反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

太平洋戦争年表から想うこと。司馬遼太郎語録~38式歩兵銃と自動小銃、11年式軽機関銃の本当の話~陸軍の兵器設計には<貧>もったいないの要素がありました。

  歴史感覚は、遠い過去の事実関係の抽象化であり、そこから歴史的「必然性」を見出すこと。現状認識と将来予測に使用しなければさび付くものだ、と実感した。
戦争から65年後の生き残った元兵士と同じような歴史感覚で、兵士たちの戦争動画を視聴していた。様式を固定されて繰り返された時の映像の力は大きいと改めて想う。演出、編集者の意図が知らず知らずに刷り込まれる。「無謀な間違った戦争」は後出しジャンケン。だったら、又感情のゆり戻しがあったし、ありえる
高度成長経済の只中で感情の大方の棘はそぎ落とされ、キビシイ体験は風化さえした。
そして皆居なくなれば、本当に活字と映像、一年の行事の一部限定世界になる。
これは避けられない傾向とするならば、前回も記したように、制度、法制、行事としてキチンと残しておく必要がある。
内外の諸々の事情も勘案して、一塊になって一方向に走りやすい国民性に対して、歯止め、対抗要因、均衡、というものが必要、ソレが知恵というものではないのか。
 
 元兵士たちを無謀な間違った判断に導いた社会体制とは違った社会体制も、当時の欧米には並存していた、歴史的事実は重い。
>ここから金融資本の最高の発展段階という意味での帝国主義(欧米資本主義)と、「国内民主主義制度」は並存可能である、という結論が導き出される。
>言い換えると、ソレが不可能であった日独伊の資本主義の成熟度の帝国主義と「国内民主主義」の関係だった。
 
>その中でも日本資本主義はファシズム、ナチズム政治は必要とせず、国家行政機構のなし崩し的強権化で済ますことのできた特異な存在であり(民主主義主義運動の希薄性)、ソレが敗戦以降の長い政治過程で、どのように変質してきたか、確定することが日本の現状と将来を明らかにする。
 
>資源エネルギー争奪戦など世界市場の状況が厳しくなればなるほど、資本主義は新帝国主義に転化するが、その場合、日本の政治は民主政をより一層、形骸化させ経済格差を拡大させる趨勢は避けられないと見る。
 
 共同政治幻想にその歴史的文化的伝統的集団習性故に即時的に湧きこまれやすい国民性?は統治者にとって一番統治しやすい対象である。
言い換えると、精神的肉体的な大きな反発を潜ることがない統治者側に統治者としての責任意識が希薄になり、こうした集団的従順を操って、自己の政治的経済的軍事的意図を達成し易い。
 
 現状の日本支配機構は強固に固まった(フクシマ原発事故→東電健在。理研ー小保方騒動、官僚国家行政機構~秘密保護法、米軍下請けの自衛隊、金融寡頭制の利益に密着した政党配置図)日本資本主義の爛熟度の深化の必然性(通商白書、経産省、そのた経済発展段階パターン分析参照)から、高付加価値製品輸出、利益率の高い金融利得の増加はあり得ず、ジレンマを一杯抱え経済構造の転換のスピードの遅いまま、世界経済に対する経済力の相対的後退が進行していく。
 アベの金融政策の選択はカネを支配層にばら撒いて、その一階梯、矛盾を蓄積させ、その経済化を先延ばししているだけである。
そうこうしているうちに、あらゆる分野で格差を拡大させるしか支配層は儲かる手立てが無く、結果、竹中平蔵のいうように日本に超格差社会はやい時期に出現する。
 
 そもそも、今までの日本の政治経済は内外の環境に恵まれ過ぎていたのであり、コレからはそうした環境は潰えて、普通の状態になっていくのだが、その状態がくる時期が遅過ぎて、経済退行の趨勢と重なっているところが、内外政治状況を急速に自分たちの側から、悪化させていく要因となる。


    太平洋戦争年表 http://www.notnet.jp/senjyou_nenpyou.htm
 世界史の中で、日本の1920年代後半から30年代、そして日中戦争ー太平洋戦争への歴史の流れを確認しておかないと、当時の日本が持っていた物質的条件を大きく超えた太平洋戦争に突入した背景がわからない。
 
 日清戦争日露戦争第一次世界大戦主戦場から遠く離れた東アジアで参戦。
ここまでの日本の戦争は日本の物質的条件に見合う枠内の限定戦争であり、日本資本主義は参戦によって物質的利益を得てきた(日露戦争による獲物が少ないと民衆が暴動を越した日比谷焼く打ち事件参照)。
1937年の日中戦争の拡大以降、初めて戦争による経済停滞、物資不足、庶民生活圧迫を経験した。
(三環貿易の循環の破綻~日本⇔アメリカ<交換物資生糸。日本の戦略資源輸入赤字。綻び。>日本⇔オランダ、イギリスのアジア植民地<交換物資、綿製品。日本の戦略資源輸入赤字。ほころび。>、日本⇔東アジア殖民地<食料調達。製品輸出。日本の黒字>
 
 「日本が持っている物質的条件を大きく超えさせた」要因を確認しておきたい。
注、司馬遼太郎の昭和史談「半藤一利、『清張さんと司馬さん』」より、長文引用。司馬自身が生き残った兵士であった。例によって饒舌この上ないが、中にはなるほどと思うものがある。記事を書いてきた御蔭で、世の中には、モットモットひどいものが有るとわかって、司馬遼太郎村上春樹嫌いは、治まった。」
 
 この年表は1928年と29年の世界恐慌以降の日本軍、日本政府の動き、と世界の流れを対比させて、よくまとめている。
>世界の動きの中でドイツにおけるヒットラーナチス党の短期間の大躍進に改めて驚かされる。
第一次世界大戦の結果、生まれたドイツ革命の遺産、政治勢力同士の妥協の産物、ワイマール憲法体制の矛盾が世界恐慌に連動するアメリカ資本の撤退、ドイツ恐慌=大失業とインフレによって一気に顕在化した。
ヒットラーナチス党(国家社会主義労働者党)は大量失業者の不満を吸収し組織した(失対事業はナチス党の温床になっていた。「スカバローフェローへの道」参照、失業→ナチ党入党→Uボートの英雄船長の回顧録
 
 20世紀初頭から、大恐慌の時期までに、世界経済の不均等発展が顕在化し世界市場の再分割が起こった。
アメリカ経済は急成長し、世界の工業生産指数の49%を占めるに至っていた。(現状、GDP24%程度、多極化によって世界不況は分散。急発展し財政余裕のあった中国の内需拡大のような連携も可能になる。)20世紀に急成長したドイツ経済も世界の11%(当時イギリス9%世界覇権喪失)を占めてしていたが、世界大戦敗北の後発資本主義国としての市場の狭さ、などの問題を抱えていた。
 
 日本の工業生産指数はソ連を含む列強の中で最低でイタリアより低い3%程度で(現状GDP8%、日本経済の成熟度深化で下がっていく、と予測する。)、重工業化は大恐慌以降の金融財政拡大政策と満蒙侵攻の軍需産業の拡張によって、達成されるような低位の経済発展段階にあった。軍艦建造割り当ては米英に次ぐものであり、軍需依存度の異常に高い歪な財政経済構造。都市ー農村から毎年20万人生み出される生み出される潜在的流動的過剰労働力人口の圧迫もある。
軍需産業と軍隊に収斂していく他なく、この意味でも武装した社会圧力団体としての軍隊の政治力は強まる。
コレと官僚層の合体が日本独特のファシズム以前の軍事的強権的支配機構を形成する。
1932年満州国樹立、33年国際連盟脱退ののるかそるかの勝負の速さは、上記の事情から、大体説明できると想う。これは元々西洋の歴史の中にあったイタリアともドイツとも違う日本の特殊性で、1917年の革命があったかなかったかの違いだけで、半分は東洋にまたがるソ連スターリン体制のほうに近い。
司馬遼太郎が太平洋戦争開戦までの10数年間、日本の政治中枢を異常な人たちが占拠したと、この時代を日本歴史の中で特殊な非連続な時代とする感想を持つのはわからないではない。
 
 1930年代世界大恐慌は、世界の工業生産値の半分近くを占めほど急成長したアメリカ資本主義の不況局面による資本、家計へのダメージが大き過ぎて回復が、戦時需要に出口を求めなければならないほど長期化したことで、第二次世界大戦の引き金になった。
 
 1933年ルーズベルト大統領就任。イギリス1929~1931年年ラムゼイ・マクドナルド労働党31年~35年ラムゼイマクドナルド国民労働党。フランス、クレマンソーによって作られた中道政党急進党の大統領。
 世界恐慌に対して、ソ連スターリン型に類似する政党の政治内容で対処したドイツ、イタリア、日本と英米仏の政治には分岐があり、それが日独防共協定にも関わらず、拡大していった。

この歴史的文脈から、安部が「美しい国へ」でいう叔父、岸信介は東条政権時代に社会保障を日本で実現した、という言説が理会できる。


1928年(昭和3年)     5月20日のナチス党(ドイツ国社会主義党)の獲得議席は12議席だった。
1929年(昭和4年)    10月29日のニューヨーク株式大暴落を経て
1930年(昭和5年)    5月20日のナチス党の獲得議席は107議席に伸張している。
1932年(昭和7年)    7月31日、ナチス党は230議席を獲得して第一党に躍進した。
日本では3月1日満州国建国宣言。5、15事件、海軍将校犬養首相暗殺。
この年にヒットラーヒンデンブルグ将軍を大統領の座を争って、敗れているが、既にこのときに、ドイツ金融資本は内外情勢からヒットラーに権力を委ねる他ないと、判断していた(ナチス党内レーム等左派粛清)
1933年(昭和8年)     2月29日 日本国際連盟脱退
                 3月4日 ルーズベルトアメリカ大統領就任。
                 3月5日ナチス党288議席獲得→ドイツでナチス党が唯一の政党に
                 10月29日 ドイツ国際連盟脱退
1935年(昭和10年)    3月16日 ドイツベルサイユ条約破棄、再軍備宣言。イタリア、エチオピアに侵入。
                 6月10日 河北省に対する日本の要求を中国が承認。
1936年(昭和11年)   2、26事件。ドイツラインラント進駐。
    
    以下省略。


       司馬遼太郎語録
W。こういう文脈にパッションを感じるお人なんだねぇ~
「平成の日本は公を失い私欲に走り救いがたいほど悪くなっている。それを救いうるものがあるとすれば
『諸君功業をなしたまえ、僕は大事を成す』~吉田松陰~といったすきとおった格調高い精神だけ~
「空を見ても、川を見ても、山を見ても、ああ美しい、良い国に生まれたなという思いを、子供たちに残す。ソレがわたしたちの義務というものじゃないか」


W。コレも途中もなんだかムード的な言葉が続くが、一応解るとして、最後の落ちのところ、でずっこける。
「昭和史は恐慌辺りから、民族の意識化で得体の知れない変化が起こって満州事変という統帥権の魔術がつかの間の成功という幻想を国民に見せて以来、異常が異常を積み重ねて、結果として日本本土を火の海にしてしまった。その狂気の運動が終戦詔勅でストップしたんです。W?!」


W。安部首相を評して、マスコミ出身の鳥越俊太郎さんが同じような見方をしていた。職業政治家を続けるためには思想を持っていなければ勤まらないと想うが。要はそのあり方なのでは?
わたしたち戦前の日本民族は、参謀肩章をつっている軍部の人間に占領されたわけです。
ソレは思想的背景が強烈にあるんで、集団狂気の中から云えば、~これは思想の悪魔性というほかないんです」W。宗教や思想に悪魔性は歴史を見てもハッキリしている。


W。ヤッパリ否定形の連続では最後に救いを必要とする体質のお人のようだが、共感する。
玉音放送を聞き、何度か呼吸した後、なぜこんなおろかな指導者ばかりいる国に生まれたのか、と想いました。
政治というのは本来、民族の理性を吸い上げて営まれるものであるのに、民族情念だけを刺激して昭和史は進んできたのです。異質に時代です。
コレまでの歴史を見る限り日本民族はテンション民族というほかない。その狂気の部分だけを引き出すアジテーターが出てくると、現実から遊離しちゃう。(W。こういうフレーズを原発事故に遭遇したマスコミ報道の手を変え品を変えての「がんばれ日本」の連発に使った。行過ぎると勘違いする人がたくさん出現する、と。結果、安部以上の輩の出現に繫がった部分も無きにしも非ずだと想っている)
大遊離したのが太平洋戦争です。
40何カ国と戦う一国で。こんな馬鹿馬鹿しいことをやった国は世界中にない。(W。ナチスドイツ敗北以降の日本を指している)
私はそんなな民族に属していることが不意に嫌になる。
これほど自分の民族を愛しているのに。」


W。共感する!
「この若い中尉(W。戦車部隊の同僚)はつぶやいたかな。今度の戦争は遭遇戦も会戦も無く、米軍による一方的なものだった。コレが戦争だったのだろうか。
おそらく陸士で習った戦争という概念はどの戦局にも当てはまらない、ということでしょう。
ともかく試合が終わった後の選手控え室のような雰囲気で、同じころ終戦阻止を企てた~
W。司馬戦車部隊は『エリート部隊。満州防衛から、ソ連軍が来る前に、北関東の基地に配備換えされた。
ほとんど戦争らしい戦争はしていないのじゃないか。仮に司馬遼太郎大岡昇平のように南方戦場に送られていたら、わたしがここまで盛んに嫌味を書いてきたような司馬の思考回路は生まれなかった、想う。
(W。この言葉は南方戦場の生き残り元兵士が証言で何度もつぶやいた。ただし、彼我の圧倒的戦力差を意味する司馬戦車部隊の中尉と違って、飢餓餓死病死の地獄絵を含めての「コレが戦争だったのか」だった。)


W。既に連合国では自動小銃日本陸軍は38式歩兵銃。
参考資料、YAHOO知恵袋 W。38式歩兵銃と自動小銃の火力に違いを証言する兵士が多かったので調べてみたらこんなメイ回答が載っていた。
☆旧日本軍は何故、三八式歩兵銃のような時代遅れの旧式銃を使っていたのですか?...
ベストアンサーに選ばれた回答。
そもそもこんな理屈を何処から引っ張ってきたのか知りたいが、ウィキペデアだと出典を明らかにせよ、が連発されるだろう。小保方晴子流だな。
 
日露戦争は31年式で戦い38式はコレを改良したものです。5連発とはいえ、一々ガチャガチャとボルトアクションしなければならない。
38式は制定当初から口径6、5ミリが小さ過ぎて殺傷力が弱く、不殺銃だという酷評があって、これに対抗する理屈も明治の軍部に有って、『過度な詐称力は残酷というものだ、的に対して一時的に戦闘力を奪えばいいんだ』とされてきました。なんとも人道的ですね(笑)
 
 第一次世界大戦で、欧米の軍備は一変しましたが、日本は全面的に参加しませんでしたから、後年、兵器は元のままで第二次大戦に参加するんです。
軍部は世界一の陸軍といったような宣伝をしていましたが、兵士暖簾度はともかく装備の点では二流、時には三流。


 W。11年式軽機関銃についての解説。コレについてもメイ回答は歩兵部隊の兵器に主役のように力説している。
 大正14年陸軍大臣は21個師団の落ち4個師団を廃止した。
浮いた金で陸軍の近代化を進めた。
歩兵一個小隊(小隊は40人~50人)に4丁の軽機関銃が付くようになりました。それに擲弾筒数挺。
コレが大正末期から昭和初期までの軍の近代化で、このまま、はるかの地の太平洋戦争終了まで行くのです。
 
 ノモンハン事件が起こるのですが、歩兵連隊超の一人の大佐は戦場で圧倒的に機械化されたソ連軍に「我々あは織田信長時代だった」と戦場の実感を語ってくれたことがあります。
軍の偉い非地たちはコレで世界を相手に戦争しようと想ったのですから、昭和の日本軍閥というのは、日本史にも、世界史上にもない感覚の人々でした。
 まだ自動小銃が無かったことには触れていません。理由は湯水のように銃弾が出るにので貧乏な日本陸軍としては装備する期になれなかったということです。」
 
W。11年式軽機関銃についての解説。
「私はこの軽機関銃を見ました。陸軍では突っ込みという故障が頻発する兵器で、評判が悪かったそうですね。
銃弾は38銃と併用です。合理的な箱型弾倉を用いず、銃身後部に小銃弾をガチャガチャ津コムという方式は世界でも類が無かった。箱型弾倉を節約したもので機能的に無理がありました。
 例えばせっかく戦車を作りながら大砲を小さくしたのも貧乏という要素がそうさせたと想います。
小銃や機関銃を撃つと空薬きょうが飛び出します。
それを一つでも失うと、演習が終わってから中退が総出で探すのです。薬きょうは真鍮だというので、高価だったのです。
 11式も1分間の発射弾数が世界レベルよりも少なかったのは、多く撃っても、銃身が焼けてきて命中精度が悪くなるから、少ない量しか発射できないようになっていました。
 一説ではノモンハンの戦場で、何処かの軍隊が、暮夜、薬きょうを回収したという伝説がありますからまことに貧しい軍隊でした。
今でもベトナム戦争や旧ユーゴスラビアの民族紛争で小銃弾が乱射され薬きょうが飛び散っているのを見ると「もったいない」という気分が反射的に起こります。


W。日本陸軍は本質的に平和であるべき軍隊で
だからこそ、戦争を起して国をつぶした人たちの頭の中が不思議でならないのです
自動小銃というホースの水よう銃弾が飛び出す携帯用突撃兵器を、日本陸軍が遂に作らなかった理由がお分かりでしょう。


W.どんなつもりで戦争を企画したのか、<現実無視>という昭和前期の特徴はどんな学問でもコレを解明できない。
「昭和14年ごろかな、旧制中学の軍事教練の教官が『外国には自動小銃というものがあるが、あれは詰まらんものだ。
それに引き換え、一発づつボルトを動かす38式歩兵銃は一年を込めて撃てる、一発必中の弾は百発1中の弾より勝るのだ」といっていました。コレが日本陸軍でした。
こんな兵器でノモンハン事変を戦って、7割南部というセンし市場稀な死傷者を出しながら、総崩れを起こさなかったのは感無量ですね」
むろん太平洋戦争も織田信長時代のまま出かけたのです。
どんなつもりでそんな戦争~云々」


W。重油を買って備蓄する以外にない国は~海軍は沿岸警備、陸軍は軽武装というあたりに結論は落ち着く
「その一発秘中の論理のようにまず自分自身を誤魔化したということでしょうか。
国民や外国に対しては機密機密というレッテルで隠蔽しました。
 おそらく深刻に国民に隠したかったのは、重油がないということでしょうか。第一次世界大戦から、兵員や兵器や軍艦が石油によって動くようになった、日本は石油を備蓄するしかない国ですから昭和初年あたりの新聞雑誌が厳密な論議を視野とすれば、重油を買って備蓄する以外にない国は~海軍は沿岸警備、陸軍は軽武装というあたりに結論は落ち着くとになったのではないでしょうか。
 が、在野でそんな議論は一切なかった。軍は聖域だったんですね。
ともかくも、重油を買いだめしたところで1週間分くらいしかなくて、そんな国が近代軍隊を持てません
そういい決定的弱点を、いくら軍縮時代だからといって、そ云うカードを明かせば、国民が真っ青になるか、想わぬ反国家思想が台頭する。そのように危惧した。
だから軍の神殿に帳を下ろして機密主義を演出したのでしょう。