反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

陳舜臣、中国ライブラリー 「中国歴史の旅」、集英社1999年発行とグーグル航空地図で確認する膨大な中国公営住宅の海。漢民族と日本も民族意識の違いについて。

 陳舜臣、中国ライブラリー 「中国歴史の旅」。集英社1999年発行。人物を中心とする中国史、関連する中国全土の、地域、史跡、主要都市の特色を案内した紀行文、地誌の要素が色濃くある。500Pを超える本書の構成の特徴は北京紀行文、と中国やきもの紀行、景徳鎮で3分の1。写真は一切無し。末尾に旧紫禁城故宮博物館を中心とする北京中心街の略図など簡単な各地の地図5P。
というわけで、です、ます、調の平易な文章力と歴史観を中心とした博学で読者をぐいぐい引っ張っていく、中国歴史案内、全土の地誌である。
 陳舜臣の紀行文に案内されながら、グーグル航空地図を開いて、丹念にアップしたり引いたりして現在点と周辺の様子を確認してみた。
中国全土の地理的イメージ、が何となくと浮かんできて、中国への新しい視点を発見したような気がするから不思議なものである。大きな勘違いかもしれないが、確信もある。
 下の航空地図は中国の都市の住宅地に全て共通モノで、圧倒される思いがした。コレを自己流に解釈して、旧来の中国観は感覚次元で修正された。
言い替えると、こうした巨大なアパート群に膨大な民衆を養わなければならない国家権力はたいへんである。
膨大な人々を定型な住居=生活状態で集合させなければならないということは、権力にとって暗黙の巨大な群集化する圧力に常に晒されているようなものなのだが、権力機構を維持するためには、そうして人民を扶養する必要に迫られている。
国家と市民社会の分裂という資本制社会の現実の中で、権力機構にとって、便利な事実は、剥き出しの権力装置によって人民を抑圧しなくても、個々の人間は資本の経済関係に隷属することによって、国家に統合されているということである。
 一種の公営住宅のようなところに膨大な住民を入居させているということは、中国では様相が違ってくる。
権力機構は身軽でない。ある意味で人民を扶養する必要がある。そのことによって、同時に人民の圧力を受けている。
 この事態、この関係が内外条件によって、どのように変態していくか?
また、格差拡大を内在的システム化しているグローバル資本制のこれからの推移にとって、中国のような住民対策が本質的にどのような政治的意味を持つのか。過渡的形態なのか普遍的形態なのか、注目に値する。
    
   北京郊外住宅街航空地図 盧溝橋方面 比較的緑があって閑静な佇まい、普通はモット、シンプル
 
    四川省重慶市住宅街
 
    広東省広州市住宅街  スタンダードでない高層住宅は私有マンションだと想う。
    
    中国新疆ウイグル自治区トルファン(人口約100万人)住宅街
  
    中国江蘇省 南京市


 本の末尾の対談の陳舜臣発言を示唆的である。
ー稲畑耕一郎。中国ということで、一つの枠に当てはめて考えることは土台無理なんですね。
(W。中国はこうだと、一つのイメージで決め付けられないが、毛沢東時代は中国人民は一つの同じ大釜で共にメシを食らう。といった。
 現在の国家権力機構としての中国共産党人民解放軍の大役は中国国家の大枠からを中国人民の一人も零れ落ちないようにすることである、としている。
W。エマニュエルトッド「帝国以後」中国=単一の国家権力の下に集められた史上最大の人間集団。
W。「一つ大釜、脱落のないような大枠」、共に国家権力機構の権力の立場からの膨大な人民への強烈な自意識はある。
 
>陳 中国5千年、6千年という歴史の中で、統一国家として成立した時代もありますけど、それにしても、ただ王朝が人民の上に乗っかっただけすね
あまたの少数民族もおりますし、漢民族といっても出自はそれぞれですからね。
経験的に云えば、中国とは、と軽々しく論じられるようなものではない。
もしかすると私たちはいつまでたっても、中国のことはわからないかもしれません。
しかし知ろうという努力は、捨ててはいけません。


W。中国歴史の観察者が共通に上げるのは、歴代専制国家権力機構と中国庶民のリアルな生活ネットワーク社会とは分裂しつづけてきた、ということである。そして専制国家機構の混乱疲弊の時期に下からの人民パワーが沸き起り、歴史的場面におどりでた。コレが中国史の一つのパターンである。
国家機構の混乱や疲弊の原因は権力の腐敗や異民族侵入やそれへの対応もあるが、公共事業などの国家財政の肥大化による財政逼迫、大増税、住民抵抗、反乱もパターン化している。

          自己流中国国家権力通史
1)現代考古学の発掘調査によれば、中国大陸では古代黄河文明の他に揚子江流域に独自の文明があったことが明らかになっている。
 
2)一応、漢民族の出自は黄河中流域~中原~の城塞農耕民とされているが始皇帝の秦は中原の最西端、ヒンターランドは当時の漢族の領域外の四川方面であり、秦は伝統的な漢族、周の古代封建関係の枠外にあった。戦国時代の中国史上、初の統一専制国家秦によって「純粋」漢族に様々な出自が加わった。
 
3)隋から唐へ連続する時代は中国伝統の権力争奪戦の地であった中原から、北方の集団に権力が移行する時代だった。
そして、現在の北京より北の守備に配備された一族が、クーデター的に権力を握ったことから、初期の唐の王族に北方遊牧民の血筋が加わった
皇帝は北方遊牧民の遊牧移動生活習慣が抜けきれず、宮廷内にパオをはってよく寝泊りしていたという。
旧来の北方遊牧民的な権力機構の様式は意識的に中原の漢民族の伝統に沿って改められた。権力の地である中原の支配者が中国の統一的支配者という伝統に則って、それに相応しいものに自らを急激に改革したのである。
出目からも、唐はグローバルな周辺遠方と交流し、異民族を登用し、活躍の場を提供する帝国になった。
 
隋、唐の時代から権力集団、権力機構の重心は漢民族の伝統の地である中原から北方系に移行している。政治軍事機構機構の北方系の優位は政治軍事過程で明確になった
 
*他方で、北方と南方の気候風土や農耕立地条件の違い方、南方生産性が上回ることもハッキリしてきた。
隋に時代に建設された大運河は農業生産性の高い揚子江流域と政治軍事の中心地域である黄河流域の交流流通を促進した。
 
*言い換えると、政治と軍事の北方と農耕生産性に勝る南方という基本要素の違う二つの中国があった。
以降、中国が分裂したときは必ず、黄河流域を中心とする北方と揚子江流域の南方の国家の並存となっている。
万里の長城の強化は政治軍事の北方圏移動と無関係ではないと想う。
 
4)北宋王朝は後の狩猟を生活基盤とする女真族(高麗王朝の首都も占拠、屈服させた。女真は後の満州族)の金に壊滅され、皇帝一族は奴隷として女真族の本拠地に連れ去られ、皇女は遊女にされた。
 
5)南に退避しや一族は南宋政権を樹立したが、金を倒すために挟み撃ちを目論んで連帯した北のモンゴル族に金もろとも攻め滅ぼされた。
こうして、モンゴル民族によって、中国は世界帝国モンゴルの領域国家、元として統一された。
 
*以降、中国大陸では、清という異民族の王朝が成立しても、分裂国家状態になることハな一度も無かった。
 
6)そして19世紀初期から中盤に始まった帝国主義の半植民地支配、清王朝の動揺崩壊から、軍閥割拠状態になり、中国は近代国民国家形成の契機を失い、遂には日本帝国主義による、カイライ国家満州国の樹立に至った。
ここにおいて近現代を中国は分裂によって迎えたのである。
 
日本帝国主義軍閥による満州国樹立は世界の世論の総反発を受け、国際連盟において満州国樹立反対30、棄権シャム1(現在のタイ国)という政治的結論がもたらされた。


   前回の記事のコメントに返答する。~長文で返答するのは不公平極まりないが、肝心なことなので~ 
 
>以上長々とかいてきた目的の一つには、前回の記事に対する下記のコメントをいただいた方への自己流の返答の意味もある。1930年代史の決定的なターニングポイントであり、私を含めて日本人がとかく、陥りがちな民族意識の自己の枠組みを中国に適応したところから生まれる見解であり、簡単に返答できる筋合いではないと考えた。
 文脈に沿って、考えてもこの意見には疑問を感じる。
前回の記事を書く前にグーグル、ウィキペデアの関連の解説を参照した時、このような意見が出てくることを直感して、参考資料として掲載することを取りやめた経緯がある。ウィキペデァの現代史の解説記事は肝心な所では必ず、今風に迎合した記事に偏っている。
漢民族の枠を日本的民族意識で狭く捉えいる。
中国大陸の民族意識を日本的な民族意識の枠をストレートに当てはめて、蒋介石の思惑を類推している
 
 さらに満州民族の国家であろうが何であろうが、元以来、統一した中国の分裂は半植民地時代において近代国民国家形成途上にある【中国】は許さないとう政治エネルギーは上昇一途の時期にあった
満州国樹立にはNOを突きつけている国際世論=国際連盟決議という最重要な歴史的事実をこの文脈は全く考慮しておらず、あれやこれやの得手勝手な事実を寄せ集めて、当時の現実を自分の願望、情緒を投影して、再解釈しなおしている。
問題の焦点は過去完了系の歴史的事実を魚屋や肉屋に求めるのではく既成事実に対してどうしてそのようになったか考え、現在将来に役立てることである。
 
文脈に沿って考えても停戦、和平に応じるとあるが、実際にはそういう交渉の応じてもよい、ということであって、停戦和平が実現することとの間には大きな溝がある。
 
ドイツを交渉の窓口にするということは、蒋介石英米利害、国際世論(政治では集団軍事力に転化する)、中国国内世論との関係も浮上してくる問題であり、それに抗して日本側が蒋介石に分け与える物的利益にどの程度のものがあったのか、軍人であり政治家である蒋介石はそういうことを総合して判断した<はず>であり、歴史的経緯をみても、コメント氏の願望と真反対の結果しか出ていない。
それを魚屋さんや肉屋さんに買い物に行くことで誤魔化している。現実無視の大きな仮説の設定と政治指導者の能力の問題に収斂している。
 
 堂々めぐりの論理である。
願望に沿わなかった歴史過程⇔相手にせずとした政治指導者が馬鹿だったから
自己本位に終始する見方である。相手の状態をリアルに見通していない。自ら作った理念を現実に当てはめている。
 
 自分本位はアベ等と同じパターンといえなくはない。(以前、確認したところではウィキペディアの日米交渉、ハルノートの解説は現状とちがっていたように想う。かなり修正されており、そういった関連項目の解説を読めば、コメント氏のような意見が出てくるのはあたりまえだろう。
 
明治維新以前と以後の歴史の流れから、形成された「半近代的な日本の資本制的支配機構」は独自の力では欧米資本主義列強と比肩して、中国大陸の権益を分割したり、ましてや支配したりする人的物的潜在条件は、根本的に備わっていなかった。
 モット遡れば、朝鮮半島を植民地にする歴史的文化的資格も備わっていなかった。
にも拘らず、人的文化的条件は確定し辛いからさておき、物的条件欠損の穴埋めをしたのは、具体的には先進欧米金融資本の戦争軍拡で肥大する日本の国家と資本への投資であった。
日本支配機構の伸張は欧米先進資本の投資が加味されて、戦争することによって儲けて、その利益を彼らに分配した。
この循環が崩れていったのは、世界恐慌に至る過程で、恐慌勃発によって、日本と世界経済を金融的に連鎖する鎖は断ち切られた。
自分が(8月2日土曜日付の記事)の記事で描いているのは、その束の間にも経済繁栄があるという歴史の盲点の指摘だ(武田麟太郎「好きな場所」)。コレが解ってないと又、
現状の行きつく先の結果が見通せず、目の前の表面的な物的現実に目を奪われたままになる。


 以下はコメント氏の意見と直接関係がないが、過去のすんだことの世界だけで云々しても、大した意味は無いの思うので、持論を展開する。
在日駐留をキーポイントとする日米安保を、米世界戦略における米軍の負担を分担することによって(自衛隊を米軍の下請けとして機能させるということであり、今の実態はそうなっている)、日本国家に自立に替えていく。~安部著「美しい国へ」~
 
 ところが、アメリカ当局の立場から見ると、日本国家の自立に読み替えられたら、溜まったものでない。
あくまでも下請けの地位のまま、自分の都合、儲けに利用していく。
 
 そこで両支配層の折り合えるポイントが問題になる
丁度いい塩梅で共同利益が達成できるところは何処にあるのか?
エマニュエルトッドの論法を適応すると、対米関係において日本の支配層の利益に欠損が生じるようになると、両者のシステムにほころびが生じる、としている。
日本の多数の国民の資産と労働を大きな抵抗も無く、共同搾取の対象とできるところはどこかに設定するのかなるのか!
口先でどんな国家的民族的美辞麗句を並べようが真相はこれ以外にない。


         コメント引用
「首都・南京陥落させた時に、
ドイツの仲介で、蒋介石が停戦・和平に応じたのを
近衛文麿・日本政府側>が、ぶち壊してしまった。

軍事的にも・外交的にも、馬鹿だと考える。

相手・蒋介石、中国の状況を把握できていない。

同様に、米国、ハル・ノートとの外交交渉も同じである。
中国の撤兵でも、中国の範囲、時期・期間に関して、交渉の余地があった。

蒋介石は、満州を、中国から切り離して考えていた。
満洲は、漢族・中国人の土地ではなく、
清朝の支配民族である<満州族>の土地であるから
削除
2014/8/2(土) 午後 7:52 [ sat*atu**200* ]


 自分自身にもこの方のような日本民族地政学的自然風土に深く影響された東アジアへの見方を持つものと意識することが時々ある。今回、 陳舜臣、中国ライブラリー 「中国歴史の旅を読んでいる最中も不思議な気持ちになっている自分を自覚した。
彼は長い北京紀行において、清朝200年の統治時代の史跡を、異民族支配の残したものとは、まるっきり感じていない。中国人の残した歴史的事物としている。
日本民族の情緒とこのような感性とは、かなり違っているようだ。
乱暴に言えば、日本民族意識は歴史的伝統的風土的条件によって、知らず知らずのうちにキャパスティーの狭いものになっている。それに比較して(あくまでも比較の問題)中国人の民族意識漢民族という意識は薄い、ことは間違いない。
日本列島は大海という大自然の要塞に囲まれてきた、風土的基底条件が日本の歴史、現在の内外への潜在的政治意識、に多大な影響を及ぼさないはずはない。
こういった日本的民族意識は衝動的な情緒、感情領域に属することが多い。
 
 既に指摘したように、漢民族という出自が広大な中国大陸国家の形成、維持の過程であいまいになっている。
民族意識純化する方向では、他民族またがる帝国を維持するには、維持できてこなかったという実際的要請があり、長い歴に経て庶民生活レベルまで浸透した。(ただし、国家の大枠が緩むと、どうなるか解らない)
 
そこに国家的普遍性、共通性を提示できなければ、いくら専制国家といえども権力を維持することはできなかった。その普遍性、共通性のキーポイントが儒教であるかどうかは宗教に疎いから解らないが、日本民族意識と漢民族意識は大きく違う、もっと云えば、他民族に対する意識においても違うということだけを押さえておきたい
 両者には大きな違いがある、日本的民族意識で中国関連を判断すると、間違いが起こりやすいとわかっている、コトが肝心なことだと想う。
 
>そもそも、言語そのものの、文法構成がまるっきり違う。
文法構成が大きく違うということは、思考パターンも大きく違うということだ。
学校時代に漢文の妙な日本的理解の方法を教わったから、同じような漢字を使っていることから、同文と想いがちだが、アレは英文に日本語の読解の順番符号を振るようなもので、勘違いの大本を提供しているようなものだ。
中国語の文法構成は英語に近い。言語から来る思考パターンも日本語のような融通性、あいまい性は薄い。だからこそ、中国の政治家の政治表現はワザと大げさで、コトをアイマイにする。
日本の政治家は普通に日本語を使っていても政治的表現になっている。


 最後に下記にNHKデジタルアーカイブス 証言記録 兵士たちの戦争 中国戦線の動画をまとめてみた。
日ソ不可侵条約を破ってソ連軍が進行してきた、という意味の表現が確か二回ほどあるが、この戦争を世界戦争の戦略問題の次元で把握していない、ナレーションである。
英米ソ首脳会談の結果、条約違反のソ連軍の侵攻は期限を域って決定された。
広島長崎への原爆投下とも関連する事項を在り来たりの見方で、なぞっていることは間違いである。
ほんのちょっと言葉を付け加えるだけで、全局面が見渡せることがあるのに。
大陸打通作戦1500km行って来いで3000kmは出発点は揚子江流域であり、1万キロも行軍したわけでない。
当時の装備、補給で行う作戦ではなない。50万兵士の食料は全部現地調達というのだから、現地でどういう事態が生じたか、およそ見当が付く。
Uターンした帰路では近代装備の国民党軍に追いまくられている。空からは新鋭戦闘機、P51ムスタングの追撃を受けている。操縦性能、馬力すべてにおいてゼロ戦をはるかに凌駕する戦闘機で、証言では操縦士腕が物凄くいいから山間をむぬってこられるように発言しているが、実際のところは、B52に匹敵する高性能戦闘機を戦場に投入できるようになっていたということだろう。
アメリカ艦船の対空砲火には防空網のVT信菅弾が使用されていた。命中しなくても弾が機体に近づくと、爆発する。防弾装備を軽くして航続距離操縦性を追及していた日本の戦闘機はひとたまりも無かった。
そういう事態を見ざる聞かざるで、航空特攻に至ったのだから、腹が立つ。
 南方の島々の地上の白兵突撃が空中、海上、海中に応用された。実質的に自殺行為だった。
兵士は国民。イザという時に国民を粗末に扱う日本支配層の常套手段は、変わっていない。
 
民族意識は分母。分母が類を見ない状態だと【分子を割り切れない】
中身はどうであろうと、戦後民主主義、平和主義の蓋が取りはずされると、鍋の中から有象無象が表に飛び出してきた。