反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第二回。「政友会と民政党」井上寿一著を解剖する。一次世界大戦後のデモクラシー時代には、政党人の冷静でリアルな内外認識も可能であったが、実行政治主体の政党は不在。

  参考資料は「日記」に見出すのが筋だ。その都度、ネット上のあちこちを探し回って、貼り付けるだけでは、日記を書いてきた意味がなくなる。
 
過去の気になる記事のセレクションNO1及び2014年12月総選挙への意見。
2014/12/8(月) 午後 1:31
 
(70)1920~30年代日本の軍需最優先、民需圧迫の異常な経済構造から戦争への転落。今は会社最優先社会の行き詰まりから、脆弱な公共セクターさら圧迫へ。両極端な国家戦略は身の丈に合わず、最後のしわ寄せ国民に。
>W。前回の記事で書き忘れたことは、マーカー部分。
「政友会と民政党~戦前の二大政党制(W、二大政党制など、実質的に存在しなかった。)」を読んでつくづく思うのは<国家も「国民も」背伸びしすぎ>=大きな勘違い。内外の置いて不均衡極まりなく、その不均衡状態は世界戦争によって軍事的に是正された。
   
  引用 「政友会と民政党~戦前の二大政党制」 Ⅰ政友会~保守政党から包括政党へ~
(W、著者の冒頭の政友会の解説に従えば、日本と欧米では<保守>の意味が違う
政友会の成り立ちは、資本家と地主を基盤とし、民党を否定する反政党煎じつめると、天皇制「国家主義」政党である。したがって、包括政党へ、は眉唾ものであり、その時々に掲げる政策は、反政党の出自を持つ政友会を普選実現に向けて、国民に売り込む(そうすればもっと大きな権限が転がり込んでくるという目算)商品のラベルのごときものと思って間違いない。要は戦前の二大政党の権力、権限へのあくなき欲望!これだけは一貫している!)
 
 3、外交政策
~対欧米協調外交~
原敬高橋是清(金融財政の専門家)、田中義一(元、軍務局長、参謀次長、政治軍人の典型。
大戦後のデモクラシーの風潮の中で、「軍部の社会的地位が低下する。他方で国家予算の配分を巡る主導権は議会、政党が確保。軍部は軍事費の確保を通して組織利益を守るためならば、政党と手を結ばなくてはならなくなった。~「他方で政友会は衆議院で多数勢力となっていながら、非政党内閣が三代続いていることに気をもんでいた。(W。どうして三代続いたのか?内閣は、元老を通じて<天皇天明>によって決まった、からだ。)
>「ここで政友会は軍人の田中を総裁に戴くことにした。(W。天皇国家主義の反政党、政友会の当然の帰結である。著者が<国民政党と言わず、包括政党という妙な概念を使っている理由はここにある。」


  原らに続く文脈
に共通する対欧米協調外交は、政友会の外交路線の基調となる。
第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)に日本は形式的な戦勝国として出席する。アメリカの新外交の原則(無賠償、無併合、民族自決、公開外交、軍縮)が主導する講和会議は、国際連盟を駆動した(W。米国は新外交路線は、主導権を握れず、国際連盟に参加せず。敗戦国ドイツはベルサイユ条約によって賠償と領土をフランスに併合された。米国への本格的な覇権の移行の途上であった。)
対する日本は、せいぜいのところ消極的な受容だった。
 
 >しかし、政友会もう少し積極的な対応を考えていた。
政友会の有力な長老議員で対外強硬論者として知られる小川平吉、『大国』日本の国際的な責任を強調している。『今や既に五大国の一として世界会議の首班に加わりたり。~まさに大国民の態度を持して<冷静に問題を観察すべし>W、(対外強硬論者でさえも冷静にというところに注目。)
 *W。次の指摘は、当時の国内の風潮を理解する上で、非常に重要。
パリ講和会議で日本が提出した人種平等案は通らなかった。国内の不満が高まった。
国民に自制と理解を求める小川は、多国間外交の本質を言い当てて『実に止むを得ざるなり』と述べる。」
 
 ~軍部批判=対欧米協調~
1921年、渡米議員団の一人の高見の演説。
「政友会内閣は成立以来4カ年経つが、~この内閣の使命は何であるかといえば、軍閥主義の誤解を一掃することにある。」
 
 渡米中の高見は問われる
「君は軍閥党であるか」。高見は答える。「日本の政党において軍閥党というものはない」。高見は誤解を解くのに忙しかった。
 
 もう一人の同行者の発言。
「日本は決して光線国民ではない。また軍備のごときはできることならば、全廃したい、ということは国民の等しく希望しているのであるという意味を、いたるところで高調してきたのでございます」。
 
 また、別の参議院議員は米国視察の結果として、広報外交の必要を訴える。
何とかして日本人の本当の思想、本当の状態日本は侵略国でない、日本は経済上に発展する使命を持っている国民である」。このようにアッピールするにはわれわれはまだ不十分だ。」
W。言葉だけなら、今のアベ政権よりも、大正デモクラシー時代の政友会渡米議員のほうが、平和的言辞に満ち溢れている。」
 
 4、国内政策
~通商路線~次のような冷静でリアルな内外認識も、この時代にはあった、というか可能だった
以降、10年の間に、どうなってしまったのだろうか?
「~大戦後、国際協調の時代が訪れる。日本は戦争景気後の反動不況に陥る。どうすべきか。
山本丈太郎は対外発展と工業政策の実現を強調する。対外発展といっても、大戦後の脱植民地化と国際協調の時代であるから、植民地の獲得や移民は困難だった。(W。結局、満州国樹立に至る。政友会は抵抗していない。)
>代わりに山本は通商国家路線を掲げる。資源原材料の輸入を確保し、工業製品を輸出する。
>このような自由貿易の拡大を通して、通商国家を目指す。先に見た山本の日中経済堤携論は、通商国家の対外政策論の一つだった。W。そのような政策が通じない大きな力が働いたというしかない
 
**ここから先は山本の冷静リアルな内外認識を引用している。
「我が国は現にいわゆる五大国の一に数えられるに至りしも経済的実力及び、国民生活の内容ははるかに先進諸国に及ばず、加うるに複雑なる対外関係はわが国の対外発展をして、ほとんど閉塞に陥らしめんとしつつあり」。W。この冷静でリアルな内外認識を政治路線に転嫁する政治実体が日本ではどこにも見当たらなかった。故にただの言論にすぎない。当時の社会経済構造問題の視点に重心を置いて、考えるしかない、理由はここにある。
現在の日本においても基本的に同じである。時代状況によっては、少数者の指摘が的を射ている場合がある。
しかしそういう思考とは次元の異なったところに、国民政治意識が陥ることがある。集団帰属意識が何事にも優先して、強度に進むと、そういう次元に立ち至る。
 
 戦前の列国最低の経済力から、戦後日本の急進的な経済発展も世界的見地からみると、不均衡そのもので、世界戦争によって軍事的に是正があり得ないとすると、日本政府自らの政策「選択」によって、グローバリズムの圧力の荷重によって、時間をかけてゆっくり是正されていくだろう。
 以上の証明を(70)、(73)、(74)によって行ったつもりである。
 
(73)戦前、日本帝国主義の敗北と現在の日本の閉塞は歴史の必然。戦前戦後の韓国朝鮮史と総合して東アジア史とする視点から読み解く。今回は資料のみ提出。
 
(74)グローバル資本制に翻弄される現代日本に蘇る江戸中、後期の停滞の社会様相。総人口の推移、経済数値から。
 


(43)背伸びし、国民に無理をさせてきた日本支配層は大儲けの内外環境が厳しくなって国民をイデオロギー幻想で絡め取ろうと画策。  
 
(41)右翼保守派の歴史観を批判する。   
2011/8/17(水) 午後 2:03
 
(40)靖国神社に大挙して国会議員が参拝しようが自由だが、アメリカに従属し覇権を内外に求める日本帝国主義支配層のイデオロギーとその体制の正当化は許さない。
 
(45)国のかたち。国民のかたち。日本、中国、アメリカ。-丸山真男対談集(1946年、1960年)より抜粋ー論証過程は丸山の頭の中だけにあるのだが、識者が良く使うフレーズのネタ元満載。
 
(46)丸山真男対談集(1946年、1960年)より無作為に抜粋。ー戦前と戦後の継承ー )
 
(47)1951年、丸山真男「日本におけるナショナリズム」の認識から60年経過した現在。当時の問題意識、課題を再検討してみる。
 
(67)H23年度、経済財政報告。第二章、新たな「開国」とノイベーションの誤魔化しを明らかにする。
 
(75)日本経済の底流はカネがあっても国内に儲かる投資先がない、モノを作って、国内で売っても儲からない=過剰資本、過剰生産。政府と日銀がタッグを組んでインフレを起こして景気刺激をしても、カネは投機に回るだけ。