反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

1950年代の邦画の中の戦後日本の原風景をみる。勝新太郎、田村高広主演「兵隊やくざ」が描くもの。

   なぜ、映画を見たり小説を読むのか?
難しい方向に考えていくと切りがないから、一つだけ簡単なコトを~。
レンタルビデオのシステムがまだ展開されていなかったころ、「ぴあ」などに現在上映中の映画案内の一覧が載っていて、その中から、面白そうな映画のかかっている映画館を特定し、いそいそと出かけていく。封切館もあれば、3本立ての名画座もあったが、概ね目3本立てのほうにいくことが多かった。入場料金は問題ではなかった。一本立てでわざわざ、足を運んでまで、見たいという映画が、ものそのころから無かった。馬鹿馬鹿しい映画に90分程度付き合って、明るいところにでてくる。割があわんなぁ~、と思うことがよくあった。そのころは今から振り返ると、不振の映画会社が、急激に製作規模を縮小して、お抱えの俳優や、監督、スタッフなど諸々の映画製作現場に関わる人材才能が行き場を失って、宙に浮いていた、空回りしていた時期なんだと想う。
 
 それでも映画館に何となく足を運ぶ習慣はあって、あるとき、なじみのない古い邦画を上映している小さな映画館にいってみることにした。狭い地下階段を下って、ドアを開けると200席にも満たない客席はほとんど埋まっていた。
満席の客は普通よりはるかに小さいスクリーンに集中していた。コレがまず驚きだった。3本立ての映画館では、ココまで客で埋まることは無かった。観客も、たいていボッーとスクリーンを眺めていた、行くところにいけば、タバコ、プカプカ、菓子類の袋をガサゴソする音がしていた。
 
 スクリーンの映画の監督の名前は聞いた事がなかった。俳優もなじみは無かった。
シーンはボンネットの前が大きな鼻のように突き出たバスのほぼ満員の車内で、主人公らしき人物がつり革に捕まって車窓の外に視線を向けていた。映し出されるあたりの夕刻の風景、乗客同士の何気ないの会話、厚ぼったい服装から、バスは東京の都心からからかなり離れた真冬の郊外を走っている。
あたりが暗くなったころ、車掌は次の停車場の名前を告げた。乗り換え駅だという。
主人公はあたりが真っ暗なバスの乗換駅の停車場に降りていく。そこで乗り換えて自宅に帰るらしい。
 
 乗換駅の暗いバス停の数人の乗り換えバスを持つ者たちは石油缶の焚き火を取り囲んで、もぞもぞと取り留めのないことを語り合っている。次の乗り換えバスが来るまで、かなり間がある、という。
バスから降りたばかりの主人公は石油缶の焚き火を囲んだ人たちから離れたれたところに佇んでいると、石油缶の焚き火のほうから「どうですか一緒に当たりませんか」などという声がかかった。都心から遠くはなれた真冬の郊外は相当冷え込んでいる。火のぬくもりはありがたい。主人公を含めて又取りとめのない世間話が続く。
 
 そして、乗り換えバスが来て、自宅に着いた主人公の家庭の茶の間のシーンのアレコレの会話が続き、ストーリーは展開されていくのだが、上記のシーン以外の全てが頭から消去された。題名、監督、俳優、筋書きETC。全てキレイさっぱり一掃されている。それも早い時期に。後の2本の映画もまったく記憶にない。
ということは、その日上映されていた3本の邦画のなかに、有名な映画や監督、俳優は含まれていなかった可能性が強い。
そもそも、その映画館は古い邦画専門で、ずっとそういうものばかり上映しているので、古い有名な邦画を番組スケジュールに度々乗せることができない。3本とも一般に余り知られていない邦画ばかりというときも度々ある。それでも毎日ほぼ満席状態に詰め掛る観客がいる。
 
 あのボンネットを前に突き出したバスの車内の空気感、乗り換えのバス停の石油缶を囲む人間たちの会話、雰囲気、暗闇に浮かぶ乗り換えのバス停付近のうらぶれた景色に自分の経験した過去を懐かしむというコトもあったが、何処か、何か【戦後日本の原風景】を直接、肌を通して教えてくれているような気がした。
 当時の監督の演出力、俳優の演技力など、諸々を含めて日本映画のレベルは高い水準に達していたから、時代の空気、状況を映像にサラリと自然体で切り取っていたのだと想う。難しい理屈で時代を論じるよりも、映画にその時代の空気感が反映している場合が多い。ソレが可能となるタメには作る側に普遍的レベルの力が要った。
 何気ないシーンに思わずひきつけられたのは当時の映画を作る側に普遍的なモノがあったからだ。
多分、今の表現で言えばB級の家庭モノの映画だったと想う。たいそうな演出も、俳優の力の篭った演技もなくドラマは淡々と進行した。それでいて、何気ないシーンはリアルで時代と人々の醸しだす空気を伝えていた。
 
 この日を境に、わたしは1950年前後、以降の古い日本映画のファンになった
成瀬巳喜男監督の映画にひきつけられていったのはこの映画館通いの結果である。
大向こうをうならせるような大テーマなど私は映画に求めていない。映画に何か大事を期待しない。生きるうえでの何かを得ようとも思わない。感動を求めることも余りない。そういうことだったら、他のコンテンツがある。納得のいく監督の演出、俳優の演技を求めているだけださらに、シーンの何気ない会話、仕草、背景の積み重ねに注目するドラマチックなストーリー展開は求めていない。
以上の尺度はほぼそのまま、小説に適応できる。
前回の記事で安岡章太郎の「ガラスの靴」の評論で大きな論議の方向に話を膨らませていくことに、生理的に受け付けないのも、そういう自分の小説にないする尺度に基づくからだ。
江藤淳の安岡の「海辺の光景」に対する評論への批判にうなづくのも同じ理由からだ。そもそもが、最晩年に素人のようなかなりの枚数の身辺小説というかエッセイしか活字にできないものが、小説家の完成された作品を云々する資格がどの程度あるのだろうか?日本の伝統的な概念に寄りかかって、小説家の苦労してつむぎだした作品の世界の外側から、なできっているだけじゃないか、と怒りさえ湧いてくる。
小林秀雄にしても同類。在り来たりの情景描写しかできないものが、偉そうなことをいうんじゃないよと。
 
 時々、信念のように想う。日本映画黄金時代の作品の中で見捨てられ廃棄された作品の中に数々の見直すべき作品が潜んでいるのでないか。一本の映画をトータルしての評価は勿論ある。人気のある無しもある。しかし、全体の評価とは別の評価の基準もある。これは難しい、一筋縄ではいかない。
 
 かなり前に、街中にある大きな映画館が閉鎖するということで、無料で入館させてくれた。
京まち子、若尾文子佐田啓二大映映画だった。見たことも聴いたこともない映画ばかりだった。じっくりと観察しながらみたが、う~ん、大したことはないな、と残念ながら想った。全部カラー作品で所属の映画スター中心の映画作りだった。演出も、冴えない、テンポが遅い、無駄なシーンが目に付く。画面が暗い。俳優の演技に説得力が乏しい。女優は一言で言ってヘタ、役に相応しい輝きがない。監督の演出力の問題にある、と想った。
大映が映画5社の中で真っ先に経営状態がおかしくなったのは納得できる。アレではキビシイ。
それでも、映画黄金時代の作品に隠れた名作があるという信念は捨てていない。
 
 廃館する映画館の記念上映プログラムの中に大映スター、勝新太郎主演の作品は一本も無かった。
無料で見せるということは、著作権がらみで、無料で見せてもいい作品ばかりを集めてきたのだろう。
 
 と、ココまで強引に勝新太郎主演の、1)「新悪名」、2)兵隊やくざ」シリーズ~新兵隊やくざ、続兵隊やくざ
兵隊7やくざ 脱獄、3)女の中にいる他人成瀬巳喜男を云々するために引っ張ってきた。
が、その時間がない。
新悪名は一本限りで終了するつもりで採った「悪名」原作今東光が好評で、勝新とコンビの相手役の田宮研二はこの作品で鮮烈なデニューを飾り、2作目の「悪名」を採ることになったが、どうしたことか筋書きの成り行きで田宮にいとも簡単に射撃され死ぬシーンを設定してしまった。このシーンは後の西部警察萩原健一以降の抜擢された新人俳優が最期を遂げるネタ元になっている。
悪名の第一作は日本映画史に残る作品だと想う。デビュー作にしては田宮研二の個性は鮮烈、完璧な演技だった。勝新と対等に渡りあっている。表情、全身がも輝いている。しかもそういうやくざもいても良いという実在感がある。多分、監督は、その勢いでいい2作目をモット良い作品にしようとおもって田宮を殺してしまったのだろ想う。
田宮を殺したこの2作が当たって、1)の「新悪名」は生々しい射殺現場のシーンを採ったから、いきなり死んでいなかったでは観客はドッチタケになる。
そこで、田宮の弟が実家を出奔して同じような危ない路に足を踏みいけれていることにした。時代は戦前から敗戦直後に変わった。
結局、スクリーンで殺した片方の主役の弟を演じる田宮にたいする違和感が最後まで尾を引いて、この映画を中途半端な爽快感の乏しいものにしている。脇を固める俳優も前2作ほど、大物が出演していないせいか、シーンに奥行きがない。
 
2)「兵隊」シリーズを見ていると、日本の男優で大向こうの主役を張れるものが一体誰と誰なんだと指折り数えて見たくなった。数人にがぎられて来るのではないか。女優陣は結構多彩で名前が次々に上がってくる。
それだけ俳優、勝新太郎の個性が輝く。兵隊やくざの大宮1等兵の勝新はほかに替われる俳優の絶対的不存在を痛感する。いるとすれば、黒澤作品でコミカルな面も披露した三船敏郎なのだが、勝新の根っからの役者かたぎの大宮1等兵の破天荒振りは演じきれまい。
コンビを組む田宮高広は、躍動で突っ走る勝新と好対照のコントラストを見せている。太陽の光には影が自然にできる。その時々の勝新に丁度フィットする抑えた演技の田村も素晴らしい。思えば、田村高広も出ずっぱりだったが、それに気づかせない。完璧な演技であった。
>兵隊シリーズの隠れたテーマは、日本の軍隊を内側から超えるアンチヒーローの創出である。上官によるビンタは大宮には通用しない。ビンタを食らわし、上下関係を制裁によって、知らしめようする上官は手はしびれてビックリする。叩いても叩いても、耐えていく大宮に叩き疲れて、諦めてしまう。ここにおいて日本軍末端まで至る肉体的秩序は否定されてしまう。
そして軍隊内の極悪非道には蘇った大宮が、軍隊機構を無視して復讐する。
ヒューマニズムが貫かれている。戦う相手は強い者である。弱いものには一切手をかけず、いつの間にやら守っている。
反戦であった。敵との派手な戦闘場面は一切描かれていない。殺し合いの場面がないから死者もいない。ただ日本兵同士の殺害場面は物語の進行上、登場するが、振り返ってみると暴力シーンが多発している割に圧倒的に、死人は出ていない。一作で一人あるかないか。悪人が必ず死ぬのでない、悪人によって、殺されるものがでてくるのだ。
中国人の民間人をゲリラの疑いがあると柱に縛って初年兵を一列に並べて刺殺させるシーンでは田村高広上等兵が前に進み出て、一人のゲリラの疑いのあるものをココで殺しても敵はその憎しみによって何十倍にもなると、敢えて必死に演説させる。「貴様!反軍思想だな」と部隊長が怒鳴り返して、コトの成り行き注目していると、突発事件が発生して、イデオロギー問題に釘付けになることを回避させている。
慰安所は、この物語の軍隊外の、欠かせないシーンとして筋書きの両輪のようなものである。そこに登場する慰安婦の一人が男ばかりの映画を彩るヒロインのような存在になる。
慰安婦たちは全て日本人だが、零落して満州に流れてきた弱者として描かれている。何気ない会話、シーンの中で彼女たちの現状と運命は厳しいものがあると伝えている。
リアルに想定すると、慰安婦は日本人以外の人いたちが多かった、のではないか、といわざるえない。
 
この「兵隊やくざ」や村上春樹「ねじまき鳥のクロニクル」、安岡章太郎の兵隊もの作品、ノーマンメイラー「裸者と死者」、NHKデジタルアーカイブ 兵士たちの戦争 動画 などの各種の資料を刷り合わせて、共通するところは全て、揺るがすことのできない歴史的事実であると考える。修正することはできないということだ。
修正したものを真実にして多くの日本国民の共通認識にすれば、世界の認識とは大幅にずれていくことになる。 
今頃、大勢で、そういうことに熱中するのは時期を失しているというわけだ。歴史の大河の流れに反動として身を任せているだけにしすぎない。敢えて言えば、日本がまだ元気なころに、そうであればまだ救いようがある。修正も効く。もしかしたら何某かのプラスになったかもしれない。
 今頃とはそういう意味だ。
しかし、以降は、そのことによって本人たちの想いとは違って、多数派の日本国民の立場を苦しめることになっている。世界の構造から、そういうことにしか機能しない。
区切りはプラザ合意バブル崩壊前後の時期までだろう。