反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

引用 小田実評論30 隋論、日本人の精神。「葉隠」→著者、山本常朝(1959年~1719年)と戦陣訓。

         小田実評論30  隋論、日本人の精神
 2014/10/29(水) 午前 10:22 [ wacwac ] 返信コメント
 
ウィキ引用。
戦陣訓。特に1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号)。行動規範を示した文書で、このなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」。玉砕や自決など軍人・民間人の死亡の一因
1905年、戦国時代の戦陣訓や葉隠「武士道とは死ぬことと見つけたり」等を収めたうえで、日清日露戦の勝利は日本古来の武士道によるとし、天皇への唯一無二の忠誠を唱え、忠義や滅私奉公、国家のためには死をも厭わぬものとして武士道を解釈。太平洋戦争における「皇道的武士道」へ影響
俘虜の待遇に関する条約(ジュネーヴ条約)を調印しながら批准しなかった理。「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と反発
国体観・死生観については井上哲次郎山田孝雄和辻哲郎・紀平正美らが参画し、文体については島崎藤村佐藤惣之助土井晩翠小林一郎らが校閲に参画した。
島崎藤村昭和15年(1940年)春に湯河原の伊藤屋旅館で「戦陣訓」を校閲
戦陣訓は(東条陸相の)前任の板垣征四郎陸相阿南惟幾陸軍次官の時にすでに作成が開始」
  
    葉隠→著者、山本常朝(1959年~1719年)小田実P19引用 「戦はこの時代最も近接した【島原の乱】でさえすでに半世紀前の出来事になっていた」
東国武人の立場から言えば(ゲルマン民族の主従のドライな契約に基づく封建関係と日本の江戸以前の主従関係の違い<ヨーロッパ絶対主義国家成立への展開の重要な要素)をハッキリさせていないが、一面の実態をついている。ドライな主従関係は応仁の乱、戦国時代中期までか?)
かつて生命をかけて求めた安定と土地を、当代の<藩士武士>は何ら闘わずして手に入れていた。<東国武人>の行き方の基本においたのが『自由』と『名誉』であったとすれば、当代の<藩士武士>の基本は、ソレが誰の何の組織であれ、ソレが作り出す『秩序』への絶対的服従と、ソレが何の誰でアレ、主君に対する忠誠」であったに違いない」
 
**「もう一つの大事な違いがあった。
ソレは東国武人が誰でも持っていた実際の戦場での実践体験を藩士武士は<葉隠れの著者を含めて誰一人持っていなかったことだ。」
「東国武人の立場から見れば、藩士武士のサラリーマン武士>只の役人ではあっても武士ではなかった。
この本質的に武士でない藩士武士をどのようにして武士にするのか、イやモットあけすけになことを云えば、武士に見せるかーコレが葉隠れの主題だった。
 
「山本常朝にとってできることは藩士武士=サラリーマン武士たちに中世、戦国時代の武士のありようを紹介して、これこそが真正の武士のやること、なすべきこととだと叱咤激励して、藩士武士たちにやらせるしかない。
 
 しかしここで困ったことが起こる。(W。下克上?実際、鎌倉、室町、応仁、戦国にリアルな事例はいくらでも民出せる。小田実の斬新な視点はコレ以降の論述)
「山本が葉隠れで解いたことを実行すれば究極的にソレこそ下克上となって藩は潰れ、幕藩体制は崩壊に至る。
藩士武士たちは真正の武士の『自由』と『名誉』を得ることができるかもしれないが、藩士武士にとっての肝心な【安定】と【土地】を失うことになるかもしれない。(W。この辺はヨーロッパ封建の領域支配的分断状態を説明している。封建領主同士のキリスト教絶対主義信仰の絡み合った内乱の結果、王的封建領主への権力集中が起こる<絶対主義王権国家成立>海外新大陸植民地争奪戦 富の蓄積→産業革命英米仏の市民革命→近代国民国家成立の英米仏の先行的歴史発展コース。この先行的発展コースに遅れた地域では、圧縮された歴史発展コースが不可避となる。そうすると、資本家的生産力発展、資本蓄積の結果、先行して発展した世界市場を占めた英米仏に対抗して独、露、日、伊の後発新興国の世界市場の再分割の勢いが強まって、世界戦争が不可避になる(今でいう多極化)。極めて乱暴に、中世封建以降の歴史を総括すれば、以上の如くなる。日本の明治維新は資本制への改革と絶対主義権力基盤の確立が同時進行した。歴史発展コースが日本において圧縮実現されたのだ。ソレは支配層の半封建的社会構造に依拠した発展コースでもあったが、米軍事力によって、社会的軍事的基盤を一掃された。
よって、日本政治の現状将来はグローバル資本制の発展に連動し利益を共有する金融寡頭制支配の戦前戦後の日本歴史の特性を利用した強化深化である。
日本支配層は対米従属して「覇権」の確定を狙っている。
愛国党の日の丸と星条旗を同時に掲げた赤尾敏サン路線、実態は<対米従属覇権国家日本>である。)
 
いや、その前に不届きな『革命家』として捕まり処刑されてしまう。(W。幕末、明治維新の人士を想起)
 
コレでは困る。元も子もなくなるー
とあって、葉隠は二つの解決策を出しているように見える。
>一つの方法は美しい儀式なり様式なり風俗なりにしてしまうことである。
実際にできるのならやって魅せることであり、できなければその想像図、一服の絵を描くことである。
心の中の美しい一服の絵を元にして儀式、様式、風俗を美しく、華麗なものにする
端的な例は『武士道とは死ぬことと見つけたりである。
山本常朝は言う
『武士道というものは本来、毎朝いかに死ぬべきかということのみ考えて、あの時死ねば、この解きしねばと、死の晴れ姿だけを想定して所為に対する執着心を切り捨てておくことである
この死の晴れ姿のために武士は容姿、身なりに気をつけ、立派な服を着ける~
『武士道とは死ぬことと見つけたり』だから、まさに死こそが、儀式なり様式なり風俗になっていたことだ。
そしてこのすべては、まずヒトに見せるためである。みてもらうためである。魅せるためには、みてもらうためには、すべては見苦しくあってはならない。
 
しかし、見てもらうというが、その人とは、一体誰なのか
まず考えられるのが主君、そして同じ藩士武士だ。
この気持ちの中に打算があって不思議でないし、コレが死ぬ儀式の場合なら、後に残す家族の安全、安定への気遣いもあって当然のことだ。勿論武士としての自分の名誉もある。しかしこの場合でも立派にしなれたという声であり、評価だ。この声と評価は後に残す家族の安定と安全に結びつく。
~サラリーマン武士の時代、名誉もその元になった市も、サラリーマン武士に世界の中にあって自由でなかった。(W、この辺の武士の出口無しの世界をフウテンの寅さんの山田洋次郎監督は映画でどう描いたのだろうか?)
 
>『東国武士』の場合、(W。何度もこの概念を使っているが基本的に史実に沿っている。鎌倉室町を通じて、領地の大胆な配置換えがある。西国武士の出身地は東国ということは頻繁に見られる)
彼等の武士としての倫理と論理~ソレを武士道と呼ぶなら=ソレは本質的に【自発】【内発】のものだったことだ。
藩士武士は主君、同輩の目を意識した<他発><外発>の武士道だった。
 
>彼(山本)が主君とみなしていた前藩主が死んだとき、山本は後を追って殉死しようと下が、殉死は既に禁じられていた。
彼は禁令に従って殉死をヤメ、剃髪して夫人とともに寺にいる。これいけないといっているではない。世間何みに当然のことだ。
 しかし、『武士道とは死ぬここと見つけたり』を志向の原理とする彼流の武士道の主導者であるだけでなく、武士はコレが武士のすべきことと信じたときには、
ソレがたとえいかに狂っていようと、そうみなされてようと、全てを無視してする
**その【狂】こそが武士の武士たる所以だと葉隠の随所で述べているのだ!
 
>もちろん、かれら藩士武士たちが藩の禁令に抗し、自分の内部の武士道の声に従って続々と殉死してたなら、ソレこそこの内面の無言の武士道のレジスタンスの御蔭で藩は体制的危機に直面したかもしれない。
こう考えたら、彼は自分の内部の超えに従わず、外部の禁令に従ったことで判の体制、組織を救ったことになる。
しかしそのとき、彼の武士道はどうなっていたのか
武士道を自らの選択によって失った彼藩の命令に忠実な藩士であることは確かだとしても彼は果たして武士か。
 
W。小田実は敢えて、論理的思考を選択して葉隠にある武士道の【狂】を実行しない、できない葉隠幕藩体制護持の本質を持って作成された背景を指摘している。
大きく裏返して、戦陣訓の世界に適応すると、武士道の【狂】の論理は、集団的な自決に逆行する道にも通じる
また、究極に、<死ぬこと見つけたり>は<武士道>だけではない。


 
   対談 司馬遼太郎VS小田実  司馬遼太郎発言~日本人の従者性~
「僕は日本人の従者性を問うようなことをズットニ、三十年年考えてきた。僕の小説には従者性を持った人物は書いていないつもりですけど、ソレはこちらが適わんから、書いていたことないんで、実際に従者性はあるわけです。(笑)
だからヨコの関係はなかなか出来上がらない
日本の歴史を日本人の生活文化が始まった室町時代から数えて実質、6、700年の歴史だとすると、その6,700年のあいだで、ヨコの繋がりがあったのは一回だけ、一向一揆でしょう
 
 今までは村落にいる地侍か地頭と、小作人である自分との関係という二つしかなかったのが
隣村の太郎兵衛とか、その次のムラのオミヨとか云う連中との横のつながりが講】でしょう。」
ソレができた。(W。司馬は【講】という生活経済レベルの日常的連携視点から惣村、後の江戸時代村社会の支配秩序の視点から、室町末期の土一揆、江戸時代の百姓一揆に厳しい判定を下している。広域の生活経済レベルの日常的連携が基盤にないと、短い期間限定のごく身近な要求を目標とする蜂起(一揆)になる。一向宗という宗教幻想共同体の物心両面で、果たした意味を指摘して欲しかった。近代以前は民衆氾濫に宗教政治共同体が果たした役割は大きい。言い換えると、宗教的よりどこのが希薄であれば、日和見打算に収斂する傾向が多い。)
 
「今の世の中の状況にちょっと似ているところがある。」しかしそうした昔のヨコ形成の動きは「全国的にみて2,30年で終わって、縦に直されてしまっている」
長期の内乱と同時に生産力発展が進行し、戦国末期の全国内乱とその問い撃つによって、絶対主義への展望が開けた(織田信長)。しかしながらソレは豊臣、徳川の鎖国、封建身分制確立、広域共同体分断の日本封建体制、確立、展開によって潰えた。
武士の城下町集住によって、村は在地封建支配者を失い、村切りによって勢力をそがれた残存有力者は自らの暴力を取り上げられて、年貢の村請負を軸とする年貢聴衆のための末端、村役人と課した。
このような関係は幕藩体制がぐんっじ権力を握って抑圧している限り、生産力発展=商品経済発展によって、克服しきれるものでなかった。
したがって、幕末から明治にかけての内乱を不可避にした。攘夷の下級中級武士が先行的に藩の主導権を握って、尊王に転身して明治維新を達成した。明治維新の「革命家」は急進的プラグマティストとでもあった。


 W。 いかが愚痴の類である。小田実は基本的に作家、社会評論家であって、思想家、政治家ではない。
そのつもりで読んだほうがいい。
 一ついえることは、他の国の人たちに比べて日本人はるかにお上の人間にとって統治しやすい人たちであるということだ。
例えば小田さんのように突出しえはいけない皆でやりましょう。
私がA代議士はけしからんやつだと糾弾すると、だれかが、Aを選んだ我々も悪いと言い出す。そういうヒトには進歩派を自認するヒトに多い。(W。上から目線で開き直って、あんた達が選んだのだろう、個人の自立が足りないという堂々巡りを強いるお説教保守政治もいる融寡頭制支配の強化と共に支配層のイデオロギーも手が込んできている。)
 
この種の発言には結構人気があって、なるほど起これが敗戦後はやった、おかげでまともな戦争責任の追及もできなくなった。「一億総懺悔」かと昔を少し走るわたしは改めて感じ入った」
 
>こうした、日本人の心の動きを<和>で生きてきた社会、<個>を重んじる狩猟社会の静養とは違って日本は共同体の生き方を何より重視する農耕社会~~
イロイロ説明できるに違いないが、私はヤッパリ【切り捨てごめん】だった。私たち大半の過去をそこに読み取る。
(W。農耕社会と侍の切り捨てごめん(究極は支配者権力への潜在的恐怖心。文字通り、長いもの<大刀>に巻かれて許される範囲でいきる。)の両者が合体していて、おまけに近代化以降、それらを天皇絶対主義支配の支柱にしていた場合は、どうなるのか?そこに民主主義を付与して、どうなってきたのかどうなるのか。
ま、いい意味でも悪い意味でも、どこの国も、国民も与えられた大きな歴史的条件からは大きく抜け出せない。こちらがよければあちらが、同じように悪い。
大陸国家のニューフロンティアが可能であった一部の国だけが例外なのではないか。そもそも大した苦労もなしに目の前の豊かな処女地が手にはいったし、現在もその傾向は変わっていない。
 ということは、同じ次元で立ち回ったら、損をするのは、その国の過半の国民だと云うことだ
このことが比較的解っているのがヨーロッパ諸国国民で(二回も世界戦争の発火点、戦場になって、やっと解った)まだ解っていない(懲りていない)のは東アジア。
他の地域に比べて、東アジアの知識人はネガティブ思考が多い
中でも、第二次世界大戦後の日本歴史は恵まれた特殊条件があった。


 東アジア情勢における日米韓のリアルな動向(重要論文)。1)季刊「創作と批評」日本語版歴史と安保の分離は可能か~日本の右傾化と日韓関係~2)補足、IWJブログ「第3次アーミテージレポート」
  
2014/10/22(水) 午後 3:22