3) <STAP細胞>文科相、小保方氏の検証参加「意義ある」
記事全文引用。
「 STAP細胞の論文不正問題で、理化学研究所が小保方晴子氏を検証実験に参加させることについて、下村博文文部科学相は1日の記者会見で「参画は意義があり、科学的事実が明らかになるよう期待する」と語った。理研によると、小保方氏は11月末まで実験に参加。英科学誌ネイチャー掲載論文で、理研調査委が未調査の疑義の予備調査(W予備調査って何?)も始めた。政府は秋の臨時国会に、理研を特定国立研究開発法人に指定する法案を提出する意向だが、下村文科相は「不正を起こさないと検証されることが必要」などと述べた。」
多くの国民をなめ切っている。
小保方等、関係者の処分や組織改革と特定国立開発法人の指定の順序が逆に見えるが、特定国立開発法人指定(コレは、経済特区の研究団体版だ)の前に、不正研究の実態があからさまになると、国会や世論に抵抗勢力が根付く恐れがあるから、当初の検証スケジュールを大きく先延ばしにして、相変わらず、小保方の話題性をアテにして、未調査の疑義の予備調査を含めて検証実験をやっているから、とりあえず、法案を先に通そうという姑息な魂胆。
予備調査としているところがミソ。
情勢を見て情報を小出しにする。(既にネットでは1)ES細胞へのすり替え、1)F1細胞を実証するの際のES細胞、TS細胞混濁の全貌<このときならできる>、3)胎盤キメラ画像は錯覚という以上3点を軸とする不正研究の全貌は明らかになっている。理研の捏造と認定した2点などは完全な枝葉。
今頃、一番最初にスルーした2点の捏造認定以外のネイチャー、レター論文も含めて調査するとしているが、<嘘つき亀さん>はのろま過ぎる。
>また、小保方嬢の自らにマスコミのスポットライトを引き寄せる常とう手段としての、体調不良のジラシ作戦はあの記者会見で使用済、
出勤退勤に国民的耳目を集め、すり替えの犯行を覆い隠す三木弁護士の街のトラブル解決屋的演出の小保方、学芸会開幕か?
>今度は集団自衛権の重大時局から、少しでも耳目をそらす任務を負っている。おそらく、そこまで阿吽の打ち合わせができている。
そもそも、小保方本人はこういった事態に、体調をどうにかなる普通の神経があれば、博士論文、スタファー万能細胞実験実証→STAP細胞すり替えはできない。
また、潤沢な生活条件を確保できる給料は何もしないで、支払われている。
悩む理由があるとすれば、研究者としての前途だが、風前の灯はすで見消えてなくなっているぐらいの自己認識はある。
>集団自衛権と称して自衛隊を米軍世界戦略の下請けとして機能させること(安部首相の云う在日米軍を同盟軍に読み替えていくという日米安保の涙ぐましい歴史)、と理研ー小保方、異常事態は共通の政治基盤に存立している。(現下の日米両軍の実態がそうなっているし、その方向を強まるために法整備をするということ、コレが東アジア情勢を激動化させる大きな要因になる必然)
理研側の当初のスケジュールの変更は政権の底支えなくしてあり得ない。
小保方側は弁護士の云う様な「集団リンチ」状態にあるのではなく、以上のような政治構図に添って政治の駒として振舞うことで、不正研究者としての姿を隠している。
毎日新聞 7月1日(火)21時52分配信
毎日新聞のネット配信記事は古くなった記事を抹消して会員限定で読ますことにしているようで、住所を貼り付けただけでは元記事自体がなくなっている。
一応、メモに取り込んで、メモ上で、内容を分解して検討する、ことにした。
今回は時間不足で、内容の分解と検討は別の機会にまわし、そのための参考資料として過去の日記を上げておくにとどめる。
なお、魚拓を利用する手もあるが、規約の一部に納得できない部分があるので止める。
安部首相の政治思想については、過去の連載記事の中で、その著書「美しい国へ」を検討してきた。
まず、「美しい国へ」(文春新書刊)は全編ゴーストライターの作であって本人直筆の部分は極めて幼稚な作文次元の<あとがき>のみで、本編の手馴れた文章との余りの格差は明々白々にも拘らず、そんなことは全くお構い無しに、一言の断り書きもない。
あとがきは若い諸君を対象に語りかける体裁をとっているが、文章からすると、その若い諸君とは、中学3年、高校1年2年生レベルであって、とても選挙権のある20歳以上を対象としたものとは思えない。
要するに典型的な作文調で、話し言葉と書き言葉の区別がない状態。文字を読みながら思考する習慣を身につけてこなかったものは、得てしてこういうことになる。感覚、見聞、体験、映像の御人。
普通、この種のあるレベル以上の込み入った政治問題を扱った著作では、識者、専門家の力を借りた場合、<前書き><あとがき>で一言、断り書き、謝意を表するものである。
いい加減な本で、まともに批判するに値しないものと常々考えているが、(理由?この政治内容では自民党を離党する根本的な理由がない。過渡期、次の政治軍事展開への橋渡し、という意義しか見当たらない。内部にいてこそ、長い目で見たら、政治的意義があった。結果、ナントカの遠吠えにすらなっておらず、現時点では、国民的忌避政治家として存在することで、野党の連合の邪魔をしている。一部支持者は政治とは政局の点と点を線で結ぶこと、という観点から、考え直すべきである。)
それでも<まえがき>の最後に次のように記している。
「本書はそういう祈りにも似た気持ちでかく下ろした。本書をまとめるに当たって、大勢の各方面の方々から2年間に渡って協力をいただいた」
そうすると、現時点の安部首相は、どういうことになるのか?
小保方晴子次元なのか?
それで、政権が検証実験に監視カメラ付きで11月末まで出勤する、異常事態を政治的に底支えしているという訳か?
冒頭から始まる拉致関係の部分はこなれた文章からして文春編集者の作。
それに続く、内外基本政策?らしき部分も同じく政治学者の作である。
安部首相の政治思想を包括的に述べた「美しい国へ」の政治内容の特性は、
小泉政権時代の拉致関連の活躍によって、政治のど真ん中に自己を定着させた、当時の安部官房長官がその延長線上でナショナリズムに踏み込んで語りだすと、特攻隊の戦闘行動を「真っ直ぐな心」として究極のナショナリズムの象徴と押し出していること。
以上の、安部首相の政治思想である「過激な」ナショナリズムと、
旧来の自民党の保守政治路線を継承している、と想われる内外基本政策が又裂き状態にあるということである。
この政治思想と基本政策の大きな乖離はどういう政治結果を生むのか?
究極のところ、政治は結果で判断するのだから。安部政治イデオロギーに「真っ直ぐな心」があったなどということは、政治とは無関係だ。特攻隊員を愚弄していないか。
今年、6月下旬の沖縄戦を祈念した式典の映像を偶々、見たが、黒い服を身につけた参列者たちは、滅多ヤタラ、祭壇に向かって、参列者に向かって、国旗に向かって、偉い人たちに向かってロボットか、お辞儀人形のようにお辞儀しまくっていたが、一体アレはなんなんだろう、と考えずにはおられなかった。
コレまでの人生で、あんなにお辞儀をする光景を見たのは小学校の式典に以来だった。随分予行演習をさせられたものだった。それでも4回も5回もお辞儀することは無かった。2014年の今となって、そうする日本があることを異様に想え、どこか遠い国の行事か、一種のシャーマニズムそのものを見る思いがした。
或いは集団葬式行事のつもりか。形式が全てであった。言葉は空しい。心は形式に埋もれているようだった。
>安部政治の結果するところは、殴り書きのような記事になっているが、<異常が普通になると異常と感じなくなる>2014/6/27(金) 午後 1:23のような感想を持っている。
政治軍事情勢の推移を経済、雇用問題をリンクして、考えないと、一面的な平和主義に陥る。要は支配層の支配力の拡張と金儲けのために軍事と政治がある。
生命と財産を守られるヒトと守られないヒトができる。
この感想文で抜け落ちているのは2020年東京オリンピック開催である。このころには日本内外の情勢を随分、変わっていると思う。
過去の記事を引き継いで、現状と考え、将来を見渡す、当然の方法である。
「美しい国へ」関連記事
2014/3/11(火) 午後 3:46
第2回「美しい国へ」安部普三著の検討。
2014/3/12(水) 午後 3:31
アベ路線と内外情勢。 【IWJブログより第3次アーミテージレポート全文翻訳】
2014/3/14(金) 午後 4:00
参考資料
日本では政治的基準としての右も左も真ん中も本質的に存在しない。ーグローバル資本制と日本国憲法意義
2014/3/15(土) 午後 4:47
エマニュエル、トッドの予言の著「帝国以後」に描かれたプレジンスキー著『大いなるチェスボード』の対ロシア、ウクライナ戦略モデルのリアリズム。
2014/3/16(日) 午後 3:58
>国家秘密保護法と日本版NSC(国家安全保障会議)。YAHOO!みんなの政治。日本弁護士連合会。その他、引用。付録付き。
【点検 秘密保護法案】のW。要点
点検。秘密保護法案。(東京新聞)
<1>厳罰化 懲役10年 市民が萎縮(10月4日)
<2>特定秘密 際限なく広がる恐れ(10月5日)
<3>知る権利 市民も処罰対象に(10月6日)
<4>適性評価 飲酒・借金・家族も調査(10月7日)
<5>情報公開 永久に秘密も可能(10月8日)
<6>国会 政府監視 自ら放棄(10月9日)
> 『敗戦期の憲法問題というのは』。
> 憲法のなし崩し的変化の3段階
「第1期が、占領軍がいるからはなはだ不本意ではあるが<忍従>(W。激しい攻防はなかった。自己葛藤!)するという、忍従期。
第二に、改憲企画期。
第三が、既成事実容認期。
例えば第九条のように自衛権の解釈を変えていく。(W、注目すべきは、このインタビューは1989年。25年、ちょうど、四半世紀前。)
実際自民党政府は、コレまで現憲法の精神を浸透させることは全くしていない。逆に自民党の基本方針として現在でもやはり改憲を明記しています。(W。さすがこの辺に認識は今では常識的だが、当時としては余り指摘されない視点だったと思う)
「国民の環環も長期安定政権の下で経済成長ととげ、憲法がでた時の新鮮な感覚がなくなってしまっている。
が、安直な平和観、危機感不安感焦燥感を掻き立てる政治にも限界がある。
この大切な教訓が都知事選挙における細川陣営の獲得票第三位の現実。
基本的な政治思想が現実とマッチしていない!
政治感覚が鈍いのだから、自分から心がけて替えていかなければ改まらない。ファシズム、ナチズムは1920年代30年代の時代状況が作り出したもの、イマの時代に二重写しすれば、政治路線の根本的な誤りになる。手を組むべきでないものと手を組む。容認する。)
「その問題が一番良く現れているのが象徴天皇制を巡る論理です。
明治憲法はプロシアの絶対主義的憲法を真似て天皇の大権を大きくしたけれど、アレはむしろ例外であって、古代は別として摂関政治以後はズット、『君臨すれぞ統治せず』であった。だから象徴天皇制は昔に帰っただけという議論をする学者が結構います。
しかし昔から人民主権原則はありましたか。
人民の自由意志によって共和制に出来るのだ、という【思想的伝統】がありましたか。
おふざけでない、といいたい。
こういう議論自身、イマの憲法の初期のみずみずしい精神がいかに失われたかの証左です。」
白井聡【「物質」の蜂起をめざして】よりー【不均等発展の理論】及び議会主義→コミュニュケーションへの信。
2014/3/23(日) 午後 10:05