反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

戦争を通してみた日本とアメリカ社会。ノーマン、メイラー「裸者と死者」と大岡昇平「俘虜記」。ウイリアムワイラー監督の最高傑作「我等が生涯最高の年」。

 ノーマン、メイラーの「裸者と死者」を読んでみようとふと思ったのは、この本がガダルカナル島を巡る日米攻防戦に彼が従軍した経験を元にかかれてるものと勘違いしていたからだ。大昔この本のページを開いたことがあったが、そのときは想像していた戦争文学とは余りにも違っていたので、すこしページをめくっただけで投げ出した。
 
 今回、読んでみて、大昔投げ出した理由がはっきりとわかった。
物凄い長編小説である、新潮社のメイラー全集に収録されているものの上巻だけで、350ページを超えていて、下巻は読んでいないが合計すると600ページ以上になるだろう。しかも小さな文字でビッシリ埋め尽くされている。その全ての場面は戦場と軍隊生活のリアルな描写と、主要登場人物の兵士たちの米国市民生活にフラッシュバックでる。
 
 書き出しの部分は主要登場人物になる兵士たちが輸送船内で賭けポーカーをやっている場面で、いきなり、延々とビッシリ、7ページ分。アメリカ軍兵士の有りのままの姿を描いているだけで、ありえる話である。
しかし、激戦地に向かう輸送船内の日本軍兵士が船内で花札賭博を開帳していた場面は日本の戦争映画や小説に馴染んでいる者としては、大いなる違和感を感じる。
読む前に何か漠然と期待していたものが、そこにない。兵士同士の上下関係もあっけらかんとしてフランクである。全く異質な世界がある。いきなりから、感覚的に小説の描く世界にはいっていけなかったのだ。
 
 しかし、よくよく考えてみると、わたしが激戦地に向かう輸送船内の賭けポーカーに馴染めないように、彼等が馴染めない日本の軍隊生活の遊興の事実があるということも、この小説のさりげない会話で中で、描かれている。「日本軍には移動慰安所があるらしいぜ」。
 確かに、勝新太郎と田村高広の「兵隊やくざ」では慰安所が、ストリー展開上、緊張と緩和の緩和の部分を面白おかしく、果たしており、それを見ても違和感はない(淡路恵子の姉御肌で色っぽい、それでいて何処と無く投げやりな風情を醸しだす名演技が光る。今の女優では絶対に演じられない!)。同じく勝新主演の「悪名」~八尾の朝吉シリーズ(今東光原作)~では中村玉緒演ずる遊郭の女郎を篭脱けさせるりシーンがストーリーのハイライトとなっている。
戦前日本では遊郭は公認の何処にでもあった。そういう遊興文化だったのではないか。


 
   ウィリアムワイラー監督の「我等の生涯の最高の年」(1946)。
 この映画がウィリアムワイラーの最高傑作だと、日記で繰り返してきた。この映画は、戦中、戦争直後のアメリカ中西部の中小都市の物質文化の豊穣さに基づく市民生活の風景、善悪の基準、価値観というイデオロギー状況など諸々の当時のアメリカがかなり無理をしでも、一杯詰め込まれている。
この映画を当時のアメリカ社会の観察の対象とすると、戦前の日米の軍隊生活と、その背景である市民生活のありようが、余りにも違い過ぎる、と納得できる。
 
 この映画の評論をしだすときりがない。
上記に挙げたいずれの項目においても、戦前日本はアメリカの足元にも及ばなかった。コレが有りのままの現実。
第二次世界大戦は只、ある戦局の軍事行動がどうのこうのなんて本質的に勝敗に関係がなく、物質科学力の大きな差異だけではない、市民社会の底力を含めた本当の意味での総力戦だった。
だから戦争に完敗し、原爆投下というとんでもないことになった。その結果を今もなお、引きずっている。知らん振りをしているだけだったが、肝心な時代になって、蓋が開いたら、実情が浮上してきた。それでもヤッパリ知らん振りで、勘違いで通そうとする。
コレが現日本支配層がイデオロギー的要素に留まらず物的にも、只今現在も将来的にも日米共同利益と想いこみ、率先して実行しているのが、有りのままの現実ではないか。
バランスシートの欠損分は誰が穴埋めするのか。決まったことだ。
 
 特攻隊員を「まっすぐな心」などと総括する底の浅い精神に普遍性などあるはずがない。そんなものは黙って内に秘めておく心性で、政治家が敢えて著書で大々的に宣伝するものでもなかろう。日本のうち側だけに通用する言説であり、亡くなった人たちたちを本質的に愚弄するものである。
 
 あの映画にはハッとするワンシーンがある。
中小銀行融資担当の重役に復帰した帰還兵が、日本軍兵士たちの日の丸の旗の寄せ書きや鉄兜、日本刀を家族に戦争の記念品として披露する場面に戦場で倒れた日本兵たちの姿がオーバーラップしてくる。
 が、他方で、一家のハイスクール生の息子は、学校では広島長崎の原爆投下を先生がいけないことといっていたよ、と告げて父親が苦々しく感じるシーンをさりげなく描くことで、戦争は終わった、戦争とは別の新しい世界が、胎動している事実を伝える。
 
 主人公の一人の元爆撃中尉の帰還兵が客と大立ち回りして即刻くびを言い渡されるシーンの原因はファシズムに共感する客が、片腕になって帰還した青年に「相手を間違った無駄な戦いによって、片腕になったのだ」とほのめかしたからだ。片腕の青年のえもいわれぬ怒り表情を察して、大尉はアメリカにはあんたみたいな考え方の人間もいる、というなり、相手に飛び掛っていく。
 
 職を失った元中尉が最後に偶然見つけた職場は、乾ききった広大な平原を埋め尽くす、かつての自分がヨーロッパ戦線で搭乗していた爆撃機ボーイングB17爆撃機http://ja.wikipedia.org/wiki/B-17_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)、を解体スクラップする仕事だった。
用無しになった膨大な戦闘機群の広大な平原のスクラップ置き場は実話である。
日産自動車労組の「カリスマ」指導者塩路はアリゾナ州で偶々、その光景に、遭遇して度肝を抜かれ、コレでは戦争に負けるはずだ、と述懐している。
B17爆撃機群はスクラップ置き場まで飛んできて、そのまま放置されたのだ。
 
 この映画の代表的なネット評論には次の二つが目に付いた。ウィキペディアは解説にも評論にも全くなっていない。
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/rv_3844.html この中のコメントにウィリムワイラーの最高傑作というツィートが載っている。自分と似たような見方をしなければ、こういう評価は出てこない、というのは云い過ぎか。
 
http://movie.walkerplus.com/mv10065/ 映画好き向け ストーリーの丹念な説明。それ以外はナッシング。
評論→「主人公を三人にまで絞ってなお三者のテーマの拡散が気になる、個々の物語を束ねる視点の欠如は指摘しておかねばならない。」←監督の戦中、戦争直後の継続するアメリカ社会をトータルに描くという意図が解っていない。無理は承知で演出している。であれば、限られた映像空間に手際よく一杯詰め込む演出力と内容を評価の対象とすべきだ。
社会派映画とエンターテイメントを結合させようとしている。テーマと雰囲気は違うが日本映画で云えば成瀬監督の「浮雲」がその類。
片腕義手になった「ホーマーの劣等感の持ち方がちょっとくどくど描かれすぎだし」←ヒューマニズムのあり方を描いている。ヒューマニズムは粘っこくなくちゃ本物に近づけない、のではないか?
「フレッドと妻の関係は表層的に処理されすぎ」←メイラーの「裸者と死者」にも、浮気モノの妻に悩む戦場の兵士が描かれている。メイラー自身6回も結婚している。ヘミングウェイも似たようなもの。フィッツジェラルドの小説にフラッパーが描かれている。表面的に処理しているとは全く想わなかった。丹念に描きこむとこの映画のエンターティメント性と社会性の均衡が崩れる。ワイラーはこの映画を本質的に男と女のシリアスドラマとして演出する意図は無く、その部分は客を呼ぶエンターティメントと割り切っている。
 
 なお、ワイラーの噂の二人 - The Children's Hour (1961) - 原作:リリアン・ヘルマン(Lillian Hellman)は「我等」と双璧の傑作。原作は舞台劇としてかかれたものと想うが、登場人物たちの演技力は凄い!
同じオードリーへぷバーン主演でも「ローマの休日」は駄作もいいところ。ミスキャスト。グレゴリーペックも?。
ストーリーもリアリストには辻褄の会わないところが目立ち過ぎる。


 
 数回前の日記でとりあげたカミングス将軍とハーン少尉の、ドフトエフスキーの小説にでもでてきそうな問答などは例外中の例外であって、全編、事細かなディテールが、コレでもか、コレでもかと延々と続いている。
 
しかもただ書き連ねているだけでなく、習作を学生時代に発表しているというから、それなりの構想力を伴ったものであるとわかる。
 登場する兵士たちの人物像はアメリカの市民の各々の典型が兵士になった場合を想定して書き込まれている。
エスタブリッシュメント出身もいれば、テキサスの荒っぽい農民出身者(実質的主人公クロフト軍曹、悪魔的人物カミングス将軍の下士官版。警備員として勤めていた時、ストライキのピケ隊に向かって、脅かしのために的を外して頭の上を打つように指令されているのに、故意に銃身を下げて銃殺している。勿論何の罪にも問われていない。アメリカ暴力社会からそのまま湧き出てきたような人物。戦場に来る前に罪に問われなかった殺人者である、というところが凄い) 炭鉱町を嫌って、放浪者になったものもいる。
 各々の人現像を細かいリアルな戦争とアメリカ市民生活のディテールの連続の中で、作家の創造力で描き分けようと試みている。
そうすると一筋縄ではいかなくなる。各出身階層の兵士も複数のパターンに描き分けられている。
そして結果として、この戦場の兵士たちはアメリカ市民が兵士になったのだと、と読者に納得させる仕掛けのなっているのだと想う。
ま、先にあげた「我等が~」に対する評論の見方からすると、メイラーの「裸者と死者」など、「テーマの拡散が気になる、個々の物語を束ねる視点の欠如」の極地というものに違いない。「我等~」がアカデミー賞をとったり、「裸者と死者」がベストセラーになるアメリカと日本とは違うということだ。 
 
 漠然と戦場の何かを小説期待するものにとって、濃厚すぎて付いていけなかったのだ。
戦争体験とか、敗戦直後の体験があれば、あのむせ返るようなリアリズムのディテールの連続を消化できたかもしれない。
 今回も、全部、読み通せなかったが、何とかなったのは日記を書いている御蔭で問題意識を持って挑めたからだろう。
ノーマンメイラーは戦争の実態とその背景の戦争をする社会を、読者の目の前に提示したかったのじゃないかと想う。
感想は多岐にわたり、簡単に集約しきれるものでなく、イロイロな読み方が可能であると想う。
そういう小説は実にたくさんある。 


 以前の企画では大岡昇平の「俘虜記」と比較するつもりで、同書のハイライトの場面を、射程圏内いに突然現れた若いアメリカ軍兵士を撃たなかったコトに焦点を当てて論じるつもりだった。 
 
 この小説は都合3回ほど読んだことになる。
そして結局、最後に読んだ時に、あの若いアメリカ兵を撃たなかった場面の記述に大きな疑問を感じた。
乱暴に言えば、無理をした観念遊戯の類と見た。
 
 その瞬間の本人は栄養失調でマラリアにかかって朦朧として状態で、部隊から孤立して彷徨していた典型的な敗残兵であった、というのが実態で、とてもじゃないが、撃つ撃たないの主体的選択の余地は絶対と云っていい程、無かったはずだ。
撃たなかったのではなく、絶対的に撃てなかった、言い換えるとその瞬間、兵士大岡は自らの環境に相応しい全うな的確な判断を下していた
 
 ちなみに、もし撃っていたら、どうなったか?
射程距離は直近で18mということらしいから、一発で射殺できていたか怪しいものだ
戦争末期に召集され訓練不足の27歳の元会社勤めの歩兵にその腕前があったのか疑問だ。まして、38式歩兵銃は口径が小さく的中しなければ、射殺できないのではないか。
 自らの潜む方向に歩いてきた若い歩兵の声の届く付近には、別の仲間の兵士声がして、撃ちかた止めの後、気づいた。
ということは朦朧として彷徨中の大岡単独敗残兵が射撃音を発し、撃たれた敵の若い兵士が絶叫していたら、自動小銃を持った仲間が駆けつけてきて大岡の命は、それまでだった。こちらのほうは絶対的に近い事情である
付け加えておくがこの場面は米軍の敗残兵の掃討作戦中の出来事である。
 この場合、米軍歩兵の散開度は大き過ぎて、逃亡兵が正面に入る確率は低いが、普通、掃討部隊の進む方向にいた敗残兵は抵抗すれば、ほぼ射殺される。大岡の描いていることである。
 
 さらに、例え逃げおおせたとしても、捕虜になったときの尋問にどう答える。
米軍は日本軍と違って、同僚兵士の狙撃された死因はそのままにしておかない。どの地域に潜んでいたのかと追求されて立場が悪くなる場合もある。
 
 捕虜大岡は、撃たなかったという瞬間の話を米兵にした可能性もある。
他の日本兵と教養に雲泥の差があり、英語を理解するインテリと認知されて(通訳だったか)、それなりの役目を振られた捕虜生活を贈っているのである。いくら戦争とはいえ、殺しの選択をしておいて、この役割では文学者の本人も割り切れぬものだっただろう。
 もっとも武田泰淳には中国戦線で無抵抗な民間人の女性射殺する描写がある。
その場面は余りにリアル過ぎて、体験でないかとでないかという疑いがある。彼には中国戦線における殺人のうわさがあった。 
 
 大岡に仲間の兵士がその場にいたら、撃っていた可能性があると想定問答をしているのは、正しいが、その場合も引き金を引いたとは限らない
集団性によって発揮される兵士の攻撃性と部隊から切り離された単独の攻撃本能では違いが生じる。戦況や体調、精神状態にもよる。
 
 以上の事情は、当人が一番よくわかっているはずだが、捕虜生活や無事帰還できたことなどから、出征前の文学青年的地金がむき出しになって、体験談を小林秀雄など旧知に語り聞かせるうちに、興味本位の彼等の観点にもあおられて、イロイロ意味付与をするようになった。
大岡全集には期間直後の小林秀雄など旧知との交流のが収録されており、小林が盛んに文章化せよとあおっている様子がうかがえる。
 
 いづれにしても、とって付けた様な長々として記述の文学的というか哲学的思考に突入しているわけで、しかもその内容に文学的哲学的昇華できる糸口がなく平凡な散文思考に留まっているように思えた。
あの長々として記述はひねくれものの自分には、ことさら文学を意識した格好付けのように感じた。
 
 「俘虜記」の名場面はなんと言っても、ノモンハン事変にも従軍し中国大陸の激戦を潜り抜けた大岡の部隊長の描写だろう
いつも寡黙、沈着で的確な指示を出し、レイテを死に場所と悟りきったような虚無感漂う少尉にたいする何処と無く畏敬の念の伝わってくる。
そこに歴戦を潜り抜けた職業軍人の醸しだすいぶし銀のような姿をみとめたのか。
歴戦の少尉はこの戦争の推移を体験して、戦争の勝敗の行方もわかっていて、レイテの戦場で死ぬという自らの結論に達して参戦した。
 
 激戦の中の少尉の最期の描写も印象に残る。
降り注ぐように砲弾が炸裂する中で「アメリカさんも派手なことをやってくれるなぁ~」と、かかとわらって、砲弾の飛んでくるほうに向かって、前進していった。
 歩兵は敵の砲撃に対して、砲撃を発射する方向に進むという、日本陸軍の教訓は、それなりに正しく、理にかなったものであると、「俘虜記」の戦闘場面からしった。
 ただし、既にとき、遅しだった。


    参考資料    悠々自適  大岡昇平『俘虜記』を読む
アッ、そういえば、 大岡昇平には悠々自適が挙げる「レイテ戦記」あった。徹底的に客観的資料を駆使した執念の長編である。コレも簡単に読み切れるものではない。途中、挫折したままだが、もういい。


密林の中を単独で彷徨するうちに、バッタリと一人のアメリカ兵と遭遇してしまったらしい。
「ヘイ! ハロー」
米兵はまるで旧友に出会ったかのごとく、親しげに笑顔でしゃべりかけてきた。
突然の予期せぬことに驚愕した先生は、一瞬たじろぐ。
だが、意を決して持っていた銃を彼に向け発砲した。米兵はバッタリとその場に倒れた。恐らく即死に近かっただろうと。
 もし仮に、英語の堪能な先生が敵方の親しげな態度に同調し、やあやあと打ち解けた雰囲気になったとする。その後の二人は夫々どんな行動をとったであろうか。
ニッコリと笑顔を交わし、そのまま無言でその場を立ち去っただろうか。
~以下省略~
 
 この類の戦争話を直接聞いた経験は今まで一度もない。
生徒の前で語る心境は理解しかねる。
無益な人殺しをしないためにも、日本軍には捕虜になる選択肢はあってしかるべきだった。そういう無慈悲な文明比較論よりも、この視点から、この事態を考え直したらどうだろうか?
この文明論は大岡の空虚な観念論に何処か似ているような気がする。
自己本位かな?言葉が軽い。幸福者なんだな。時間の経過と共に過去を風化させてたり、儀式に転化して、狭い範囲以外には酷薄になれる、ということか。ゾッとする。