてでも作り出さなければならない
いうまでもなく、ここで遅れた時間の役割を振り当てられるンが、従属国家、地域である。
してみればこのような地域を確保しておくためには発展は不均等でなければならない
 ローザ、ルクセンブルク資本蓄積論に似ているなぁ~。
レーニンと違う。
         
           Ⅲ不均等発展論とロシアにおける革命
  B-【不均等発展】論の帰結
>未曾有出来事としての帝国主義戦争という状況の下で【完全な困窮状態が、労働者と農民の力を十倍に増やし、西ヨーロッパの他の全ての国家における場合とは別な行き方で、文明の基本的な前提を作ることへと進む可能性を我々に開いたとしたならば、どうであろうか?】
 
 
           第5章民主主義とその不満
      自由民主主義
   カールシュミット
議会の存在理由は、正しい国家意思を結果として生み出すような対立と意見の討論過程の中にある。
議会にとって本質的なものは、それゆえ、論拠と反論との公開の折衝、公開の討議、公開の討論、交渉でありその際には、さし当たって民主主義が想起されることを必要としない。』
 
 徹底した合理主義の立場からすれば、公開された討論が正しい国家意思を生み出す保障など何処にも無い。
なぜならそれは時々に討論によって偶然生じたものに過ぎず、演繹された心理ではないのであるから
 
 それにも拘らず、議会において正しい国家意思が生まれることについてそれなりの信頼感がえることが可能である背景に、シュミットは【自由競争と予定調和】という自由主義的確信の存在を見て取る。
すなわち討論から真理が生まれるという観念の背景には【意見の自由な闘争から真理が、競争の中からおのずと現れる調和として生じる】という自由主義的思想がある。
 
 かかる自由主義的発想は、暴力封じ込めを保管するものである。
街頭から議会の中へと権力の正当性の根拠地が移動するこの過程において、暴力から正当な権力が生じるというパラダイムに、意見の闘争から真理が生まれるとする前提が取って代わらなければならない
それが成し遂げられて初めて暴力の封じ込めは成功する。
 
 シュミットのみるところ、この自由主義的な思想原理はデモクラシー=民主主義とは異質であるばかりか、ほとんど反民主主義的ですらある。
なぜならば、討議、討論が生じるのは【同一性】を欠いた場所以外ではあり得ないからだ。
そこには意見、心情の対立的な多様性、すなわち『党派が複数であることが必要】であり、このことの必然的に【同一性】を掘り崩す。
 
 既に見たようにデモクラシー=民主主義の原理は、他のさまざまなイデオロギー的原理や通常民主主義と相容れないとみなされている政治形態と十分結合しうる。W民主主義=本質は同一性なのだから、ナチズムとも結合する
そしてこの奇妙さは自由民主主義(リベラルデモクラシー)において絶頂に達するとみなすことができるかもしれない。
 それは反対物の、水と油の結合なのだから。
 
 自由民主主義とは、経済的に市場経済を支持し、政治的には議会主義をその中核に置く制度的実践。
一般に、この二本の柱に寄って安定した近代的社会システムが構築維持可能であると考えられている。
しかしシュミットが指摘したように自由主義とデモクラシー=民主主義との間には、内在的な亀裂が孕まれている 
 
 ほとんどの政治主体にとって、デモクラシーがいかんともしがたい不満の種と課していることも、ここから理解できよう。
民主主義は、もっともヘゲモニックな政治イデオロギーであるにも拘らず、積極的に支持されない。
 
 
      コミュニケーションへの信(1ラディカルデモクらシーの場合)
 
 シュミットの洞察の要点は
【民主主義に特有な原理】が【同一化した諸個人からなる集団による決定】
あるいははこのような【決定による集団の形成】という【決断主義】なモノであるのに対して
 
【議会主義】は【異質な諸個人諸集団。の間での【コミュンケーション】への独特な信によって基礎的な原理が与えられる。
 
>かくして自由民主主義は二つの相反する原理の調停の上に成り立つ。
民主主義=同一性
議会主義=多様性W?ここも基本的に同一性
であるにも拘らず両者が分裂しないのは、多様性と利害が衝突する後者であっても、自由なコミュニケ-ションを介してして真理を発見できるということが前提をされている。
つまり【コミュニケーションへの信】とも言うべき観念が共有されている。
ーーその意味においてここにも同一性が存在するからである。
 
        ユルゲン、ハーパーマス
 彼の理論によって導き出されるのは十全なコミュにケ-ション的理性を持つも人たちによる人間集団である。
彼は自由主義的な心情を持つものたちによって構成される同一的な、従って民主主義的な共同体を主張している。
W。おかしいなぁ~。上記だったら排除されるものたちが出現する。
良くわからないし関心も薄いが、ハーパーマス理論にはコミュニケ-ションと公共空間の確保拡大の双方を連動させる問題意識があったはず。
 
      シャンタル、ムフの多元主義
 ハーパーマスに排除の論理があると批判している
 
      再びカールシュミット
 一種の理念の狂人~大昔、LP盤で出ていたヒットラーのアジ演説もこういう執拗な言葉の畳み掛けをして聴衆を高揚感に導いた。日本語ではただの執拗な繰り返しだけど、ドイツ語のリズムでは何かを訴えかけるものがうまれるのか?
      
     「現代議会主義の精神史的状況」~シュミット著作集Ⅰ~
『選挙権がより多数の人間に次第に広く流腑して与えられる時、それは、国家と国民の同一性を実現する努力の一つの徴候である。
その基礎には、同一性を実現するものとして承認するための前提についての一定の考え方がある。
そのことはまた論理的には全ての民主主義の論拠が一連の同一性の上に基づいているという根本思想を、少しも変えるものではない。
 この一連の同一性には、(W。ここからが凄いことになってくる)
治者と被治者との、支配者と被支配者との同一性、国家の権威の主体と客体との同一性、国民と議会における国民代表との同一性、国家とその時々に投票する国民との同一性、国家と法律との同一性、
最後に、量的なもの【数量的多数、または全員一致)と質的なもの(法律の正しさ)との同一性、である。』
 
>かかる【同一性】の追求の先に待っていたものが過激な均質化してのナチズムであったことは、いまや明らかになっている。
そしてナチズムが台頭する際に、シュミットの理論と<振る舞い>とがそこに何らかの貢献をしたことも。
 
>シュミットが自由民主主義を分析する際に、両原理の齟齬を冷静に取り出したのではなく、自由主義を貶め民主主義に情熱的に肩入れしていたことは、否定しようの無い事実である。
 
>シュミットにとって、彼の考えるデモクラシー=民主主義によって立ち上がる【同一性】こそが、ブルジョア文明の個人主義という精神的砂漠から人々を救い出し、彼等を政治的な存在(すなわち、【友】と【敵】をもつ存在)へと生成させ、実存的な真正の存在たらしめるものであった。
 
W。政治的存在=【友】と【敵】をもつ存在。この程度で良いのなら、ネットにはウヨウヨ。
W。ここを読むとネット大衆はカールシュミット的政治思想の格好の煽動対象である。