反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

川崎長太郎の「徴用行」の前回の評価は野坂昭如「火垂(ほたる)の墓」の戯作文調と比較して間違い、と解った。西鶴、「方丈記」まで遡った我流私小説論で、純私小説は歴史資料としての意味しかないとする。

 前回の川崎長太郎「徴用行」を反俗日記の活字にしながら、私小説であろうが何であろうが、作品としての出来映えに疑問を抱いていた。

~なお、野坂昭如「火垂(ほたる)の墓」の劇的シーンを選んだが、時間不足で引用できなかった。次回に回す。
 戦争×(と)文学、戦時下の戦争、各作品の<銃後の苦界>と題する長文の解説文で、「火垂(ほたる)の墓」に次のような最大級の賛辞を送っている。
「永遠不朽の名作」~アニメになり、ドラマになり、おそらくこの作品のストリーを知る人は、日本人全てといって言い過ぎではあるまい。
それでもこの天才の文章を通じて読まなければ、知ったことにならないと思う。
【作者の意図するところであるまいが】、滅び行く母国やあまたの命を、【滅びざる母国語で書きとめた】この作品は、名作というよりも偉業とするべきであろう。」
 
 野坂の作品は過去にリアルタイムで数度読んだことがあり、アニメも知っていたので、敢えて外して他の作品を読んで、この解説文を一読して、浅田次郎の過剰な思い込みだと一蹴するところが多分にあったが、河崎長太郎の前半の戯作文調の背景を調べるために、<「火垂(ほたる)の墓」>を点検してみると、野坂の戯作文調で異常事態を描いたればこそ、小説世界として抜群の効果を発揮したと感得するようになった。
稚拙なブログを書き綴って、新しい<「火垂(ほたる)の墓」>を見方をした思いがする。
 
 ただ、全面、賛美だけではすまされない面もある。
戯作文調によって、間違いなく、人々の大量の血が流れ、亡くなった神戸大空襲の生々しい現実は、清太と幼い恵子のメルヘン的悲惨世界に戯画的に集約された。
 
 何よりも野坂の養子先の「張満谷」一家の家の養父母、養祖母、養妹恵子はすべて、直接の血の繋がりがない他人同士の、稀なケースである。
家族の血のつながりに特殊人間的な価値をみいだす江藤淳が腰を抜かすほどの小説的家族である。
 
 空襲現場でなくなったのは焼夷弾の直撃死と思われる養父だけであり、養母は重傷を負ったが生き残り、養祖母は無傷だった。
恵子を背負って逃げて、以降の物語は、恵子を死なせてしまったこと、死体を焼いたことなどは事実であるが、生き残った養母、養祖母とのその後の関係の事実を捨てることで、完成した作品に仕上げてられている。いわば、アドリブ「私小説」なのである。
 
 この現実について様々な見方ができる。
総力戦の戦争の大空襲の被災の結果、突如一家の大黒柱を失った都会の本質的に孤立的な家族の個々人が当面生き抜かんがために家族的結束の急激な解体的現実に遭遇し、コレに対して周囲は手を差し伸べられなかったのは紛れもない事実であろう。
ココで血のつながりを原因として、持ち出すことは必ずしも、妥当とは言い切れないと考える。
モット現実はシビアーであろう。
 
>大空襲の圧倒的被災の前に、国家地方行政のサービスは麻痺すると、地域の自主的サービス「組織」は機能しなかったに等しい。
隣組等々は国家機構ー行政機構によって、攻撃的な戦争遂行を目的として作り上げられたものであり、その共同性は敗勢過程にあって形式化空洞化していた。ニセものだったというべきだ。
国家は実体的暴力装置を軸に成立しているものであって、国家の実体の暴力装置が解体されていくときは、国家の共同幻想性の縮小していく時である。
だからこそ、国家幻想に依拠する隣組共同体形式化、空洞化した。
ただし、大空襲に身を挺して助け合ったという多数の記録はある。その場合は、個々人の意思が優先した。
 
 国家と行政の戦争による解体していく事態とは、その住民サービスの公的機能を具体的に麻痺させていく期間でもある。
したがって、そうした役割にズルズルと寄りかからずに、自主疎開を実行したもの判断が正しかった。
神戸大空襲は他の空襲地域から順番に実行された結果だった。
「張満谷」の家族は養父が石油卸商の支配人をしていて、日本の敗勢的現実をしっていたにも拘らず、
逃げることを実行しなかったのは、当面の通勤の利便性と疎開の不便を天秤にかけて、判断を先に延ばしていたからだ。教訓として、日本支配層のやることは信用すべきでない。
 
 が、「火垂(ほたる)の墓」を読み返してみて、浅田の見解の中で強調部分を改めて確認した。
原点を見失わないように、ぜひ日記に残しておきたい。戯作文調の文体が絶妙の効果を発揮している、日本文学史上に残る不朽の名作と思った。

 実はあのような生半可な短編小説を濱口祐自(ギタリスト)サンという現在進行形の生身の世界と同列に置くことに躊躇を覚えた。浜口さんに失礼ということも強く意識していたが、小説作品の否定的部分に無理やり眼を瞑って、そのまま載せててしまった。
 
 具体的に云えば、次の表現は生半可な短編小説である、という実証の糸口になる。
コレ(W,母親)がなくなってみると、予期したような空虚感より、終戦ということによってほっとした気持ちに似ているよう荷が軽くなったこれからは何の足手まといなく好きなところに飛んでいかれると内心喜んだのであった。」の強調下線部分を活字にするときは、最初、下線をいれて、この作品が戦後、かなりの時を経てかかれたものと、キチンと指摘するつもりであった。
 
 次のような表現の下線はそのままにしたが、コレとあわせての直感であった。
自分ながらよくできたともめてやりたいくらい
この表現は少なくとも、1970年以降に使われだしたもので、それ以前、日常会話としても、小説表現としても、自分の記憶ない。日本語の本質的な表現方法としても、不自然なものである。
それまでの大衆的社会状況がリバタリアン的ミィーイズムに翼を広げ蛸を背景に、このような日本語として不自然な表現法が台頭し浸透したとも、想定する。
 
 したがって、二つの字句から、結論的に云えば、前回の記事でも問題にしたが、
徴用に狩り出されるまでの日常生活を回顧した前半から中盤初期の戯作文調は、野坂昭如の「ほたるの墓」などの、初期作品に多用された文体の模倣で、見送り同行者との行動を描いた、その後の文体が、川崎長太郎、本来の文体である、と前回の野坂の文体は川崎をまねたものでないだろうかという推測を取り消して、今回はその逆を断定する。
 そもそも、上記に挙げた事情のみならず、川崎の使用する戯作文調は、こなれていない不自然さが付きまとって、読者が戦時下という強い門題意識を持っていないと、読み辛いものである
 
 そういう文体を使用することで、徴用に狩り出されるまでの小田原の2畳の物置小屋に引きこもりがちな私小説家人生と社会情勢をパロディー化したのだ(せざる得なかった)。
 
 一編の短編小説の全く異なった二つの文体の使用は、短編小説して不自然なことであるし、作家としての資質そのものに疑問を抱かせるものである。
それは、この短編が書かれたと推測される1970年代中期以降とすれば、この作家が戦前からの長いキャリアを持つ人であることから、もなお一層その想い強くする。
 
 戦争×(と)文学シリーズ集英社2012年発行、戦時下の青春に所録されている野坂昭如の「ほたるの墓」の全編を点検すると、戯作文調の文体は一度も崩れることもなく終始一貫している。
劇的場面では戯作文調の文体に、差し挟まれた清太と恵子の素朴な会話がシーンの劇的効果を際ださせている。
戯作文調の文体を使用することによって、逆にあの中編に描かれた全ての情景が読者に圧倒的な臨場感を持って迫ってくるから、不思議である。小説のマジックだ。


 元々、若いころはアナーキストでもあったこの私小説家は葛西(1928年死)のように社会情勢とのつながない、<私と周辺>を描くことに時代的に埋没できず、
また戦時体制の圧迫下で、永井荷風のような暴力的外部環境を遮断したディレッタント的生活世界に立て篭もる物的精神的背景もなく、
徴用に狩り出される現状に至る自身と戦時社会の原因と結果のあり様を熟知しがら、44歳で「徴用」召集令状に狩り出される自分を、パロディー化して描き出すしか方法がなかった。
 
 1970年中期以降、と仮定すると、この問題は作家としての資質はもとより、極端に言えば、日本の純私小説作家の最大の限界を指し示している、様な気がしてならない。
 
 葛西善蔵の「子を連れて」も、家財道具一切を質入して得たカネでバーに飛び込んで二人の子供にエビフライを食わせ、自分は酒を飲み続けるために、外にやった子供たちがかくれんぼに飽きて、バーの窓から、飲み続ける葛西を覗き見ては、又かくれんぼを再会するという、圧巻の悲しいシーンの情感描写以外は、単なる親として、失格の自分をさらけ出したものであり、短編作品の完成度に疑問を残す。
そういう日常性がどうしたというのだ、ということだ。小説として
なお、このシーンに作家の荒れた生活の中にも親子のつながりを見るブログ記事があるが、見当違いもいいところである。
このとき二人の子供は心に深い傷を負った、と想像するのが、どうだろうか?トラウマである。
葛西的私小説家は自らを実人性の特殊演技者とすることで小説世界を構築している。
実人性⇔私小説の関係で、元々小説世界は社会関係の変転から切断されているのだから、実人性を破滅的に暴走させてしまうことが、小説表現の材料として、読者評判において、必然化するのである。
表現と人性の即時的に直結した、自作自演である。
 であるから、子供たちにもトラウマを与えることも必然化する。
そしてそこまでして獲得した小説の真価が問われる。
私は葛西の生まれてからの境遇を勘案して、芸術至上主義などという高尚なものでなく、己の非才、無教養を是正する地道な努力を放棄し隠蔽し、当時の日本資本主義体制下に隆盛しようとしていた出版資本の興味本位な要請に甘えているものと思う。一種のキワモノ小説じゃないかと思う。


 川崎が事細かな生活実態を戯作文調に綴るとき、リアリズム的実証性の立場から実態を描く時に生じる、重苦しさを、回避できるのである。只それだけの効果しか発揮していない。


が、そういう散文の形式は井原西鶴以降の日本語散文技法のひとつである。
好色一代男」のあり得ない天性の色道、探求者の世の介の存在の荒唐無稽さが妙なリアリティーを持つのは西鶴独特の戯作文によるところが大きい。作家の力量によってそういう不思議な物語世界が可能になる。
世の介の連続短編世界は西鶴独自の乾いた戯作文によって、まともにに考える執拗に続く辟易する状態をリアリティーある人間的な物象の世界にできたから、一種痛快な面白い読み物になった。


 この現象は究極的にいえば、日本語の散文の最大の特徴といえよう。
リアルな個人と社会のあり様を自然の風景のように描き出すことで、インパクトのある情緒を引き出すことは、日本語よりは論理的な文法で、欧米語よりは非論理的な漢文を、列島原住民の実際に使用する言葉に適応させることによって可能になった。
 
 日本の文学を屹立させた源氏物語を筆頭とする中世文学そのものが全部、自然と、この技法に寄るしかなかった。
 
 川崎長太郎の前半の戯作文調のある部分を読んでいると、一瞬、「方丈記」モドキの一説を読んでいるようなきがした。
想えば、「方丈記は列島原住民の自然素朴信仰的解釈を施した仏教思想に基づいて、世間から隔離された清貧環境に、生身の人性を置き、得意の文芸手段を突破口に、人性にリアル必然的に内在する葛藤を、風景=光景への目的意識的な風化解消に徹底し、その希求、徹底行動の成就した内的定在を解脱世界の獲得とする、ものであった。


 日本的散文の伝統的な社会の葛藤の風景化、情緒実感化の世界にどっぷりとつかってきた私小説作家川崎には、「リアリズム的実証性の立場から当時の自分と社会の実態」を適切客観的に小説に表現する技術(習慣といってもよい)はなかった。
 
 「徴用行」は戦時の国家総動員法に基づく統制経済といいながら、物資不足から来る急激な物価高騰などを庶民に犠牲的に転嫁する実態をリアルに描いた戦時資料として価値をみいせるものであって、小説作品としては致命的な欠陥のある失敗作である。
前半の文体と後半の文体がまるっきり異質であることなど、完成度の高い短編ではあり得ないことである。
そして、葛西、川崎のような私小説作家には、歴史資料という価値だけを見出したらよいと思うようになった。
探索は時間の無駄。止めた。