唯一大きく違うなと思ったのは、継投。ヤンキースが0-4とリードされた3回から投入したBobby Shantz。確かにこの日は試合の流れを引き戻すだけの快投でした。しかしこの年のレギュラーシーズンでは4イニングが最長(しかも1試合だけ)だったブルペン投手に3回も打席に立たせて6イニング目を任せたのには驚かされました。(W。ホワイティーフォードのシーズン中の故障による不調という情報がある。)パイレーツにしても、ブルペンで最も頼りになるRoy Faceを6回無死から投入。ワールドシリーズ第7戦という場面を考えれば理解できなくもありませんが、それでも現在ではありえない起用法でしょう。」
34 28 13 6 22 9 0 -- .710 1161 304.2 198 11 62 6 7 268 4 0 49 38 <1.12> 0.85
「1968年は5月まで防御率1.52ながら打線の援護がなく3勝5敗だったが、6月2日から全て完投で15連勝。6月6日から5試合連続完封、連勝中に10完封を記録するなど絶好調で、最終的に22勝9敗・<防御率1.12・>268奪三振・28完投・13完封・WHIP0.85という驚異的な成績を記録し、最優秀防御率と最多奪三振を獲得、チームのリーグ連覇の原動力となった。この防御率1.12という数字は、いわゆるライブボール時代以降では歴代最高の成績であり、2位がドワイト・グッデン(1985年)の1.53であるから、いかに圧倒的なものであるかがわかる」
以下、W。注
Name | Pos | G | AB | H | 2B | 3B | HR | R | RBI | Avg | BB | SO | SB |
of c p 1b p ph p p of 2b 3b 1b04 of-3 p p ss p-1 p of-6 |
7
7 1 6 1 1 1 2 7 7 7 5 4 3 4 7 2 1 7 |
18
28 1 12 0 1 1 3 29 23 25 15 10 6 7 27 3 0 23 |
1
6 0 0 0 0 0 1 10 5 5 6 3 1 0 4 0 0 8 |
0
1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 0 0 1 0 0 1 |
0
0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 |
0
2 0 0 0 0 0 0 2 1 1 3 0 0 0 0 0 0 1 |
2
2 0 1 0 0 0 0 5 2 5 3 0 0 0 2 0 0 4 |
1
3 0 0 0 0 0 1 3 4 3 6 1 1 0 0 0 0 1 |
.056
.214 .000 .000 .000 .000 .000 .333 .345 .217 .200 .400 .300 .167 .000 .148 .000 .000 .348 |
4
2 0 1 0 0 0 1 3 2 5 3 1 1 0 5 0 0 3 |
3
4 0 3 0 0 0 1 4 2 2 1 3 2 2 2 0 0 3 |
0
0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 | |
Totals |
232
|
50
|
5
|
2
|
10
|
26
|
24
|
.216
|
31
|
32
|
1
|
Name | Pos | G | AB | H | 2B | 3B | HR | R | RBI | Avg | BB | SO | SB |
ph p c 3b p of 1b of p p 3b ph of-5 ss 2b p p of-3 of |
1
3 7 7 3 7 7 3 1 2 2 4 7 7 7 3 1 4 7 |
0
6 28 27 6 23 21 1 0 3 1 3 21 29 23 2 0 10 29 |
0
0 6 8 0 4 0 0 0 1 0 0 4 10 4 0 0 3 10 |
0
0 0 2 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 2 |
0
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 |
0
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 0 0 0 4 |
0
0 0 4 1 1 1 0 0 0 0 0 0 4 4 0 0 0 5 |
0
0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 4 2 0 0 0 8 |
.000
.000 .214 .296 .000 .174 .000 .000 .000 .333 .000 .000 .190 .345 .174 .000 .000 .300 .345 |
0
1 1 3 0 3 4 0 0 0 0 1 0 2 7 0 0 0 1 |
0
6 6 4 1 3 6 0 0 1 0 2 4 2 5 0 0 4 5 |
0
0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 2 0 0 0 1 | |
Totals |
233
|
50
|
7
|
0
|
6
|
20
|
18
|
.215
|
24
|
49
|
5
|
ヤンキース ケーケーシー・ステンゲル(Charles Dillon "Casey" Stengel , 監督。
1890年7月30日 - 1975年9月29日)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB
通算536本塁打はスイッチヒッターとしてはMLB史上最多。ロジャー・マリスとのコンビはMM砲と呼ばれ、ともにヤンキースの主砲として活躍した。
アメリカ合衆国オクラホマ州出身。実父は炭鉱夫。"Mickey"は"Michael"の愛称であることがほとんどだが、マントルの場合、父のマット・マントルが当時人気のあった捕手ミッキー・カクレーンの大ファンであったことに因んでつけた本名である。ニューヨーク・ヤンキースに入団するまではミシシッピ川の東に渡ったことも無かったという。
1951年、ジョー・ディマジオの後を継ぐようにヤンキースの一員としてメジャーデビュー。監督のケーシー・ステンゲルに「フィノメナル」(驚異的)と言われたことから「フィノム」と呼ばれるようになる。
1956年には三冠王を獲得した。スイッチヒッターでは初の達成で現在でも唯一の記録であり、三冠王達成者の最多本塁打記録となっている。ロジャー・マリスとのコンビはMM砲と呼ばれ、1961年にはマリスとマントル両者によるベーブ・ルースのシーズン60本塁打の記録更新が注目されたが、結局マントルは終盤に故障で離脱、マリスが記録を更新した。1968年に引退するまで怪我との戦いではあったが、ヤンキース一筋の野球人生を過ごした。背番号「7」は引退した翌年の1969年にヤンキースの永久欠番に指定されている。1974年、資格取得1年目にアメリカ野球殿堂入り。
通算の打点と安打数は後にエディ・マレーに破られたが、通算536本塁打は今もスイッチヒッターとしてはMLB史上最多で、MLB史上最高のスイッチヒッターとして名高い。また、ワールドシリーズにおける通算18本塁打、40打点はいずれもMLB記録である
故障には始終悩まされていた。1951年のワールドシリーズで、外野守備中にスプリンクラーに足をひっかけて膝を痛め、1963年にはフェンスに激突して65試合にしか出場できなかった。それでも数々のタイトルを獲得しているので、同僚のエルストン・ハワードは「怪我がなければ史上最高の打者になっていただろう」「年間70本も夢じゃなかった」と言う。
本塁打の飛距離は伝説的なものがあり、球史に残る超特大の一発を何本もを記録している。
マントル本人が「私の野球人生の中で最も強烈な打球」と語っているのは、1963年5月22日にヤンキー・スタジアムでビル・フィッシャー(アスレチックス)のカーブをとらえたもので、ヤンキースタジアムのライト最上部の鉄傘に直撃して跳ね返り、もう少し打球が高ければ場外ホームランだったという驚愕のものである。この本塁打の飛距離については諸説あるが、いかにマントルの飛距離が人間離れしているかがよくわかる。
ローレンス・ピーター・ベラ(Lawrence Peter "Yogi" Berra、1925年5月12日 - )はMLBの元プロ野球選手(捕手)。アメリカ合衆国・ミズーリ州セントルイス出身。引退後は監督を務めた。背番号8はビル・ディッキーと共に永久欠番。
本名はローレンス・ピーター・ベラだが、子供の頃に友人のボビー・ホフマン(後のニューヨーク・ジャイアンツでプレー)が映画で見たインドのヘビ使いに歩き方がそっくりだった事から同じインドのつながりで「ヨギ」と呼び始めたのが言の始まりという。
ヨギの現役時代のヤンキースは主力にジョー・ディマジオ、ミッキー・マントルらの強力スラッガー、エースにはホワイティ・フォードを擁しており、正に黄金時代であった。自身も巧打者として活躍し、「ヘリコプター・スイング」と呼ばれた独特の打撃スタイルから引退までに打った358本塁打は、当時キャッチャーとして最多の本塁打だった。またヨギは13回ワールドシリーズ出場を果たしワールドシリーズ優勝の証であるチャンピオンリングを10個獲得しているが、これはメジャー史上最多出場である。アメリカンリーグMVPも3度受賞した。
ヨギは含蓄のある発言をすることで有名で、それらの言葉(と彼独特の思想)はYogiisms (ヨギイズム)と呼ばれている。一見諺のようなウイットに富んだ言葉が多いが、よく考えれば意味をなさないものや単に同じ事を繰り返し述べているだけのものが多い。ユーモアがあるそれらの発言は野球に興味のない人々にも親しまれている。
語録
「分かれ道に来たらとにかく進め」
"When you come to a fork in the road, take it."
"Baseball is 90 % mental, the other half is physical."
"It ain't over 'til it's over.":
"Think? How the hell are you gonna think and hit at the same time?" もっと考えてバッティングをしろという批判に対して
"Slump? I ain't in no slump! I just ain't hitting."
"You observe a lot by watching."
"This is the earliest I've ever been late."
"Nobody goes there no more, it's too crowded."
"It's like déjà vu all over again."
"We made too many wrong mistakes."
>1960年のワールドシリーズでパイレーツに敗れた理由を聞かれて(W。動画参照)
"I usually take a two hour nap from 1 to 4."
"The future ain't what it used to be."
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3
(Roy Campanella, 1921年11月19日 - 1993年6月26日)は、1940 - 1950年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグ、およびニグロリーグの選手。ポジションは捕手。ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Campy"(キャンピー)。リーグ最優秀選手を3度獲得、ドジャース在籍10年間でチームを5度のワールドシリーズに導いた。
(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson, 1919年1月31日 - 1972年10月24日)は、アメリカ合衆国のプロ野球選手(内野手)。
1890年頃以降、有色人種排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。
1919年1月31日ジョージア州カイロで5人兄弟の末っ子として生まれる。祖父はアフリカから連れてこられた奴隷である。
兄のマシューはベルリンオリンピックの200m走で銀メダルを獲得。
名誉退学後はフランクリン・ルーズベルトの妻エレノアが推進する青年局(National Youth Administration)でスポーツ指導者として働くことになる。しかし青年局の事業は第二次世界大戦が始まると閉鎖した。仕事を失ったロビンソンは、人種統合されたセミプロのフットボールチーム、ホノルル・べアーズへ入団し、平日は建設会社で働き、日曜はフットボールの生活を続ける。フットボールのシーズンが11月に終わり、1941年12月5日にカリフォルニアへ帰省した。
1945年にブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われる。リッキーは優秀な選手を欲していたが、その供給源としてニグロリーグの黒人選手に求めた。ロビンソンの評判を知ったリッキーはその確認に行き、現地で評判を調べた。耳にした批判は、黒人への差別にはたちどころに抗議をすることだった。
リッキーがロビンソンに最も求めたことは「やり返さないだけのガッツを持ってほしい」だった。
1946年4月18日にインターナショナルリーグが開幕。ロビンソンは打席に立ち、黒人選手としてインターナショナルリーグでは57年ぶり、他の野球機構のマイナーリーグを含めても48年ぶりのことだった。この年、ロビンソンが記録した打率.349・113打点はリーグ1位で、打率は球団新記録となった。
1947年4月10日、ドジャースは「モントリオールのジャック・ルーズベルト・ロビンソンをメジャーに昇格させる。彼は直ちにチームに合流するだろう」と発表。
開幕戦の4月15日に本拠地のエベッツ・フィールドには26,623人の観客のうち半数以上の14,000人はロビンソンを見ようとする黒人だった。そしてロビンソンはアフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーとしては1884年のモーゼス・フリート・ウォーカー以来63年ぶりにメジャーデビューを果たした。
MLBのオーナー会議ではドジャースを除く全15球団がロビンソンがメジャーでプレイすることに反対しており、フィラデルフィア・フィリーズはドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告したり、セントルイス・カージナルスも同じように脅したりした。
それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。
開幕前、チームメイトのなかにはロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した選手もいたが、ロビンソンは常に紳士的に振る舞い、シーズンが始まるとトレードを志願していたディキシー・ウォーカーがロビンソンに打撃や守備について教えるようになるなど、シーズン終了時にはチームメイト・監督・報道陣から受け入れられるようになった。9月23日にはエベッツ・フィールドでジャッキー・ロビンソンデーが開催された。
シーズンでは一塁手として打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、同年より制定された新人王を受賞した。
1949年は自己最高の打率.342・37盗塁を記録し、首位打者と盗塁王を獲得。MVPに選出された。黒人選手としてロイ・キャンパネラ、ドン・ニューカム(来日プレー)、ラリー・ドビー(来日)と共に初のオールスターゲームに出場を果たし、1954年まで6年連続でオールスターに出場した。また、1949年から6年連続で3割を達成している。1950年1月24日に球団史上最高額の35,000ドルで契約[1]。
1950年シーズン終了後にリッキーはピッツバーグ・パイレーツのゼネラルマネージャーに就任。その頃からドジャースのフロントとのトラブルを抱えるようになり、黒人であるロイ・キャンパネラと比較され、攻撃的であるとロビンソンは批判された。
1955年は自己最少の105試合の出場で、打率.256・8本塁打・36打点と自己最低の成績に終わったが、ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースを破り、球団史上初のワールドチャンピオンの一員となった。
引退後、公民権運動に積極的に参加。チョックフル・オ・ナッツ(Chock full O'nutsの副社長や全米黒人地位向上協会(NAACP)の自由基金運動の議長に就任。NAACPの創設者であるジョエル・E・スピンガーンが創設したスピンガンメダルを1956年に受賞している。
ロビンソンの背番号42は1972年にドジャースの永久欠番に制定され、1997年にはMLB全球団の永久欠番となった。
1962年には1939年のルー・ゲーリッグ以来となる有資格初年度で野球殿堂入りを果たす。
1972年10月15日、この年のワールドシリーズ第2戦が行われるオハイオ州シンシナティのリバーフロント・スタジアムにおいて、試合開始前に「黒人メジャーリーグ進出25年祭」が行われた。ロビンソンはレイチェル夫人と並んでダイヤモンドに立った。そして、ボウイ・クーンコミッショナーが歴代アメリカ合衆国大統領の中でも屈指の野球好きとして知られるリチャード・ニクソン大統領のメッセージを代読した。「彼こそは黒人最高の万能選手だった」と。髪はすっかりグレーに変わっていたロビンソンは始