反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

完結編。  [インタビュー] 韓国文学は生きている : 小説家 黄皙暎との対話

 皙暎(ファン・ソギョン) 小説家。長編小説『張吉山』、『武器の影』、『懐かしの庭』、『客人(ソンニム)』、『沈清』、『パリテギ』、小説集 『客地』などがある。
 
沈真卿(シム・ジンギョン) sexology@hanmail.net
評論家。『女性、文学を横断する』、『韓国文学とセクシュアリティ』などがある。
           
                      <自発的に難民になる>
  皙暎(ファン・ソギョン)  まず用語の整理をしましょう
私はそのディアスポラ」という言葉が実に曖昧なので嫌いです。「難民」「移住」と言えば正確になるのに、わざわざユダヤ人がどうこうなったといって「ディアスポラ」という言葉で曖昧になっているんです。
同じように新植民地といえば概念がさらに正確になるものを、ポストコロニアルと言って曖昧にして……おそらくイデオロギーを生産するところから研究費も出るので、それと妥協するしかないんですね。主にアメリカの方でそのような傾向が旺盛ですが、そのような限界の中で学者らが自ら曖昧になっています。だからそのまま「難民」でなければ「移住」というふうに具体化した方がいいでしょう。
 
 そのときから社会との接点を探し始めるのですが、ベトナムから戻って来てずいぶん苦労しました。
まさにその頃に全泰壱(チョン・テイル)が平和市場で焼身自殺をします。実はベトナム戦争と全泰壱が出会って、私の作品「客地」〔所収の邦訳短篇集は岩波書店刊〕になったわけです
その次に光州(クァンジュ)に行って光州抗争を経験したのも重要でしたが、そこでようやくわかったことがあります。
 作家にとって自由とは何か? 光州で卑怯にも生き残ってしまったことに対する重圧感もありましたが、その後、私たちがどれほど互いを苦しめたでしょうか? 実はあの時、一切に挫折して放棄することもあり得たのですが、幸いにも2つのものが私を支えてくれました。
1つは大河小説『張吉山』の連載を終わらせることでもう1つは文化運動でした。だから日常的には連載小説を書きながら、人形劇や男寺党(ナムサダン)遊戯、仮面舞(タルチュム)や謡(パンソリ)のような伝統演戯の原型を現場のマダン劇と融合させるような形式実験をずいぶんとやりました。あの時、農村や労働現場で50編以上のシナリオを共同創作で書きました。あの2つの仕事が作家としての自分を守る支えになってくれたんです
 そうするうちに光州事件の後に北朝鮮を発見し、彼らも他者ではなくもう1つの自分であるという思いで北朝鮮を訪問することとなります。私が南と北という分断が与える重圧感から自由になれなければ、今後も心地よく文学などやっていけないだろうという不安がありました。南と北の間にギリギリの形で立ったのは作家として貴重な体験でした。
                
            <外部に立って内部を考える境界人>
 私にとって自由とは、かなり以前から抽象的な概念ではなく、生きてきた人生体験そのものだと言わなければなりません。
幼少時からずいぶん転校を重ねて、労働者居住区の工場地帯でひとりで遊び、思春期の時は退学になるなど、要するに追い出されたという意識のために中心に入ろうとしないんです。中心に入ると私は耐えられないんです。だから常に外部にいて、外部にいながら内部のことを考えています。ある友人が自称「境界人」だと言っていましたが、私はそのような意味で本当に境界人です。常に属さない者の、そのような自由と抑圧に対する緊張感があります。
 
沈真卿  中心部に入れば耐えられないのに、外部ではその内部のことを考えるというお話しは印象的です。韓国で最も権威のある文壇の重鎮でいらっしゃるのに、韓半島という自らの域内に安住するよりは、絶えず自らの身体を外部に出そうとする努力が、先生の文学的な動力ではなかったかと思います。でも外部から韓半島の中をのぞきこもうとする努力も怠っていません。そういう努力こそが、世界という遠心力に導かれつつも韓半島という求心力から出ようとしない緊張感だといえそうです
 ところで今回は二度目の長期海外滞在でしたでしょう? 最初の海外滞在は北朝鮮訪問以後、韓国に帰国できない状態で、アメリカとベルリンを流浪されていた時でしたが、あの頃はどうだったんでしょうか?
 
黄皙暎  ベルリンの壁が崩壊する現場でとても強い印象を受けました。崩壊した障壁の間に集まってきた東西ベルリンの市民らが歓呼して抱きあって歌っていましたが、私はその人たちを眺めながら「美しい個人」を発見しました。あの時、世界は変化するだろうと考えていた展望や、それまでのリアリズム的な企画、散文も変わるべきだという考えをつづった創作ノートが残っています。
たとえば「リアリズム的な物語を私たちの文化形式にのせる」と標語のように自ら言明しているんです。それまでの散文の形式を解体してしまおうなどと果敢な表現もしています。
 そして韓国に帰って来て監獄生活をしながら、その中で本当に熾烈な日常と対面します。黄皙暎は冒険に強く危険なことにもよく耐えて面白がるんです(笑)。ですが何もせずにじっとしていろというのは気がおかしくなります。
独房の中で5年間、日常を学びましたが、あの時それなりの蓄積ができたようです
 とにかくドイツ滞在時代は本当にさびしかったです。とても親しかった人々もベルリンに来てかろうじて電話だけして帰って行く程度でした。私に会えば大変なことになりますからね。
ある国家や社会に属さず、といって確固とした亡命者でもなく、指名手配の期間をベルリンやニューヨークで5年近く過ごしましたが、本当にさびしかったです。
その時わかりました。私は南も北でもなく国家の構成員でもない。あの時国家からいじめられたという実感とともに国家主義民族主義を放棄してしまったようです。
 そして社会に戻って来て作品を書き始めながら ― これはもちろん過去の記憶を整理したものですが ― また世界を確認したくなりました。なぜならそのときは冷戦解体と世界史的な変化がちょうど始まっていましたが、当時は追放された者として自由でない時代に西欧を見たとすれば、今はどうだろうか?
 
 必ず再確認する必要があると思いました。それだけでなく、心理劇の用語に「役割変え」というのがあるじゃないですか。また自身の居所を離れて眺めることを「距離感」ともいいますが、今、西欧の作家らの中で私の友人を見ると、ほとんど住む場所としての都市を変えながら生きています。たとえばベルリンに住んでいた作家はローマに行っていて、ロンドンに住んでいた作家はギリシャに行っていて、パリに暮していた作家は南米に行っていて、ニューヨークに住んでいた作家はバルセロナにいてという具合にです。このようにみな居所を変えて暮らしています。これがまたとても新鮮な面があります。なぜならそこへ行けば誰も自分のことを知っている人がいません。いわば自らが不慣れなところで他人になるという創造的な緊張ができてきます。また大きな出来事が起こる西欧の大都市に暮らしているので、何というか、時代精神が波打っていくのを捉えることができます。本当によく見えるんです。反対の場合もありますが、結局、動機は似ています。友人のル・クレジオ(Le Clézio)に、おまえはどうしてパリが嫌なのかと聞いたら、自分はパリにいると逆にヨーロッパが見えなくなるからだといいます。奥地へ行くとヨーロッパがきちんと見えるのだそうです

                  <作家の祖国は母国語>
沈真卿  他の角度から見れば、先生の海外亡命時代は、まさに南でも北でもない、第三国での生だといえます。北朝鮮訪問以後、南北双方に距離をおくことになる先生のお話しのように、韓半島の状況をとてもリアルに眺められる契機になったのではないかと思います。
 
*黄皙暎  亡命時代に北と南をともに脱出したわけですが、耐えられませんでした。私が当時、精神的に国籍がなかったということは、ひっくり返していえば、【私は大韓民国の人間でもなく朝鮮民主主義人民共和国の人間でもないということです】ル・クレジオが教えてくれた言葉があるのですが、私も以前考えたものがあって対等交換することにしました。【つまり作家という存在は「民族や国境にかかわらない。作家の祖国は母国語だから」というすばらしい言葉でした】。
私の考えでは越北者や南へ越境した人は結局は両方で分離主義に傾くようになる。私は自分の文学から見ても、筆を折ることがあっても断じて分離主義にはならないだろう。だが私が北に残れば、結局は「食客」ではないだろうか? 私と私の文学は、南韓の歴史と社会の産物だ。私が私の読者のもとに戻ってこそ統一に貢献できるのであっ、【ここで食客として滞在していても何の足しになるだろうか?】 私は行きますよ、と言ったところ、「それはおっしゃる通りです。私が言ってみましょう」と言われ、それでようやく出られることになりました。
その話を後で崔元植(チェ・ウォンシク)先生にしたら、うさぎが竜宮城に行って来たようなものだと言っていましたが(笑)、とにかくその時、長期で滞在している間に、南韓軍事独裁時代に劣らないほどの、北朝鮮の硬直した国家主義を目撃しました。ベルリンにいる間に、さきほど脱国家の話も出ましたが、あのとき一応とても冷静になりました。冷静になって自らがどのようなイデオロギーからも自由になったという感じがします
 
沈真卿  面白い話です。外部からの視線が、韓半島の状況をもう少し冷静で客観的に近付けさせるという先生のお話しに全面的に共感します。
そのような点で最近、先生が「伝」や「巫歌」「クッ」(祓)のような伝統的な物語様式を持ち出してきて、小説創作につなげている作業は、外部の視線で韓半島の様式を新たに理解しようという試みのように思えます。たとえそのような物語様式が韓半島の内部ではなじみのものであっても、「世界の中の韓半島」という観点からは新たに構成され評価されうるでしょう。ですがそのような形式や内容が「世界の中の私」という観点では目新しいものがあるかもしれませんが、韓半島にずっと住んでいる私にはあまり新鮮味のない、おなじみでお手軽な方法に見えたりします。
そのうえ「世界の中の私」という観点で新たに占有された伝統的な物語様式が、意図に反して韓半島に対するおなじみのクリシェを繰り返す恐れもありそうです。
たとえば植民地朝鮮が帝国日本の雑誌に紹介される時、水車や韓服を着た女性など、いくつかのお決まりのイメージばかりを描くような結果をもたらす危険もあるのではないでしょうか

 
黄皙暎  私が監獄から出た時に受けたインタビューでも明らかにしましたが、旧韓末の「東道西器」を「西道東器」に変えて考えてみようという、冗談半分、本気半分の言葉にも見られます。金芝河(キム・ジハ)はこれを再び「東道東器」という言葉に置き換えましたけれどね。ここでもちろん私が考える物語やそれまでの作品が、日帝統治下の郷土主義や検閲下の中国現代文学の一分野のような民俗指向に属さないということくらいは、黄皙暎に対する最低限の尊重として、読み方に間違いがないようにお願いします。
~「あなたは西欧のどんな作家の影響を受けたのか?」と聞いてきますが、これは本当に生意気なことです。
このように韓国は言語と文化がマイノリティなのですが、これにどう対処していくべきでしょうか? 全く予測できない方向で、彼らがこれまで固守してきた小説的な叙述や方法論、このようなものとは異なる方式で示さなければなりません。それがまさに自分のスタイルです。
 
*私が見るところ、東アジアの作家の大部分は、いわゆる「大家」の手前の水準にも達せずに終わった人が多いと思います。
なぜなら西欧の近代文学は自らが近代を達成してきた当事者たちで、私たちは受動的にそれを受け入れただけだからです。

ドストエフスキーバルザックのことを語りながら、あれほどの作家がどこにいるかと専門家たちに聞いてみると、「そうですね、魯迅は大家以前で、夏目漱石もそうですし、谷崎潤一郎もそうで……」といいます
>物語の内容もそうですが、それにふさわしい物語の形式、それを編んでいく方法論、このようなものをうまく形成していけば、私の文学がもう1つの世界を作れるのではないかと思います。これは刑務所から出てきたときの話ですが、もちろん私のこのようなプロジェクトがいつまで続くかはわかりません。一応出発はしましたが、いい感じではないかと思います。

                  <詩的物語としての『パリテギ』>
黄皙暎
 「軽めの長篇」という言葉もまた韓国のジャーナリズムが作り出したものですが、私は最近「詩的物語」という言葉に変えて使っています。
いわゆる「軽めの長篇」というのは、現代の生活パターンや余暇文化などから出たものかもしれません。
いわゆる19世紀的なリアリズムの時代でした。私は現代世界の消費市場が長い物語に耐えられないだろうと思っています。
また一方で詩が出版市場から消えています。現在、西欧のどこに行っても、書店に詩集が置いてある国は見当たりません。
*詩的メタファーや隠喩、あるいは抒情的な詩情は、広告コピーや詩的な映像のイメージに取って替わりました。まさに詩的イメージの洪水とでも言いましょうか。
*過去の叙述では、ある男が馬車から降りて家の中や居間に入って行くのに数十ページさくことができました。庭園の石や木について、あるいは家の中の明かりや雰囲気、門の形、玄関や客を迎える召使いの表情や服装、風貌、またマホガニーやボルネオ、アフリカなどの原木で作ったあらゆる家具、机の上の文房具や書斎に座った人々の過去と現在、このような感じで数十冊が書かれました。
ですが、たとえば映画は、レンズの中に入って来たものを見せるだけで、他の方式の叙述で筋書きを継いでいきます。ディテールをすべて書かずに場面と場面を配置します。
これをモンタージュとも言い、ミザンセンとも言いますが、ふと見えた小品一つで伏線を準備したりします。
 話を展開させながら詩的な緊張を維持するような形式はないだろうかと思うのです。西欧文学史叙事詩散文詩というジャンルがありますが、それは気に入りません。
ある友人が「詩+小説、つまり「詩説」と言ったらだめだろうか」といっていましたが、自己出版したらまったくだめでした。金芝河は風刺的に「大説」という言葉を使いました。
 
沈真卿 先生は巫俗詩歌の主人公である霊媒の「パリテギ」を、移民や移住が頻繁な今日の現実を代弁する人物に変貌させました。そのために小説の主人公「パリ」は、霊的な能力を持って生まれた、神異した存在でありながらも、深層的というよりは表層的であり、死よりは生の方に近い現実的な人物として描かれています。ですが、北朝鮮脱出と難民の現実を示すリアルな人物でありながらも、パリテギという神話的なキャラクターを完全に払拭できていないために、結果的に小説において、パリを通じて描かれる現実の問題がやや抽象化されているのではないかと思います。
むしろ女性巫歌である「パリテギ」を現実の中で完全に解体し、小説的に再構成したならば、もっと具体的で実感ある物語になったのではないかと思います。
先生の『パリテギ』も、詩的物語という曖昧な名称にすがるよりは、むしろ小説というジャンルで完全に押し通すべきだったのではないでしょうか?
 
*黄皙暎  私が19世紀の「沈清」と21世紀の「パリテギ」を続けて書いたのは、2つの時代に世界体制の再編が起きた様相が似ていたからで、【新自由主義新帝国主義の他の呼称であることを知っているからです】。
神話や説話、民譚に対する関心が高まっていたのは、90年代に社会主義圏が崩壊して、過去の世紀に対する反省が起こり、すべての人文·社会科学的な体系や思想に対する懐疑が起きたからです。いわば人間が作ったものがみな不確実で予測できないので、文明の代案を考えながら人類の原初的な思考を見てみようとしているのです
【私はただ、単なる神話探求は還元主義だと思いました】。「パリテギ」を国家や国境がなかった時代の移住の典型として考え、主人公が女性であっても男性であっても、主要な点は違うところにあると思いました。(W?)
「パリテギ」という物語巫歌が、文化侵奪が頻繁だった韓半島のようなところで重要な意味を持つのは、口碑で伝承されたからです。まただからこそ数千年間生き残ったんです。(W?)
また私が『沈清』や『パリテギ』で書いたのは、ウーマンリブをしようとしたわけではなく、当代の現実を反映しようとしたんです。女性であれ男性であれ「苦痛を受けた苦痛の治癒者」としてのパリに注目したのです。作品の巻末の対談にも出ていますが、世界体制以後、適応することができなかった、捨てられた数多くの国の民衆の顔が「パリ」です。
朴玟奎(パク・ミンギュ)という作家が、最近、若い作家同士で座談していてなかなかいいことを言っていました。
【小説は物質だ】 ― これはいいですね。私は最近、リヨンに行って話をしましたが、【あるフランスの女性作家が人気絶頂で何十万部も売れているというのですが、彼女が常に自分の私生活を作品に書いているのだそうです】。【誰かが「作品をどのように書いていますか?」と聞いたら、その作家が言うには、内面が血だらけになってどうしたこうしたと言うので大騷ぎになりました】。
*私は「文章は左から右に書きます。そして尻で書きます」と言いました。
それはどういうことかというと、【小説創作は80、90パーセントが労働で決まるんです。まず長く座っていなければなりません。プロの作家は文章が思いつかなくても 机の前に座っていなければなりません】。
いい文章が出てこなければどうするでしょう? それで私は物を書く行為を物質的行為と見て、世の中に表出されたものもその物質の部分と考えます。
*最近は作家がどうしてあのようにデリケート過ぎるのかわかりません。天から天刑、天罰を受けたように語っています。
 
沈真卿  だとすれば『パリテギ』で獲得できる詩的な深みは、パリの霊的能力から来るのではなく、むしろ物語的な表層の深化から始まるものと見てもいいかもしれません。そのように見るならば、『パリテギ』で描かれる多様な難民の状況こそは、終局には詩的深みという形質変化を起こしてしまう表層的かつ物質的なものだと考えられるでしょう。
 
                <非現実的存在と当代の現実の接点>
 ですが一方で考えて見ると、まだそれが私に残っている、【若き日の科学的習性の限界というやつです】。とにかくそのことを、熾烈に散文を書く過程でやってみようと思います。
 
沈真卿  非可視的な夢や夢想の世界にまで拡張しようとする試みのように読めます。それは異質で矛盾したものが混淆して共存するポストモダン的な現実のように見えたりもします。
 ~~省略。
沈真卿 ですが先生の意図とは異なり、『沈清』や『パリテギ』において心と魂は、苦痛に満ちた現実とは分離した、もう少し堅固で不可侵のある種の領域として描かれているようです。そのためか現実との接点があまり指摘されていなかったようにも思えます。

            <苦しめられた苦痛の治癒者、受難させられた受難の救済者>
沈真卿
  先生は『沈清』と『パリテギ』で国境を越えて世界を放浪する女性を主人公にしました。それはディアスポラ自体が女性としてジェンダー化される現実を反映したものだと思います。
沈真卿 『パリテギ』は社会主義圏の崩壊と全地球的な資本主義化によって移住や脱走が頻繁になった21世紀を、「パリ」という北朝鮮を脱出した女性を通じて描いているのですが、その苦難の強度が思ったより強くないようです。そのうえ北朝鮮を脱出して以後、中国を経てイギリスまでやって来たパリは、パキスタン出身のイギリス人と結婚してそれなりに定着します。決してハッピーエンドとはいえない未完の結末であるにもかかわらず、「パリ」が思ったより簡単に先進ヨーロッパに安着したのではないかと思います。パリは果たしてこのような苦痛の現実に小説的に耐えられるキャラクターでしょうか?
 
黄皙暎  荒廃した地を出て他の都会に寄り集まった移住労働者らが幸か不幸か、私たちの判断であえて言うものではありませんこのような移住のことで言うならば、【すでに私たちの中にも外国人労働者が100万人以上入って来ていて】、【中国には数十万、国内には五千人近い脱北者がいて、結婚移住も農村では新しい風俗】になっています。
つまりパリは捨てられた者であり、『パリテギ』のパリは象徴的典型にすぎません
【今は個人だけではなく全世界あちこちで格差による孤独化が進んでいます】。【アメリカが主導する体制に適応できなかった国はどの程度かというと……一国的に見れば昔の海南(ヘナム)のようなものです】。
>1970年代に海南から若者たちが都会にすべて出て行ってしまって、村の空き家が1つの集落から100戸近く出た時のようなものです。周辺部は産業的な生産がますますできなくなります。さつまいも、とうもろこしなどを売ってどうやって暮らせますか? 生産力がなければどうなりますか? 購買力もなくなります。するとそのような国や地域は先進諸国にいじめられながらそのままなんです。すると共同体が崩れるだけでなく、部族が、いわば公害のために地球上の動植物が絶滅するように、その一帯は絶滅するんです。アフリカではこれが現在起こっている日常です。それに加えてエイズや各種疾病もありますし、このようにいじめられた人々すべてがパリです。
>世界的な移行期の最大の特徴は、労働移住、あるいは移動現象だと思います(W?)。東欧が崩壊する頃に、おそらくデリダ(J. Derrida)がこう言いました。【資本主義の悪と社会主義の無知蒙昧が混血すれば、新しい悪が誕生するだろうと】。
 
黄皙暎  そうです。それを巫俗用語では「苦しめられた苦痛の治癒者」「受難させられた受難の救済者」としてのシャーマンと言います。
だから最も苦しんで抑えつけられた者が他人の苦痛を治癒することができるんです。これはかなりそれらしい命題になりそうです

                <『パリテギ』の夢幻性とリアリズム>
                
                <夢から得た霊感>
沈真卿
  無惨で苦しい現実を誰より多く経験されたでしょうが、何かますますもっと楽天的で純粋になっていかれるようです。先生こそが苦痛を通じて初めて苦痛を治癒できるパリのような気がします。
 
黄皙暎  私は実は運がいい方です。本能的に好奇心が旺盛で怖がりもせず楽観的です。私はいくら悩みができても10分以上悩みません。「えい、やめてしまえ」と、まず睡眠からとって、なんだかんだ言ったら、昨日のことはなかったことになってしまいます。その昔、安企部(現在の国家情報院)に捕まった時も、ちょうどひと晩寝てみると自分の家のようでした(笑)。よかったですよ。その人たちが敬語を使わなければ私も敬語は使わず、殴ろうとすれば、裁判に行ってみんな言ってやると、拷問するなとわめきちらし、相手が上着を脱いだら私も脱ぎました

                
                 <「女性」の視角から見た『沈清』と『懐かしの庭』
沈真卿 
2000年代以後、先生の小説を語る時、女性というトピックがとても重要のようです。肯定的にであれ否定的にであれです。実は率直に申し上げれば否定的にかなり語られたようです。『懐かしの庭』〔邦訳は岩波書店刊〕以後の先生の作品の中で批判的な議論が最もなされたテキストが『沈清』だったようです。
説において「沈清」は売春女性です。だから当然、性行為の場面が頻繁に出てこざるを得ません。女性読者として私はそのような部分がかなりぎこちなく違和感がありました。特に沈清の初夜の場面がそうでした。誰かに無理やり引っ張られて来て強制的に服を脱がされる状況で、文字通り難に遭っているにもかかわらず、沈清はそのような状況自体を楽しんでいて、はなはだしくは「耐えられない苛立ち」すら感じる始末です。その状況はまるで、女性はレイプされる時でさえ性的な快感を感じるという非常識な俗説を連想させます。だから私の観点で沈清は決して女性人物ではありません。単に男性の観念の中で屈折し定型化された女性イメージに過ぎないものです。これに対してはどうお考えですか。
 
黄皙暎  『沈清』で性的な場面があまりにも多く出てそう思われるのでしょうか(笑)。実ははじめ私はポルノよりもっと過激に再現したいと思っていました。ポルノはたとえば資本のような冷酷な物性があるんですよ。『武器の影』〔邦訳は岩波書店刊〕にすでにそのようなことが出てきますが、戦闘を終えて米軍基地に戻ると休み時間にバーでポルノを見せてくれます。大理石のように物化された肉身から精液が流れて大騷ぎになったじゃないですか。そうこうするうちに戦線に行くと、朝、夜が明けますが、夜の間の熱気にくわえてスコールが降って死骸はすぐ腐り始めます。足や腕が2、3倍にむくんで真っ黒に見えるんですが、そのような穴の中にトカゲやネズミの群れが出たり入ったりする場面が薄明の中で見えます。私はそういうものを何度も見ました。それとあれをつなごうとしたんです
 ですがやはり小説ではあまりにもそういう方面に行った感がありました。だから今回、『沈清、蓮華の道』(改訂版、2007)を出して、あまりにも多くの資料に押さえ付けられたような後半部を少し落として、あまりにも性的な部分は遠回しに表現しました。
 
沈真卿  私は性的なことは悪くないと思います。
【ただ自らの身体を、近代を突破する強力な道具のように対象化する沈清の自意識が問題ではないかと思うんです】。
 
黄皙暎  私は沈清を描く時、ボードリヤール(J. Baudrillard)が女性性について語ったことの中に、女性の身体や女性の持つ権力としての女性があるじゃないですか。それはもっともだと思いました。これを倒置させるのもいいという感じがしたんです。

釈放されてから私はしばらく自閉症に苦しみましたが、寝る時、大きな部屋でも必ず壁の方に行ってうずくまって寝るのが楽なんです。そして不眠症やノイローゼで苦労していたところああ、自分の話を先に書こう」と思ったんです。事実『懐かしの庭』はベルリン時代にすべて構想していました。監獄でさらにそれを膨らませました。はじめはベルリンだけを書こうと思ったんです。そうこうするうちにそれが肉付けされたんですが、実はそれを書きながら自分を治癒しました。およそ監獄後遺症は収監期間の3分の1の間は続くと言います。私は監獄に5年いましたから、ならば20か月は静養しなければならないのですが、作品は必ず1年ほど書きますから、いつの間にか回復しました。だから実は『懐かしの庭』を書きながら物書きに戻って来たのです。もちろん主人公は監獄で18年暮らし、留学生スパイ集団に入って行った後輩の話もモザイクしましたが、そこに出ている感受性やディテールはすべて私が直接経験したものです。はなはだしくはオ・ヒョヌは私の分身だったとしても、ハン・ユニが経験したベルリン体験や学生運動の後輩らを助けながら経験した主体の葛藤は、みな自分自身の経験です。
 
沈真卿  私が読んだところでは、ベルリンの壁の崩壊以前までの先生の文学的な企画が単純に言って近代的な企画だとすれば、その後はポストモダン的な企画で物語を作っていらっしゃるようです。今の脱国家的な状況やポストモダンの状況にむしろ最も相応しいキャラクターが女性ではないかと思うんです。必ずしも生物学的な女性でないとしても、女性性を備えたキャラクターが現在の非均質的で複雑な現実に耐えられると思います。先生は確かにこのような世界史的な変化を感知していらっしゃったようです。そして何よりも、女性こそがこのような変化の流れを具体的に表現できる存在であるという事実を、誰よりよく把握していらっしゃったようです。
 
沈真卿 先生の近作をみな女性的物語と言うことはできませんが、今、お話しのように大きな流れは女性的物語に向かって進んでいるようです。ですが私はある意味で……。
 
黄皙暎  まだマッチョ的でしょうか?(笑)
 
沈真卿  いいえ。マッチョ的というよりは、確かに作品は女性的物語の形態を持っているんですが、女性人物の性格描写、あるいは女性人物が物語で占める方式や役割を引き受ける部分が少し定型化されていると言えるでしょうか?
 
黄皙暎 日本にいる大学教授の友人が東アジアの近代について書いたものが思い出されます。タイトルがとても似合っています。もちろん日本を中心に思考しているものですが、そのタイトルは「独房の雄」です。自分たちはなんだかんだ言って独房に1人でいる雄ではないかというんです東アジアの近代はまさに母を殺し妻を殺し娘を殺し、そうやって通り過ぎてきたのではないかという気がしました。
 
黄皙暎  *私は『懐かしの庭』で、自分の個人的悔恨と過去の時代の私たちの過誤を指摘したかったのです。いわば80年代に私たちが守ろうとした共同体的な責任、組職、歴史、社会、革命などの一方で疎かにしたり忘れたり隠したりしていた個人的日常と、愛や幸福、内面などに加えられた抑圧について語りたかったのです
世紀末の社会主義圏の崩壊とともにそのような絶望的な世の中の本音が見えました。『懐かしの庭』は後記で明らかにしたように、
【歴史ではなくその裏路地でつかまって倒れた懦弱な個人に対する考察でした】。それが監獄の中で過ごした熾烈な日常の結論だったんです。
オ・ヒョヌがカルメの山を訪れ、そこを去るときに、これからの変革は日常とともに持続するだろうと確認する場面で、そのような点がもう一度強調されます。
【もはや社会主義的な観点は資本主義世界で批判的に内面化され、さらに手に負えない日常的な闘争の過程へと移る】ことになるでしょう。
率直にいって監獄にいる時、外部の清算主義的な雰囲気を反映する韓国文学に満足できませんでした。どうしてかというと、私が見たところ、1990年代は軍事政権の移行期でしたが、金泳三(キム・ヨンサム)政権になったら民主化はもう完成したという雰囲気でした。面会に来る人々もそのような表情です。そして面会から帰って言っているのは、「黄皙暎が楽しそうにやっていたよ」でした(笑)。私はおかしくなりそうなのにです。あのときはそうでした。私はそのなかで恨みが浸透したというほどではないですが、私が娑婆に出るのを待っていろと言わんばかりでした。悲しくもありました。そしてあのとき多くのことを整理することになります。外に出たら何か新しく始めなくてはと思いました。あのときも現在も放棄せずに続けているのは、これを強迫観念と言うのでしょうが、現実を見逃してはならないということです。
>私が海外で亡命時期を送って十数年ぶりにロンドンに滞在する時、ニューヨークに行事のために行って外国の大学教授や作家の友人に会いましたが、その友人が何を言うかというと、「私たちはこれまで本当によく遊んだよ」というのです。「これまで」というのは、私たちがみな知っているように世界体制が転換して以後のことを言います。これからはこれまで遠ざけていた現実に戻ろう」と言っていましたこのように螺旋形で反動と反省を繰り返しながら戻るんですW?。