前回の記事の連合国軍最高司令官総司令部GHQの歴史は、詳しく調べた肝心なところがアップされていなかった。
W。引用
「この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認した。」←ここからの肝心なところが抹消されていた。
当時の読売新聞の造語(当時の読売新聞は戦犯正力松太郎とのバランスで労組が「培養」されていた。→レッドパージと読売争議へ。)である逆コースの始まり(1948年対日政策転換)という「歴史認識」は当時のリアルな朝鮮、中国情勢と絡めた場合にだけに、歴史的な意味をもつ。日本だけの一国的な甘えた歴史観は捨てて、東アジア史観を築きたい。でなければ、現状の東アジアの人々と立場を共有できない。
もともと、いわゆる太平洋戦争は日中戦争拡大の1930年代半ばから、敗戦までの歴史の連続でみる15年戦争として、捉えなければ、日本の対米開戦の実情は分からない。
一部には日本包囲網などという視点もあるが、実情は日本の繊維品と対英米依存の戦略物資の三環貿易節構造にもかかわらず、対中戦争拡大にずるずるとはまったところに最大の問題点がある。後知恵でも何でもない戦時中の研究会で分析していた共産党とは全く無関係な10数名が治安維持法逮捕されている。(大阪商大事件)=元大阪市立大学。
>1945年(昭和20年)ポツダム会談、前後の短期間の次の政治軍事過程を踏み込んで押さえておく必要がある。
W。2月4日~11日まで、1週間も会談は続いた!どうしてか?
ソ連は民間人を含めて2000万人の犠牲者を出しながら、ソ連軍は自力で反転攻勢ベルリンに迫っていた。エマニュエルトッドは第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の最大の勝利者はソ連軍であると「帝国以後」で記している。
同時にアメリカ陸軍の多大な犠牲を必要とする制圧戦におけるぜい弱性を指摘している。例。イラク戦争とその後。この面からも、カバーするためには他国軍に肩代わりさせたい、他国を巻き込みたい、と云潜在的な欲求がある。
そもそも、ヒットラーの東方作戦で、独ソ不可侵条約を破って、西方侵攻作戦殿2正面作戦をとらなければ、第二次世界大戦はもっと長引いていた可能性がある。ただし原爆はもっと炸裂した可能性がある。総力戦に劣る日本軍にとって対米戦争はインディアン戦争の様相を呈していくが、ヨーロッパ戦線の対独戦争は、ソ連軍の存在がなければ、そう簡単にいかなかった。それは朝鮮戦争を見ればわかる。中国軍を押しきることができなかった。
参考資料
(A)タランティーノが史上最高の戦争映画に選んだ『炎の628』 http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20141227
目をそむけたくなるような残酷な場面が続く映画であるが、これがリアルなヨーロッパ戦線の実態である。
(B)ノルマンディー上陸作戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E4%B8%8A%E9%99%B8%E4%BD%9C%E6%88%A6
*「上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗(W?)により2ヶ月以上要した。」
W。フランスのペタン政府はナチスドイツと連携していた。ナチ協力のフランス人はたくさんいた。
フランス領インドシナの日本軍はペタン政府との関係で、無血進駐した。南方軍の本部はここに設置されていた。敗戦後も無傷だった。安岡章太郎の父は南方軍の陸軍少将<獣医、兵站を担当していたのだろう>だったが収容所から早期に帰国した。→成瀬巳喜男の名作「浮雲」の冒頭の腐れ縁二人<軍属>の馴れ初めの舞台は仏領ベトナム。桜井よしこの父親も、ハノイの繁盛していた貿易商だった。
ノルマンジー地方は英米嫌いがたくさんいる保守的な地域。ドイツ軍と一緒に戦ったフランス人もたくさん存在したのも自由フランスの事実。→ジャンヌ、モロー主演「小間使の日記」 ノルマンジー地方の半封建的は大土地所有者の家の家政婦になったパリ娘のエロチックコメディーであると同時に1930年代後半の当地の親ナチ親ファシズム的空気を描くという無理なコンセプトの映画だが、奇妙な面白さがある。
序章
「1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻以来、ヨーロッパ本土でのドイツ軍勢力のほとんどがソ連に向けられていた。ソ連のヨシフ・スターリンは危機的な状況を緩和するため、イギリスやアメリカに対してヨーロッパに第二戦線を築くことを要請していた。
1943年には北アフリカから北上した連合軍がイタリアに上陸したが、戦線は動かなかった。
1943年11月28日テヘラン会談において、アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、スターリンが討議し、1944年の5月には第二戦線を開くことが正式に合意された。」
W。<敵を知り己を知れば百戦危うからず>ということか。政治と軍事を一体的に運用している。戦後世界の勢力図を考えて、ソ連の消耗を待っていた。先にあげたグーグルの解説は、そういうズルイ相手にごまかされた、あるいは加担した歴史観といえよう。
こういうズルイ相手には、いろいろなやり方を駆使して立ち回らなければ~。
ところが日本の論調は、そうでもないようだ。相手はわかってくれる。←この論調はかたちをかえてイロイロ出回っている。白井聡さんによれば、アメリカは日本を愛してくれている、という思い込み、と指摘している。←ここまではどうかな?しかし相手の懐に飛び込んで、とにかく、くっ付いていったら間違いがないという人たちの潜在意識には間違いなくこういった傾向がある。そういう前提が成立しなければ成り立たない理屈である。
確かにある時期までは、日本国民全般に利益を与えたし、悪いようにしなかった。でもこれからがそうだと、云えるのはどうしてか?という疑問がわいてくる。
確かにそれは正解。
ただし日本支配層にとってはという意味で日本国民の利益という意味ではない。
これがグローバル資本制の最大の特徴である。
世界戦争の出口がない以上、グローバル資本の無政府性によって、国民国家の枠組みは事実上分解し(政府の再分配の機能が欠如していくのだから当たり前。カネの切れ目は縁の切れ目?)、その国家は支配層の国民収奪の特権を行使する道具になり下がり、そのため国民は支配層とその他に物質的にはっきりと分解していく歴史的趨勢にある。
この短い政治軍事過程のなかに冷戦時代の始まりがある。
ウィキペディア ソ連対日宣戦布告 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%AE%A3%E6%88%A6%E5%B8%83%E5%91%8A
「1945年になってから連合国はドイツの戦後処理と日本の本土攻略に焦点を当てていた。この討議のため、2月にヤルタ会談が開催され、ソ連参戦が議論された。当時日本と太平洋戦争を遂行していた米国政府は、ソ連と連携して日本を攻略することを考えており、ソ連の参戦を「外モンゴルの現状維持」「満州におけるソ連の権益を回復」「大連港を国際化」「南樺太の奪還」「千島併合」の五項目要求をのちに蒋介石の了解を得るという条件で認め、英国も加えた秘密合意に達した。」
上記は歴史的事実である。
コレは要するにGHQの占領軍統治の歴史的な意味を覆い隠すために、ソ連軍の8月8日以降の対日参戦に目をそらせる役割を果たしている。
「5月のポツダム予備会談において、ソ連のスターリンは、極東ソ連軍が8月中に攻勢作戦を発動すること、満州国領域における中国の主権を尊重すること、朝鮮半島を米ソ英中が信託統治すること、などの旨を表明した。(W.表明しようがどうしようが、政治は結果である!)さらに対日処理については、無条件降伏と徹底的な軍備撤廃、ソ連軍による日本占領を主張し、米国に戦略物資の支援を要求した。
問題個所はウィキペディア ヤルタ会談 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87 の次の記述箇所はウィキペディア ソ連対日宣戦布告では、なかったことにされている。歴史は、解釈に違いはあっても、あったことをなかったことにできない。
「第二次世界大戦が佳境に入る中、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。」
W.これを読みこむと、朝鮮戦争をめぐるソ連の動きがよくわかる。ソ連はヤルタ会談よって、すなわち発足したヤルター国連体制~冷戦体制によって東ヨーロッパの広大なテリトリーを割譲された(東欧諸国の戦後処理)。故にその大枠をから踏み出さないためにアメリカ軍その他が国連軍の名において参戦したことを事実上黙認した。一方、多大な犠牲を払った中国は多大な犠牲を払った。このことが後の中ソ対立の火種になった
W。算数の問題~5月8日の90日後って、何月日日?7月上旬まで参戦しなくては、東欧戦後処理の約束の見返りを果たすことはできなかった。
4月30日 ドイツ総統ヒトラー自殺。
5月2日 ベルリン防衛軍司令官降伏(ベルリン陥落)。
5月7日 ドイツ大統領カール・デーニッツ無条件降伏を受諾、ナチス・ドイツ滅亡。
5月8日 ドイツ陸海空軍代表がベルリン郊外カールスホルストで降伏文書に調印。
確かに「米国統合参謀本部は、ソ連が戦争の決着がついた所に便乗してくるとの見方を強めていた」との指摘は正しいが、ヤルタ会談の米ソ秘密協定を敢えて記述しないことで、文脈の流れからして意味合いがまるっきり違っている。米国側の便乗云々~は、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦しないソ連を指しているのである。
を落とし所とする解説は、歴史にあったことをなかったことにし、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、侵犯してきたという側面だけを指摘する巷で流布している歴史観をさらに膨らませ、そのことによってGHQ対日占領政策の戦後日本史に持つ重大な歴史的意味を隠ぺいする役割を果たしている。
以上の今回の記事は記事は後で付け加えたものだが、前回の記事の問題意識は次の通り。
「連合国軍最高司令官総司令部GHQの歴史は、詳しく調べた肝心なところがアップされていなかった」
>>キーワードを見つけた。
主権回復の日http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%81%AE%E6%97%A5。コレを切り口にすると、全貌が分かりやすくなる。
W。多分、そんなところだろうと思った。やはりこの問題は彼らにとても気がかりな部分を含んでいる。
それで、今上天皇を呼んで、歴史の清算のセレモニーを催すことに決めているらしい。ただし、国民的セレモニーとするに至らない理由がある。この日をセレモニーにすると戦後日本史のキーポイントを握る問題系が、ぞろぞろとつながって湧いてくる。それでは彼らにとってまずいのだ。静かに眠らせておく必要もなるのだ。第二次安部内閣によって、というところに、この日が気になり、この日を岸信介、60年安保改定を通じて集団自衛権状況によって清算(消しゴムで消し別の解釈をしたい)という。アベ内閣の性格が表れている。この点について切り込んでいくのが、今後の記事の目的である。
参考資料
ドイツの主権回復の日 ウィキペディア西ドイツ引用
「欧州の中央に強大な統一ドイツが誕生することに対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツに関する最終規定条約」(別名「2プラス4条約」、第二次世界大戦後結ばれることのなかった講和条約の代替となる事実上の平和条約)により、統一後のドイツの地位と国境が確定、ここにドイツの主権が完全に回復した。1990年10月3日の再統一の後、1991年3月15日、米英仏ソ四カ国の軍はドイツから撤退した。」
W、この解説と違った記述をドイツ右翼に関する本で読んだことがあるが、全体の流れ以外は忘れた。
はっきりしていることは、歴史修正主義、ドイツ保守主義、ネオナチを含めて、この分野でも、ドイツは日本の先を行っている。多角的に見ていきたい。調べる余地あり。白井聡の「永続敗戦論」もザット目をっとしておきたい。
前回記事該当箇所引用。
「白井聡の「永続敗戦論~戦後史の核心~」の指摘する通り、この不記載(グーグルウィキペディア解説)は、いわゆる降伏文書署名=休戦協定(停戦協定)署名~~この<敗戦というまぎれもない歴史の事実>をないことにするかのように、<終戦と意図的に云いかえると>、敗戦状態の持続=永続敗戦状態継続という政治的な読み込みが可能になる。
ミズーリ号艦上で日本側代表が署名したのは、休戦協定、停戦協定。
戦時の休戦状態、停戦状態を土台に戦前国家権力構造の実体の継承に他ならない天皇と日本政府、の上に位置するGHQ占領権力の絶対的権限が実質として成立した。
このような非常時特権を有する軍事権力は、休戦状態の継続という戦時状態の一形態においてしか成立しないものである。なぜならば、休戦(停戦)状態←<戦時状態の形を変えた継続>によってGHQ占領権力の絶対性と政策的フリーハンドが保証されるからである。極めて論理的かつ純法律な措置である。
現在の一例。朝鮮半島の北緯38度休戦(停戦)ラインの固定。 これによって、在韓米軍は韓国軍を指揮下になる。なぜならば、朝鮮戦争は休戦(停戦)状態にあり、朝鮮戦争を主体的に推進した米軍の戦後の地位は休戦(停戦)状態にあるから、実質的に保証される。 仮に、北朝鮮と韓国が(米中の立会いのもとでもいいから)、終戦文書に署名すれば、在韓米軍の存在理由は希薄になる。何のために韓国にいるんだ、という話になる。
続く