反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

野坂昭如著「火垂(ほた)るの墓」~ポイント抜書き続編~<追記>は野坂「アドリブ自叙伝」とA判B判の規格と日本語小説単行本の利点について。

 (W、疎開先の小母さん)「よろし、ご飯別々にしましょ。それやったら文句ないでしょ。それで清太さん、あんたとこ東京に親戚いているんでしょ、おかあさんの実家で~」


              野坂昭如著「火垂(ほた)るの墓」続編


 朝夕七輪借りて飯を炊き、お菜はタコ草の茎のおひたし、池のタニシの佃煮やスルメを戻して煮たり、「ええよ、そんなにきちんとすわらんでも」節子は貧しい、お膳もなく畳にじかにおいた茶碗に向かうと、以前のしつけのまま正座し、うっかり食後、清太がねころぶと「牛になるよ」注意した。
 
 台所を別にすれば、気はらくだが万事いきとどかず、何処でうつったのか、黄楊の櫛ですけば節子の髪から虱(しらみ)やその卵がころげおち、うっかり干すと「敵機に見つかりまっせ」未亡人に嫌がらせを言われる洗濯も、必死に心がけているのだが、なにやら垢じみてきて、何よりも風呂を絶たれ、戦争は三日に一度、燃料持参でようやく入れてくれ、これもおっくうになり勝ち、昼間は夙川駅前の古本屋で母のとっていた婦人雑誌を買って、寝転んで読み、警報が鳴ると、ソレが大編隊とラジオが報ずれば、とてもなかなか壕に入る気はせず、節子ひっちょて、池の先にある深い壕へ逃げ込み、これがまた未亡人はじめ、戦災孤児に飽きた近隣の悪評を買う、清太の年なら市民防火活動の中心たるべしというのだが、一度あの落下音と火足の速さを肌で知れば、一機二機はともかく、編隊に立ち向かう気は毛頭ない。


 7月6日、梅雨の名のこりの雨の中をB29が明石を襲い、清太と節子、横穴の中で、雨脚の池に描く波紋をボンヤリ眺め、節子は常に話さぬ人形抱いて、「おうちに帰りたいわあ、小母さんとこもういやや」およそ不平をコレまで言わなかったのに、なきべそかいていい、「お家焼けてしもうたもん、あれへん」しかし、未亡人の家にこれ以上長くいられないだろう、夜、節子が夢に震えて泣き声立てると、待ち構えていたように未亡人やってきて、「こいさんも兄さんもお国のために働いてるんでっさかい、せめてあんた泣かせんようにしたらどないやの、うるそうて寝られへん」ピシャリと襖を閉め、その剣幕にますます泣きじゃくる節子を連れ、夜道に出ると相変わらずの蛍で、いっそ節子さえおらなんだら、一瞬かんがえるが、直ぐに背中で寝付くその姿、気のせいか目方もぐんと軽くなり、額や腕、蚊に食われ放題、引っかけば膿む。
 少し前に未亡人が外出したから、娘の古いオルガンをあけ~その一番初めに習った鯉のぼりの唄を、おぼつかなくひき、節子とうたっていると、「よしなさい、この戦時中になんですか、怒られるのは小母さんですよ、非常識な」いつの間に帰ったのか怒鳴りたて、「ほんまにえらい疫病神が舞い込んできたもんや、空襲いうたって役に立たんし、そんなに命惜しいねんやったら、横穴に済んどったらええのに」


「あんなあ、ここお家にしようか。この横穴やったら誰もけえへんし、節子と二人だけで好きにできるよ」
~警報解除になると、何も云わず荷物をまとめ、「えらいながいことお邪魔しました、ぼく等よそに移ります」「よそて、何処に行くの」「まだはっきりしませんけど」「はあ、まあ気ィつけてな、節ちゃんさいなら」とってつけたような笑顔うかべ、さっさと奥へひっこむ。
~改めて見れば只の洞穴、ココへ住むかと思うと気がめいったが、~何より節子がはしゃぎまわり、「ここがお台所、ここが玄関」ふっと困ったように「はばかりはどこにするのん?」「ええやんどこでも、兄ちゃんついてったるさかい」藁に上にちゅこんとすわって、父が「このこは、きっとろうたけたシャンになるぞ」そのろうたけたの意味がわからず尋ねると、「そうだなあ、品がいいってことかな」確かに品よく、さらにあわれだった。


 散歩しようかと、寝苦しいまま表に出て二人連れ小便して、その上を赤と青の標識点滅させた日本機が西に向かう「あれ特攻やで」ふ~んと意味わからぬながら節子うなずき、「蛍みたいやね」「そうやなあ」そして、そや、蛍捕まえて蚊帳の中に入れたら、少し明るくなるのとちゃうか~手当たり次第につかまえて、蚊帳の中に放つと、五つ六つゆらゆらと光が走り、蚊帳にとまって息づき、よしと、おおよそ百余り、とうていお互いに顔は見えないが、心が落ち着き、その緩やかな動きを追ううち、夢に引き込また、~
 
 朝になると、蛍の半分は死んで落ち、「節子はその死骸を壕の入り口に埋めた、「何しとんねん」「蛍のお墓つくてんねん」うつむいたまま、お母ちゃんお墓に中にいてるねんて」はじめて清太、涙がにじみ、「いつかお墓にいこな、節子覚えてへんか、布引の近くの春日野墓地いったことあるやろ、あしこにいてはるわ、お母ちゃん」
楠の下の、小さい墓で、そや、このお骨もあすこに入れなお母ちゃん浮かばれへん。


 母の着物を農家で米に買え、~枯れ木を拾って米を炊き、塩気が足りぬと海水を汲み、道すがらB51に狙われたりしたが、平穏な日々、夜は蛍に見守られ、壕のあけくれになれたが、清太両手の指の間に湿疹ができ、節子も次第に衰えた。夜を選んで貯水池に入り、タニシ拾いつつ体を洗ってやる節子の貝殻骨、助骨、日毎に浮き出し「ようけ食べなあかんで」食用蛙とれんもんか鳴き騒ぐあたりを見据えたが、すべはなく、食べなあかんといっても、母の着物ははや底をつき、タマゴ1個3円、油一升100円、牛肉100匁20円、米1升25円の闇は、ルートつかねば高嶺の花。
 
 都会が近いから農家もずるく、金では米を売らず、たちまち大豆入り雑炊に逆戻りして、
7月末になると節子疥癬(かいせん)にかかり、蚤虱はいかに取りつくしたつもりでも翌朝又ビッシリ縫い目にはびこり、~やがて体がだるいのか海へ行く時も、「待ってるわ」人形抱いて寝転び、清太は外に出ると、必ず家庭菜園の小指ほどのキュウリ、青いトマトを盗みもいで、節子に食べさせ、あるときは、五つ六つの男の子、まるで宝物のようなリンゴをかじっているから、コレをかっぱらって駆け戻り、「節子、りんごやでさ食べ」さすがの節子、目をかがやかせてかぶりついたが、すぐにこれはちがうといい、清太が歯を当ててみると、皮をむいた生の甘藷(サツマイモ)で、なまじぬか喜びさせられたからか、節子涙を浮かべ「芋かてええやないか、はよ食べ、食べんねんやったら兄ちゃんもらうで」つよい口調でいったが、清太も鼻声になる。


 7月31日の夜、野荒しのうちに警報がなり、かまわず芋を掘り続けると、直ぐそばの露天の壕があって、退避していた農夫に発見され、さんざなぐりつけられ、解除と共に横穴へ引っ立てられて、煮物にするつもりで残しておいた芋の葉が懐中電灯に照らされて、動かぬ証拠、「すいません堪忍してください」震える節子の前で、手をついて農夫にわびたが許されず「妹病気なんです、ぼくおらな、どないもんまりません」「なにぬかす、戦時下の野荒しは重罪やねんど」足払いかけて倒され、背筋を掴まれて「さっさと歩かんかい、ブタ箱入りじゃ」だが交番のお巡りはのんびりと「今夜の空襲福井らしいなあ」いきり立つ農夫をなだめ説教したが直ぐ許して、表に出るとそうやってついてきたのか節子がいた。
 壕に戻って泣き続ける清太を節子は背中をさするながら、「どこ痛いのん、いかんねえ、お医者さん呼んで注射してもらわな」母の口調で言う。


 8月に入ると連日艦載機がらいしゅうし、空襲警報を待って、盗みにでかけた、~~
 
 だがこの年、稲作不良の気配に、いち早く百姓は売り惜しみをはじめ、さすが近所はばかられたから、西宮北口、仁川(にかわ)まで探し求めて、せいぜいトマト枝豆さやいんげん
節子は下痢が止まらず、右半身透き通るよう色白で、左は疥癬にただれ切り、海水で洗えば、しみて泣くだけ。
夙川駅前の医者を訪れても「滋養をつけることですな」申し訳に聴診器胸にあて、薬もよこさず~~。
 
 抱きかかえて、歩くたびに首がぐらぐら動き、どこに行くにも離さぬ人形すら、もう抱く力なく、いや人形の真っ黒に汚れたその手足の方が、節子よりふくよかで、夙川の堤防に、清太座り込み、そのそばで、リヤカーに氷を積んだ男シャッシャッと氷をのこぎりでひき、その削りカス拾って、節子の唇に含ませる。
「腹減ったなあ」「うん」「なに食べたい?」「てんぷらにな、おつくりにな、ところ天」~
「もうないか」食べたいもんいえ、味を思い出すだけでもマシやんか、道頓堀へ芝居見に行って帰りに食べた丸方の魚すき~考えるうち、そや節子に滋養つけさせんならん、たまらなく苛立ち、再び抱き上げて壕に戻る。


 横になって人形を抱き、うとうと寝入る節子をながめ、指切って血ィのましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさしたろか、「節子、髪うるさいやろ」髪の毛だけは生命に満ちてのびしげり、起して三つ編みに編むと、「掻き分ける指に虱がふれ、「兄ちゃん、おおきに」髪をまとめると、改めて眼窩(がんか)のくぼみが目立つ。
 
*節子はなにを思ったのか、手近の石ころ二つ拾い、「兄ちゃん、どうぞ」「なんや」「御飯や、おちゃもほしいい?」急に元気よく「それからオカラたいたんもあげましょうね」ままごとのように、土くれ石くれをならべ、「どうど、お上がり、食べへんのん?」


8月22日昼貯水池で泳いで壕に戻ると、節子は死んでいた
骨と皮にやせ衰え、そのまえニ、三日は声も立てず、大きなアリが顔に這い登っても這い落とすこともできず、ただ夜の、蛍の光を眼で追うらしく、「上いった下いったアッとまった」低くつぶやき、清太は一週間前、敗戦と決まったとき、~~「お父ちゃん死んだ、お父ちゃんも死んだ」と母の死よりもはるかに実感があり、いよいよ節子と二人、生きき続けていかんならん心の張りが全く失せて、もうどうでもええよという気持ち。


 夜になると嵐、清太は壕の暗闇にうずくまり、節子の亡骸膝に乗せ、うとうとねむっても、すぐ眼覚めて、その髪の毛をなで続け、既に冷え切った額に自分の額おしつけ、涙は出ぬ。ゴゥと吠え、木の葉激しく揺り動かし、荒れ狂う嵐の中に、ふと節子の泣き声が聞こえるように思った。


 翌日、台風過ぎてにわかに秋の色深めた空の、一点曇りなく陽ざしを浴び、清太は節子を抱いて山に登る、
市役所に頼むと、火葬場は満員で、一週間前のがまだ始末できんといわれ木炭一表の特配だけうけ、
「子供さんやったら、お寺の角など借りて焼かせてもらい、裸にしてな、大豆の殻で火ィつけるとうまいこともえるわ」なれているらしく、配給所の男おしえてくれた。
 
*満池谷見下ろす丘に穴を掘り、行李に節子をおさめて、人形、がま口、下着一切をまわりにつめ、言われた通り大豆の殻を敷き枯れ木をならべ、木炭ぶちまけた上に行李をのせ、硫黄の付け木に火をうつしほうりこむと、大豆殻パチパチとはぜつつ燃え上がり煙たゆとうとみるみるうち一筋いきおいよく空に向かい、清太、便意をもよおして、その焔ながめつつしゃがみこむ、清太にも慢性の下痢が襲い掛かっていた。
 
*暮れるに従って、風の度に低くうなりながら木炭は赤い色を揺らめかせ、夕空には星、そして見下せば、二日前から灯火管制の解けた谷あいに家並み、ちらほら懐かしい明かりが見えて、四年前、父の従弟の結婚について、候補者の身元調べるため母とこのあたりを歩き、遠くあの未亡人の家を眺めた記憶と、いささかも変わるところはない。


*夜更けに火が燃え尽き、骨を疲労にも暗がりで見当付かず、そのまま穴の傍らに横たわり、周囲はおびただしい蛍の群れ、だが清太は手にとることもできず、これやったら節子さびしないやろ、蛍がついているもんなあ、上がったり下がったり、ついと横に走ったり、もうじき蛍もおらんようになるけど、蛍と一緒に天国へ行き。
暁に目覚め、白い骨、それはローセキのかけらの如く細く砕けていたが、集めて山を降り、未亡人の家の裏の露天の防空壕の中に、多分、清太の忘れたのを捨てたのだろう、水につかって母の長じゅばん腰紐が丸まっていたから、拾い上げて、ひっかついで、そのまま壕にはもどらなかった。


昭和20年9月22日午後、三宮駅構内で野垂れ死にした清太は、他に二三十あった浮浪児のしたいと共に、布引の上の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へ納められた
 
                                            【終了】
 


          <追記>
 安岡章太郎「ガラスの靴」の記事にも書いたが、名作といわれる小説は、アレコレの理屈を超越したところに作品世界が独立世界が展開されているわけで、素直にそのまま味わったほうが良い。
下手な解釈、中途半端な解釈を施すのは無粋というものだ。勿論、作品鑑賞には対象から離れた位置から、俯瞰するという視点も必要だが、その場合も、作品の世界に入りこんで、客観的に見ていくことが大切なのじゃないかと思う。
そういう意味で、反俗日記  2014/9/7(日) 午後 4:01
   タイトル
川崎長太郎の「徴用行」の前回の評価は野坂昭如「火垂(ほたる)の墓」の戯作文調と比較して間違い、と解った。西鶴、「方丈記」まで遡った我流私小説論で、純私小説は歴史資料としての意味しかないとする。」
における、
野坂昭如関連の記述は、深く考えることなく、書いてしまったな、と「火垂(ほた)るの墓」をコツコツと書き写しながら、おもった。書き写しながら、何か厳粛な気持ちになる。いつものように、キーボードの打ち間違いや乱文、誤字脱字はそのまま放置してはいけない。
 それで、滅多にないことだが、集中力を持って、「火垂(ほた)るの墓」書き写しを点検した。キチンと作品世界に向き合いたい一心というか、いつものようでは「火垂(ほた)るの墓」の世界に失礼である、と。
それでも、ミスはかなり放置のままだ。
修正はそこまで、主義だ。
 
 
2014/9/7(日) 午後 4:01に指摘するような観点から「火垂(ほた)るの墓」に向き合う場合、この小説世界を作家として円熟期に達した野坂が当時の様々な客観的資料や現地取材など、視野を広げた実証主義の立場で綴った「アドリブ自叙伝」を読むのが適切であろう。文庫本になっているかどうかはわからないが、大きな図書館の野坂関連の全集には必ず収録されている。
 コレもある種の名作で、「火垂(ほた)るの墓」的世界は排除されているが、その背景や、実情を知り、阪神工業地帯の変転、当時の住民のリアルな生活環境などをしる歴史資料としても面白く読めるものとなっている。
 この小説の背景や実情について、イロイロな指摘があるが、「アドリブ自叙伝」にまず眼を通すことが、公平で適切である。
 
 グーグルの地図で物語の舞台の位置関係を想像するのも一興である。
野坂の養子先、の「張満谷」(はりまや)家は、当時の神戸市街地から見ると、郊外であって、もう少し西宮よりに六甲山方面に上がったところは灘の銘酒の酒蔵が国道沿いに軒を連ねているが、現状の私鉄、JRの駅で云えば、神戸市の中心地、三宮から三、四駅しか離れていない。
六甲山から海岸線に傾斜していく地理からみると、「張満谷」(はりまや)家の町内は比較的海岸よりに立地する。野坂が罹災するまで養父は一度だけ転居しているが、近在に移っただけである。
当たり一帯は新興市民階層が適切な住環境を求めて住み着いた、市街地の続きのような郊外である
 
 灘の銘酒の酒蔵も近在にあって、教育熱心な地域である。付近には、当時は公立高校に進学の適わなかった子弟の通う灘高校もあったし、今もある。
 同時にこの地域は、今でもその傾向にあるが、肉体労働者、被差別者、外国籍のひとたちの集住地域もある。
基本的に海岸線に近寄るほど、そういう傾向にある。
海岸の方面は、財閥系の大工場を中心としたは阪神工業地帯あり、そこに働く肉体労働者も多い。
 
 以上のような生活環境は、当時の日本としては、典型的な都会的に洗練された地域といえよう。
同時に、工業地帯だから、その関連で働く労働者などは多い
さらに、六甲山系やそこを水源地とする川の流れ、海岸線など自然環境にも恵まれている。 
 
 「アドリブ自叙伝」はこの環境に育っていく養子の昭如少年と養父母、養祖母の家庭環境にかなり重点が置かれている。
「張満谷」(はりまや)家は祖母夫妻に子供が生まれず、養子にした昭如の養父の妻にも子供がなく、その家庭の東京の親戚筋から昭如はもの心付かないうちに養子になった確率的に珍しい家庭である
実父は秀才兄弟の一人で高級官僚である。
 
 養母と養祖母は共に気の強い性格で、家の中では独特の関係が続き、家庭の構成員すべてに直系のつながりがない、ことからか一般的ないわゆる家庭的雰囲気ではなく少年昭如は、そういう家庭環境にどうしても神経を尖らせてしまう。養母と養祖母がいきり立ってさや当てのように襖やドアをバタンと閉める度にギクッとするような状態だった。
 養父は、昭如少年にとって連れ立って歩いているときに、誇らしく思うほど、目立つくらいの、長身で身なりのセンスのいいヒトだった。典型的な大正モダンボーイか?自叙伝によれば、権威主義的なところのない捌けた人である。
玩具、読み物は、望めば与えられる恵まれた環境にあった。
義理の妹節子は昭如と10歳以上年齢差がある。自叙伝によれば、ある程度、成長して時点で養女になった。
昭如は一人っ子同然の環境で育った。
 
 そういうことで、ある意味では昭如の罹災環境は小説「火垂(ほた)るの墓」に描かれた世界よりも複雑で重いものがある、といわなければならない。
事実は小説よりも奇なり、なのである。
アドリブ自叙伝を読んで、それを知っていることもあって、2014/9/7(日) 午後 4:01は拙かった、とする。


  なお、書き写しはどうしても小説の筋書きを辿っていくことに焦点が合わさって、野坂が独特の筆致で、生々しい罹災状況や文中にさりげなく当時の社会状況を埋め込んだ部分は、拾いこむことができなかった
その結果、書き写したものは小説世界としては、奥行きがないモノとなってしまった。名作の短編、中編小説は、それ自身で完璧な世界であって、切り取ったりするとその価値が必ず低下する。
アニメ「火垂(ほた)るの墓」を最悪の活字にしたようなものになってしまった。


 それと書き写したものを改めて読んで、次のようなことを考えてみた。
まず、井原西鶴の戯作文の代表作「好色一代男」の現代語訳で戯作文とは、どういうものか確認してみた
一言でいえば、まさに野坂昭如調のご本尊である。もっと描写が綿密にできる文体である


 それから、ブログに書き写すと縦書きが横書きになるわけで、そのことによって、日本語小説から情緒や感情が減滅されているように直感した横書きにすると、縦の活字文章の「火垂(ほた)るの墓」の感動が薄れるような気がした。コレは横書きに慣れたら、済むという問題ではないように感じる。


 そこで、この角度からの問題意識を持って、イロイロ調べてみた。
下記に示す記事は横書きで統一したらどうか、という主旨のようだが、この問題の奥底は日本語の本質に関わる、モット根深いものがある、と考える。
わたしは、「統一」の必要はないし、無理なんだ、という意見である。
 
最近、書籍について思っていること電子書籍の規格は今まさにいろいろと決まったり、練られたりしているところだ。過渡期なのでい...
 
 次のような視点からも考えてみる。日本語文章の特徴は横書き表音文字と比べて縦に連続でき、その間に感覚が中断しないという利点がある。細かいことだが、文章は積み重なっているわけだから、その総和の影響力は大きい。
「火垂(ほた)るの墓」は縦書きで読むから、感動する面がある。コレは横書きへの慣れの問題に解消できない日本語の利点である。
 
     資料1。なぜハンパなサイズ?用紙サイズ A4・B4のなるほど!
この記事を読む前から、しきりに物差しで「火垂(ほた)るの墓」の収録されている本の縦横の長さを測っていた。
     資料2。本のサイズ(判型)と本の種類  株式会社第一印刷
 そして、√2は1,4~だから、日本語の単行本の縦書きの文字は横書きの約1,4倍長い。また表音文字でないから、連ねられる。感情表現にピッタリだ。確かに論理的な表現には、不便だが。
     資料3。2の平方根
 そもそも、B判サイズの原点が「日本の美濃紙をもとに面積が1.5平方メートルの「ルート長方形」をB0とした国内規格サイズ」などと簡単に言い切っているが、その美濃紙サイズができたのは何時頃のことか?
日本の正式文章は巻物状に表されていた。絵が伴えば文字が読めないヒトにも、筋道が解る便利な絵巻物になる。    

それで結論は、
 「日本語文章の特徴を生かし、読み手にとっての利便性という意味でも、縦書きは絶対的に必要である。」
 
日本語は簡素化する必要があるが、利点は絶対的にあるから、なくすべきない。
時と場合を区別して使い分けたらいい。
安岡章太郎野坂昭如を読んできたものとして、小説、エッセー類は日本語の方が適しているような気がする。
 
 例えば、コレをジィート眺めると、日本の方が、格好は悪いが含みを持たせることが出来るような気がする
この方は英文の表現に同調しているようだが、、英文や中文は、含みを持たせないそのまんま、ではないのかと想ってしまう。なお、今の中国本土、中文では漢字の簡略表現を使うので、現地の若いヒトにコレで通じるかどうか?台湾ではまるっきりOK。
 
       トルストイ 『アンナ・カレーニナ
「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」。
「英訳(1901年)“Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way.”
「中国語の訳、幸福的家庭都是相似的,不幸的家庭各有各的不幸」
                              幸福な家庭と不幸な家庭  西村 徹

       【ジョン・ハモンド】 ウィキペディア
 感慨深いものがある。
WASPには市民としての職業人の降臨はあったが、日本支配層に降臨はなかった。従って、そういう成果も皆無だった。聞いた事がない。せいぜい文学方面の志賀直哉武者小路実篤、有島兄弟(有島武郎、里見惇)等の文学の白樺派か?
 
安部が「美しい国へ」でいうアメリカ、=成功した実験国家論は文明文化論としても、矮小すぎて大間違い、自分の偏狭な列島原住民的目玉から判断しているだけだ。
 日本に本当の貴族は歴史の途上で、存在しいようになった。(安岡章太郎全集、志賀直哉私論編)
近代化は一面的軍事国家化だった。そのように見えない、勘違いの時期があったが、それは特殊条件に恵まれていたが故であった。特殊条件が取り払われると、本質が露呈した。
 この論理は今も適応できる。