反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

私小説作家、川崎長太郎「徴用行」引用。フト、那智勝浦のブルースギタリスト濱口祐自さんのトークとギターを想い浮かべた

 【MBS1179】おとなの駄菓子屋 2014.8.3 ゲスト:濱口祐自(ギタリスト) ※生演奏あり!店主、角淳一
途中から、店主、角淳一との一種の掛け合い漫才の雰囲気風に。快調、濱口祐自節にトークのプロ、角淳一、あっけに取られている場面多数。最初から最期まで、生演奏あり、発売CDから「黒いオルフェ」あり、で一気に聴ける。浜口トーク炸裂を引き出した角淳一の話術の引き出しの多さも聴き所。相手を適度に刺激して、積極的な個性を引き出していくところは、言葉は悪いが取調のテクニックのようだ。
中ほどのカントリーぽい生演奏はカントリーファンにとって最高!この線の演奏をできるギタリストって日本にどのくらいいるのだろうか?
私小説的ギタリスト、濱口祐自?
話の中にチラッと、芥川賞作家中上健次http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%8A%E5%81%A5%E6%AC%A1の名が浜口から出たが、中上が故郷の新宮付近に居を移して、地元の人たちと、文化活動などをやり始めた時期と濱口祐自のショーパブ、「バンブーパワー」を開いていた時期が重なる。交流があったのかなかったのか?あるとすれば、どの程度あったのか?も知りたい気もする。この話の中で出てくる目の前に太平洋があって、外向に開けた地元の精神風土も、中上健次関連のエッセーに描かれている。濱口祐自のあり方にもそのことが現れているようだ。自分自身、昔一回りしたこともあった。船上から、見渡したこともあった。
>スタジオ生演奏を聞くと、濱口祐自はライブに素晴らしさがあるじゃないだろうか?
 
ピーターバラカンの番組出演。
新年初ゲスト 濱口祐自(ギタリスト) 久保田麻琴(イベント主催) Barakan Morning 2014

追加参考資料。ギタリスト濱口祐自、を理会するために~。
日本はあらゆる意味で様々、豊穣で広い。
ギタリスト濱口祐自、那智勝浦の天才ギタリスト、濱口祐自とその家族 1990年頃


 サテと~。私小説の世界の探索。戦争×(と)文学 戦時下の青春 集英社2012年発行、
編集委員、解説、<銃後の世界>浅田次郎。バラエティーある面白い短編小説のラインアップだが、そのうちで他のものと色合いが違って、アレと想う短編にであった。
川崎長太郎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E9%95%B7%E5%A4%AA%E9%83%8Eの「徴用行」だった。典型的な生活派の私小説家をまず挙げると、葛西 善蔵その次にあげられるのが川崎長太郎。日本文学全集の私小説作家と取り上げると、そうなるだろう。葛西 善蔵(1887年~1928年)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%96%84%E8%94%B5は小説を地で行く過激人生の果てに40歳で亡くなってしまうが、川崎長太郎は(1901年~1985年)は1977年(昭和52年)第25回菊池寛賞、1978年(昭和53年)神奈川文化賞、1980年(昭和55年)芸術選奨文部大臣賞を受賞する。
 
「徴用行」は小田原の2畳の物置小屋に住みながら、貧乏作家として暮らしていた作家に徴用工の召喚状が来て、友人たちに見送られて、旅立ちを淡々と描いているのだが、いきなり自分の生活状態をサラッと綴っている内容は作家の気取りの全くない、肩の力の抜けきってたもので、余りにもリアル過ぎて、エッと想った。
 「そこまで書いていいの」と想うほどで、貧乏生活をあからさまに淡々とんとつづっているのに、悲惨さは一切なく、何となくユーモラスで、とぼけた味があった。
飄々とした文体のせいなのだろうか、野坂昭如調のような感じだった。
確か、学生時代によく読んだ小説家として、私小説方面の作家の名を挙げており、川崎長太郎の名もその中にあったと記憶する。意外な方向だったので驚いた記憶がある。「徴用行」の前半の文体は野坂昭如とよく似ている。
 
 そのまま何の変哲もない徴用工に招集された作者と友人の見送り道中の描写が続いていくので、邪魔臭くなって、途中で切り上げてそのままにしておいて、別の機会に最後まで読み通すと、コレが予想外に淡々とした中で、盛り上がりを作って、読み物として単純に面白くできていた。
 徴用先に横須賀に向かう途上北鎌倉、下車して、偶然、立ち寄った立ち寄った先の建長寺茶店葛西 善蔵の私小説の<おせい>ものに登場する内縁の妻、浅見ハナ(おせいさん)の実家で、しかも、同行者は昔、葛西 善蔵の書生をしていた際に、質入のカネを全部、使い込んだ過去があり、給仕の女が<おせいさん>じゃないだろうか、などと一瞬疑う面白い秘話がでてきたりして、最期のシーンの横須賀の徴用工場門前まで、とぼけたユーモラス筆致を崩すことがない。
 
 引用
「体格検査の否から徴用礼状がくるまで5日の間があった。~
母親瀬送ってしまえば、私の肩にかかる妻もこと何一つない、年は44になっていながら、20台の青年と異なるところのないような身軽な身空であった。かれこれ5,6年自分ながらよくできたともめてやりたいくらい、私は中気で寝たきりという病人のジモの世話やら、オシメの選択やら、毎日5銭6銭の菓子類から時々花までははオヤツをまくたもとにおいてきて、
コレがなくなってみると、予期したような空虚感より、終戦ということによってほっとした気持ちに似ているよう荷が軽くなった、これからは何の足手まといなく好きなところに飛んでいかれると内心喜んだのであった。
それはそれとして私の懐具合というものはだんだんと心細いものになっていった。
三度三度のものが満足に口に入るわけには行かなかった。
 
~W。以降、戦時下の小田原の食糧事情の資料にしたいような、事細かな生活事情が延々と記されていって、その淡々とした筆致にも何処となく、余裕が感じられるのは過ぎ去った日々を回想しているせいだけではないだろう。作者の人柄か?作風か?
ソレで生活に困って、遂にこういうことになる。
「古道具屋の店先で見つけた50円という李朝の徳利を、ヒトから借りたカネで買ってき、それを金持ちの友人のところへ持って云って100円に売りつけたり
つい食い込んでしまうパンを、パン屋の店先から誤魔化して来る癖がつき、ソレがばれて二度とその店のまえを通れないようなことになってしまったり、
朝日の出ない前に起きて外に出たかと思うと、ついでに他所の家の軒先にしまいわせれてそのままにしてある下駄をそっと失敬したり、
わが身本来のさもしい性ゆえか、貧しさのいたすところか、どの道この分では本物の泥棒になりかねない私の替わりよう堕落振りであった。
とても小説を書いてみるどころの騒ぎでなく、ヘタすれば縄目の恥を晒しそうな土壇場まで来て、徴用はむしろ望むところと想うのも別に不思議はないみたいであった。
徴用になって、工場へなりどこへなりいって働かされれば食えるだけは食える、ということが当時の私の無上の魅力のようなものであった。
 
 20代30代東京にあってやはり貧しい半流浮の月日を送っていたとき、三度の飯だけには時間さえ来ればありつける牢獄を、罪びとの行くところを、娑婆よりいっそ済みよいものと想いなし、「いよいよの段になればそこへ以降、そうすればと、妙な安心のようなもので、己が息切れを沈める役に役立ててきたのであった。
~又体格検査の日野長官には、デカデカと、今後の徴用工員には30歳以上相手イ140円の月収を与えると政府の方針が発表になっていた。行け行けと私は痩せ腰を叩いてみるのであった。
 
 だいたい私は太平洋戦争ののはじめからこの戦争はフォードと国産のダットサンが競争するようなものだとみなしていたし、そこが関が原と睨んでいたサイパンあたりが手もなく落ちてしまってからは、ダメだと決定的に見通しもつき、どうせ負けるにしても上手く負けてくれれば後のたたりが少なくて済む、そんな見方にたっていて、おのずと血を沸かし眼をすえて右往左往する人々とは遠くかけ離れ、いつの間にか憑き物でもとっついた人たちのように彼等が写ると言った次第で、
そんな隔離されたようなところにいる人間に愛国心戦争熱など掻き立てられようはずはなく、ただただ三度のメシを満足に願う卑しさの、
それも持ち前の臆病とモノグサなどから動員署へまで駆け込むまでにこぎつけず、
噂に聴く徴用工のすさみよう、工場の殺伐さ加減、横須賀あたりの海軍関係の工員は腰に鎖をつけないというばかりで、日夜度肩仕事に追い回され、何かというと監督が丸太棒でぶんなぐるという、そんなことを思い合わせると、意気地なく怖気付いて、滅多なことでは後ずさりしてしまう。
 
 又話半分としても、22歳の時からそれまで魚屋として肩に天秤棒と縁が切れてよりこの方、ぼろ背広を着て月給と云うものをもらったのが半年あまり、後はあけて遅れても売れても揺れなくても原稿用紙を前にし、
ペンより重いものを持ったことがないような、見すぎよ過ぎを経てきた心情では、何処へ回されようとも~~。
 
 私という人間はコレまで人なかで苦労をというものをしたためしが余りないのであった。
長い売文渡世にしてから、原稿が飛びように売れたことなど一度もなく~
原稿の持込をするよりも、易いながら月々きまったカネのはってくる通信社の仕事のほうに格好と、牛を馬に乗り換え、自分の才能まで疑いを持ってしまって、創作など慰み半分と考え、おのずと文学仲間との交際を避けるようになり、悪く言えば世捨て人気取りの独善、よくいっても破れた服を着て気ままを愛するといった行き方の、郷里の小屋に引っ込むようになってからはよおけい殻を厚くして娑婆やヒトとの繋がりから遠ざかり、友人も極僅かに、
女房という名のつくものなど、29の秋から翌年の春のはじめまでのやく半年足らず、ホンの僅かな経験もなかった。
 近頃はだんだん赤茶ったたたみ二畳敷いてあるきりの小屋の起き伏しが身についてきて、電灯も蝋燭もないので、早くからは破れ布団にもぐりこみ、鼠の物音を賑わいと聞くといった塩梅の、いづれにしても地道でない生きながら墓穴を掘っているみたいな私が、いやおうなくカラをむしりとられ、いっぺんに剥き身にされ、見ず知らずの人間と朝から晩まで鼻を付き合わせ、同じ職場で働き、同じ飯を食い、同じ枕を並べて眠り~
イケイケ行けばひもじい思いをしなくとも済む」
   
     この前、あたりからの文体は、それまでとちがって簡潔。
「見送りは三人であった。~汽車を大船で乗り換え、時間のあるところから北鎌倉で途中下車し、円覚寺の山門を潜ったり、建長寺を見物したりして、寺の前の茶店に腰を下ろした。
~茶碗を手にしながら
「葛西さんのおせいね。おせいさんのうちじゃないのか」
と私が物好きそうな顔をすると、
「そうかもしれないな」
と瀬川も振り返り茶を持ってきた30がらみのモンペをはいた女をじろじろ見た。
彼は若いころ葛西善蔵三宿時代、三間しかない家に玄関番のような役をしていたころがあり、先生の口述筆記(W、飲酒過多で手が震えて、自分で筆記できない)もすれば、時々質屋の使いまでやらされ、あるときは質草を請け出すべく渡された30何円かを持って質屋に行かず浅草へ突っ走り、酔いなどかって吉原に繰り込み、さすが三宿に帰りかね、私の下宿に転がり込んできたことがあった。
 
「随分長い静養みたいだったからな。2年間人中でもまれてくるのもまた一興かもしれないな。
だが、まるで他人の飯を食ったことがない人間だからな。いわば年くっていても世間知らずの子供だからな。体も体だがー」
瀬川も痛ましいという風に~。
それとは別にたいに、私の手はがつがつとパンをむしり、忙しく口に運んでいるのであった。
W、しばらく会話が続いて
私は最期まで食い物に執着していた。瀬川はよく食えるなあというような呆れた顔つきで、私のほうを向かい側から眺めるのであった。