反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

永田町の政治がきな臭くなった頃、「叛逆」~マルチチュードの民主主義宣言~マイケルハート、アントニオネグリ著(NHK出版2013年3月25日刊行)を批評する。

 よく通う歯医者さん。日常のクセで、ブッスとして、診療台に座り、コミニュケーションは取れていないのだが、歯医者さんまでたどり着く道すがら、ぼけっとして動物次元で、学習能力皆無の大失敗から、同じ箇所での二度目の自損「事故」にあって、痛いけれど、自分に腹が立つやら、面白いやらで、たまらなかったので診療台で突然、自分から話題にしたところ、男盛りのトッポイ奴だなと思っていた歯医者さんが、わたしの話題を気持ちよく、軽く受け流してくれて、突然、今年の12月に総選挙があるらしい、ですよ、と振ってきた。「エッ、そうなんですか。全くしらなかった」と。それで治療中、歯医者さんは「最近、安部さんの顔色が悪いようですよ」などというから、安部氏の持病の大腸潰瘍は腸リンパ球異常に原因があり、難病で最新の特効薬がネットにもでていましたよ、など応じた。
 
 ま、大して驚きはしない政局というか、政治の流れではあった。
民主党政権末期から、台頭してきたリフレ派に記事で執拗に攻撃をしてきたものとして、アベノミクスは、早漏もいいところの、経済政策>だった。民主党にも同調者がいたし、社民党から未来の党にいった阿部とも子議員のまだ社民党時代の経済政策観にオヤッと思うところがあった
 オカシナ空気、期待値なる雲を掴むようなものに金融政策の眼目をおいてはならない。経済成長と遊離した物価上昇を金融策術で急速に人為的に作り出して、得をするのは、金融寡頭制支配者だけで、他の経済秩序はダメージを受け、結果的に、短期間で得をするものと損をするものの格差は広がる
 コレと、米国バブル崩壊、連動する欧州金融当局の不況脱出策とは位相が違うわけだ。緊急避難的に膨大なホームレスマネーが円高に振れたにしても、異常にあがったものは、日本経済の後退的趨勢から、我慢していれば、いづれ下がるわけで、こんなことは筋道を通して、考えるヒントが与えられたら誰だってわかることだ
 よって、一番大儲けをしたのは、日研平均株価¥7000→¥14000に急騰した時点で、売り抜けた輩であった。次期アベ政権と日本内外の金融投機資本が共演したようなものだアベ政権は金融詐欺師であり、国際投機筋、米国、欧州金融資本に日本の国富を貢いだのだ。その付けが今頃、政治課題に上ってきて、手詰まり状態になってきた。
 
 コレは民主野田政権末期のリフレ派の言説を読み込んでいくと、政権を手放して、アベが政権を握るとリフレ派の主張するインフレ政策がそっくり採用されるとわかった。野田政権の年明け4月まで持たないことは、参議院議席数からわかる。
踏み込んで白川元日銀総裁の方が妥当性があるとさえしてきた。チキンと白川発言と論文のフォローしている。
その方面の専門家の記事も繰り返し、<日記>に載せた。
 今想うに、日本のエリート支配層とその追随者はわたしのようなど素人の感想にも及ばない、ところがあるということだ。官僚層の報告書を見ても、リフレ派のような発想から、ほど遠い人が多いと解っていた。ところが中央政治の風向きが変わると、民主党も分裂して、主流派政治も含めて一つの方向になびいていく。
 どうして、と?
ギリギリのところで思考する習慣が身についていない。極限を仮定して、政策選択ができていない、コレに尽きる。カールシュミットのいう利害勢力のせめぎあいの中での悪い意味での決断の見本である。
日本の過半の政治家は当てにならず、これからは、経済のように国民が政治面でもシッカリしなければならないということだ。こういっては偉そうになるが、高度成長経済の末期以降、国会議員を志す、などというのは疑問符のつく人間としたほうがいい。ほかに活躍の場があったのだから。世襲議員が多くなるもの当たり前だ。
 
 前回の記事でもチラッとアベノミクスに言及したが、書き終わって、彼等流の政治の「スケジュール」で日銀首脳のたった、一票差の、長期国債に日銀買取の大技が決定されたと、断定し、よっぽど、<追記>で付け加えようと思っていた。大きな誤字脱字文章の乱れも、そのまま放置の主義だから、そういう緻密は、やらなかった。
今の世界の時代の状況の日本において、日本の政治がまだ比較的頑丈の部分の多いファンダメンタルズから遊離して一人歩きし、圧倒的多数派を得たはずの自公の政権が2年ほどで、解散が云々されるほど、マズイことはない。安直に選挙で民意を問うことは民主主義とイコールでない。しかし同時に、国民生活に急速にダメージを与えた政治と経済の大きな失政が重層しているのだから、総選挙は必要だ。
これがホンモノの政治矛盾であるこのまま放置していけばスパイラル状態になる。かといって時間よ!停まれの大衆心理からは悪しき政治体制が生まれる可能性が強い(ただし、ファシズム軍国主義体制は余り関係がない)。具体的な政治事情は割愛するが、大体想像がつく。今まであって、そのために現に目の前にある事態を飛躍して選択する程、粘り強い政治想像力があれば、こういうことになっていない。 
 
 結論的に言えば、日本経済が比較的順調に推移していた時代は政治経済のコープラリズムが機能していた。コレを55年体制と言い換えるのは考えが足りない側面がある。そもそもが冷戦体制の負担を大して背負っていない国日本に、その直、反映したような政治体制があるものか!コーポラリズムを上手く機能させていたからという、側面が濃厚である。
日本固有の状況を踏まえず、冷戦体制崩壊というjことでアレからコレへと簡単に乗り移るからその政治的付けが、アベ政権のような事態に決着するのだ。北欧諸国だって一種のコーポラリズムである。 
 なお、日本従属(隷属)論や属国論を安易に振り回す人がいるが、従属論については、日本共産党は一貫してその立場であった。仮に昔、ソレとは別の立場をとってきたものが、何の節目もなく、ムード的に従属やましてや属国論を振り回しているとしたら、何時のころから日本内外の状況がそのように変転したのか、考えるべきである。昔も今も何も考えていない人は論外である。プラザ合意を結節点にするのか?しかしそんな単純なものか?
 例えばアベ政権。
従属している一方で覇権を求めている従属覇権国家日本である。
別の方角から見える光景はこれであるし、日本経済の実態の対米従属性は政治よりも低い
だとすれば、少なくとも、隷属論やましてや属国論は現状にそぐわないアジテーションである。政治的アジテーションを情勢分析に取り違えると、とんでもないことになったのは過去の経験が示す通りである。
 悪い言えば、アベ政権の対米従属下の独立願望(~~『在日米軍基地の存在を日本独立に読み込む涙ぐましい努力を重ねてきた』安部晋三美しい国日本へ」~~<従属と独立の政治幻想的ねじれ>をイデオロギー的に影で応援している、といえなくもない。
厳しい政治軍事環境を潜り向けてきた韓国に、そのような風潮入り込む余地がなかった。そもそも、そんなことでまともな政治思想がはぐくまれるはずがない。



 もう何年も前のことになるが、ある日思い立って、今の世界情勢はどうなっているのだろうかと、知りたいと思った。
ネットではそういった包括的な情報は得られない。図書館の書棚に並んでいるそういった類の本は、古すぎる。最新本でよく読まれているものは、貸し出し中で書棚にない。このとき既に頭の中に、アントニオ、ネグリ、マイケル、ハートの「帝国」は浮かんでいた。売れていたからだ。
 そういうことで大きな本屋の書棚の前に行って、「帝国」を手にとって見ると、分厚い本で値段も高い。図書館で本を借りる時も、たいてい、タイトルと中身を照合して借りることにしているぐらいだから、「帝国」は、冒頭から数ページ立ち読みして中身を入念に検討した。
 それで、これはとてもじゃないが付き合えない本だ、思って書棚に戻した
その隣にあったエマニュエルトッドの「帝国以後」をめくってみると、今までの自分の思考パターンにない視点が書かれている本だと感心して、今日に至っている。
アントニオネグリの「帝国」は悪いマルクス調の文体が冒頭から全面開花しているが(ヨーロッパの哲学方面によくある回りくどい表現で雰囲気を作り出していく文体)、エマニュエルトッドの「帝国」は期せずして、良いほうのマルクスの文体で、レーニン毛沢東の革命を成し遂げた革命家に引き継がれた文体を、自然に踏襲していると見た。文体の中に自然な形でパッションとミッションが埋め込まれているから、読者を読むだけでは終わらせないコレは小説家が稀有な名作を書く、事以上の絶対的に高度な技術である


         具体的に言えばこういうことだ。長くなる。
 内田樹著「街場のアメリカ論」(この本の内容について別の機会に厳しいく批判する。論じる対象によりけり、ということを判っていない。このグローバル資本制の時代及びアメリカの現状にトクヴィルなど持ち出してアメリカ民主主義をくどくどと解釈説明はミスマッチもいいところ。)の一節を取り上げて自分の立場を説明する。
 
 同著で内田センセイは「マルクスの思想は~人類の知的財産~その都度新しい発見をもたらす本当に深い思想~」としてアメリカでは『ドイツイデオロギー『フランスにおける階級闘争』『ヘーゲル法哲学批判序説が簡単にてに入らないらない状態を批判しているが、それらの哲学や思想は、時代状況の制約を強く受ける。
他方、「資本論の経済学は資本と労働の事実関係に基づく社会と経済を観察する「科学」の側面が強い当時(産業資本主義段階)の資本主義の過去(資本主義に先行する資本の原始的蓄積期)と現状分析(基本は当時のイギリス資本主義)の叙述が3分の1程度はあったと記憶している。現状とその理論的抽象化を絶えず心がけていた。人間は思想や哲学宗教がなくても生きていかれるが、世界資本制成立以降、人類の多数は直接間接に関わらず、資本との関連の中でしか生きていけない。さらにグローバル資本制の進展と共に人類の生老病死はグローバル資本制の大枠の中にますます閉じ込められていく
 この状態は、マルクス共産党宣言の中で語ったように歴史的必然性の果てに、解消できるものでない。結局、このマルクスのこの解釈が後の社会民主主義に影響を与えた。わたしの思うところではマルクスの思想哲学は社会民主主義の戦闘的な政論家、学者さん、のものだった。ほかに優れた実践家は一杯存在した。
 資本主義を主導する一部の人間が強力な階層的パワーを発揮して担っている以上、それに圧迫される人類の力で打倒するしかない。できないならばそのまま続く。 なぜならば、資本制経済は人類の生産力発展と共に出現した商品経済の暴力的強制に基づく発展形態であるからだ。マルクスは「資本論」の最初に商品を分析することで、そのことを明らかにしている。
 内田センセイの人類の知的財産論はマルクスの古い視点を今頃、教養として継承し、今でも通用する側面(「基本的に「資本論」)を無視し、結果として、マルクスを陳腐なものとして映じさせる役割しか担っていない。
よっぽどのも好きでない限り内田センセイの挙げた類のマルクスの本は陳腐そのものと映じるはずである
他方、「資本論」を読めば、産業資本主義段階という大きな限界はあるが、資本と労働力商品の等価交換を媒介とした資本の生産過程における労働の隷属関係が存在し、そこで資本制商品の価値増殖があるとするならば、今もって通用する一面の経済原理を含んでいる。それから叙述自体が精緻で論理的で完成度は高い。
 
>内田センセイのいう「シェークスピアとかドストエフスキーとかと同じような人類の知的財産の一つ」とは「資本論」を指していうべきであった。
*それにしても、シェークスピアドストエフスキーで大量の人間が生死をかけた、ものかどうか、マルクスと別次元のことだ。その生年月日からして、政治センスを疑うような例えである。
マルクスを読む知的環境がないと、アメリカ批判をするのは、どこかで何度も読んだ記憶があるが、わたしにとってそんなことは重箱の隅をつついているようなものであってどうでも良い。また人間の思考方法の本線には限りがあって、マルクスがなくても、世界を客観視する思考パターンがあれば良い。


>そういうことで、「帝国」はパスして、今回、アントニオ、ネグリ、マイケルハートのマルチチュード」上、下を借りてき読んでみた。「帝国」のような衒学的な叙述は目立たなかったが、ヤッパリ、頭の中にすっと入り込んでこない。引っ掛かりが多過ぎて、前へ進めない。結局、こういった政治思想本を読むとき、使用されているキーワードの概念一つ一つ厳密に抑えながら読む込む癖がついているので、彼等の使用しているキーワードが散りばめられている文脈にたいして頭の中でイメージが浮かばず、常に疑いが生じる
 
 大昔、イタリア共産党の最大の理論家といわれるグラムシヘゲモニー論>を読んだ時も、確かに各戦線に配置された党組織とその影響下にある団体が増殖し、、総体として全国政治勢力としてのヘゲモニーを握っていく運動論組織論から言えば、正しいといえばまさに正しいのだけれど、やっぱりレーニンの「何をなすべきか」が頭にこびりついていた所為か、権力をめぐる剥き出しの暴力をが全般化している時代状況にそんなアイマイなことでいいのかな、と思ってしまった記憶が蘇る。アイマイというのは、厳密化した言語を使用することで文脈を形成し、読むものにパッションと同時に硬いミッション性を与えるものでもあるグラムシにはそれが見受けれなかった。
 1933年生まれのアントニオ、ネグリ共産党の活動を地方で長く地道にやっていたという。その後、イロイロあった風だが、昔の影響が、「マルチチュード」という運動論に及ぶと蘇っているのではないか?
 
「帝国」程の拒絶感はなかったがそもそも、彼等の言うマルチチュードという肝心な概念自体が、人民とは違い大衆とも違いとか何とか説明されているわけだけど、ハッキリしなかった。
 
**世界的な一大抵抗主体であるマルチチュードの概念自体は結局、「帝国」に描かれている国民国家を超えるネットワーク上のグローバリズム世界支配形態から導き出されているわけで、わたしの世界認識からすると、彼等ほどに国民国家の役割から、ネットワーク上のグローバリズム世界支配に完全に軸足を移すことはできない。
**だから当然、彼等のようにソレに対する世界的抵抗主体としてのマルチチュードは余りにも漠然とし過ぎている。
**よって、その概念の中に、世界のイロイロな戦いを流し込むことは、得手勝手な意味付与に思える。
 それで、又してもアントニオネグリに挫折した。


>ところが、自分のたくさん借りてきた本の中に、「叛逆」~マルチチュードの民主主義宣言~という同じ装丁でNHK出版(W!何かの暗示か?「マルチチュード」、「コモン」も同じくNHK出版~人畜無害とは言わないけれど。)から2013年3月25日出版の一番新しい本があるではないか。
 
>この本はスイスイと読めた。
今まで彼等が主張してきた政治哲学が、2010年~2011年のアラブの春アメリカのオキュパイ運動などの世界的な運動のうねりに触発されて【思えば、東日本大震災~フクシマ原発事故の2011年だったかなり徹底して具体的実際的に、<翻訳されている>最初から、持って回った書き方をしないで、こういう書き方をしてくれればよく解ったのにとも思うが、結局、政治思想所というのは現実に拘束される側面が強い、ということだろう
エマニュエルトッドの「帝国以後」も、クリントン政権時代(8年)顕著になったアメリカ金融資本の台頭(冷戦体制崩壊後の米国を消費地とするカネモノの循環)、ブッシュ政権時代(8年)単独行動主義に触発されて書きあがられた。その後の著作は余り評判が良くなかった。


>そこでスイスイ「叛逆」を読んだ結論は次のようなものだった。
**~~(「叛逆」マルチチュードの民主主義宣言の内容を現実政治に適用すると、煎じ詰めると行動的コーポラリズムと結果する。大衆活動には必ず大きな波があり、ソレを克服するのは政治党派<持続性、継承性、突出性の政治的結晶体>しかあり得ないのは、近代政治史の経験で明らかで彼等の提起はこの核心を一貫して回避し、代替に置き換えようとしており、その意味で政治の幅が狭過ぎる。一方向に限って、開かれていない。)~~
**上記を書いた時点で、新聞テレビに全く縁のないアパシー(語源はギリシア語で、政治的無関心とはかなり違っている)感覚のものにとって、アベ政権に海産風が吹いていると全く知らなかった。
冒頭に細々したことを書いたのは、この政治過程にマイケルハート、アントニオネグリ(「叛逆」マルチチュードの民主主義宣言は正面から答えようとしていない。むしろ政治党派方面に開かれていない。
具体的にいえば、解散風を常にチラつかせるような政治風潮に叛逆」マルチチュードの民主主義宣言で提出している政治路線、政策内容はどう答えるのだろうか?
 
>この著でははっきりと政策的内容までぐみこんで記述されている。
ソレを見れば、生半可な政党綱領に見える。ソレだったら、ドイツの緑の党はどうなんだろうという気がしてもおかしくはない。日本でも選挙運動に参入している政治党派は彼等程度の政策は持ち合わせているものと思われる。
 
>この著の最大の長所であり、それが逆に欠点となっているところは、マイケルハートが前面に出て、一貫して主導性を発揮して書いていると思われるところである。
完全にアメリカ風の深みのない平板、羅列型の論述形式である。パッション性、とミッション性が文体に埋め込まれていない。
その意味で彼等の共同作業によってコレまで書かれたきた難解な著作の、実態が透けて見えるような気がするが、解り易くしてくれている。
また、彼等の本が良く得れた理由も何となくわかるような気がする。
彼らは超一流の作家だった。当世風の時代の先端状況を感覚的に把握できて、政治思想表現として時代にマッチする形で表現する才能があった。
**確かにそうなんだと、思わず頷ける箇所が余りにも多過ぎる。ここまで書ける日本の政治思想の本はないと思う。彼らは世界をくどくどと解釈したり説明したりしているのではない。描き挙げているのである。したがってそこにパッションが十分に含まれている。世の中の実情を逆転発想でみると、パッションに繫がるのだ。
ただし、それがミッション性をおびるかといえば?である。世間の見方は厳しいものがある。
次回から印象に残った箇所を引用していく。それだけのリアルな価値がある。


     付録  アントニオネグリ、マイケルハートの世界的ベストセラ「帝国」に対してこういう見方もある。
この本が世界的ベストセラーになったのは、アメリカ一極集中の時代のアメリカで売れたからだ、と聞いている。http://www.juryoku.org/suga_l.gif (すが)  秀実/これは「反米」の書なのか――アントニオ・ネグリマイケル・ハート『〈帝国〉』書評  http://www.juryoku.org/suga2.html  W。150ぐらいに拡大しなければ読めない。
 「論座」二〇〇三年五月号
>「某テレビ討論番組に出ていた或る高名な気鋭と呼ばれる政治学者は、「古代ローマと同様、アメリカは共和制から帝国へと移行した」などと、アメリカ批判の文脈において――クレジット抜きで、あたかもオリジナルな発想のごとく!――語っていたが、本書がむしろ「親米」の書であることは誰が読んでも明らかである。」
*そういう意味であれば、エマニュエルトッドの「帝国以後」は強烈なインパクトがある。政治的に中道派の本人に反米の意図はないと繰り返し述べているが、フランス知識人のアメリカに対する潜在意識は抑えあべがたい。彼に卑屈さは一切ない。
 
安部晋三美しい国へ」も、<成功した歴史の浅い実験国家にすぎない>、<まだ長い歴史のなかで検証済みというわけには行かない><相対として後退の中にある>などなど言いたい放題。

*他方、内田樹「街場のアメリカ論」は、どこが街場の議論なんだといいたくなる、トクヴィルを無批判的に再三持ち出して、現実とかけ離れたアメリカ民主主義の原点に今頃、拘っている。
日本共産党赤旗ではあるまいに、デス、マス調を隠れ蓑に一方的な断定を繰り返し、陳腐で幼稚な例えも度々で、読むに絶えない本を執筆しておきながら、20年後にも耐えられるものを目指して書きあげたなど、と、あとがきであつかましくも書き連ねている。

   「街場のアメリカ論」の一説を読めばよく解る。 一部全面引用。

ホッブス無政府状態において~実行的な法治の必要を説いたのに対して、独立宣言の起草者たちにとって、今ここにある危機は何よりもイギリス政府の圧制でしたから、彼らはアメリカ政体が被統治者にできるだけ多くの自由を保障するものであることをむしろ優先的に配慮したのです。(W、独立戦争における市民住民の武装の契機は視界の外で、全部民主主義の原点に塗り込められる。そもそも住民の武装にしてからが、対原住民闘争や狩猟生活からの転嫁であり、パルチザン無制限ゲリラ闘争の原則を含むものだったので、傭兵軍の軍紀で縛るしかない英軍の縦列隊は分散した地元軍のライフル銃の格好の標的になった。広大な後背地を抱える地の理もあった。具体的にはよく知らないが戦争は割りと簡単に決着したのじゃないか、イギリスの圧制というが、具体的にどんなものだったのか。むしろ現地住民の欲得先行の独立だったと考えた方が、内田センセイのこの後のアメリカ民主主義論議をわかりやくする。)
 
その結果、アメリカの有能で懸命な統治者が『カラスは黒い』といって、『カラスは白い』と主張する愚鈍な被統治者多数の意見を退けるよりも、被統治者の多数が白といえば、『カラスも白い』としたらいいじゃないかという、ある意味極めてクールでシニックな統治システムを作り上げたのでした。
W.物凄くダレ切った例えだ。そういう二項対立の論法を主因としてアメリカ民主主義の多数者支配の原点が出発したとしたら、クールではなくて住民の無知を居直れるだけの周囲に敵がいなかったということだ。また単純にイギリス軍に対抗する住民の最大限のパワーを結集するために当面の最適戦略だった。他の民族集団や国家と接近遭遇する環境ではとてもこうは行くまい。指揮官、指導者の下への秩序は不可避となる。当時の現地は余りにも環境に恵まれているがゆえである。例、フランス革命などなど。モット合理的な例はイギリスの議会主導。
トクヴィルはこう書いています。省略~『個人よりも多数の集合に解明と英知があり、その意味で、立法者の数がその選択の結果よりも重要だと考える。』
率直に言って、これは大したものだと思います。トクビルの観察力じゃなくてアメリカの統治システムが。
アメリカの統治システムは~リスクヘッジする』ことのほうが優先しているわけです。人間をどう有徳で懸命に育てるかよりも、人間の愚かしさがもたらす現実の災厄をどうやって最小限化するかを気遣っているわけで。
ここでは成熟したというよりもむしろ老成した人間理解が感じられます。」
W。ここまで拡張して考え、かつ言い切れる根拠は明示されていない。この手放しの論法から、不可避となるであろう集団の暴走である集団リンチはそう考えるのか?
アメリカの建国の父たちは建国の父たちは<アメリカが今より良い国になる>タメの制度を整備するよりも、<アメリカが今より悪い国にならない>タメの制度を整備することに腐心したからです。
だって、アメリカは理想の国を既に達成した状態からスタートしたんですから
>その理想の国家をよく改善するということは問題になりません。
W。そうであれば、国家発祥の時点で、自国原理主義、独善的一国主義を内包している。
だからアメリカにとって統治の問題は<どうこれ以上悪くならないようにするか、という風にしか立てられません。その前提は人間はしばしば選択を誤るというリアルな人間観であり、その上に築かれたのが、誤った選択をもたらす災いを最小限化するシステムです。建国に父たちは多数の愚者が支配するシステムの方が少数の賢者が支配するシステムよりもアメリカ建国時の初期ジョイ宇検を保持し続けるためには有効でありろうと判断したのです。
 でもトクヴィルはこの多数者の支配を余りにも不合理についてかなり厳しい指摘をしています。
W。内容は~多数の支配のために少数派の個人、団体が多数者支配の世論、立法府、行政府、警察、裁判制度などによって、実質的に与えられているはずの権利を行使できないことである。
 
この指摘はほとんどそのまま現在のアメリカに当てはまりそうです。
しかし間違いなくこの多数者支配のシステムは有効でした。それは歴史が証明しているところです。このシステム煮によってアメリカは未曾有の繁栄を享受し、今や世界に冠たる超覇権国家となったのですから。
トクヴィルはコレが人類が考え出したシステムの中では人間の愚かしさを勘定に入れた、という点で、最も優れたものであることを評価していたから他かなりません。」
 
W。アメリカでは少数派に救済の道は<狭き門。より至れ>
しかもその数は余りにも多過ぎる。4000万人無保険者はその都度、行政窓口の医療保護に頼るしかない。フードスタンプ制度然り。オバマ改革は議会の抵抗によって棚上げにされたままだ。
産獄共同体ということで、刑務所人口230万人は名古屋市よりも多い。
米軍兵士の圧倒的多数は行き場を失った若者。アメリ憲法修正第二条は聞いてあきれる。
こんな側面は前から、内田樹さんは「街場のアメリカ論」を書き上げた時点、2005年で明らかだったはずだが、アメリカバブル真っ最中で幻惑されたのだろうか?
勿論、アメリカはそういう面ばかりではないが、問題はバブル崩壊以降、この傾向が拡大しているのかどうかだ。
アメリカ大資本は内外の人々との収奪構造を強化して、市場最大限の収益率を得るようになっている。
安部さんのように、首相の座を突然、投げ出した御人で、この地の底から湧いてくるような強烈なインパクトと渡り合えるわけがない。
                                      引用終わり。