反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

偶々、谷崎潤一郎「小さな王国」にであった。イロイロな解釈可能な傑作。谷崎はストーリーテラーでもあった。芥川「鼠小僧次郎吉」との比較。

ということで、偶々「小さな王国」を読んだ。岩波文庫別冊20ポケットアンソロジー 生の深みを覗く、2010年発行。
 確か、芥川龍之介の「鼠小僧次郎吉」に偶々、出会ったのも、このシリーズで、未だに芥川、最大の傑作ではないか、と思い込んでいる。
 谷崎潤一郎の「小さな王国」は芥川の「鼠小僧次郎吉」とは全く違った子供の世界の物語ではあるが、子供やうら若い女性にスポットライトを当てて、物語を進行させると、シンプルな筋書きのなかで、様々な細工が可能となり、スリリングな物語の展開にし易い、という特性を生かしている。

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 簡単に書けばそういうことなんだけど、コレを論じるに足りる文芸作品とするのは並大抵のことではない。特殊技能が要る。安岡章太郎のいう名人芸である。
*それを評論することも実に骨の折れる作業なんだと、今回始めてわかった。谷崎潤一郎の「小さな王国」文庫本43ページの読み方に、自分と後に揚げる人たちの間には、余りにも大きな違いがありすぎる。
ということは論者個人の資質が表面に晒されたということだ。こんなことは他の分野にない。論評の対象が長々とこってり書く所を特殊技能、名人芸で表現できる、ところにもある。
 例えば、「小さな王国」の次のような表現。物語の一方の主人公、沼倉少年の登場場面である。
「貝島がM市へ着てからちょうど二年目の春の話である。D小学校の四月の学期の変わり目から、彼の受け持っている尋常五年学級へ、新しく入学した一人の生徒があった。
顔の四角な、色の黒い恐ろしく大きな巾着頭のところどころ白雲のできている、憂鬱な眼角な、ずんぐり肩の円い太った少年で、名前を沼倉庄吉といった。なんでも近頃M市の一家に立てられた製糸工場へ、東京から流れ込んできたらしい職工のせがれで、裕福な家の子ではないことは、卑しい顔立ちやあかじみた服装によっても明らかだった。」
W。何の変哲もない平易な言葉を使って描写もシンプルだが、文章全体の繋がりから描き出された沼倉少年の輪郭は実に明確に読者に浮かび上がってくる。
この摩訶不思議現象によって物語が出来上がっているから、解釈の幅が広がって、結果、評者の個性が表面化する。

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 沼倉少年の統率力に導かれた共同幻想共同体は、常識に埋もれた大人世界からすると、一見非常に違和感のある異常特殊世界に見えるが、その子供世界を貝島が次第に解って行き、沼倉少年の個人に興味を抱き、その子供幻想共同体の稀に見る全貌を理会し肯定さえしていく。教師体験に自負を持つ教師、では全く押し計れなかった子供世界が物語として、次第に明らかになっていくという展開はスリリングであり、一種のサスペンスタッチである。
 そういう面では、芥川の「鼠小僧次郎吉」と物語の中身は全く違うが、<起><承><転><結>の間の取り方はそっくりだ。
文庫本で、たっぷり43ページ、結構長く、中編に近いものである。
 
 その全体の43ページの冒頭の6ページは、当時の自然主義文学調で<私>とその環境を描くことに徹することで、一方の中心人物で、物語の舞台回しの役割の、御茶ノ水尋常師範学校出の小学校教員、貝島の出自、人物像や、家庭環境から東京から離れた理由を、浮かび上がらせている。
この描き方は実に巧みで、以降の物語が貝島の視点で進行することに違和感なく同調させ、読者=貝島の視点の如く錯覚させる。この冒頭の筆力で読者を掴んで離さず、これから始まる小説の世界に巻き込んでいく。
この6ページはこの小説のキーポイントである。
 
 M市の尋常小学校に転勤して以降の物語はそういった貝島の教員歴から、未だに体験したことのない不思議なことの連続であり、谷崎の筆力で、貝島の視点に自然に立たされた読者にとっても、底流にサスペンス調をおびた状況にグイグイ引っ張られていく。
 
  先回りして云えば、谷崎の「小さな王国」の冒頭の6ページは芥川の「鼠小僧次郎吉」の江戸情緒、江戸趣味あふれるつかみの執拗、丹念な描写と同じく、いきなりが小説のキーポイントとみる。
このような作品評をネット上では確認できなかった。ネットの作品評には、この作品の底流にサスペンス調のエンターテイメント性を見出す、自分の視点との一致点はなかった。
(谷崎「小さな王国」と芥川「鼠小僧次郎吉」の違いは後で簡単に記す) 

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 6ページ半ばから、はじめて、この物語のもう一方の中心人物である尋常小学校5年生の沼倉庄吉少年を登場させている。
   引用
「貝島がM市へ着てからちょうど二年目の春の話である。D小学校の四月の学期の変わり目から、彼の受け持っている尋常五年学級へ、新しく入学した一人の生徒があった。
顔の四角な、色の黒い恐ろしく大きな巾着頭のところどころ白雲のできている、憂鬱な眼角な、ずんぐり肩の円い太った少年で、名前を沼倉庄吉といった。なんでも近頃M市の一家に立てられた製糸工場へ、東京から流れ込んできたらしい職工のせがれで、裕福な家の子ではないことは、卑しい顔立ちやあかじみた服装によっても明らかだった。」
 W。冒頭6ページの谷崎の巧妙な筆致で、読者を教師、貝島の視点に寄り添わせておいて、サスペンス調の物語の幕が開き、読者の関心を先に引き込んでいく。優れた教師を自負し常識的家庭人、貝島の体験の及ばない範囲で、突然遭遇した「特殊で異常」とも云うべき子供世界との行き違い、勘違いはこの物語をサスペンス調にしている。
         ↓
「貝島は始めてその子を引見した時に、コレはきっと成績のよくない、風儀の悪い子供だろうと、直感的に感じたが、教場へつれてきて試してみると、それほど学力も劣等ではないらしく、性質も思いのほか、温順で、むしろ無口なむっつりした落ち着いた少年であった。」
         ↓(サスペンス調をたたみ込んでいく。)
「ある日のことである。昼休みに運動場をブラつきながら、生徒たちの余念なく遊んでいる様子を眺めていた貝島は~コレは貝島のクセであって、子供の性能や品行などを観察するには、教場よりも運動場における彼等の言動に注意しべきであるというのが平素の彼の持論であった。~今しも彼の受け持ちの生徒たちが二組に分かれて戦争ごっこをしているのを発見した。それだけなら別に不思議でもなんでもないが、その二つの分かれ方がいかにも奇妙なものである。
 全級で50人ばかりの子供があるのに、甲の組は40人ほどの人数から成り立ち、乙の組は僅か10人ばかりしかついていない。~~
 と、多勢の西村組はたちまちのうちに沼倉組の小勢のために追いまくられて、滅茶苦茶に隊伍をかき乱された挙句、右往左往逃げ惑っている。腕力の強い一騎当千の少年ばかりが集まっているのだけれど、それにしても西村組の敗北の仕方は余りにも意気地がなさ過ぎる。
 他の敵に対しては,衆を頼んでかなり勇敢に抵抗するのだが、ひとたび沼倉が馬を進めてかけてくるや否や、彼らは急速に浮き足立って、ろくろく戦いもせず、逃げ出してしまう。
果ては大将の西村までが、沼倉ににらまれると、ちじみ上がって降参し生け捕りにされたりする。
その癖、沼倉は腕力を用いるのでもなんでもなく、たた縦横に敵陣を突破して馬上から号令を浴びせるだけなのである。」
 
 「その日から貝島は沼倉という少年に特別の注意を払うようになった。けれども教場にいるときは別段普通の少年とかわりがない。」
「読本を読ませてみても、算術をやらせてみても、常に相当の出来映えである。宿題も怠けずに答案を添えてくる。そうして終始モクモクと机によって不機嫌そうに眉をしかめているばかりなので、貝島にはちょっとこの少年の性格を端倪することができなかった。」
「とにかく教師を馬鹿にしたり、いたずらを煽動したり、級中の風儀を乱したりするような腕白モノではないらしく
よほど毛色の変わったガキ大将であるらしかった。」
          ↓
W。この物語をサスペンス調にしているのは、大人の現実世界の視点と子供の遊びの現実世界の齟齬であり、前者によって後者の世界の不思議な実相が暴かれてくるところにある。
 ただし、この一見、「特殊で異常な」子供世界に、リアリティーを認めた。描き方が上手過ぎるということもあるが、程度の差こそあれ、コレに似た状況が実際の子供世界にあり得る事を、「小さな王国」の年頃に体験している。ガキ大将=腕白者では決して、あり得えない。多かれ少なかれ沼倉少年のような要素は持ち合わせていないとガキ大将は【務まらない】。子供なりの政治性をおびた存在であるのも承知の事実で、その「権威」、影響力が大きいほど、沼倉少年的強烈な政治性を帯びた存在になるしかない。一見、「特殊、異常」に思える事態は実は現実的世界でもあったのだ。だからリアリティーを秘めていた。谷崎描く「小さな王国」の世界と実際の子供世界との差異は本当のところ、程度の問題なのである
 沼倉少年のようなスーパーガキ大将を知らないわたしは「小さな王国」の沼倉少年に、思わず、田中角栄元首相の少年時代を想像してしまった。「小さな王国」をあくまでも現実的に読み込む、とナゼカサスペンスタッチに思えてくるから不思議で、沼倉少年の実態を知りたいと想う。
 サスペンスはリアルな現実認識とスリリングな物語の展開の齟齬が根底になければ成立しない。サスペンスはスリリングな物語性によって、巷のリアルな現実認識が裏切られてく過程だ。
この両者の齟齬に作家は結末の場面を用意する。巷のリアル認識によって、それまでのスリリングな物語性が一挙に破綻を迎える、プロットが多い。 
  が、沼倉少年もまた、政治的幻想共同体の長であると同時に、臣の暴力的支配「機構」の上に乗っかる存在であり、その裏打ちは必要である。
この幻想的政治共同体の長は、暴力的支配機構に裏打ちされた存在でのあることを、描いたのが、戦争ごっこの場面である。沼倉少年のような戦争ごっこの圧倒的勝者に、深刻な場面での、本人が直接手を下すかどうかは別として、暴力発動がないとは想定し辛い。あくまでも、論議は谷崎の描く時代と地域の「小さな王国」状況を念頭においているのであって、現在の都会の小学校の級長さんの学校教育システムを前提とする「権威」は考慮していない。
この辺の「小さな王国」の読み方がネット上の論者の貨幣、共同体論議との焦点を当て方、関心の向かい方がが決定的に違っている。

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 この「小さな王国」の題材は、谷崎の実体験にヒントを得たものであり、そこから作家的想像力を羽ばたかせて、貝島と沼倉たちの小さな王国」に創造したものと考える。それもあって物語にリアリティー感がある。
ただし、子供貨幣に至る前後からは谷崎の純粋な想像力によって、物語は展開させた、と想われ、以降の物語から、急速にリアリティー感が消滅していき、自分の物語への興味も急速に萎んでいった。
 
        引用、ウィキペディア 谷崎潤一郎 <年譜>
1886年明治19年) 7月24日東京市日本橋区蛎殻町に生る。父谷崎倉五郎、母関の長男。
1889年(明治22年) 父の経営する日本点灯会社が経営不振のために売却される。

 
1902年(明治35年) 家業いよいよ逼迫し廃学を迫られるが、北村重昌(上野精養軒主人)の篤志によって住込みの家庭教師となり、学業を行う。
1903年明治36年) 一中校誌『学友会雑誌』の会幹となる。
1905年(明治38年) 同校卒業、 第一高等学校英法科に進む。
1907年(明治40年) 一高文芸部委員となり『校友会雑誌』に文章を発表する。北村家を出て、学生寮に入る。この頃から学資は伯父と笹沼家より受る。

W。この年譜によれば、谷崎は16歳~20歳頃まで住み込みの家庭教師で生計をたて、学業を続けていた。
北村重昌(上野精養軒主人)の子供(一人とは限らないかなりの複数を想定するのが常識である)の<住み込みの家庭教師>を勤めるということは、彼等を通じて、学校や交友関係を知る機会になり、谷崎の年頃では、それらの関係を冷静に観察することができた。この体験は10数年後の「小さな王国」の執筆のヒントとなった。
 冒頭の6ページに渡る教師、貝島の自然主義小説風に説明された境遇に、強烈な信憑性があって、思わず読者をこれから始まる物語世界に巻き込んでいくのも、ある程度は、谷崎のそういった家庭教師の苦学体験から引き出されたものである。
 
   次のような作品系列も谷崎の貝島の境遇設定と描写の背景を知るヒントになる。
1916年(大正5年) 長女鮎子生まれる。『神童』『恐怖時代』を発表。
1917年(大正6年) 母・関死去。妻と娘を実家に預ける。『人魚の嘆き』『異端者の悲しみ』を発表。
1918年(大正7年) 朝鮮、満洲、中国に旅行。『小さな王国』を発表。
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W、この物語を変わったサスペンスタッチと捉えるのと違ってネット上の大方の評は、この小説を経済原則に引き付けて読み込んでいるが、「小さな王国」が本格化し、独自の通貨を発行するあたりで、この物語への興味はで立ち止まった。そういう次元に踏み込むとそれ以降の話は、子供世界にしては構造的に過ぎ、リアリティーから遠ざかる。
子供世界が「小さな王国」に至る辺りから先には進めなかった。創作の読み手として夢がないというか、抽象力に欠けるという欠陥は自覚しているのだが、無理なものは無理であった。

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 谷崎はこういうひねりを短編に求めるのだろうか?
彼の長編の代表作群の世界にどこか通じるところがあるのではないか。自分はああいったものに、関心はない。歴史的に存在してきて、現に存在すると肯定し、いわゆる道徳的というところに拘る気持ちはないのだが、人間の生き死にからするとソレがどうした、と考えるクセがいつも絶対的といっていいほど、ある。ディレッタントは自分の中に意識するが、谷崎的耽美趣味は一切ない。
 
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*論説は一通り、読ませてもらった。
小説家はこういう論法で考えたら、小説はかけないのではないか?とフト想った。
 小説家の生み出した物語は、日本語に訳すと【文学】にしているようだが、正確には【文芸】ではなかろうか?文芸「小さな王国」を材料に社会、経済関係論議の方向に論を膨らませていく一方で、物語性そのものの吟味は置き去りにされているのではないのか?文芸と文学とする、所に何となく、そういう議論の発展方向の出発点があるように想う。非常に日本的な議論だと考える。
この点について以前、記事にしたときにリタラチャーの語源から始まって、日本語訳にした明治初期に遡って、調べてみたことがあって、それらの解説を素直に読めば、とてもじゃないが、文学などという格式ばった日本語訳は不適当なかさ上げ、とするしかなかった。
日本において、今でも、かくも小説が読まれ、小説家が注目され、小説家的目線で社会的事象を捉える、(週刊文春週刊新潮のトップ記事の筆致は小説家目線モドキだ)遠い原因は、リタラチャーを日本語訳にするときに、文学などとかさ上げにしたことにあるような気がする。
 認めるが認め方が違うといっているのだ。
 
そういう意味からしても、「小さな王国」をココまで論じることの根源を問いたい。
正直に言えば、谷崎の「小さな王国」は、沼倉少年を中心とする子供の秩序体制の個々の構成員に具体的な役割を振って、詳しく書き出している辺りから、急速にリアリティーを欠いていって、沼倉たちの子供世界に貨幣記号物が登場する辺りでは、物語として破綻の道に踏み込んでいる。
サスペンスタッチを現実にぶつけて破綻させるでなく、ホラーで終わらせることもなく、「小さな王国」と貝島のそのままの状態で、貨幣記号物とモノと特殊ガキ大将を中心とした子供共同体の延長線上に放置している感があり、一般的な読者には物語のこのような終末方向では抽象領域に流れ過ぎて、感覚的にハードルが高くなりすぎている。
逆にネットの論者たちは、そこに焦点を絞って議論し始める。だから、議論は徹底した抽象論議の方向を驀進する。
 
>つぎのような凄いのもある。
  
  資本主義と倫理について
―世界経済危機を契機に―
財務総合政策研究所研究部長 田中 
*こういう捕らえ方は、事実認識において誤っている。
まず第一。この小説を経済原則、特に貨幣出現の本質に引き付けて指摘した最初は戦前の伊藤整、等の論評に始まるということで、何処かで誰かが引き継いできて、それを再現しただけで、何も目新しい視点ではない。
 
 第二に。
この小説はウィキペディアによれば「1918年(大正7年) 朝鮮、満洲、中国に旅行。『小さな王国』を発表」ということであり、ケインズのいわゆる「一般理論」が日本に紹介されたのはそのずっと後で、研究されだしたのは、戦後である。
 そうすると、ケインズの流動的貨幣選考説の貨幣理論が明らかになったのは、研究が行われ出した戦後である。
 「小さな王国」に流動的貨幣選考説を見出すのは、限られた時空の共同体というタイトル「小さな王国」の問題意識がそこから、すっぽりと抜け落ちた貨幣の特質論を勝手に展開している。
当然である。ケインズの流動的貨幣選考説において、貨幣商品登場の基盤である共同体の論議など必要でなかった。
 これでは谷崎がタイトルとして名づけた「小さな王国」という意味はどう解釈するのか示されていない。
谷崎は貨幣論など、全く念頭においていない。ましてや流動的貨幣選考説まで先走って、ここで持ち出すのは、小説を実際に読んだことがないのに格好付けに利用しているだけである。
 単なるケインズの貨幣流動性選好説の紹介に無理やりこじつけで描き出されているだけだ。
 
 ただし、現状のグローバル資本制は今後ますます進展していくことから、ケインズ時代のように流動性を選好するなんて生易しいものではなくグ、ローバル資本制の貨幣は投機を選好しているのは間違いない。店頭のガソリン価格は9月半ばで遂に¥170に達した。この事態を貨幣の流動性の選り好み性質、つまりは実物経済から遊離した本質的な投機選好「体質」から来ている、とみて間違いない。
 
  そうすると日本のような一次資源、エネルギー資源の全く乏しい国はこのままではインフレ基調が進行して、資本主義経済の基本定理から労働力商品の価格は物価体系の上昇に応じて上らず、同時に国内の一般的利潤率も低下していく。
労働力商品の相対的価格の低下傾向も歯止めは利かないのに、資本は高利潤を求めて、海外展開はますます進行していく。
ブラック企業大国日本になっているのに、資本は海外に出て行くのはパラドックスでもなんでもなく、資本主義経済の基本法則が満開しだしたことに原因がある。世界中が資本主義の法則に従順になれば、そうなっていく傾向は累進していく。
 そこで日本国内の現状を遠目の薄目で見通せば、日本支配層のインクルードされたいがために、あくせくしている人が増えてきている、そういう条件に見合った環境がますます、無理やり整えられてきているが、この全体状況の着地点はどこにもない。タマゴも鶏も先ではない。

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          以下の政治論議は試論。
 (1)この全地球一体化の階層二極分解の「システム」は世界中共通なものである。階層の同質化と階層分解が同時進行している。
 
 (2)さらに国家民族間の対立と分裂も同時進行する確かな原因がある。コレがあるから上記の同質化単純化の事態を複雑にしている。
 
 先進諸国は20世紀的国民国家であることを辞めようとしてきているが、一方、それ以外の諸国は国民国家であり続けようとしている、もしくわ国民国家であろう希求している。
 現状から将来にかけての本質的な国家間の対立の本質は、民族対立に変態しようがしまいが、この国民国家の形態を違いを巡っての政治対立を基底とするものになる。
 
 コレを言い換えると、人民パワーが支配体制の変革まで及ばない、求めない国では支配層の統治機構に人民パワーの影響力は及ばず、支配層はそれまで国民国家として、旧来の人民支配機構の、市民社会をまとめて物質的にインクルードしてきた機能を放棄して、国家機能を軍事や国家政治幻想の喚起に限定し、支配構層独自の利益を剥き出しで追求するようになる。
従って絶えず、対外侵略的で、結果として対内的に強権的になる。
 
 (3)コレは1930年代への回帰ではなく、本質的に資本と労働の二極分解を抱え込んだ世界格差社会の標準タイプへの進展である。
20世紀末期からのグローバル資本制の進展は、世界資本主義の初期化=産業資本主義段階への回帰という世界史的回帰現象となって立ち現れてきているから、当然の現象といえよう。
 先進諸侯支配層はグローバル資本制そのものから利益を引き出すという共通の物的基盤に立っている。
この点において帝国主義列強の時代と全く違っている。
 
 (4)人民パワーの変革エネルギーが支配体制の動揺を生み出す国々の支配層は、支配領域内の住民を国民として一まとめに物質的にもインクルードしていく方向で、支配秩序を維持していくしか政治方途は残されていない。
仮にこうした国々が国家機能を軍事や国家政治幻想の喚起に特化するとすればどうなるか、支配秩序を維持するために国内支配に暴力を前面の押し、対外戦争的事態を常態化させる方向を選択するしか、国民をひとまとめにするしかない。
 
 以上のような国民国家の歴史的形態の相違は、国家が支配層の国民支配の、政治幻想喚起の、道具である以上、一方における全地球一体化の格差による支配層と被支配のに二極分解の同質化の進行と同時に、他方において、国家、国民、民族間の政治的軍事的対立を常に引き起こす原因になる。
 
 (5)この政治的軍事的な国家、国民、民族間の対立にグローバル資本の移動の自由を背景とする生産力発展をする新興工業国群と、生産力停滞をする先進諸国の不均等発展の軋轢が絡まっていく。
 
*(6)したがって、この世界状況は二色ないしは三色で色分けして解釈できるものでなく、具体的な複数の要因を加味して、あくまでも具体的に認識されるべきものである。 
 中国やロシアと先進国と称する諸国が対立しているように見えるが、コレは新「冷戦」ではない。共に資本主義国であり、相応の支配層が存在する。
 
 そうすると対立の根源は(2)国民国家を巡る相違と(5)世界市場を巡る不均等発展に本質的原因を求めるべきだ。現中国、ロシアの支配的政治秩序が崩壊しても、代わりに出てくるのは資本制に根を張って成長してきた支配層であり、ソレラが対立関係を融和の方向に導くものとは限らない。
 
 (7)ただし、この対立関係のもっとも根深いところには、現状の核兵器の寡占状態をこの争闘の最大の成果として打ち破ろうと策動しているアメリカを中心とした勢力が対抗的核兵器を無力化して、より強固な自分たちの利益に沿った核兵器の寡占状態を形成しようという基本戦略がある。
それはプレジンスキーが狙った自国の世界戦略に対抗的な核兵器を様々な手段を用いて無力化して、その覇権を根拠に経済的利害を無理やり世界中で貫徹しようとする戦略である。このプレジンスキー的世界戦略の視点から現状を見ると、新冷戦体制に見えなくはない。

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日本支配層は以上の3点について、アメリカとの共同利害における従属的立場を貫くことを、自己の利益の達成と、割り切っているが、第二次世界大戦後の外部の特殊条件に規定された日本資本主義発展の推移から生まれた国民間の富を内外の支配層、支配機構に移転させることでしか達成できない。

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  短編小説の起承転結を最後まで過不足なく貫き通したという意味では、短編の名手、芥川の「鼠小僧次郎吉」の方が、まとまっている、とおもう。
谷崎潤一郎の「小さな王国」の最後に子供の世界に通貨まで飛び出したのは、全く根も葉もないことではないが、過ぎたるは~の部類である。
 
 が、小説の、スリリングな語り口、濃密で無駄のない文体は小説家の原点を見る思いがして、その点は谷崎の方が上ではなのではないか、とおもう。
芥川の「鼠小僧次郎吉」は、最上級の文体を駆使した江戸情緒、江戸趣味があってこその物語であり、やはり終始、どこか作り物感が漂っているが、ストーリー展開としては、あの程度の作品を仕上げる小説家はかなりいるだろう。
 例えば、この前偶々初めて、読んだ池波正太郎の短編。
話の語り口の絶妙さに思わず、泣けてくるように仕組まれているが、、エッ小説家ってこんな陳腐な云い廻しを平気で使っていいの?という表現に出会うと、小説家、池波の資質に素朴な疑問が湧いてくる。それに、読後感はほとんど余韻を残さない読みきりの世界で、情におぼれた自分を恥じる気持ちが湧いてくるようで、コレは反復できることが長所の活字媒体としては、相当マズイ欠陥じゃないだろうか。小説世界の本質的なイメージの深浅の問題もある。近所の話の上手なおじさんの説教まじりの長話を聞いているかんじで、度重なると嫌になる。この感覚と、庶民の下世話な日常性を描いた成瀬巳喜男の映画のファンであるコトとどこがどう違うのか合点が行かないが、池波正太郎が活字で描く世界は講談や紙芝居のイメージ世界に近いのじゃないかな。成瀬映画と、講談紙芝居の美学、情緒はまるっきり程遠い。
 そうやって考えていくと、芥川の「鼠小僧」は単純に起承転結の歯切れのよさだけではだけ判断できない。
だから、敢えて、というか解っていて、芥川の筆致に翻弄され楽しむことも「鼠小僧」の鑑賞としては重要な要素である。解っていて堪能する、ことが大切。ソレで、起承転結の歯切れの良さだ。

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 今まで、全集に載っている谷崎の代表作しか知らず、その耽美世界に辟易していたものには、物語作家として秀逸な谷崎潤一郎を発見した思いがする。ただ、今更付き合えない。余裕もない時間もない。他に知りたいことがありすぎる。モット早く知っておくべきだった。
 何だかんだいいながら、昔の文学観よりも、今の方が視点を豊かにしようと思えば、できる材料、情報が表面化してきている。ただし、イラナイものがおおすぎる。
この岩波文庫のアンソロジーの発行されたのは2012年、この前から取り上げている戦争×(と)文学シリーズも2012年刊行。東日本大震災ーフクシマ原発事故の反動か、かなり正気に戻ったのか?官僚の報告書の世界でも、かなり正直な見解が散見されたと想って大切に保管しているが、その後、元に戻って、怪しげ難解な概念を振り回して煙に巻く得意技が再開されているようだ。

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一般になじみのない通貨の理屈まで敢えて、短編小説に登場させた小説家としての豪腕にも、芥川の「鼠小僧次郎吉」にないものである、長編小説に必要な力であろう。
 
  短編小説の起承転結がハッキリして、谷崎の「通さな王国」の欠点がないのは、間違いなく芥川の「鼠小僧次郎吉」だ。

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 勝手ながら、作者、芥川の手法は手に取るようにわかる。
鼠小僧次郎吉」について、過去の記事で二回ほど、取り上げた記憶がある。
 
 一回目は、サスペンス小説の傑作であるとして、読みどころを解説したもの。
結局、小説家、芥川の腕の見せ所は、冒頭の品川方面の船宿で久々に逢った旧知の男二人が酒を酌み交わす場面と周囲の情景を、歯切れのいいタッチだが、丹念な江戸情緒の充満する世界に描き切ることで、読者をその世界に誘い、幻惑し、いきなり江戸情緒漬けにするところにある。
 
  敢えて言えば、この小説のキーポイントは冒頭にあり、読者をその世界にひきつけ幻惑する。ココがサスペンスとしての「鼠小僧次郎吉」のキーポイントであり、単なる<つかみ>とは違う。
 谷崎の「小さな王国」も同じような手法を取っているが、子供の世界のことなので、読者を幻惑する必要は全くない。
しかし、子供の世界を教師貝島の視点からサスペンス調にするためには、読者に教師貝島の視点を自然に、徹底的に読者に埋め込む必要があった。
従って、手法としては同じだ。冒頭に物語のキーポイントがある。
このように、「小さな王国」を読み込んでいくところに、サスペンス小説としての側面を重視する、独自の見方がある。貨幣云々などは、無視する。

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(起)  読者はこのつかみの部分の江戸情緒にドップリ浸かった状態で乗せられたまま、酒を酌み交わす粋な男が、久々に出会うまでの回顧談に引き込まれていく。
 
(承) そして、その延長線上で、江戸から中仙道の旅烏の道中話に身を寄せていく。
冒頭のかなり長い江戸情緒の充満した静の描写の余韻を、旅の最初に「わびしさ漂う一人旅の心象と道中の何となく殺伐とした風景」に描くことで、舞台転換して、それ以降は、動き主体のハードボイルド調で物語は進行する。
ここでは、一人旅の人恋しさと同時に、未知の人々への警戒感、引き起こされる緊急事件への素早く沈着冷静な対応に魅了されていく。
 
(転) 偶々、調子のいい男を同行者として旅籠に同宿した。男は、深夜、用意周到、慣れた仕草で、枕もとの財布に手をかけるが、同行者に意外にもあっけなく、取り押さえられしまう。旅籠の人たちによって柱に縛り付けられ気持ちの高ぶったままの男は、周りを取り巻く人たちに、「おれ様こそが、今江戸中を騒がせている鼠小僧次郎吉だ!」と白状する。
 
(結) シーンは船宿で差しつ、差されつの二人に戻って、相方の、「そういえば、あんなに江戸中を騒がせた鼠小僧次郎吉の仕業を近頃とんと聞かないが」「まさか、その宿で捕まった枕泥棒が次郎吉じゃあんめぇ」と尋ね、妖としてしれぬゆくヘに及び、次郎吉の江戸の評判を語り、噂話のボルテージは上がっていく。
語り合う二人の情景を描いて、突然、この物語のオチになる。
物語の語り部こそが鼠小僧次郎吉だった。
 
奇妙な小説である。勿論、推理小説ではない。サスペンス小説にしては、江戸情緒や中仙道の描写は、高級文芸調過ぎる。
 が、読者はココに誤魔化される。
コレは一種のサスペンス小説と読み込む。作者の芥川もその意図を濃厚に意識してこの小説を構想した筈だ。「羅生門」などと同じ系列の物語だ。
 
 この立場で、2回目に取り上げた記事で、現、林家正蔵さん、旧、林家こぶ平さんのラジオで語った、この小説に典型的な江戸情緒を見る「勘違い」を指摘しておいた。
 芥川が冒頭に江戸情緒を執拗なくらい丹念に書き込んだのは、これから始まるサスペンス調の物語のつかみの部分で読者を魅了して、先に引っ張っていくと同時に最初から読者の前にあからさまに晒された結末の舞台設定から、読者を遠ざける効果を狙ってのことである。
それは、中仙道道中旅の<承>以降の物語が、ハードボイルド調の<転>と、アガサクリスティーの「アクロイド殺人事件」的な「犯人」自ら物語を語るオチの<結>の全体構造を眺望すればよく解る。
 
 江戸情緒、江戸趣味たっぷりの臨場感あふれるの時代物のサスペンス小説タッチに仕上げているのは、芥川の筆力である。
 「小さな王国」の魅力も谷崎の筆力によって、一種のサスペンス調に仕上がっているところだが、繰り返すが起承転結に完全を求めると、子供貨幣まで飛びだし、貧窮に陥った貝島が一瞬、同化するような時点に立ち至るとさすが行きすぎである。
しかし、その欠陥が、谷崎の長編名作を生み出した、原動力でもあったと想うが、そういう物語に人間精神の昇華を求めるところは、どうしても人間の生き死にに関係がないと切って捨てる傾向が抜けきれない自分にはどうでもいいのだ。大切なものを捨てたのだ。