大正14年(1914年)の大隈重信内閣の成立<注1>から昭和初期にかけてのデモクラシー風潮の期間を通じて、昭和7年(1932年。5,15事件。)までを政党政治の台頭と、帝国憲法状況の中での「自立化」=<帝国>憲法体制に本質的にはらまれた機能不全要因の進展時代とおおざっぱに捉えると<注2>、戦前政党政治の政治動物的リアルな生態を抑えておくことは、戦前政治と戦後政治の継承性を色濃く刻印され、<戦後的今日的>な政治動物的適応を遂げてきた日本支配層のリアルな生態をつかみ取るうえで意義のある作業である。
著者の政党政治史を見る基本視点に同意することはできない。
引用。
どちらの政党も立憲君主国の国家目標を掲げる点では同じだった。(W。国民一般向けの絶対天皇制=顕教に対する密教=その支配層によるリアルな適応運用形態。この時期の政党政治の立憲君主制論はデモクラシーの風潮にのった一種。内外情勢に激変で、密教の形は変わる。この関係を戦前戦後の歴史の継承性という観点から教訓として、きちんと押さえておかねばならぬ。)
「薩長、とりわけ長州を軸とした明治政府は、国民に対しては天皇を絶対的な君主、生きている神として信仰させる一方で(=顕教)、自分たちは、天皇を裏からコントロールする仕組みをつくりあげた。それこそが、久野のいう「密教」なのである。」←「天皇の権威と権力を憲法その他によって限定された立憲君主とみる解釈」のことをいう。密教の目的は、天皇が万能の絶対君主になることを防ぐことにあった。」
W。この見方に疑問はある。深読みが過ぎると、当時の権力者の過大評価につながる。「天皇を裏からコントロールする仕組みを作り上げた」←深読みが過ぎる。もともと、天皇は裏からコントロールされるしかない歴史的に見ても無力、無能の存在である。
ただし、天皇制に関しては、顕教<表~一般国民向け~>と密教<裏~支配層ご用達の国民支配の手練手管>の関係は知っておく必要がある。 例、山本太郎の天皇お手紙手渡しは、天皇の政治利用批判を表向きとしているが、支配層の顕教、密教体制への侵犯と受け止められた、という意味合いもある。
「二大政党制側は国家的な基本目標の共有を前提にしていた。(W、これは正解)
~1925年から、~1931年12月の犬養毅内閣(政友会~32年5,15事件で暗殺)までの時期~ここに政友会と民政党の二大政党制が展開する。(W。二大政党制というからには政治基盤と制度の裏付けがいるが、帝国憲法状況にはそれがない!従って本質的に政局に左右される。現状の日本にも見通じる。)
二大政党制の政策距離は接近する。ところが政策距離の接近が二大政党制の限界になっていく。
(W、激動する内外情勢の規定力が政策距離の接近をもたらした。そもそも「どちらの政党も立憲君主国の国家目標を掲げる点では同じだった」=国体に対する顕教、密教の論理を適応すると、密教の一種である立憲君主制は挙国一致翼賛体制の戦時の密教の転化する。)
1920年代の平和とデモクラシーの時代は協調外交が基本的な前提だった。
この観点から政友会は不戦条約を結ぶ、民政党もロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。あるいは国内政策において社会政策の是非を超えて、より早く確実に実現できるか競争する。
>党利党略による足の引っ張り合いが始まる。反対党の失策は敵失となって、自党が政権になることを約束する。
>国民は二大政党の党利党略にあきれる。政党不信が高まる。
>そのとき3の危機が日本を襲う。(経済危機、対外危機、テロとクーデターの国内危機)
>政友会と民政党は立場の違いを超えて協力を試みる。
<W、以下*印は情勢の激変の結節点を示す>
*満州事変に二大政党は強力内閣構想で対抗する。
この構想は実現しなかったものの、その後も政友会と民政党の連携路線は続く。
*時代に国際的潮流は、二大政党制に代わる新しい政党政治システムの模索を即す。
*その途中で日中全面戦争が勃発する。1937年。戦争の拡大は既成政党の解消から新党構想へ、さらには大政翼賛会の成立(1940年10月)をもたらす。
>>この政治過程は軍部が政党を押しつぶしたというよりも、政党が自壊する過程だった。
(W。この著者の論法では、結局のところ、情勢激変のメルクマールへの政党政治側の対応は仕方はOKだが、
(時代の流れの中で仕方がなかった)が、政党政治の自壊の原因を、党利党略による足の引っ張り合いが、国民の政治不信を招いた、それ以外に求めようがない。果たして、その程度の考察でよいのか?という大きな疑問が生まれる。)
*敗戦後すぐに、二大政党制は看板を掛け替えて復活する。
(W。だったら、白井聡の「永続敗戦論」で展開した論理を適応すると、<戦後的今日的>な状況に適応した日本支配層のリアルな政治動物としての生態が繰り広げられてきた、とみなすのが当たり前の見方である。)
戦前日本の二大政党制の歴史は振り返るに値する。政友会と民政党の歴史はこれからの日本の複数政党制を考える際に、多くの示唆を与えるに違いない。」
W。今の永田町と全国の政党政治の地図を見ればその一端がうかかがる。
<注1>制限選挙による一応の民党内閣。対抗して反政党として、元勲で元老院側の山縣ー伊藤博文ラインの私党政友会の結成。その後、地主と資本家を支持基盤にする政友会は日本資本主義の発展とともに民党的性格を深めていくが、政友会の反政党=反民党~帝国国家党的性格は戦前日本の政党政治の原点である。
「政友会と民政党」に思考パターンを適用すると、「国民は二大政党の党利党略にあきれる。政党不信が高まる。」大きな要因の一つに、両党はともに国体の顕教と密教を使い分ける、混じりけのない純支配者政党で、天皇をいただく、という本質的に国民の生活生命健康に責任を負わない無責任政党だった、というところにある。
だから、その時代にふさわしい認識の乏しい政治に「安心して」没頭できる。目先に都合で、辞職すればそれで済み、政治生命を断たれることはない。
民の次元からの議員の選抜として、代議士制は機能せず、支配秩序の維持と終局的には国体護持に行く突くしかない、ごく一部の利益を最優先し続けたのだ。
普通選挙実施前の民政党の結成は政友会への対抗であったが、官僚と既存の政党政治家の寄せ集め集団で、政友会とは帝国国家党的性格は同根であり、政策の違いは、日清日露戦争以降、第一次世界大戦を通じて、外債発行などを通じて膨らんだ国債費の負担増に対する均衡財政の立場から、積極財政の政友会への対抗であった。
もともと、1920年代の日本政府に、これといった特徴的な経済政策はなく、自由放任の経済政策を基調としていた。
今でいう新自由主義の経済政策に近い。例、日本国内の石油の精製と小売販売網の過半数を外国資本が抑えており、石油価格は欧米に比べても、遜色ないほど安かった。→軍部の戦略物資の調達の観点から、統制価格に転じる。
20年代後期の金正貨の価格動向の乱高下を利用してアメリカ金融資本と日本の財閥は濡れ手に粟の大もうけをして、国民の反発をかった。この時期に階級格差は拡大した。
1929年世界大恐慌前後の民政党浜口内閣は、財政均衡、金輸出自由化=金本位制復帰政策を採用して、失態を演じた。後に批判されているが、国債費の増大という根拠はある。この辺のリアルな政策選択は判断し難い。
<注2>天皇<元老院>-軍部ー政党の帝国憲法状況における政治3ブロックのうち、元老院の政治主導性の必然的衰退。元老院の密教はいつまでも通じない。資本主義は発展し、政治場面に影響を及ぼす。元老院の国債費の圧迫による財政硬直対策として、軍事費削減があったのかどうか?
国家財政に対する軍事費の割合の低下は、政党政治の要求によって、一般会計が膨張すると軍事費の総額の削減とイコールではない。
>>それよりも一番根っこにある日清日露戦争以降の日本の基本矛盾は
「日本の国際的地位(日本が地理的に東洋のより弱小な国家の中心に位置し、近代化したことによって生まれたといって過言でない)と国内経済力(列国最低の工業生産値=慢性的に税収少ない。庶民への増税負担必然)の大きなギャップ」という実情」に尽きる。
2015/1/25(日) 午後 3:08
>そのギャップのカイゼンができたかどうかを検証している記事がある。
一応、書き留めたが、まだ目を通していない。
日清戦争の結果と日本の進路
A)「戦争ビジネスモデル」への期待の成立
戦争は儲かるという大きな誤解」
戦争は儲かるという大きな誤解」
B)
白井聡の関連記事は今回書けなかった。
このヒトのレーニン研究の本は以前何回か記事で取り上げた。何とはなし、いまどきの若い政治学者にない傑出したセンスを感じた。しかも月並みな表現だが骨太の独特の論理を駆使できる人でもある。この二つが合体したヒトは日本ではめったにいない。
ところが、永続敗戦論という題名だけは知っていいたが。こうした事態になっているのは、全く知らなかった。
これからの学者としての能力を期待されるヒトではないか。持って生まれたセンスがある。弁がたつ人でもあるようなので、能力の真髄をすり減らないように、マスコミへの登場は選んだほうがいい。
(1)永続敗戦論からの展望 白井 聡 http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E6%B0%B8%E7%B6%9A%E6%95%97%E6%88%A6%E8%AB%96%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E5%B1%95%E6%9C%9B%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E7%99%BD%E4%BA%95%E3%80%80%E8%81%A1
■『永続敗戦論』の執筆動機
■「永続敗戦」の構造
■戦後の終わり
■またしても「敗北の否認」
(2)白井聡著 『永続敗戦論』を読んで 街の弁護士日記 SINCE1992at名古屋
氏の結論は、明快である。
「日本は、敗北に終わった筈のあの戦争を戦い直すだろう」。
「日本は、敗北に終わった筈のあの戦争を戦い直すだろう」。
W。白井はドイツが2度世界に挑んで敗北したことという視点から、今の日本の「敗北」を見ている。
動画の発言でもそういう意味のことが語られている。
これはWが日記の当初繰り返してきたフレーズであり、自分の独創かと思ったら、同じことを考える人がいたのだ。日本という国は敗北しない。負けるのは日本国民の多数である。
もっと具体的な予想を考えなければならない時期に来ているのだ。
2014年9月29日。
W。今日の事態からすると予言を含んだ対談である。
既存の政治思想の縛りが強くなると、自由な発想が少なくなり、予言力は低下する。
途中のTBS記者のオバマ、アベ会談の報道は全く余計。
注目点
3分20秒過ぎ~8:20
20:16~
31:00~
>48:00以降~3者のまとめ
久米宏の取り仕切り方がおもしろい。
約45分一人でしゃべりっぱなし。
~ただ一夜にして数十万人を超える死傷者を出しながら、それでいてなお生きることの方のことを考えないで、死ぬことばかりを考え、死の方へのみ傾いていこうとすることはこれはいったいどういうことなのか?
>ひとは、生きている間はひたすら生きるためのものであって、死ぬために生きるのではない。
なぜいったい、死が生の中軸でなければないようにように政治は事を運ぶのか?
*その頃の私の判断というものの中軸は、どちらかがデカンダンスであって、どちらがが健康的な考え方というものであるか、という判断の仕方が巣くっていた。
そういう判断に到達するについては、云うまでもなく諸々の理由がなければならなかった。
先年,自伝的小説を書いた際に、若い主人公の大学生が、戦時中であるにもかかわらず、英訳のレーニンをしきりに耽読するとことを書いたところ、多くの読者から、そんななことっておりうるのか、と不思議がられて閉口したものであったが、、ここでその判断の理由をなすものの、いくつかのうちで大きなものの一つが、私のレーニン耽読にあったであろうことを否定できないように思われる。
ここでレーニンについて詳しく触れようとは思わない。
何年もかけて、一大乱読雑読の中でゆっくりとレーニンを読んで云って、私はレーニンのことを、たとえば男の中のの男一匹がここにいる、最も男らしい男、政治の中枢に死を置かない唯一の男、という風にこの革命家のことを受け取っていたものであった。
>生きてなさばなければならぬことが山のようにある男であった男、というふうに思っていた。
そこにも私の考えの中にでは、<生きて>、という点に重点が置けれていた。
けれども、富岡八幡宮の焼け跡で、高位の役人や軍人たちが地図を広げて圧机に入れ替わり立ち替わり最敬礼をして何事か報告か説明のようなことをしているそれは全く奇怪ないな、現実の猛火とも焼け跡とも何のかん液もない、一種異様な儀式とも私には思われたーsれは何とsぢ手も、どう理解しようとにも理解にしようのない
異様な儀式と私に思われた。
>この儀式の内奥にあるものは、云うまでもなく生ではなく死である。
しかもその死は、誰が何と言っても強いられた死であり、誰一人欲しての死ではない。
特攻隊も頻々と飛び立っていた時期であり、南の島々においての全滅もまた月に何度も奉ぜられていた。
>それらの死に対しても最高責任者を、予告もなく突然に、目の当たりに見ることは、それはどうにも現実としては信じられない、理解不可能な事柄に属していた。