反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

伝説の名選手の勇姿。ワールドシリーズをYou Tubeより、ピックアップ。52年、ヤンキース、ドジャーズ。60年パイレーツ、ヤンキース。71年パイレーツ、オリオールズ。68年タイガース、カージナルス。

         NO1。  1952 World Series, Game 6: Yankees @ Dodgers  
New York Yankees 3 at Brooklyn Dodgers 2, F -- A classic "Subway Series,"
ヤンキュース→ビリー、マーチン(2塁手(W。注)
ブルックリン、ドジャースロイ、キャンパネラ(捕手)W。注 ジャキーロビンソン2塁手(W、注)
第6戦 10月6日
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9RHE32
ヤンキース00000021090
ドジャース00000101081
  1. : ヴィク・ラスチー(2-0) : ビリー・ロース(0-1) S: アリー・レイノルズ(1)
  2. : NYY – ベラ2号ソロ(7回ロース)、ミッキー・マントル1号ソロ(8回ロース) BRO – スナイダー3号ソロ(6回ラスチー)、スナイダー4号ソロ(8回ラスチー)
ドジャース・ロース、ヤンキース・ラスチーの両先発の投げ合いで無得点のまま迎えた6回裏、ドジャースは先頭のスナイダーが右翼に特大のソロを放ち先制。しかし直後の7回、ヤンキースは先頭ベラのソロで追いつき、なおもウッドリングの中前打とロースのボークで2死2塁とすると、9番ラスチーが投手強襲のタイムリー内野安打を放ち逆転、さらに8回にはマントルが左中間にソロを放ち2点差。その裏ドジャースはスナイダーの2打席連続となるソロで再び1点差とするが、ヤンキースは8回途中から第4戦完封のレイノルズを中1
日で投入し逃げ切り、3勝3敗のタイに持ち込んだ。
以上、ウィキペディア引用。


 No2。 1960 World Series Game 7: Pittsburgh Pirates vs. New York Yankees (last 3 innings)  
W。往年のプレイヤーを舞台に上げてのトークショー。野球が一番面白いといわれる7点8点を巡るシーソーゲーム。マリス、マントル、ヨギベラの黄金時代のヤンキースワールドシリーズで倒した、メモリアルな試合を会場の観客と共に回顧している。
ロベルト、クレメンテ(W。注)のメジャーデビューの年。同点の追いつくチャンスに大きく弾むセカンドゴロを打って一塁にダイナミックなフォームで走っていく。
ファーストランナーで出塁したミッキーマントル(W。注)がファーストライナーに素早く帰塁するところも印象に残る。
ケーシーステンゲル(W。注)、ヤンキース監督の仕事ぶりは迫力がある。
ヨギベラ(W。注)の強打者振りにも納得できる。
第7戦 10月13日第7戦
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9RHE910
ヤンキース000014022131
パイレーツ220000051110
  1. : ハービー・ハディックス(2-0) : ラルフ・テリー(0-2)
  2. : NYY – ヨギ・ベラ(1) ビル・スコーロン(2)
       PIT – ロッキー・ネルソン(1) ハル・スミス(1) ビル・マゼロスキー(2)
 
「1960年のワールドシリーズ第7戦
壮絶なシーソーゲームとなった試合内容、最後のBill Mazeroskiサヨナラ本塁打、なだれ込む観客といった当時の興奮もさることながら、Roger Maris(この年のア・リーグMVP、翌61年にベーブルースのシーズン本塁打記録を破ることになる)、Mickey Mantle(この年の本塁打王)、Yogi Berraというヤンキースのクリーンアップ、そして何といってもあのRoberto Clementeのありし日の姿を、これだけじっくりと観戦できたことに感動しました。

 唯一大きく違うなと思ったのは、継投。ヤンキースが0-4とリードされた3回から投入したBobby Shantz。確かにこの日は試合の流れを引き戻すだけの快投でした。しかしこの年のレギュラーシーズンでは4イニングが最長(しかも1試合だけ)だったブルペン投手に3回も打席に立たせて6イニング目を任せたのには驚かされました。(W。ホワイティーフォードのシーズン中の故障による不調という情報がある。)パイレーツにしても、ブルペンで最も頼りになるRoy Faceを6回無死から投入。ワールドシリーズ第7戦という場面を考えれば理解できなくもありませんが、それでも現在ではありえない起用法でしょう。」


      NO3  1971 World Series, Game 7: Pirates @ Orioles
第7戦 10月17日
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9RHE21
パイレーツ00010001061
オリオールズ00000001040
  1. : スティーブ・ブラス (2-0) : マイク・クェイヤー (0-2)
  2. : PIT – ロベルト・クレメンテ (2)
 
W。両軍エースの投手戦。4回の1点はロベルト、クレメンテの左中間ホームラン。
守備位置についたパイレーツの選手を紹介するときに、ロベルト、クレメンテは「ミスター、ロベルト、クレメンテ!}とアナウンスされている。
ボルチモア メモリアルスタジアムの外野スタンドは観客を入れていない。その向こうの大きな木立の風景は野球にピッタリマッチしている。本来の野球はこういう雰囲気で行われるもの。映画「フィールド、オブ、ドリーム」の世界が原点。
 この試合がMLB野球の過去と、現在の凝縮点のような気がする。
この時代のアル、ウィバー率いるオリオールズは強かった。セカンドは巨人に在籍し、後に名監督になったデーブジョンソン(2番)。サードのブルックロビンソンの守備は見ごたえがアル。クリーンアップの迫力もある。
ベーブルースのホームラン記録を破ったヤンキース黄金時代のロジャーマリスがトレードされてオリオールズのユニフォームを着ている。
パイレーツの各打者のスイングの鋭さに驚かされる。ウィリースタージェル<298、48本塁打>は6番打者。
クェイヤーはよく投げた。能力は凄く高い。ブラスより上じゃないかな。ブラスの投球フォームは体が開いていており、今では絶対にあり得ないフォーム。


      NO4  1968 World Series, Game 1: Tigers @ Cardinals
 
W。ブッシュ、メモリアムスタジアムは野球、アメフト兼用球場。内野席と外野席が同じ高さの上部屋根付きでぐるっとフィールドを囲んで、少し異様な感じがする。収容人員は多分、7万人以上だろう。両翼、100m、左右中間113m、センター122mでメジャーの球場としては広くない。
 
 この第1戦は、この年、37勝を上げた、タイガースのダニー、マクレーカージナルスボッブ、ギブソンの両大エースの投手戦で始まったが、ボブ、ギブソンの余りの怪投ぶりにマクレーンが根負けしたように自滅していく。
タイガースのクリーンアップは強力。アル、ケーライン野球殿堂入り)ノーム、キャッシュ。単独チームで来日した。
「Albert William "Al" Kaline, 1934年12月19日 - )は、1950年 - 1960年代に活躍したアメリカメジャーリーグの選手。主なポジションは右翼手メリーランド州ボルチモア生まれ。右投げ右打ち。現役22年間をタイガース一筋で過ごし、"Mr. Tiger"(ミスター・タイガー)と呼ばれた名選手。
 
   ボブ、ギブソン

34
34281362290--.7101161304.2198116267268404938<1.12>0.85

1968年は5月まで防御率1.52ながら打線の援護がなく3勝5敗だったが、6月2日から全て完投で15連勝。6月6日から5試合連続完封、連勝中に10完封を記録するなど絶好調で、最終的に22勝9敗・<防御率1.12・>268奪三振・28完投・13完封・WHIP0.85という驚異的な成績を記録し、最優秀防御率最多奪三振を獲得、チームのリーグ連覇の原動力となった。この防御率1.12という数字は、いわゆるライブボール時代以降では歴代最高の成績であり、2位がドワイト・グッデン(1985年)の1.53であるから、いかに圧倒的なものであるかがわかる」      


                以下、W。注     

      1952ワールドシリーズ
  ニューヨークヤンキース

NamePosGABH2B3BHRRRBIAvgBBSOSB
of
c
p
1b
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ph
p
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of
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1b04
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p
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ss
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  ブルックリンドジャース

NamePosGABH2B3BHRRRBIAvgBBSOSB
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p
c
3b
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of
1b
of
p
p
3b
ph
of-5
ss
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5

 
 

ヤンキース ケーケーシー・ステンゲル(Charles Dillon "Casey" Stengel , 監督。
1890年7月30日 - 1975年9月29日)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB
 


 ミッキーマントル。(センターフィルダー)若いスラッガー ミッキー ・ マントルの最初キャリアのワールド シリーズ。(Mickey Charles Mantle、1931年10月20日 - 1995年8月13日)は元メジャーリーガー(外野手)。
 通算536本塁打スイッチヒッターとしてはMLB史上最多。ロジャー・マリスとのコンビはMM砲と呼ばれ、ともにヤンキースの主砲として活躍した。
  経歴
 アメリカ合衆国オクラホマ州出身。実父は炭鉱夫。"Mickey"は"Michael"の愛称であることがほとんどだが、マントルの場合、父のマット・マントルが当時人気のあった捕手ミッキー・カクレーンの大ファンであったことに因んでつけた本名である。ニューヨーク・ヤンキースに入団するまではミシシッピ川の東に渡ったことも無かったという。
 子供時代はホィズ・キッズというチームでプレーし、ショートを守っていた。ヤンキースのスカウト、トム・グリーンウェイドが見に来ていた試合で、右打席で2本、左打席で1本ホームランを打った。
1951年、ジョー・ディマジオの後を継ぐようにヤンキースの一員としてメジャーデビュー。監督のケーシー・ステンゲルに「フィノメナル」(驚異的)と言われたことから「フィノム」と呼ばれるようになる。
 デビュー当初は実力の壁にぶつかり、マイナー落ち。マイナーでも22打席ノーヒットを喫する。カンザスシティから父に相談の電話をすると、父はオクラホマ州から150マイルの距離を駆けつけた。そして荷物をかばんに詰め、ミッキーに鉱山で働くように言い渡した。ミッキーは父を説得し、マイナーリーグで3割5分6厘、15本塁打、50打点を打った。
 1956年には三冠王を獲得した。スイッチヒッターでは初の達成で現在でも唯一の記録であり、三冠王達成者の最多本塁打記録となっている。ロジャー・マリスとのコンビはMM砲と呼ばれ、1961年にはマリスとマントル両者によるベーブ・ルースのシーズン60本塁打の記録更新が注目されたが、結局マントルは終盤に故障で離脱、マリスが記録を更新した。1968年に引退するまで怪我との戦いではあったが、ヤンキース一筋の野球人生を過ごした。背番号「7」は引退した翌年の1969年にヤンキース永久欠番に指定されている。1974年、資格取得1年目にアメリカ野球殿堂入り。
 
通算の打点と安打数は後にエディ・マレーに破られたが、通算536本塁打は今もスイッチヒッターとしてはMLB史上最多で、MLB史上最高のスイッチヒッターとして名高い。また、ワールドシリーズにおける通算18本塁打、40打点はいずれもMLB記録である
故障には始終悩まされていた。1951年のワールドシリーズで、外野守備中にスプリンクラーに足をひっかけて膝を痛め、1963年にはフェンスに激突して65試合にしか出場できなかった。それでも数々のタイトルを獲得しているので、同僚のエルストン・ハワードは「怪我がなければ史上最高の打者になっていただろう」「年間70本も夢じゃなかった」と言う。
 
 本塁打の飛距離は伝説的なものがあり、球史に残る超特大の一発を何本もを記録している。
その一つが1953年4月17日、ワシントン・セネタース(現:ミネソタ・ツインズ)の本拠地グリフィス・スタジアム(当時)で放った打球は、スタンドを飛び越えて遥か彼方の場外にまで飛び出して行った。球団広報が巻尺を用いてボールがあった地点までの飛距離を計測した結果、なんと約172メートルも飛んでいたことが分かり、正式に記録された打球としては、これが現在でもMLB史上最長弾となっている。この一件以降、大ホームランはテープメジャー・ショットと呼ばれるようになった。ただし、この約172メートルにはボールが落下してから転がって移動した距離も含まれており、正確な飛距離ではないとも言われている。
 マントル本人が「私の野球人生の中で最も強烈な打球」と語っているのは、1963年5月22日にヤンキー・スタジアムでビル・フィッシャー(アスレチックス)のカーブをとらえたものでヤンキースタジアムのライト最上部の鉄傘に直撃して跳ね返り、もう少し打球が高ければ場外ホームランだったという驚愕のものである。この本塁打の飛距離については諸説あるが、いかにマントルの飛距離が人間離れしているかがよくわかる。
監督のケーシー・ステンゲルはその天性のパワーがあれば全力で振らなくてもコンパクトなスイングをすれば確実性もあがるとマントルを幾度となく説得したが、マントルは耳を貸さなかったという。
>また、マントルは左打席から一塁まで3.1秒で到達できた俊足で、ドラッグバントも得意としていた。
(W。上記のホームランの映像がユーチューブに載っているが、警戒してボール先行の相手投手に対して、ドラック、バントの構えをしてけん制し、一発のスイングでし止めた。パワーも凄いが、瞬発力はものすごいものがある)
チームの試合スタイルが変わっていたら、40-40(40本塁打40盗塁)どころか、50-50(50本塁打50盗塁)もできていたとも言われる。他にも現役時代は指名打者制度がまだなかった(導入されたのは1974年から)ため、もし導入されていればもっと長く現役生活を続けられていただろうと言われている。
 しかし、私生活の面では暗い部分があり、祖父・父ともに早くして亡くなったため(ホジキン病による。2人ともオクラホマの鉱山技術者だったことも一因とされる)に、早世の家系だと思い込んだマントルは、その恐怖を紛らわせるために飲酒に走り、選手生活の晩年には二日酔いの状態でバッターボックスに立つこともあったという。結局、その飲酒がマントルの現役生活や寿命を縮めたともされ、1994年に肝臓癌と診断され入院。生体肝移植手術を受ける程で周囲を心配させる(もっともこの頃のマントルはさすがに酒をきっぱりと断っており、一時は周囲を安心させた)。しかし、癌は全身に転移しており、翌1995年8月13日、63歳で亡くなった。
 死の1か月前に記者会見に臨んだマントルは、「私を見ている人は、どうか私の真似だけはしないでほしい」と言い残している。


   ヨギ、ベラ(キャッチャー)
ローレンス・ピーター・ベラ(Lawrence Peter "Yogi" Berra、1925年5月12日 - )はMLBの元プロ野球選手(捕手)。アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス出身。引退後は監督を務めた。背番号8はビル・ディッキーと共に永久欠番
本名はローレンス・ピーター・ベラだが、子供の頃に友人のボビー・ホフマン(後のニューヨーク・ジャイアンツでプレー)が映画で見たインドのヘビ使いに歩き方がそっくりだった事から同じインドのつながりで「ヨギ」と呼び始めたのが言の始まりという。
彼の発言は独特の言い回しから、ヨギイズムと呼ばれた。
ヨギの現役時代のヤンキースは主力にジョー・ディマジオミッキー・マントルらの強力スラッガー、エースにはホワイティ・フォードを擁しており、正に黄金時代であった。自身も巧打者として活躍し、「ヘリコプター・スイング」と呼ばれた独特の打撃スタイルから引退までに打った358本塁打は、当時キャッチャーとして最多の本塁打だった。またヨギは13回ワールドシリーズ出場を果たしワールドシリーズ優勝の証であるチャンピオンリングを10個獲得しているが、これはメジャー史上最多出場である。アメリカンリーグMVPも3度受賞した。
   
ヨギイズム
ヨギは含蓄のある発言をすることで有名で、それらの言葉(と彼独特の思想)はYogiisms (ヨギイズム)と呼ばれている。一見諺のようなウイットに富んだ言葉が多いが、よく考えれば意味をなさないものや単に同じ事を繰り返し述べているだけのものが多い。ユーモアがあるそれらの発言は野球に興味のない人々にも親しまれている。

        語録
「分かれ道に来たらとにかく進め」
 "When you come to a fork in the road, take it."
 「決断をためらって立ち止まるより行動あるのみ」(即断即決、巧遅は拙速に如かず)という意味の諺としてしばしば演説などで引用されるが、元来は自宅への道順を友人に説明した際のヨギの言葉
なおこの「分かれ道」はいずれ合流するため、どちらに進んでもベラの家に辿りつけたという。
「野球の90%はメンタル、残りの半分がフィジカル」
 "Baseball is 90 % mental, the other half is physical."
 
「(ゲームは)終わるまで終わらない」
 "It ain't over 'til it's over.":
 
「考えろだと?考えるのと打つのを同時にできるわけないだろう?」
 "Think? How the hell are you gonna think and hit at the same time?" もっと考えてバッティングをしろという批判に対して
 
「俺がスランプだって?そうじゃない。当たってないだけだ」
 "Slump? I ain't in no slump! I just ain't hitting."
 
「よく見ればたくさん観察できる」
 "You observe a lot by watching."
 
「今まで遅れた中では一番早かったよ」
 "This is the earliest I've ever been late."
 
「あんなに混雑する店には誰も行かん」
 "Nobody goes there no more, it's too crowded."
ミネアポリスにある有名レストランに行かなくなったのは何故かと質問されて
 
「これはまるでデジャヴの繰り返しだ」
 "It's like déjà vu all over again."
 
「我々はあまりに多くの誤った失敗をしてしまった」
 "We made too many wrong mistakes."
>1960年のワールドシリーズでパイレーツに敗れた理由を聞かれて(W。動画参照)
 
「いつも2時間昼寝をするんだ。1時から4時まで」
 "I usually take a two hour nap from 1 to 4."
 
「未来は、かつてのような未来ではない」
 "The future ain't what it used to be."
ヨギイズムの一つとして広まっているが、オリジナルは詩人ポール・ヴァレリーが1931年に書いた「現代が抱えている問題とは、未来がかつてのような未来ではないことだ」という文章


   ビリー、マーティン(セカンドベース、フィルダー
(Alfred Manual "Billy" Martin, 1928年5月16日 - 1989年12月25日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー出身の元プロ野球選手(二塁手)・監督。右投右打。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3


     ロイキャンパネラ
(Roy Campanella, 1921年11月19日 - 1993年6月26日)は、1940 - 1950年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグ、およびニグロリーグの選手。ポジションは捕手。ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Campy"(キャンピー)。リーグ最優秀選手を3度獲得、ドジャース在籍10年間でチームを5度のワールドシリーズに導いた。


   
   ジャキーロビンソン
(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson, 1919年1月31日 - 1972年10月24日)は、アメリカ合衆国プロ野球選手(内野手)。
 1890年頃以降、有色人種排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。
      
     生い立ち
 1919年1月31日ジョージア州カイロで5人兄弟の末っ子として生まれる。祖父はアフリカから連れてこられた奴隷である。
生後6カ月の頃に父が蒸発したため、カリフォルニア州パサデナへ移住した。母はメイドとして働いたが、週8ドルの収入では家族を養うことができなかったため、生活保護を受けた。
 兄のマシューはベルリンオリンピックの200m走で銀メダルを獲得。
ロビンソンもスポーツ選手として頭角を現し、フットボール、バスケットボール、野球、陸上の4つのスポーツで奨学金をもらい、高校へ進学。1937年にパサディナ短期大学(現・パサディナ市立大学)へ進学し、1938年には午前に走幅跳で優勝し、午後に野球の試合に出場して優勝することもあった。
 その後、多くの大学から奨学金を提示されたが、最も条件の良い大学ではなく、自宅から通えることを理由に、1939年からはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)へ進学した。
UCLAではバスケットボールも行っており、ウディ・ストロードともチームメートだった。UCLAでは将来妻となるレイチェルと出会った。ロビンソンは黒人が仕事に就くのに学問が役に立たないと考え、母やレイチェルの反対を押し切り、1941年3月に名誉退学する[6]。
名誉退学後はフランクリン・ルーズベルトの妻エレノアが推進する青年局(National Youth Administration)でスポーツ指導者として働くことになる。しかし青年局の事業は第二次世界大戦が始まると閉鎖した。仕事を失ったロビンソンは、人種統合されたセミプロのフットボールチーム、ホノルル・べアーズへ入団し、平日は建設会社で働き、日曜はフットボールの生活を続ける。フットボールのシーズンが11月に終わり、1941年12月5日にカリフォルニアへ帰省した。
  
  
    マイナー・リーグ
 1945年にブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われる。リッキーは優秀な選手を欲していたが、その供給源としてニグロリーグの黒人選手に求めた。ロビンソンの評判を知ったリッキーはその確認に行き、現地で評判を調べた。耳にした批判は、黒人への差別にはたちどころに抗議をすることだった。
リッキーがロビンソンに最も求めたことは「やり返さないだけのガッツを持ってほしい」だった。
1945年8月23日に契約金3,500ドル、月給600ドルの契約でドジャースの傘下のAAA級モントリオール・ロイヤルズへ入団[25]。その時にリッキーは「君はこれまで誰もやっていなかった困難な戦いを始めなければならない。その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持つんだ」とロビンソンに言い、右の頬を殴った。ロビンソンは「頬はもう一つあります。ご存じですか」と答えた。10月23日、ロビンソンがモントリオール・ロイヤルズへ入団したことを発表した。当時は遊撃手だったが、送球に難があるため一塁手にコンバートした。
1946年4月18日にインターナショナルリーグが開幕。ロビンソンは打席に立ち、黒人選手としてインターナショナルリーグでは57年ぶり、他の野球機構マイナーリーグを含めても48年ぶりのことだった。この年、ロビンソンが記録した打率.349・113打点はリーグ1位で、打率は球団新記録となった。
  
     メジャー・デビュー
1947年4月10日、ドジャースは「モントリオールジャック・ルーズベルト・ロビンソンをメジャーに昇格させる。彼は直ちにチームに合流するだろう」と発表。
開幕戦の4月15日に本拠地のエベッツ・フィールドには26,623人の観客のうち半数以上の14,000人はロビンソンを見ようとする黒人だった。そしてロビンソンはアフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーとしては1884年のモーゼス・フリート・ウォーカー以来63年ぶりにメジャーデビューを果たした。
 MLBのオーナー会議ではドジャースを除く全15球団がロビンソンがメジャーでプレイすることに反対しており、フィラデルフィア・フィリーズドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告したり、セントルイス・カージナルスも同じように脅したりした。
それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナードジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。
 監督のレオ・ドローチャーは「自分は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと構わない。自分はこのチームの監督である。優秀な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいたら、チームを出て行ってほしい」と語った。
 
開幕前、チームメイトのなかにはロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した選手もいたが、ロビンソンは常に紳士的に振る舞い、シーズンが始まるとトレードを志願していたディキシー・ウォーカーがロビンソンに打撃や守備について教えるようになるなど、シーズン終了時にはチームメイト・監督・報道陣から受け入れられるようになった。9月23日にはエベッツ・フィールドでジャッキー・ロビンソンデーが開催された。
シーズンでは一塁手として打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、同年より制定された新人王を受賞した
 ポール・ロブスンが「アメリカの黒人はたとえロシアと戦争になってもアメリカのために戦わないだろう」と発言したため、アメリカ合衆国下院の下院非米活動委員会で発言への抗議を求められた。ロブスンは1943年にケネソー・マウンテン・ランディスコミッショナーMLBのオーナーたちにジムクロウを廃止するように抗議していたため、証言台に立つべきか悩むも、証言台に立つことを決断。1949年7月8日に共産主義者は黒人たちに抗議するように扇動していることは誤解であることと、ロブスンでも1,500万人のアフリカ系アメリカ人を代表して発言することができないと主張した。
 1949年は自己最高の打率.342・37盗塁を記録し、首位打者盗塁王を獲得。MVPに選出された。黒人選手としてロイ・キャンパネラ、ドン・ニューカム(来日プレー)、ラリー・ドビー(来日)と共に初のオールスターゲームに出場を果たし、1954年まで6年連続でオールスターに出場した。また、1949年から6年連続で3割を達成している。1950年1月24日に球団史上最高額の35,000ドルで契約[1]。
 1950年シーズン終了後にリッキーはピッツバーグ・パイレーツのゼネラルマネージャーに就任。その頃からドジャースのフロントとのトラブルを抱えるようになり、黒人であるロイ・キャンパネラと比較され、攻撃的であるとロビンソンは批判された。 
 1953年に「若者が知りたいこと (Youth Wants to Know)」というテレビ番組に出演した際に、ヤンキースに黒人選手がいないので人種差別しているかという質問に、ロビンソンはヤンキースのフロントは黒人を差別していて、ニューヨークで唯一、一人も黒人選手を雇っていない球団である」と発言したため、記者からは怒りを買うことになった。
 1955年は自己最少の105試合の出場で、打率.256・8本塁打・36打点と自己最低の成績に終わったが、ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースを破り、球団史上初のワールドチャンピオンの一員となった。
 1956年シーズン終了後の12月13日にディック・リトルフィールドと35,000ドルでジャイアンツへの移籍が持ち上がるが、「ドジャースにいられないならば」と翌年の1月23日に現役引退を表明した。
   
     引退後
 引退後、公民権運動に積極的に参加。チョックフル・オ・ナッツ(Chock full O'nutsの副社長や全米黒人地位向上協会(NAACP)の自由基金運動の議長に就任。NAACPの創設者であるジョエル・E・スピンガーンが創設したスピンガンメダルを1956年に受賞している。
ロビンソンの背番号42は1972年にドジャース永久欠番に制定され、1997年にはMLB全球団の永久欠番となった。
1962年には1939年のルー・ゲーリッグ以来となる有資格初年度で野球殿堂入りを果たす
1972年6月4日、ロビンソン(42)と共にロイ・キャンパネラ(39)、サンディー・コーファックス(32)の背番号がドジャース永久欠番に制定された
引退後、糖尿病により視力が落ち、関節炎や軟骨剥離に苦しむ。
1963年1月に左足の手術を受けている。永久欠番の式典に出席した時には杖なしで歩けず、右目は失明していた。1971年6月27日には長男が交通事故で亡くなった。
 
1972年10月15日、この年のワールドシリーズ第2戦が行われるオハイオ州シンシナティのリバーフロント・スタジアムにおいて、試合開始前に「黒人メジャーリーグ進出25年祭」が行われた。ロビンソンはレイチェル夫人と並んでダイヤモンドに立った。そして、ボウイ・クーンコミッショナーが歴代アメリカ合衆国大統領の中でも屈指の野球好きとして知られるリチャード・ニクソン大統領のメッセージを代読した。「彼こそは黒人最高の万能選手だった」と。髪はすっかりグレーに変わっていたロビンソンは始