この政治思想には批判点は多い。既に前々回の記事で指摘した。さらに加えて~。
世界変革抵抗主体として登場するマルチチュードは彼等の分析するネットワーク状のグローバル支配形態に収奪抑圧されているが故に、ソレと対峙する潜在力を有する有形無形の人々の群れである。
この、変革主体は時代状況に内在している。彼等の把握する時代状況とその只中での現実的に大きな矛盾を転嫁された人々の群れ(に(マルチチュードと名づけている)、反転<構成>(この用語も彼等のキーワード)主体を見出しているのだから、方法論としては原則的で、彼らは正しいが、ネグリらの描き挙げる「世界」が今のリアルな世界情勢にに寄り添っているものか?大いなる疑問である。
「叛逆」は、中東の春やスペイン、米国の大衆行動をその「世界」観の具現としているようだが、実際にこの本で描かれている状況はピッタリ当てはまるのはアメリカ国内事情であり、それ以外の世界を強いて上げると、EUだろう。
それでもなおかつ、冷戦体制崩壊後のニューヨーク9,11や米国バブル崩壊、連動する金融危機、その後の米国資本の未曾有の収益、世界の多極化、階層格差の世界的拡大、核兵器の均衡を背景にした米国、EUの低強度戦争戦略という米国、EUの現実は全てスルーされ、抽象的政治哲学的世界二項対立的世界の中に塗り込められている。彼等の作家として描く世界は、基本的に米国プラス若干欧州から見た風景である、としか言いようがない。
そして何よりも、多くの専門家が認める(安部首相の「美しい国へ」さえキッチリと抑えている)米国のプレゼンスの相対化、世界の多極化という大前提は、彼等の世界観から、ほぼ抹殺されている。
「叛乱~」の原書の英語版ではMichael Hart Antonio NEgri、Declarationとマイケルハートを筆頭にしているように、全体の構成はハートがアレンジしたものと思われ、政治思想に立ち入った部分はネグリの監修したものであろう。後者の部分には、参考にすべき見解が多数あるので、引用していくことにしている。
全体の構成には、政治的な大間違いがある。
第1章 危機が生み出した主体形象 (4つの主体形象を順次解説~潜在的な叛乱勢力を導き出している)
第2章 危機への叛逆 (4つの主体形象の反転構成主体への転化を謳いあげている)
第3章 <共>を構成する (構成的闘争の具体的な各戦線の政策論)
そしてその最後が 左翼の教会を焼き払え!となっているのはどういうことか。
2012年に原書はネット書籍として公開されたが、東日本大震災ー福島原発事故への言及は一言もない。ネグリは来日して首相官邸前抗議行動を見学したそうである。世界観、世界情勢認識の視界に入らないということだ。そういえば、<共>の構成のための実例 実例① 水は<共>的財である。 実例② 銀行をいかに改革するか まで事細かな政策的提起がなされているのに、原子力発電や世界の核兵器への言及は一切見当たらない。
沖縄の知事選をみてもわかるように、大衆行動は、確かに庶民の<共>を想像する肝心、要のことだが、政治全体のキーとなる戦術ではあっても、戦略ではない。彼らは「叛乱」において、大衆行動の内容を緻密化して戦略とし、それによって政治目的を達成しようとして、政治党派の方向に門戸を閉ざし凝り固まっているとしか思えない。実際に彼らの政策内容を点検すると、目新しいものはなく、ちょっとした政治党派でも書き得るものである。
アメリカには「左翼」の教会はない。
ヨーロッパは元々左翼、右翼の政治区分けの発祥の地である。
日本の場合は、日本国憲法の解釈や米軍基地、日米安保条約、東アジア観とソレに基づく政策など、ヨーロッパと違って、主として第二次世界大戦後の日本政治史の流れの中での政治分岐という色彩が濃くなっている。日本にも左翼の<教会>は<実際になかった>が、戦後日本政治史の流れの中での政治分岐は大きいし、大切にする。
その清算主義的な屈服の総和が、一面で、今日の日本政治を形作り、何かといえば、沖縄の人たちの政治動向に一喜一憂しおんぶに抱っこになり、本土の人間としての責務を放棄したお気軽な政治的立場を将来する。
参考資料 IWJ 2014/11/02 国際社会の「敵国」であることを自ら望む日本の病~岩上安身による『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』著者・矢部宏治氏インタビュー第2弾
*長時間インタビュー。1時間をかなり経過したところに聴き所がるような気がするが、最後の方のフクシマと沖縄の違いに話題が及んだところは参考になる。そのフクシマから沖縄に疎開した女性の発言は的を射ている。福島は形而上的には選択の余地があった。沖縄は一切何もなく、地上戦と日本の70%の米軍基地がやってきた。
次のような項目は
という歴史観の問題が根底にあり、国際条約の事情にこだわりすぎても、引き出される政治結論は、決まりきったものにしかならない。
2)2014/10/13 「戦後再発見双書」プロデューサーが語る、日米関係に隠された「闇の奥」~岩上安身による『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』著者・矢部宏治氏インタビュー
最初から興味深く視聴した。生きたの歴史の継承(人々の縦のつながり)をリアルに感じる。その時点でも歴史の現場に立ち会いたいと思っていたが、まるっきり無駄ではなかった。41分経過以後の話題に注目する。日米合同委員会(六本木)は日本の実態権力を握る官僚役人と米軍(大使館~米政府)の政策、根回し、「決定機関」。防衛省の中にも、この種の組織が設置されていると、聞いている。
高度成長時代の日本のコーポラリズムシステムが、冷戦体制の崩壊と総屈服によって飛散すると、残されたものは、一極統治の強化しかなかったが、それは民心との離反があった。政治家が大した必要もないのに率先して心変わりし、民心との遊離がこのときから始まった。総評の解散、同盟との合体(多分、共産党系、社会党系左派の排除)は1970年代中期には決定事項と当時、聞いていた。→民主党政権誕生(米国バブル崩壊の世界経済恐慌、連動したEU金融危機)。そして東日本大震災災ーフクシマ原発事故。安部政権誕生(秘密保護法、憲法条項解釈、優先の出鱈目なアベノミクス)→円安、デフレを理由とする消費税率10%拒否の安部政権の吹かす解散風!
そもそも、アベノミクスは円高、デフレを克服する至上の金融政策として実行されたのではなかったのか!それが今度は円安対策!?未だにデフレ脱却!?経済原則に反した経済政策の拙速な失政である。それで熱望した消費税10%ができないといって、増税を阻止したかのような顔をして、通用すると思っている。
ま、国民に向けた最大限の危機意識の煽りが、政権党の最大の政治課題になるしかない。
それで国民が煽動されるかどうか、ここに注視している。
日本政治が肝心な歴史の曲がり角に至って、日本のまだ底力のあるファンダメンタルズから遊離し、破壊の挙に出ている途上であるか、この間の国政に推移を連続してみていくとよくわかる。
「戦体制崩壊後に進展深化したグローバル資本制の時代には、世界戦争の時代状況を前提とし、それが生み出す政治主体のあり方を想定するのは、時代状況にフィットしない政治路線だとしてきた。(ファシズム、軍国主義がやってくる、の政治宣伝は現実と遊離しているので、一部のヒトにしか受け入れられない)。帝国主義戦争と革命の時代の時代状況において、それに抗して戦う主体状況及び運動組織形態は、限定され時代スパンにおいて、有効に機能した。
*→→第一次世界大戦における世界市場の再分割戦に亀裂から生まれた列強のうち、後発資本主義国タイプ、ロシア=A<ロシア革命、B、日独伊=のファシズム、ナチズム、軍国翼賛体制。第二次世界大戦(第一次世界大戦を引き起こした矛盾の継承拡大。世界覇権の英国から米国への完全移行(長期の歴史スパンの流れ))後の東欧東側圏の確立、中国革命←冷戦体制の確立。中国革命を筆頭とする反植民地、民族解放国家独立の世界的なうねり。」
「発資本主義国ロシアの覇権内の東欧圏、半植民地状態の前近代的巨大国家、国民の中国国家独立。この二つ異なった東側圏の構成要素において、社会関係生産関係を生産力の発展する方向へ時間的制約下で「合理的」に変えていこうとすれば、必然的に党組織を政治核とし行政官僚の主導する中央集権になる。当然、圏内外の冷戦構造のリアル政治軍事圧力から、党組織、行政官僚のヒエラルキーを軸とした強権は常態化する。
政治史の発展的要素によって獲得された民主主義の要点は資本制生産関係を基礎として、政治文化その他におけるブルジョア支配層の国家権力機構の掌握を軸とする階層独裁を本質とし、彼等の統治形態における議会、マスメディアなど様々な機能を駆使した大衆操作と包摂である。」
引用 「政治のことがよくわからないまま社会人になってしまったヒトへ」池上彰著
第1章 「政治」とは何か? 2、民主主義とは何か?
「政治のスタイルには大きく分けて、二つあります。ひとつは北朝鮮などに代表される『君主制』や『独裁制』と呼ばれるものです。コレは生まれつき、国家権力を有しているヒトによって、独裁的な政治が行われることをさします。
コレに対して、現在、多くの国が取っている政治のスタイルが『民主政』。コレは選挙で選んだヒトに対して、ある種独裁的な権力を与えることを意味します。政治家にはある種の独裁的な権力があります。『民主政』という名前であっても、選挙で選んだ政治家に独裁的な権力を与えるのです。」
*「政治のスタイル(池上は言葉を厳密に使用しているから、政治のスタイル=統治形態~と断っている。)は、独裁的な権力を生まれつき持っているか、選挙で与えられたかによって大きく違ってきます。」
>W,国家暴力装置を基盤にする独裁権力(主として司法行政~中央地方の官僚役人軍隊警察、一部立法府~国会)と民主主義的な統治形態における選抜された政府の権限を、ここまではっきり書くならば、承知しているはずなのに、どうしても日本の歴史的にあり得ないイギリス的ニュアンスの統治形態に模したいがために、故意に混ぜている。
民主党が政権を握ったところ、日本の国家権力と統治形態の実態が多くの国民の目に晒された、もの総括する
日本国家権力の本質と統治形態のあり方が明らかにされた。
>コレを超えるための鍵を握るのは、ネグリらが「叛乱~」で指し示した大衆的戦いの真髄である、と断言できる。
決して、単純な知識の蓄積ではない、啓蒙でもない。
故に、マイケルハート、アントニオネグリの「叛乱~」は検討するに値する。
強権、閉塞化した金融寡頭制支配秩序の強化に対して、1930年代のファシズム、軍国主義翼賛体制を写した危機意識をあおるような形の政治宣伝をしても、現下の現実と余りにも、そぐわないので人々に受け入れられない、と述べてきた。
自分自身、左翼と自覚したこと一度もなかった。
自分自身、左翼と自覚したこと一度もなかった。
そういう欧、米と日本の歴史の違いをキチンと踏まえると、
>ネグリらが「叛乱」の最後尾に配した「左翼の教会を焼き払へ!(ここだけ!を使用)というのは、大間違いの反動的な政治に機能する可能性がある。
>それは左翼の教会のない米国の支配層とその世界中の追随者どもの世界戦略と符合する、といわれて仕方のないものである。